スティーヴン・ミルハウザー『夜の声』(柴田元幸・訳)

久しぶりにミルハウザー読んだ。
原著は2015年に刊行された”Voices in the Night”で、邦訳は2020年の『ホーム・ラン』と2021年の本書『夜の声』に二分冊されて発行された。


スティーヴン・ミルハウザー『バーナム博物館』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『魔法の夜』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『三つの小さな王国』 - logical cypher scape2
スティーヴン・ミルハウザー『マーティン・ドレスラーの夢』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『十三の物語』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『私たち異者は』 - logical cypher scape2
これまで読んだミルハウザー
読み逃している作品も多々あれど、まあまあ読んでるかなと思う。
2017年~2020年にかけて大体年に1冊ほど読んでいたんだけれど、その後途絶えていた。『ホーム・ラン』と『夜の声』が刊行されていたのは知っていて、あとで読もうと思っているうちにいつの間にか時間が過ぎた。
まあしかしミルハウザー、ある意味で、訳者も書いているのだが、わりといつも同じような作品を書いている。いつも同じような作品を手を替え品を替え書いているのが面白いといえば面白いのだが、まあ、飽きてくるといえば飽きてくるところがある。それで手に取るのに時間がかかったというのはある。
最近、どこかで本書収録作の「マーメイド・フィーバー」の感想を見かけて、やはりそろそろ読むかと思い直して読むことにした。
「マーメイド・フィーバー」も面白かったが、「場所」「夜の声」が特に面白かった。あ、どっちも人生の話だな。

ラプンツェル

童話「ラプンツェル」をミルハウザー流に語り直した作品。
ラプンツェルというとディズニーアニメになっていて、何となくは知っているが、個人的にはあまり馴染みのない童話ではある。
王子、魔女、ラプンツェルの視点での語りが交互に進む。

私たちの町の幽霊

ミルハウザーにわりとよくある一人称複数形の語り手による作品だが、最後に「わたし」と単数形での語り手も出てくる。
そして、他の町とは一風変わった伝統・風習のある町、と言うのもミルハウザー作品によくある奴だろう。
タイトルにあるとおり、幽霊が出てくる町なのだが、この町に出てくる幽霊たちは見られると嫌悪感を示してすっと立ち去ってしまう、という点で共通点が見られる。それ以外では直接的に害をなすということはないが、しかし、作中では、幽霊を目撃したことで幽霊にある種魅入られてしまったエピソードも語られたりしている。
幽霊に対する仮説、幽霊について知られていること、そして実際の幽霊目撃にまつわるエピソードが断章形式で綴られていく。

妻と泥棒

就寝中、階下での足音に気付いた妻。夫を起こすべきかどうか悩む。ただの家鳴りかもしれず、もしそうだとすると、一度起こされると二度寝できない夫を起こすのは忍びない。しかし、これは泥棒の足音に違いない……という逡巡がずっと書かれている。
いざ、1階に降りてみると肝心の泥棒はおろか、泥棒が侵入した形跡も見当たらない。しかし、次の日の夜も足音が聞こえてくる。
最後、妻自身が、袋を持って泥棒がごとく家の中のものを袋の中へ入れていくところで終わる。

マーメイド・フィーバー

「私たちの町の幽霊」の人魚版とでもいうべき作品
ある時、海岸にマーメイドの死体が流れ着くところから始まる。本物のマーメイドだと鑑定され、歴史協会の建物で展示され、そして、マーメイドブームが訪れる。
「私たちの町の幽霊」の幽霊ははるか昔から町に幽霊がいたという話なのに対して、こちらはにわかにマーメイドが発見されてもりあがり、そしてそのブームが去っていくまでの話になっている。
女性たちはマーメイド風の水着を身にまとうようになり、ひれのようなスカートをはくようになる。マーメイド・パーティが開かれ、男性はマーメイドのように脚をくっつけていないと欲情しないようになって……と事態がエスカレーションしていく。

近日開店

1年前に大都市から郊外に引っ越してきた男。今まさに成長中の街で、そこかしこで新しい建物が建ったり新しい店ができたりしているが、それがある程度把握できる規模におさまっていて、それを楽しんでいる。
のだが、一度マイアミに帰省した後、戻ってくると、そのスピードがあがっていて、見慣れていたはずの場所がどんどんなくなっていく。
このあたりのエスカレーションの仕方(建て替え速度が明らかに非現実的なレベル)がミルハウザー流だが、この話は前半の(まだ常識レベルにおさまっている間の)街の成長を見ているところのワクワク感もまた楽しい。
最後、友人との約束のために車で走り出したが、全く道が分からなくなってしまい、高速道路に乗ってどこかへ走り去ってしまう。

場所

私たちの町には単に「場所the place」とだけ呼ばれている場所がある、という、これまた、私たちの町の変な風習シリーズ(?)の一つだが、面白かった。
「私たち」という一人称複数形も多少出てくるが、基本的には「私」というこの町で生まれ育った男性の一人称で語られる。短篇の中で、1人の登場人物の半生を描くのはミルハウザー作品では珍しいのではないか。かなり叙情的な作品になっていた気がする。
「場所」というのは、具体的に言うと町の外れにある小高い丘で、基本的には何もない。昔の農場主が建てたという壁のあとが残っているくらい。町の人たちは、時々「場所」を訪れている。開発計画なども度々持ち上がるのだが、そのままにされている。
「私」は、5,6歳くらいの頃に母親と訪れたことがあるのだが、母親がどこか違うところを見ていて自分を見ていない、と感じたのが印象に残っている。
高2の頃、友人のダンと訪れると、ダンもまたかつての母親のような目になる。ダンは社交的で活発な少年だったが、それ以来、何かと1人で場所へ行くようになり、「私」とも疎遠になる(そしてその後引っ越してしまう)。
「私」が再び場所を訪れた時、白いワンピースの女性を見かけ、あとを追うと、階段を降りて高い窓のある部屋へと誘われる。そこには大勢の人がいて、母親やダンの姿もある。そこで非常に大きな本を読む。そして、いつの間にか元のところへと戻っている。
それは白昼夢のような体験で、その後、「私」はその部屋へ行く経験自体はしていないのだが、これにより「私」は決定的に「場所」に魅了されることになる。
高3の頃に、初めてできた恋人とも行くのだが、今度は逆に「私」が何かに惹かれて気もそぞろになってしまう。恋人と行くような場所ではなかったと後悔する。
大学に入ると「私」は場所の誘惑を振り切って、勉学や就活に励むようになり、別の街へ行って法律職となる。が、結婚して再び生まれた町へと戻ってくる。
明らかに生活に支障を来すレベルで「場所」の誘惑にはまってしまった女性のエピソードや、「私」が40歳くらいのときの同窓会でダンと再会したエピソードなども入っている。また、「場所」が町の人々にとって一体どういう意味をもっているのか、という考察もたびたび入っている。
「私」は老人になっても、時折「場所」を訪れる。町の住民にとって、町と場所とはセットなのであり、場所に行くために町で生活しているのであり、町で生活するために場所へ行くのである。そうやって安定を保っているのだ、と結論づけられている。
私たちの町に、他の町にはない奇妙な要素があって、それに町の住民はある種取り憑かれている。そしてそれは時に有害な場合もあるのだけど、概ね受け入れられている、という、この手のミルハウザー話のパターンを踏襲している。わけだけど、幽霊やマーメイドと違って、「場所」というもっと抽象的(?)な何かで、もっと穏やかな形で受け入れられていて、よい話だった(幽霊やマーメイドが悪いわけではなくて、同じパターンだけど、雰囲気や作りがが全然違う)。

アメリカン・トールテール

アメリカの伝説の木こりであるポール・バニヤンには、実は弟のジェームズ・バニヤンがいた、という話。
このジェームズは、ポールと違って、ガリガリに痩せ細っていて何もせず、ほとんど寝て過ごしている。ポールはそんな弟が気に入らない。弟の家を訪れた際に、お前は何をやっても俺には勝てないんだぞ、と言ったところ、どれだけ長く寝ていられるかだったら自分の方が勝つと反論されてしまい、どちらが長いこと寝られるか勝負が始まる。
10年以上2人とも寝続けて、僅差でジェームズが勝つ(というか、ポールが起きてジェームズの様子を見に行ったらジェームズも起きた。ジェームズは「もっと寝かせてくれよ」と言ってまた寝た)。
ポール・バニヤンの話を知らないので、あんまりよく分からない話だった。
あらすじよりも細かい描写とかが面白い話なのかも。
アメリカの伝説に出てくると思われる他の人物とかが出てきたりとか。
あと、単に仰向けに寝てるというだけのことなんだけど、3通りくらい言葉を変えて表現されていたりとか。

夜の声

表題作にあたる作品だが、この短編集の原著タイトルは”Voices in the Night”で、本作のタイトルはA Voice in the Nightである。
これも面白かった。
旧約聖書に題材をとっているのだが、聖書に出てくる少年サムエルと、1950年代のニューヨークに住むとある少年、そして、その少年の老後、という3つの時点のエピソードが交互に進んでいく。ちょっと面白いのが、節番号が、サムエルは1、ニューヨークの少年は2、老人は3となっており、以後、1→2→3→1→2→3と同じ番号が繰り返す形になっている。
サムエルというのは、司祭エリに仕えていて、ある夜に自分の名前を呼ぶ声がしたので、エリのもとへ行くのだが、エリは呼んでいないという。それが3度繰り返されて、実は、エホバに呼ばれていたということが分かる。
つづくニューヨークの少年だが、サムエルの話を知って、自分ももしかして名前が呼ばれるのではないかと思って、夜に起きようとしている。とはいえ、彼の父親は無神論者で、少年自身も呼ばれることはないと思っている。しかしそれでも気になって、寝れない夜を過ごす。
そして、老人のパートだが、年齢のせいで眠れなくなっている作家で、夜の声を待つために起きていた少年の頃を思い出す。そしてまた、自分の半生を振り返る。
この少年=老作家は、上述した通り父親は無神論者なのだが、母親がユダヤ系ロシア移民の子であり、少年は無神論者のユダヤ人といういささか複雑なアイデンティティを形成していくことになる。普通にクリスマスはするし、ユダヤ文化(行事や食事)には触れているし、普通の世俗化したユダヤ人とさして変わらないかもしれないが。また、ニューヨークで育っており、周囲は基本的にプロテスタントという環境でもある。なので、彼は周囲の教師や友人に対してはユダヤ人として振る舞うし、しかし一方で、敬虔なユダヤ人に対しては無神論者的な態度をとるのである。
少年にとって、夜の声が聞こえること・聞こえないことが、今後の自分のあり方を決定的に決めるものになる。そして、まず確実に聞こえないはずだとは思っているが、もしかして呼ばれるかもしれないという宙ぶらりんの状態が、自分のあり方と重なるのだろう。
ところで、少年は大学教授である父親に仕事のことを聞き、父親にとって教師の仕事が天職(コーリング)であることを知る。ここで、天職と声(コーリング)が重ねられている。
そして、半生を振り返る老人にとって、天職は作家であった。
ラプンツェルへの言及がいくつかある。
早口言葉や体言止めなど、どこかリズミカルな短文が続く。