ドミニク・マカイヴァー・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグル『なぜ美を気にかけるのか』(森功次・訳)

サブタイトルは「感性的生活からの哲学入門」とある。なお、原著タイトルは”Aesthetic Life and Why It Matters”であり、この「感性的生活」はAesthetic Lifeの訳だと思われるが、本文中では「美的生活」と訳されている。
美的なものには何故価値があるのか、なぜ私たちは美的な生活を送っているのか、という問題について、ロペス、ナナイ、リグルの3人の美学者が自分の見解を初学者向けに説明している本となる。
ロペスとナナイについては、僕も著作を読んだことがあり、有名な美学者である。一方、リグルは今回初めて名前を知ったが「近年非常に勢いのある美学者」であるらしい。いずれにせよ、3人とも邦訳を出るのはこれが初めてである。版元のサイトに訳者のあとがきが公開されており、彼らのプロフィールはそちらで紹介されている。
【あとがきたちよみ】 ドミニク・マカイヴァー・ロペス、ベンス・ナナイ、ニック・リグル 著、森 功次 訳『なぜ美を気にかけるのか 感性的生活からの哲学入門』 - けいそうビブリオフィル


さて、先に「なぜ私たちは美的な生活を送っているのか」と書いたが、多くの人は自分たちが「美的な生活」なるものを送っているとは思っていないだろう。美的な生活と言われると、ハイソサエティな人たちが、美術とかオペラとかの芸術(ハイアート)を鑑賞しているような生活のことのように思われてしまうかもしれない。
しかし、現代の美学において、美的というのはもっと広い範囲を指す言葉であり、本書でも繰り返しそのことが強調されている。
確かに芸術鑑賞は、美的生活の一部であるが、美的生活が必ず芸術鑑賞を含んでいる必要はない。美的という言葉と芸術や高尚さはいったん切り離しておく。
本書でいうところの「美的生活」というのは、例えば、今日着ていく服の色は何色にしようか選ぶとか、プレイリストにどのアーティストの曲をいれようかとか、レストランの食事に舌鼓を打つとか、高校の学園祭でみんなでミュージカルをやるとか、山登りをして風景を堪能するとか、そういったようなことである。
例えば衣服について、暑さ寒さをしのぐためであれば何を着たっていいわけだが、自分に似合うか、他の身につけるものとあっているか等を気にしながら服を選ぶだろう。あるいは、料理も栄養補給できればいいというのであれば何でもいいかもしれないが、実際には、このお皿にこういう風に盛り付けると美味しそうに見えるな、とか考えたりするだろう。こういうような、感性を働かせて、生活に彩りを与えるといえばいいのか、そういったこと全般を「美的生活」と呼んでいる。
別に服とか盛り付けとか気にしたことねーよって人であっても、別の領域ではとても気にしているかもしれない(ガジェットのデザインとか今夜見る予定の映画とか)。美的生活を全く送っていないという人はおそらくいないだろう。
私たちは美的な価値を行動の理由にしている(つまり、「こっちの方がかっこいいから、こっちを買おう」など、「かっこいい」という価値を「買う」という行動の理由にすることがある。美的な生活を送るというのは、美的な価値を行動の理由にしているということだ)。
しかし一体何故、美的な価値は行動の理由になるのだろうか。
本書が問うのはそういう問題である。


ところで、美学でいうところの「美的」というのは必ずしも「高尚な芸術」のことを指すわけではないということを、僕自身は「美学のいろは」で学んだ気がする。
2010年に、今井晋さんと永田希さんが企画して、渋家を会場にして行われた勉強会みたいなイベントで、数回行われた。1回目の様子がtogetterに少し残っている。
美学のいろは - Togetter
本書の翻訳者である森さんもその場にいたし、togetterみる感じだと、松永伸司さんもいたのかな。今井さんは、その後、IGN Japanの編集者になって、アカデミアからは離れるけれど、当時は東大の大学院生だったはず。
2013年に『分析美学入門』、2015年に『分析美学基本論文集』が出版され、また同じく2015年には紀伊國屋書店新宿南店で「分析美学は加速する」というブックフェア(ブックフェア「分析美学は加速する──美と芸術の哲学を駆けめぐるブックマップ最新版」 - 紀伊国屋書店新宿南店(2015年9月8日~10月25日))が開催された。こうした流れにより、2010年代半ばから現在にかけて、日本において分析美学という分野の知名度はあがったわけだけれど、この流れの先鞭をつけていたのが、この「美学のいろは」というイベントだったと思う。
話がずいぶんとそれてしまった。
僕自身は、美学といってもどちらかといえばフィクションの哲学や描写の哲学に興味関心があって、本書がテーマとするような美的価値論にはあまり関心を払っていなかったのだけど、とはいえ、「美的」という言葉の中に、ファッションや料理のことも含むよねみたいな感覚は自分の中にあって、それはどうしてだったかなと思い返してみると、「美学のいろは」があったなと思い出したのだった。

イントロダクション

まず、「美的」とは何かという説明がされるが、それは上述したので省略
本書はソクラテスの問い「私たちはどう生きるべきか」に答えるようなものだとも。この問いは、道徳的な話と思われがちだけど、道徳に関するものだけではない。私たちの理想の生には、美的なものも含まれる。
ここで2つの前提のようなものが提示される。
1つは、美的無感覚者はほとんどいない、ということ。
もう1つは『インフィニット・ジェスト』という小説に由来する思考実験。この小説にはあまりにも面白すぎて寝食を忘れて死ぬまで視聴し続けてしまう「インフィニット・ジェスト」という、最終兵器扱いされている映画が出てくるらしい。本書では、条件を緩和して、死には至らない「インフィニット・ジェスト・ライト」という作品を見るかどうか、という思考実験が出てくる。
「インフィニット・ジェスト・ライト」は、あらゆる魅力に満ちた作品で、何度繰り返し見てもそのたびに新しい発見があって飽きない映画なのだが、一度見てしまうと、他の作品は決して見ることができない。
本書では、多くの人は「インフィニット・ジェスト・ライト」を見ることは選ばないだろう、ということを前提としている。
2つの前提が意味するのは、私たちのほとんどは、既に美的なことがらに価値を置いている(美的無感覚者ではない)のであり、そうであるならば、より多様なものに触れようとするだろう、ということである。ここは本書では所与の条件であり、この点への疑義や検証はなくて、その上で、では何故そうなのか、ということを問う形になっている。

  • 感想

第1の前提については、まあそれはそうかな、とは思う。ただ、全面的な美的無感覚者はいない*1として、部分的な美的無感覚者っていうのはいたりするのではないか、という気はする*2
第2の前提については、より疑わしいような気がする。
まあ確かに自分も「インフィニット・ジェスト・ライト」を見るという選択肢は選ばない気がするが、しかし、「インフィニット・ジェスト・ライト」を見るという選択をしたい人もいるような気がするし、それがどこまで美的に悪いのか、あんまりよい直観がない。「これさえあれば他に何もいらない」というような究極の作品を探し求めている人っているのではないか、と。もっとも、自分がこの「インフィニット・ジェスト・ライト」のくだりの含意をつかみ損ねているのかもしれないが。

1 経験を解き放つ ベンス・ナナイ

ナナイは「美的経験」とその「達成」がキーワード

  • 美的なことがらに気を配るのはなぜか、6つの答え

まず、よくある5つの答えについて検討し、それらは退けた上で、ナナイが考える答えを提示している。
1.実際には気を配っていない
われわれが気を配っているのは実利的なことだけだ、と。
ただ、上述の通り、本書でいうところの美的生活ってかなり範囲が広いので、本当に全く気を配っていないなんてことはなくない、と。
2.美的なことがらよりも娯楽に気をくばっている
この考えは高尚な「芸術」と低俗な「娯楽」を分ける考え方で、アドルノのような立場だが、そもそもそんな区別はできない(時代や場所が変わればすぐに変わってしまう)ので、成り立たない、と
3.他人によく思われるため
いわゆるスノッブ
確かにそういう面はあるだろう、ということをナナイは認める。しかし、全てがそういうわけではない。例えば私たちは、誰にも見られない1人の部屋でも美的な生活を送っているから。
4.自分自身にほれぼれしたいため
3の回答の修正版がこちら。
この回答ってネット上でも「Xが好きなんじゃなくて、Xが好きな自分が好きなだけなんだろ」みたいな言い回しで目にすることがあると思う。
これに対してナナイが反例としてあげるのは「罪悪感ある快楽」で、例えば、健康に悪いと分かっていてもジャンクフードを食べるようなことである。
美的生活においても同じようなことはある。決して褒められた趣味ではないなあと分かった上で、B級作品をついつい見てしまうとか。
5.私たちが気を配っているのは美的判断だ
これは伝統的な美学の見解。カントとか。
ナナイはこれに対して、判断というものがそうであるように、美的判断というのもあまり楽しいものではない、とする。確かに、私たちは美的判断を色々しているけれど、美的判断をするために美的な生活を送っているわけではない。
美的判断を保留することもある。もし、美的判断をしていくことが美的な生活の目的だとするならば、効率よく作品を次々鑑賞していくのがいいことだということになるけれど、実際は、必ずしもそんなことはない、と。
ナナイは、より重要なのは「美的経験」なのだという。
個人的にはこの点あまり考えたことがなかったので、目を開かされる指摘だった。
確かに、美的判断はあんまり楽しくはない! しかし、自分はどこか美的判断をするために作品を鑑賞しているところがなかっただろうか、と思い直した。
6.私たちが気を配っているのは美的経験だ
ナナイがいう美的経験は、単に対象についての経験ではなく、「対象と、それがどう経験されるかとの関係に注意を向ける」ということ。対象についての経験+自分についての経験
なお、美的経験の特徴として無関心性みたいなものが挙げられることがある(ここではカントではなくて、ソンダクによる特徴付けが紹介されているが)。ただ、これはあくまでもここ2世紀ほどの西欧に限った流行でしかない、と指摘している。
ナナイは、自分の特徴付けが、非西欧の美的経験にも当てはまるものだと、サンスクリット美学における「ラサ」にも適用できるとしている。
おそらく、ナナイのいう特徴付けが広汎に適用できるのは確かだろう。一方で、広汎すぎるのではないか、という気がしないでもない。

  • 達成としての美的経験

美的経験にとって重要なものとして「達成」をあげる
まず、感情生活とのアナロジーによって説明する。
感情は単に受け身で降りかかってくるものではない。私たちは、ある適切な感情を抱くために努力を要することがある。例えば、お葬式で適切に悲しむように、パーティで適切に楽しむように、あるいは敬虔な信者は適切な宗教的感情を抱けるように努力をしている(だから、そこには成功と失敗がある)。
達成のためのテクニックには個人差がある。
経験にヒエラルキーはない(美的なことについて、高尚なものと低俗なものがあるという考えを徹底的に退けようとするのは、本書の筆者である3人の共通点の1つだろう)
美的経験は失敗することがある。
そして、美的経験が大切なのは、あなた自身の体験だから、と。
また、美的経験の共有の重要性についても触れている。他の人と一緒に経験したいと思うものだ、と(ただし、そこでは判断が一致することは重視されないのだ、とも)。

2 美的生活――個性、自由、共同体 ニック・リグル

リグルのキーワードは、タイトルにあるとおり「個性」「自由」「共同体」である。

  • 食べ物とのアナロジー

あるものが食べ物である(食事実践に値するものである)のは、それを食べることでその食事実践を規定する善が実現されるとき、そしてその程度において、である。
つまり、単に栄養摂取できれば食べ物になる、というわけではないということ。栄養豊富だけど食べないものもあれば、栄養的には微妙だけど食べ物になっているものもある。
あるものが食べ物であるかどうかは、食事実践に相対的である。
ここでは、ある文化では食べ物とはみなされないものが、他の文化では食べ物とみなされる事例が、たくさん羅列されている。
とりわけ重要な5つの善
健康、活動、使用(創造性)、共同体、アイデンティティと意味
ここでいう健康というのは栄養素のことだけど、それだけでなく、採取したり栽培したりといった活動や、その食材をどのように料理するかという創造性などが、その文化の食事実践の中に位置づけられているか。そして、共同体の中で食べられるものとして位置づけられているか、また、食べる個人にとって意味のあるものか、といった点も上げられている。


美的価値も美的評価実践の観点から理解される
人は、美的に愛するものから美的評価実践に関与し、その愛を育む、しかしそれだけでなく、新しい世界に開かれているし、美的なつながりを作るのが得意になる。つまり、その実践に関わる他の人たちと親しくなっていったりする。そうすると、ほかの人のスタイルを味わうこともできるようになる、と。
食事において、単に餌を食べるだけのようになってしまうこともあるが、美的価値への関与についてもそういうことはあると述べている。

  • 個性

「人person」であることと「個人individual」であることの違い
理性や道徳的配慮はあなたを「人」とするが、「個人」とするわけではない。自由裁量によって何かを選んでいくことで「個人」になり「個性」が生まれる。
また、個性は固定的なものではなく、動的なものである(変化していく)。

  • 自由

哲学において、自由は「自律」と理解されることが多かったが、自由は「自律としての自由」だけではない。美的な生活がもたらす自由は、開かれたものである、と。

  • 共同体

美的感覚:主観的ではない
美的言説:美的共同体を推進するために必要。美的言説を通じて、互いの個性を尊重するようになる。
美的行為:美的評価実践に欠かせない社会的行為(一緒に歌ったり踊ったりとか、なんとか)
そして、互いを個人として鑑賞するようになる
美的評価実践は、それぞれの個性を育む。自分の個性が育まれると、他の人の個性も分かるようになる。それぞれの「スタイル」についても、それを味わい、尊重するようになる、と。

  • リグル説の含意

1.美的評価には個人差がある。
2.すべての人が目利きを目指すべき、ということにはならない。
3.人の美的評価を鑑賞するには理解が必要になる。
4.わたしたちは自分の美的評価実践の最も中心にあるものを愛する。
5.美的価値は本質的に共同体的である。
6.美的評価実践を根本的に変えると生活に大きな影響がでる。
7.美的評価実践に組み込むに値するものであってほしい人工物を創り出すことができる。そうした人工物を作るのに成功する者を「芸術家」と呼び、そうした人工物を「芸術」と呼びたい、とリグルは提案する。いわゆる「芸術」だけでなく、幅広いものを含む。


美的生活を送らなければならないわけではないが、送ると事態はよくなる
リグルは冒頭で、認識的価値と倫理的価値はあるけれど美的価値だけが欠けている世界はどんな世界だろうかという問いを置いているが、これに対して、それは個人が存在しない世界だと結論する。
ところで最後に、自説へのありうる異論として、美的評価実践は、ある種の時代、文化、国家に特定のものでしかないのだろうか? という問題を挙げている。これについては、より広い検討が必要だとして、直接回答するのは控えている。

  • 感想

リグル説は、食べ物の説明とかが結構説得的だなあと感じるが、一方で、独特と言えば独特である。
上記の要約では、実際に出てくる具体例を省略して、抽象的な表現だけになっているので、のみこみにくいところがあると思う。実際、場所によっては、リグルの記述自体も具体例を欠いていることがあって、分かりにくいところはある。愛を育むとか、開かれとしての自由とか。
また、美的生活が自由をもたらすとか、他の人の個性の尊重に至るとか、理想論すぎやしないか、という感じもする。
しかし、理性や道徳は「人person」であることをもたらすが、「個人individual」にはしてくれない。美的なものが「個人」を生む、という観点は、あまり考えたことがなかったが、なるほどと思うところがあった。
また、何かを食べる価値のあるものにするのは、食事実践である(同様に、何かを美的価値あるものにするのは、美的評価実践である)というのも、なるほどと思った。だからこそ(実践は共同体の中で成り立つので)それらは共同体的なのである。
こうした考えは、食べ物や美的価値のあるものについての一般的な特徴と、それらの具体的な現れが文化によって全く違うことを、同時に説明してくれる。
「愛」という言葉が度々出てくるが、これは、現代日本的にいうと「推し」に言い換えると結構理解可能かもしれない。もちろん「推し」という言葉は、かなり特定の文化に依存する言葉なので、完全に言い換え可能ではないが、リグルが抽象的な言葉で語っているところを具体的にイメージする際に、ある程度有効な言い換えではないかと思う(別に無理に言い換えなくてもいいけど)。
最後に、リグルは「芸術」や「芸術家」という言葉の新しい定義を提案している。
この提案に、僕自身は必ずしも同意できないが、しかし、世間一般でいうところの「芸術」概念を意外と拾える定義なのかもしれない、とも思った。

3 足を踏み入れる――美的生活における冒険 ドミニク・マカイヴァー・ロペス

ロペスは自ら「冒険説」と呼ぶ説を、美的生活の価値の説明として主張する。
キーワードは「違い」である。
美的生活は「違い」に触れていくことができるところに価値があるのだ、と。

  • 美的な違いの3つの次元

1.美的特徴を実現する非美的特徴の違い
これはシブリー的な話。
例えば、「優雅さ」という美的特徴は、「細やかな線」という非美的な特徴で実現されることもあるし、「言葉遣いの選択」という非美的な特徴で実現されることもある


2.美的プロファイルの違い
「美的プロファイル」というのは、美的特徴と非美的特徴の対応パターンのこと。これは、美的種によって異なる。
美的価値を理解するためには美的プロファイルを理解する必要がある。
例えば、クラシックの美的プロファイルとジャズの美的プロファイルは異なる。これが分かってないと適切な鑑賞はできない。


3.美的に関与する人々の違い
美的な価値への関与というのは、鑑賞することに限らない。色々な関与の仕方がある。
ここでは高校生がミュージカルで『アダムス・ファミリー』をやることになった時のことが例に挙げられている。脚本を書く人、役者、大道具を造る人、照明や音響、そして観客と、様々な関与の仕方がある。
ロペスは「美的価値のネットワーク理論」を提案している。
「ある美的種に属するアイテムの美的価値とは、すなわち、その種にたずさわる社会的実践の中で美的行為者たちの共有・協調された行動を導くもの(ガイド)である」
「美的プロファイルに対応した行動をせよ」という規範に従う
アダムス・ファミリー』の中で、ある登場人物についてどういう演技をすればいいのか、ミュージカルに関係している人たちはそれぞれ意見を出し合うだろうが、この時、『アダムス・ファミリー』がどういう作品なのか共有されていないといけない。
アダムス・ファミリー』は登場人物たちの価値観が普通の人と転倒しているところに面白さがあるから、最後に登場人物が「私は不幸だ」というのも、その面白さが伝わるように演じる必要があるし、これに関わる人はそのことを共有している必要がある(でないと、とんちんかんなアドバイスをしてしまったすることになるだろう)。


どんな実践にも内部者(インサイダー)と外部者(アウトサイダー)がいる。
美的価値との関係には、美的価値への関与engagementと、美的価値を認めることacknowledgeとがある。
内部者は美的価値に関与するが、外部者は美的価値を認めるだけでよい。
例えば、ある地域に住む人が、その地域の自然景観の美しさに関与しているというのは、その景観を保護する活動などを行うことも含む。その地域に住んでいない人は、そこの住人たちが景観の美しさに価値を置いていることを理解することはできるが、一緒に環境保護をするところまではいかないだろう。
なお、外部者は内部者になることもできる。
美的プロファイルは美的種ごとに異なるが、重なる部分もある。これは、美的種の来歴を示す。近い美的種同士は、プロファイルも似ている。遠い美的種は、プロファイルの似ているところは少ない。


カント以来の伝統的な美学は、制約なしの普遍的な美的関与という理想を置いていた。美的に価値のあるものに対しては、誰もがその価値にアクセス可能なのである、という考え方である。
一方、ネットワーク理論は、美的実践における内部者と外部者の区別を重視する。
外部者は、美的価値を認めることはできても、その価値に関与することはできない。
ネットワーク理論は、美的価値についての普遍主義にも主観主義にもならない。

多元主義であるというのは、以下の3つのCを満たすということ。

    • 共約不可能incommensurable

順序づけできないということ。ある不動産の投資価値とある投資信託の投資価値のどちらが高いかはいえる。共役可能だから。テニスのサーブとホッケーのリストショット、どちらが運動価値が高いか、というのはいえない。共役不可能だから。

    • 非競合的noncometing

ある実践の価値が他の実践の価値を不利にしないこと。テニスのサーブの素晴らしさは、ホッケーのショットの素晴らしさを減らしたりはしない。一方、武士道の価値は非暴力主義の価値と競合的。
ただし、リソースが競合的であることはある。テニスを練習する時間とホッケーを練習する時間は競合する。しかし、リソースの競合と価値の競合は区別される。

    • 相互に理解可能mutually comprehensible

違う実践のことも、理解することはできる。テニスのサーブの価値が理解できる人は、ホッケーのショットの価値もまあ理解できるだろう。
逆に、現代人は、武士の切腹の価値を理解するのは難しい。

  • 冒険説

美的関与は、わたしたちを冒険・開拓へ向かわせることで人生の向上に寄与するので、美的コミットメントは正当化される。
この論証が成り立つには2つの前提がある。
第一の前提:誰もが多元的な価値実践を開拓することに関心がある
第二の前提:美的関与はこの関心に応える
価値の多元主義というと、他の価値観への謙虚や寛容が必要になると思われがちだが、しかし、多元主義は、謙虚も寛容も必要としない。
何故なら、共役不可能で非競合的で相互に理解可能だから。
第一の前提は、謙虚さや寛容さなしに、多様性を享受したいと思っている、というようなことっぽい。


ありうる反論
1.特定の文化(例えば都会のリベラル)だけではないか
2.美的生活は実際は対立に見ているのではないか

ブレイクアウト

いくつかのテーマについて、筆者3人のディスカッション。

  • 意見対立

美的な意見をめぐって人はしばしば対立するが?
ロペス:対立は同じ趣味のものを見つけるため。対立は意見の収束のため
リグル:意見が一致しなくても意義はある
ナナイ:真の対立はない(文脈の違いがあるだけ)

  • 主観主義

美的価値は個人の主観なのではないか?
リグル:美的価値は個人的な意見だけでは決まらない
ロペス:快楽と美的価値の混同によるもの。
ナナイ:美的判断は主観的ではないけれど、美的経験は個人のものという意味で主観的である。経験を重視するナナイは、主観主義寄り。

  • 民族中心主義

「西洋」の考えにすぎないのではないか?
ナナイ:「西洋」という言い方ではなく「ユーロ」と言いたい。美的経験は文化によって違う。リグルの考えは、確かにユーロ的なのでは?
リグル:個人の重要性をシラーから着想
ロペス:冒険説は違いに触れることであり、違いに触れることはどの文化でもあること(真に孤立した文化はない。隣接した少し違う文化がある)

  • 流行

流行は低俗で、芸術は恒久的に価値がある、という考え方に対して、3人がそれぞれ反対していたという感じ。

  • 美の神話

利益を得るために「美」を利用して人々を誘導する、というのは実際にあって、これは解決すべき社会問題だ、ということで3人は概ね一致しているように思える。
具体的には、肌が白くて痩せていることが美しいという方向にみなが誘導されているとか、そういうこと。

  • 感想

「西洋」を「ユーロ」に言い換える意義があんまりピンとこなかった。「西洋」という概念の不明瞭さは確かにあるけど、「ユーロ」に置き換えることで解決可能なのか?
あと、リグルの回答が、ユーロ中心主義的なのでは、という問いへのどういう答えになっているかよく分からなかった。

感想

最後のブレイクアウトでは、一応3人がそれぞれ違う意見を出しているが、共通しているところの方が多いだろう。
本書の冒頭(「イントロダクション」に先だって「教師向けのノート」というパートがある)や訳者あとがきでも触れられているが、美的価値については長らく快楽主義が主流であったところ、3人ともそうではない立場をとっている。
快楽主義というのは、美的なものに価値があるのは、それが「快」経験をもたらすものだからだ、という考えである。
美的経験を重視するナナイは、3人の中では一番快楽主義に近いだろうが、「達成」を持ち出すところが快楽主義とは異なっている(「達成すること」も「快」の一種だろうが、ここでの違いは、美的なものからもたらされる「快」を受動的に経験する、のではなくて、美的な経験をするためには能動的に働きかけることが重要だということだろう)。
また、3人とも「美的」なものの範囲は非常に広く、また、文化によって多様である、という立場をとる。文化によって異なるので、Aさんにとって美的なものが、Bさんにとって美的ではないことがありうる。しかし、では、美的なものについての一般的な特徴付けは不可能かといえばそうではなくて、一般的な説明も可能だと考えている。
つまり、普遍主義を否定(=文化によって違うことの肯定)しつつ、完全な相対主義も否定している。
また、高尚と低俗の区別みたいなものを徹底的に否定する、という点も3人に共通している。
そして、リグルやロペスに顕著だが、美的なものが共同体的であることを重視してもいる(ナナイはその点、共同体のことはあまり強調していないが、経験の共有が大事みたいなことは言っている)。
また、ある意味では理想論にすぎやしないか、というところもあるし、結局、ある種のリベラルな層にしか当てはまらない話なのではないか、という懸念もあることはある。


3人には共通点も多いが、もちろん主張そのものは違っている。
個人的には、やはりナナイの経験説が一番しっくりくるかなあ、というところはある。
一番ピンとこないのはリグルだが、しかし、リグルの指摘には確かに美的なものの特徴を捉えているように思えるところはあって、面白かった。
ロペスの美的ネットワーク理論は面白いし、説得力もあると思うのだが、冒険説はちょっとよく分からない。冒険説が正しいと嬉しいような気はするけど

*1:というか、もしいるとしたら、トラウマ的なショックを受けた状態なのではないか、という指摘があって、そうかもなと思う

*2:ただ、そういうの、ある種のセルフ・ネグレクトとかそういう可能性はないか、という気もする