『モダニズムのハード・コア 現代美術批評の地平 批評空間臨時増刊号』

1995年に発行された『批評空間』の臨時増刊号で、現代美術批評の重要文献の翻訳が掲載されいてたことで有名だが、なおかつ、長いこと絶版が続いていて、重要にもかかわらず入手不可能であったためにある意味で「伝説化」もしていた。しかし、今では電子化されているので入手も容易になっている。
何故このタイミングで読んだのかというと、直接的には2023年9月Kindle月替わりセールを眺めて - 殺シ屋鬼司令IIでセール対象品になっているのを知ったから。
一方で、井口壽乃・田中正之・村上博哉『西洋美術の歴史〈8〉20世紀―越境する現代美術』 - logical cypher scape2ドミニク・マカイヴァー・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグル『なぜ美を気にかけるのか』(森功次・訳) - logical cypher scape2井奥陽子『近代美学入門』 - logical cypher scape2と、美学・美術関連書籍を連続して読んでいたので、その余波で読んでみることにした、というところもある。
モダニズムのハード・コア』というタイトル自体はかなり以前から知っていたのだが、しかし、当初は自分が美術に詳しくないこともあって、どういう本なのか全く把握していなかった気がする。
さて、今回実際に手に取ってみてようやく「これ、現代美術批評基本論文集だ」と理解した(かなり遅い)。
現代美術批評関連の書き手について、名前は知ってるけど……みたいな人が多いんだけど、これを読むことによってようやくマイケル・フリードがなんとなく分かってきた。
マイケル・フリード確かに重要人物だわー、と。
フリードについては(冒頭の座談会の影響もあると思うが)、読んでいて説得的かというと、確かに難点がある気はするけれど、書いてあることは好きだな、と思える論者だった。


本誌の中心人物として、フリードが据えられているのは間違いない。
本誌は、まず本誌の編集者でもある柄谷・浅田と磯崎、岡崎の4人による座談会から始まる。ここでの話題は複数あるが、やはりフリードをどのように解釈するのか、という話が多かったように思う。
次いで、翻訳パートとなっていて、
グリーンバーグとフリードそれぞれの論考の翻訳、
クラークとフリードの間で行われた論争の翻訳、
フリード、ロザリンド・クラウス、ベンジャミン・ブクローの参加したシンポジウムの翻訳、と大体フリードが関わっている企画が続く。
その後、クラウスの論考の翻訳があり、翻訳記事ではないが、来日したコスースへのインタビューがある。
最後に、日本語で書かれた論考が4編(それぞれ岡崎、松浦、田中、丸山による)があって、再び座談会によってしめられる構成になっているが、ここでもやはりフリードへ立ち返る内容となっている。

序 導入にかえて 浅田彰岡崎乾二郎松浦寿夫
モダニズム再考 磯崎新 柄谷行人 浅田彰 岡崎乾二郎
モダニズムの絵画 クレメント・グリーンバーグ
抽象表現主義以後 クレメント・グリーンバーグ
芸術と客体性 マイケル・フリード
クレメント・グリーンバーグの芸術理論 T・J・クラーク
モダニズムはいかに作動するのか マイケル・フリード
モダニズムに関する議論 T・J・クラーク
ミニマリズムとポップ以後の美術論
マイケル・フリード
ロザリンド・クラウス
ベンジャミン・ブクロー
ディスカッション:ミニマリズムとポップ以後の美術論
視覚的無意識 ロザリンド・クラウス
インタビュー モダニズム以後 ジョゼフ・コスースに聞く
経験の条件 岡崎乾二郎
美術館のなかのひとつの場所 松浦寿夫
美術史の曖昧な対象 田中純
「透明性」の内部 丸山洋志
モダニズムの再検討 岡崎乾二郎 田中純 丸山洋志 浅田彰 松浦寿夫

モダニズム再考 磯崎新 柄谷行人 浅田彰 岡崎乾二郎

座談会
グリーンバーグ主義を徹底すると、ミニマリズムに至るわけだが、フリードはそれを是としなかった。そこで彼は瞬間性というのを持ち出すのだけれど、フリードがその具体例としているカロの彫刻だって、瞬時に把握できるものではなく、フリードの議論には困難があるのではないか、という指摘。
また、建築についての話も同時になされていて、建築の世界では、ロウという人がフリードとパラレルなのではないか、と。
理論的にはポストモダニズムを批判しているけれど、文字通りに実現するとポストモダニズムになってしまう、と。
ポストモダニズムの先に、PC(ポリティカルコレクトネス)的な芸術があるけれど、岡崎などはPC的なものに否定的。
ロウの話の中で、フェノメナルな透明性とリテラルな透明性の区別という議論があって、これが興味深かった。


柄谷が、理論家としてのグリーンバーグと批評家としてのグリーンバーグの違いを指摘している。
20世紀後半のアメリカでは、批評の書き手が美術家にもなっていた。マニフェストの代わりとしての批評。
現代美術は、結論先送りゲーム
芸術領域の確定(科学でも道徳でもないものとしての芸術)は、他領域との緊張感において成立する。それがなくなると芸術の自律もない。美術の固有性は単にプレゼンテーションなのか。建築は結局「善」なるものか。サブライムにも科学的認識が必要だ、とか。
美術館の問題について。
ジャッドは自作の美術館を作ることになるのだが、逆にどんどんサイトスペシフィックになっていく
あと、磯崎の第三世代の美術館論とか。
ゴンブリッチウィトゲンシュタイン言語ゲームのように美術を見る、という指摘
磯崎など、コンペの選考を行うこともあって、選ぶのはすぐできるが、理屈はあとから考えて時間がかかる的な話をしていたのも面白かった。議論用に理屈は作れるんだけど、あとづけだと。

抽象表現主義以後 クレメント・グリーンバーグ

グリーンバーグ批評選集』にも収録されているけど、未読だった。
抽象芸術家を束縛したのは再現性ではなくイリュージョン
ポロックとホフマンによって、初めて印象に残るペインタリーな抽象絵画を見た
抽象表現主義=「絵画的であること」であり、ヴェルフリンがマーレリッシュとして特徴付けたような物質的な諸特徴を持つ。
絵画的な抽象は平面的ではない
1910年~1918年のカンディンスキーの作品は風景画に似ている
絵画的なものは400年前から三次元空間のイリュージョンを高めるための手段
ホフマンとポロックとゴーキーの絵画は、モンドリアンピカソの絵よりも額縁の背後に遠ざかる
1950年代以後の抽象表現主義は再現性を求めた→デ・クーニングの「女」
→「帰る場所なき再現性」
それ自体は悪くないがマンネリになるのが悪い
「密かな低浮彫」(絵の具を盛り上げる文字通りの三次元性)→デュビュッフェやフォートリエ
ヨーロッパにおける「帰る場所なき再現性」はヴォルス、ハートクンク、マチュー。これらの3人は線的
タピエスと菅井は、ヨーロッパにおけるジョーンズとディーベンコーン
ジョーンズとディーベンコーン
→デ・クーニング風ながら独自の作風
キュビスムと抽象表現主義
抽象表現主義がみな一貫して絵画的だったわけではない
ゴットリーブは絵画的と非-絵画的の両方で見事な作品
ニューマン、ロスコ、スティールは絵画的であることを放棄してしまった
色彩と開放性が絵画的であることの目的だが、この3人はそこから目を背ける
ティールは色彩の強調の主導者
ニューマンとロスコは、スティールより絵画的に見えるかもしれないが、直線的な形体は両義的。触覚性と線描を避けることで、積極的な開放性と色彩の鋭い効果へと到達
3人の芸術家が到達したのは、開放性の効果
この3人は、モダニズム自己批判を新しい方向へと変えた。芸術とは何かではなく、良き芸術とは何か
技量でも訓練でもなく構想conception
構想だけが個人的なもの。ニューマンの絵は複製が容易に見えるが、それを実際に着想するのは容易ではない
ネオ・ダダやコラージュなどは無難の趣味の支配を脱していない
色彩の本当の冒険は、オリツキーの「純粋な」絵画

芸術と客体性 マイケル・フリード

井口壽乃・田中正之・村上博哉『西洋美術の歴史〈8〉20世紀―越境する現代美術』 - logical cypher scape2で言及されていた。というか、まあ超重要論文のようだ。
ミニマリズムを批判し、カラーフィールド絵画やアンソニー・カロの彫刻を評価した。
その際に「演劇性」という概念を持ち出し、ミニマリズムをその演劇性ゆえに批判した。
最後に、この翻訳は、近刊『現代芸術論集(仮)』(勁草書房)に収録される予定のものを使わせてもらった的な記載が載っているのだが、おそらくこの論集は出版されなかった奴ではないか。このあたりの当時の事情やら反応やらを知らないけど、本誌が伝説化してしまったのは、この論集の出版企画が頓挫してしまったためか? 


フリードは、ミニマリズムのことをリテラリズムと呼んでいる(当時、ミニマリズムは呼び名が色々あった)。
ジャッドとモリスは、彫刻に反対して、全体性と単一性と分割不可能性という価値(スペシフィック・オブジェクトであることの価値)を主張
モダニズムの絵画
ノーランド、オリツキー、ステラは、客体としての形態とメディウムとしての形態との間に軋轢が生じている。この軋轢の鍵は、絵画として経験されるか、物体として経験されるか
それ自身の客体性の打破が不可避。形態は絵画に属すものでなければならない
リテラリズムは、諸客体の所与の特性としのて形態に全てを賭けている。客体性それ自体を見いだして投げ出す
グリーンバーグは、芸術と非-芸術の境界を彫刻に探す。この「非-芸術の状態」の意味が、フリードのいう客体性
モダニズム絵画は客体ではないかのようだ
「リテラリズムによる客体性の擁護は、結局、演劇の新しいジャンルのための口実以外の何物でもない。そして演劇とは今や芸術の否定である」
リテラリズムの経験は、観客を含む経験
1.人間の身体サイズに近い
2.リテラリズムの諸理念に、日常の中でもっとも近いのは「他人」
3.リテラリズムの作品は中空=内側を持つが、それは擬人的
隠された自然主義・擬人観が、リテラリズムの中核にある
リテラリズムの悪いところは擬人観ではなく、擬人観の意味が演劇的であること
トニー・スミスが語る高速道路の経験
高速道路は誰にも所属していないが、スミスにとっての現前性によって確立された状況は彼のものだと感じとられている
演劇として効果的になるほど作品はますます不必要になる
絵画は断じて物体ではない。マネ以降、ますます本質的な客体性をあらわにしていくものだという理解は思い違いである。
アンソニー・カロの彫刻を見るに値するものにしているは、シンタクスのうちにある。各々の要素の相互関係
モダニズム彫刻にとって客体性が問題になってきたのは、色彩に関してもである
オリスキー《ブンガ》
彫刻のメディウムとして絵画の表面を確立しようとする試み。客体の表面ではなく絵画の表面に似ている
(1)諸芸術の成功または残存は、演劇性を打破するそれらの能力に左右されるようになってきている
演劇は観衆を所有している。リテラリズムの作品は観者に依存し、観者がいないと不完全
演劇を免れている芸術は映画。しかし、演劇からの逃避であって克服ではないので、モダニズムの芸術ではない
(2)芸術は演劇の状態に近付くにつれて堕落する
カーターの音楽とケージの音楽との差異、ルイスの絵画とラウシェンバーグの絵画との差異
(ケージとラウシェンバーグは演劇的だと言っているのだと思う、多分)
(3)質と価値という概念は重要である。諸芸術の内部においてのみ全面的に重要なのである。諸芸術同士の間隙に位置しているものが演劇なのである。
リテラリストたちは質または価値の問題を避けている
ジャッドにとっては、「興味」をひきだしているかが問題
モダニズムの諸芸術においては、「確信」が重要
ジャッドのスペシフィック・オブジェクト、モリスのゲシュタルト、スミスの立方体は、常に興味をひく。それは無尽蔵だからだが、無尽蔵なのは豊穣さではなく汲み尽くすべきものが何もないから。終わりのなさ、ジャッドのユニットの繰り返し
不確定な持続の呈示、スミスの夜間ドライブの記述はそれに関連
リテラリズムの時間への没頭(経験の持続への没頭)は、典型的に演劇的
ノーランドやオリツキー、デイヴィット・スミスやカロの作品について、人は無時間のうちに経験するのではなく、どの瞬間にあっても、作品それ自体が完全に明示的であるから。持続性を持っていないかのようである(ある場所からだけカロの作品を見たからといって、作品経験が不完全になるわけではない)
興味深さには「はかなさ」があるが、確信には「はかなさ」はない
(はかなさは、シュルレアリスムにも共通。シュルレアリスムとリテラリズムはともに、断片的で不完全なイメージを採用、擬人化に頼る、閉ざされた部屋やうち捨てられた人工的な風景を重要視する、といった共通点がある。どちらも演劇的な感性)
モダニズムの絵画と彫刻は、現在性と瞬時性によって演劇を打破する


ソンダクと演劇性について触れている注釈がある。
また、注釈でスタンリー・カヴェルへの言及がある。カヴェルと親しく、かなり影響を受けていたみたい。


このフリード論文についてググっていたら見つけたので、参考にはっておく
マイケル・フリードとジョナサン・エドワーズ——『アメリカ哲学史』翻訳余滴|入江哲朗

モダニズム政治学

美術史家のクラークが、グリーンバーグについての記事を書いたところ、フリードが反論してきて、それにクラークが再反論した、という3つの論文が訳出されている。
最初から紙上討論として企画されていたものではなく、クラークにとっては寝耳に水みたいな感じで、フリードから反論が飛んできたものらしくて、ガチ討論となっているというか、ところどころ感情的な言葉の応酬すらみられるものになっていて、面白い。
訳者や、論争当事者であるクラーク自身ですら、すれちがいになっていると述べている論争であり、また、美術批評の文脈を共有していない自分にとっては意味不明な部分もあるのではあるが、しかし、だからといって別に「罵詈雑言言ってて面白い」とかそういう意味の面白さではなくて、それぞれが何を重視しようとしているのかということが伝わってくるものにはなっていて面白いのである。

クレメント・グリーンバーグの芸術理論 T・J・クラーク

グリーンバーグの「アヴァンギャルドキッチュ」「さらに新たなるラオコオンに向かって」(特に後者)について論じている。これ2本とも『グリーンバーグ批評選集』に収録されているが未読。
クラーク自身がマルクス主義的批評の人らしいが、グリーンバーグのこれらの論文の中にも、マルクス主義的なものを読み込む。というか、グリーンバーグのこれらの論文の掲載誌(『パルティザン・レビュー』)の当時の雰囲気(マルクス主義文化)がまずそうしたものだったということを指摘する。
ブレヒトは当時のグリーンバーグにとって鮮烈
デカダンスへの反応としてのアヴァンギャルド
(1)アヴァンギャルドは西洋ブルジョワ社会の一部であり、しかしその母体から距離をとる。
社会から切り離されたものと自身では想定しているが、黄金のへその緒によって結びついている(つまり、経済的にはブルジョワ社会と密接に結びついている、と)
(2)アヴァンギャルドは、イデオロギーの分裂から芸術を守る1つの方法
(3)ブルジョワ文化はかつて自身の文化を持っていたがこれを放棄した。その代わり、マス化された疑似文化・疑似芸術が生まれる。キッチュアヴァンギャルドは、放棄された貴族主義的芸術として生まれた
アヴァンギャルドの豊かさは、平面性に芸術以外に由来する価値の数々を与えた。平面的とはポピュラーの類似語
モダニズムの負性、否定、空虚、無

エリオット的トロキズム

モダニズムはいかに作動するのか マイケル・フリード

クラークに反論するものだが、グリーンバーグ擁護というわけでもなく、クラークとグリーンバーグがともに、芸術に本質があるという誤解を共有している、と批判している。
その上で、クラークの議論における難点もあげている(例えば、具体例がなさすぎ、とか)


クラークの主張の中心は、モダニズムの実践が根本的に否定であったというものだが、これを否定する
グリーンバーグやクラークの発展史観を批判


フリードの立場
(1)絵画芸術に固有の目的と限界とを規定する超歴史的な存在の否定
(2)確信の政治学
(4)モダニズム画家が発見しようとするのは、本質ではなく、約定の数々である。
これは、哲学の反基礎付け主義と関連しているという。


カロのテーブル彫刻について
「《テーブル作品第22番》が芸術であるとの確信は(...)作品のなかで作動しているすべての関係の全き正しさに、もとづいている。批評家がまず責任を負うべきは、その種の正しさにたいする直観なのであって、またその直観のゆえに批評家は直接に報われるのである」
この一節、わりと好き。

カヴェル経由でウィトゲンシュタイン受容したことが述べられている。
グリーンバーグアヴァンギャルドと「ポピュラー」アヴァンギャルドデュシャンとダダ)の区別→演劇的なもの=ポストモダニズム

モダニズムに関する議論 T・J・クラーク

フリードへの再反論だが、クラーク自身、論争とはすれ違うものだが、みたいな言及をしており、困惑しつつ、ガチで反論している。
細かいところでいうと、具体例がないのは具体例を論じると議論に矛盾が生じるからだとと言われたクラークが、違う例を挙げて、この例についてフリードは自説に矛盾なく説明できるのか、と反論しているところとかキレてる感あって面白い


いつのグリーンバーグについての議論なのか、が大事。
「名作」だけを頼りに芸術の歴史を説明しようとしても無理がある(フリードは「名作」以外の作品を無視してるだろう、という批判)。ダダと初期シュルレアリスムを盛り込まないことに悪びれてない
フリードと自分との違いは、知覚第一主義にどのような態度で臨むか
知覚第一主義は精読を主張するが、成功する読みは、1つの事柄に集中することではなく、複雑な要素を総動員すること。優れた批評家(エリオット、リーヴィス、ディドロ、コウルリッジ)は、批評の対象を歴史や政治から解釈している。グリーンバーグの全盛期はまさにそうだった。
カロやオリツキーは自分にとっては退屈
フリードは、現在性の恩寵を説くが、自分の神の名をがなりたてているだけではないか。宗教的だからいけないわけではない、エリオットやコウルリッジは宗教的コミットメントの歴史的問題を語り尽くしていた。


これ2人とも、自分は歴史主義的で相手は本質主義的だ、といいあっているような気がする。

ミニマリズムとポップ以後の美術論

これはシンポジウムか何かでの公開討論で、3人の基調講演とディスカッションを訳出したもの。

マイケル・フリード

グリーンバーグの非歴史的な発想に賛同できなくなった。
カヴェルから後期ウィトゲンシュタインについて教えてもらったから。
「演劇性」が芸術にとって敵なのは、現在の美術において、という意味だった。演劇性があるけど重要な芸術もある、という弁明。
「演劇性」については、その後、ディドロ論やクールベ論でも展開してるよ、というような話。ディドロ論は、最近邦訳が出た『没入と演劇性』だと思う。クールベ論は邦訳ないっぽい。

ロザリンド・クラウス

今回のシンポジウムが、フリード「芸術と客体性」を巡るものなのだと指摘

ベンジャミン・ブクロー

今回の登壇者である3人(フリード、クラウス、自分)の違いと共通点を挙げている。
3人とももともと美術批評を手がけていたが、今ではアクチュアルな批評はやらなくなっている点などが共通点。
フリードはモダニズム、クラウスはポストモダニズムと、批評で評価していた対象は違っていた。

ディスカッション:ミニマリズムとポップ以後の美術論

登壇者同士だけでなく、会場の質問者も含めて、ファーストネームで呼び合っているのがアメリカっぽい(?)なあと思った。
ハル・フォスターが司会をしている。
冒頭からブクローが「アンソニー・カロをメルロ=ポンティで論じてるけど、カロはポンティ読んでないよね、ロバート・モリスは読んでるのに」っていうジャブをいきなり飛ばしてくる。
フリードは、カロを評価して、モリス含むミニマリズムを評価しない立場で、その議論の中でメルロ=ポンティを用いているけど、明示的にメルロ=ポンティからの影響を受けているのはカロじゃなくてモリスの方なのではないか、という指摘で、フリードは、実際に読んでたかどうかはあんまり関係ないのでは的な交わし方をしようとする。
フリードは、このシンポジウムの時点で、美術批評よりは美術史へと転換しているわけだが、元々美術史家であるブクローとは、方法論が違うのだろう。フリードは、このシンポジウムの中で、ブクローについて実証主義的と評している。
大体、フリードとブクローが対立して、クラウスが少しフリード寄りだったりする(フリードとクラウスは古くからの知り合いだが、フリードとブクローはほとんど初対面らしい)
ブクローだけでなく、オーディエンスもわりとフリードに批判的な質問をしてくる人が多くて、フリードは倒すべき過去の権威なのかなあという感じがする。
質問者を納得させるには至っていないが、しかし、フリードもフリードで結構的確に打ち返しているよなあ、という印象はあった。
「今となっては、あなたが擁護していたタイプの芸術は凋落して、批判していたタイプの芸術が繁栄したのだから、間違いを認めたらどうか」のようなことが、ブクローやオーディエンスから出てくるのだけど、フリードはこのあたり全く揺らがないというか、今でもカロのことは評価してるし、それは全然変わらない、という反論をしている。フリードは「確信」というのをキーワード的に使っている。
そのあたり、フリードは結局自分の好みの作家を推してるだけでは(無論、フリード自身は個人の好き嫌いの話じゃないと述べるが)、みたいな疑念は当然浮かぶわけで、ロジカルな部分でフリードが勝てているかというと微妙なのだが、しかし、批評家としての一貫した態度はあるように思う。
あとは、批評ってもう終わってるよね、みたいな話に対してどうこたえるかとか。
クラウスからフリードに対して、カロについてソシュールを持ち出すのって、瞬間性の話と矛盾してないかとツッコミを入れていて、フリードが後日追記している箇所で応答したりしていた。
この、フリードがカロについて瞬間性で読もうとするの無理があるのでは指摘は、座談会で浅田も繰り返している。

経験の条件 岡崎乾二郎

マティスの礼拝堂の壁画について
→統一されたひとつの三次元空間というものが希薄。色彩・デッサン、複数の場面などが分離している
ゴンブリッチ『手段と目的』
アリストテレスの三一致の法則
→「装飾」「象徴」「描写」の三機能の分析
→絵画空間(イリュージョン・「描写」)の契機として「感情移入」
むしろ、時の分離ないし両立しえない複数の場面の分離が条件なのではないか
マチスは、回想という行為(ヴェロニカはハンカチーフを通してイエスの受難を回想し、我々はそのハンカチーフを見て回想の回想をする)によって時制の統一を行ったのではないか。そしてそれはゴンブリッチのいう「感情移入」と通じる
ゴンブリッチは、三一致の法則が使えないほど複雑に時制が入り組んだ場面の描き分けの際には「非現実性のレベルの差」(美術史家サンドストレーム)が使われてきたという
「非現実性のレベルの差」とは、例えば、寓意は彫刻として描き、回想場面は画中画として描きなど、表象間に現実性の階層を作り、区分する方法
しかし、この現実性のヒエラルキーを決定するのは現実には不可能(ただし、ゴンブリッチは主題が描かれた画面が中心となると想定していた)
マティスの礼拝堂壁画では、非現実性レベルの中心が失われ、等値に並列されているように見える。が、ヴェロニカのハンカチーフだけが浮き上がってみるのはなぜか。
場面の順序を示す数字が、ハンカチーフ内部に書き囲まれている。
非現実性のレベルが攪乱されると同時に、別方向から秩序立てられている、と
(ところで、論理と知覚の関係として、「現実とイリュージョン」などの区別自体が論理であり、「論理に媒介されない知覚判断はない、ないし、知覚それ自体に論理は書き込まれている」ということが書いてあって興味深い)
そもそもマティスの絵画は、そういうことを繰り返してきたのではないか
部屋が希薄化し、部屋の中の絵(画中画)や彫刻について、部屋の中にいる人物なのか画中画なのかわからないような状態になる
→見るものが自分の位置を確定できない
見るものの視線の不確実化は、フリードがいう「没入」に近い
フリード曰く、古典的な演劇的な絵画に対して、観客の存在を無視して自己の行為に没入している人物を描く傾向が、1750年代のフランス絵画で発生してきた、と。
「この世界を見ていながら、この世界に属していない」という感覚。しかし、それこそが近代的な意味での主観性を成立させたものであり、また、演劇性と対立するのではなく、演劇性を成立させる条件
ヴェネツィア派の絵画は、画面の統一ではなく、異質な次元の分裂であり、彩色、筆触、明暗、形態などの画面を組織する文法ごとに画面を別個に連合しており、文法ごとに異なる視覚のゲームを遂行させるようになっている、と。
で、これは最後「(続く)」となって終わっていて、どうも連載記事らしい。
ルネサンス 経験の条件』という著作があって、これにまとまっているのかな。

美術史の曖昧な対象 田中純

リーグルが指摘したが、ヴェルフリンが見逃したことで、一方でベンヤミンには引き継がれた「視覚的」と「触覚的」の分裂という問題について


美術史が自律したのは19世紀・リーグルやヴェルフリンから
彼らの手法は「様式史」であり「形式化」
フィードラーによる「純粋可視性」の理論
→知覚・表象は外からの受動的な受容ではなく、現実への能動的な介入。「可視的なもの」の台座は人間の身体
ヘルムホルツの理論を前提
ヘルムホルツの師であるミュラー:神経を刺激すれば感覚が生じる(外界と接している必要は必ずしもない)ことを発見
ジョナサン・クレーリーは、ミュラーの理論を「認識論的スキャンダル」と呼ぶ
ミュラーの理論は、モダニズム絵画による指示対象の不在を示していた


リーグル
装飾にも歴史があることを見出す
衰退期(デカダンス)への着目
様式の発展とは、知覚形式の変化
「芸術意欲」とは、画家個人の意図ではなく、知覚形式の変化を決定づける力、すなわち時間。永続的なものになろうとする規範を破壊する破壊者。衰退期における芸術意欲は、それまでの形式を引き裂く。
芸術意欲を形式化してしまったパノフスキーはこの観点を見逃している
リーグルの芸術意欲は、形式化の果てに見いだされるもの
こうしたリーグルの認識を継承したのは、ウィーン学派内部ではなく、ベンヤミン
リーグルは末期ローマ
ベンヤミンバロック演劇
さらに、この系譜には、バロックからロココにかけての建築ドローイングを分析したリンフェルトがいる


アウラの衰退と知覚形式の変容
視覚(遠隔視)と触覚(近接視)の矛盾・裂け目=作品
現代における知覚形式の中心であり、アウラの衰退をもたらす触覚とは、外傷的なショック
不死なものと非芸術の類比

モダニズムの再検討 岡崎乾二郎 田中純 丸山洋志 浅田彰 松浦寿夫

メンバーを入れ替えて、冒頭の座談会と似た内容でもう一回座談会をしている感じだが、
こちらでは、ゴンブリッチとの比較などにも触れられていた
冒頭の座談会も含めて、具体的に作家名など挙げてその評価がさも当然のように共有されている形で話が進むのが、なかなか鼻につくところではあるのだが、「ステラはどうしてああなっちゃったの」ってところは共感してしまった。というか、プロから見てもそう思うのか、というか。具体的には、浅田が「ブラック・ペインティング」まではいいけどそれ以降どうしちゃったのかと言って、岡崎が、あれは完全にフリードのせいですよ、と答えている。


岡崎が改めてモダニズム批評について整理していく。
グリーンバーグにおいては、「単一性」「視覚性」「実在性」の3つは一致する。図と地の対立を超克しようとした。
ミニマリズムは、図と図で成り立つような作品を作り、物体(実在性)であることを強調することになって、フリードはミニマリズムの実在性への依存を批判した。
知覚から想像は区分できないのであり、図と地の二元論というが、図と地も分離することはできず、想像されたものと想像されたものが並立する。透明性はあくまでもフェノメナルなものである。
クラウスは、図と地に二元論にしろフェノメナルな空間にしろ、背後から条件づけているマトリックスの効果だとした。が、精神分析帝国主義
ジャッドはラディカルで、モダニズムの極限だが、結構立ち位置は微妙な人。絵画を単なる物体にしてしまったけれど、家具とかと比較される場合には、美術というジャンルの線引きを維持した。
フリードが擁護したカロは、必ずしもラディカルではない
「ステラは気の毒な人」
ところで、グリーンバーグは、柳宗悦を読んで「シブイ」とか言い出していたことがあるらしい。


フリードとロウの共通点は、知覚をコンベンションからとらえること
ラスキン以来のモダニズムが前提としてた純粋視覚を否定している
この点でゴンブリッチなどと近い。
田中が、美術史について、ゴンブリッチとフリード、ロウの系譜に対して、ヴェルフリンからグリーンバーグヘという系譜と、リーグルからベンヤミンを経てクラウスへという系譜があると整理する。
岡崎は、ゴンブリッチの流れとリーグルの流れはそれほど違わないのではないかという。視覚と触覚という対比があるが、ゴンブリッチの場合、アフォーダンスなどから影響を受けており、視覚ではなくて、身体図式や認知の話をしている。リーグルの前のヒルデブラントも視覚と触覚を統括する身体的なコンベンションの話をしている
浅田は、フリードはそういうコンベンションを前提にしているのにそれを括弧にいれて、純粋視覚が可能であるかのように語るのが問題だと指摘している。


グリーンバーグやフリードはヨーロッパでは読まれているのか、という問いに対して、最近になってから、ヨーロッパとアメリカの比較論をしたり、建築の話をしたりしている。
フランク・ゲーリーについてや、バックミンスター・フラーの名前も出てくる
最後の方で、岡崎はヴェネツィア派にも言及している
絵画の諸秩序が分散・融合して、見つくせない魅力がある、と。なお、ロスコはそれを単純化しただけだ、とも。
また、「いま・ここ」の世界の確率的なあり方を知覚せよ、という話もしていて、ヴェネツィア派の絵はそういう絵だ、とも。
また、岡崎が、ブクローやクラークをdisってる箇所もあった。ここらへんもPC批判とつながっている話か。

感想というか

自分は、東浩紀から批評を知った人間で、遡って読むような殊勝なところもなかったので、『批評空間』については間接的に知っているだけだった。
浅田彰は、過去にも対談なり座談会なりは読んだことあるんだけど、改めて、浅田彰はまとめ力の強い人だなーということを感じた。
全体的に、岡崎の発言や論考が面白い・興味深いと感じるところが多かった。PCへの冷笑的態度みたいなのが気にかかりはしたが、そのあたりは『批評空間』全体の問題なのだろうかな、と(なんかそんなような話を以前見かけたことがある)。
ヴェネツィア派の話にしろ、フェノメナルな透明性の話にしろ、複数の次元・秩序のものが並列して存在している、という話が、個人的にはかなり興味深いというか、自分の考えとつながったりするところがありそうだなと感じられた。
ただ、ヴェネツィア派の絵については、本物は見たことなくて、写真を見ただけど、その限りはあんまりどういうところがそうなっているのかはよくわからなかったが。
岡崎、田中、松浦って名前は知っているけれど、あまりよく知らないというか、ニアミスし続けてきた人たち(学生時代に表象文化論をかすめつつも、そっちに行かずに分析哲学・美学に行ってしまったので)
美術史とかも今まであまりよく分かっていないところだったので、付け焼き刃的にググってWikipediaとかを読んだりした。
田中純とヴァールブルクについていうと、そういえばイメージ学の現在 - 東京大学出版会という本があって、神経美学関係で存在は知っていたのだけど、神経美学関係の論文は概ね『思想2016年4月号』(特集:神経系人文学――イメージ研究の挑戦) - logical cypher scape2で読んでいたのでスルーしていたのだった。しかし、ヴァールブルク関係について、ちょっと興味わいてきたかもしれない。
人名とかググったので、ちょっとまとめておこう。

  • アロイス・リーグル(1858~1905)

 『美術様式論』『様式への問い』
 「視覚」と「触覚」の対立図式を提案
 ブレンターノやマイノングに学ぶ
 ウィーン学派の形成・ヴォリンガーへ影響

  • ハインリヒ・ヴェルフリン(1864~1945)

 『美術史の基礎概念』
 「線的なもの-絵画的なもの」など5組の対概念

 『抽象と感情移入』
 ヴェルフリンに学ぶ、リーグルからの影響も

  • アビ・ヴァールブルク(1866~1929)

 ハンブルク大学でヴァールブルク研究所(ウォーバーグ研究所)を設立

  • ヴァールヴルク研究所(ヴァールブルク学派)

 1900年・ハンブルグで創設、 1944年・ロンドン大学
 在籍メンバー


あと、アメリカ美術批評関係者の年齢・世代比較

  • クレメント・グリーンバーグ(1909~1994)
  • スーザン・ソンダク(1933~2004)(本誌に直接登場しないが言及されている。年齢・世代比較の参考に)
  • マイケル・フリード(1939~)
  • ロザリンド・クラウス(1940~)『オクトーバー』創刊者
  • ベンジャミン・ブクロー(1941~)『オクトーバー』寄稿者
  • ハル・フォスター(1955~)『オクトーバー』編集委員
  • ジョナサン・クレーリー(1951~)(本誌に直接登場しないが言及されている。年齢・世代比較の参考に)