『なぜ美』と『近代美学入門』への補足

井奥陽子『近代美学入門』 - logical cypher scape2のブクマが急速に伸びている。本ブログのTOP3に入ってきた。
https://hatenablog.com/ に載ったので多分そのせいだと思う。普段、見かけないidからのブクマが多いし。
(なお、ブクマが増えるとブログを書いている身としては単純に嬉しいが、伸びるかどうかはわりと偶然の産物でしかないことも分かっている)
それはそれでいいとして、同日にデビット・ライスさんがやはり同書を取り上げた記事を書いているのに気付いた。
ここから直接アクセス流入しているわけではないが、はてなブックマークのホットエントリに並んだので相乗効果はあったのかもしれない。

タイトルにあるとおり、『近代美学入門』だけでなく『なぜ美を気にかけるのか』も一緒に扱われている。
『なぜ美』の方は、当ブログでは以下で取り上げた。


さて、ライスさんの記事は、指摘自体はもっともだと思うけど、かなり点が辛めだなと思ったので、ここにフォローを書くことにした。
本当はブクマコメントで済ませようと思ったのだけど、文字数が足りないので……。
ライスさんの記事へのコメントだけでなく、ライスさんの記事に対するブクマへのコメントも含んでいる。

まず、『近代美学入門』について

『近代美学入門』もかなり評判が良い本であるようだし、実際に読みやすいし章の構成も洗練されてはいるのだけれど、わたしとしては全体的な「行儀の良さ」や規範意識が気に触って苦手な類の本だった。

この点、その通りといえばその通りかなと思うけれど、まさしく「読みやすいし章の構成も洗練」するためには、一方で、行儀良くならざるをえない面もあるというか、入門書が行儀良くて何か悪いのか、という話もある。ライスさんがそういうの苦手なのだろうというのは分かるし、そのあたりが気になるというのも分からない話ではないんだけど。
これについては、以下のようなブクマコメントがあり、この通りだと思う。

usomegane 思想書を読み漁っていると忘れがちであるが、美や芸術と政治の関係といった話は、近代美学「入門」の本が対象とする読者にとっては100万回聞いた凡庸な話であるとは限らず、初耳である可能性すら考慮するべきなのだ。

あと、ライスさんが取り上げている、美の政治性の話や『ショア』の話は、本書全体からするとおまけ的な箇所なので、わざわざつつく話でもないだろという気持ちもある。一方、だからこそ、ライスさんがいうようにわざわざ「お説教」書かなくてもいいだろ、というのも理解できなくはない。
「おまけ」っていうか、教科書の章末練習問題みたいなもんで、この本の主題はあくまでも15世紀あたりから19世紀くらいまでの話だが、最後に「じゃあ20世紀以降に応用してみるとどうなるか考えてみましょう」というような意図で付属している。そこで誘導したい方向性が透けて見えるので「お説教」くさくなっているという指摘は全く妥当なのだが、一方で、新書という性質上、全くの初学者が独力で読むことを想定している以上、そういう構成として練られたものであるとして評価も可能だな、と。

たとえば進化心理学に基づいた美学論は多かれ少なかれ蔑ろにされてしまう

うーん、新書という限られたページ数の中に盛り込むにはかなり難しい内容になってしまうかと。
自分は美学史に疎いのでなんともいえないが、松永さんの感想を踏まえる限り、本書は美学史のオーソドックスな教科書的な内容を紹介しているもので、あまり、そのラインから離れる内容は取り扱っていないように思える。
進化心理学を踏まえた美学は、近年注目されているトピックではあると思うが、まだ、教科書レベルのオーソドックスの話としては定着していないようにも思う。
本書の企画の性質上、取り上げにくい話題だったのではないかと思う。

もちろん本書のなかでは思想史の文脈で古代ギリシャなどの「客観主義」は紹介されるのだけれど、最初の問題設定の時点で現代に客観主義を主張している人を不利な立場に立たせている、ということだ

本書としては、現代においては、多くの人が主観主義を主張している、あるいはそちらに親近感を抱くだろう、という前提で書かれていて、その上で、主観主義を相対化するという流れになっている。
そして、例えばネット上などで見られる美的価値に対する主張などを見る限り、その前提はそれほど間違っているとも思えない。
「現代に客観主義を主張している人を不利な立場に立たせている」というか、現代に客観主義を主張している人は正直少数派であり、この本は、どちらかといえば、現代多数派である主観主義の人たちに対して、思想史的にいえば、客観主義という立場もあるんだよ、という持っていき方をしているので、その指摘はちょっとどうかなと思わなくもない
(そして、そういう構成をしているからこそ、ますます進化美学的なものを扱うにはページ数が足りない)
あと、美学をやっている人というのは、完全な客観主義ではないとしても、世間一般の人と比べると、主観主義よりは客観主義寄りというか、「美って完全に主観というわけではないよね」と思っているから美学をやっているんだと思う。
(客観主義と進化心理学的な美学については、あとでもう一度触れる)

shiro-coumarin “美” という言葉が思考実験の妨げになってるような。例えば俺はゴミを道端に捨てない。公衆衛生や良識の問題でなく「気持ち悪い」から。即ち感性に拠る美学。senseは “良識” と訳されることもあるけど…うーん…

あまりページ数は割かれていないが、行為としての美しさや良識としてのセンスの話は『近代美学入門』でも触れられている。
感性的な判断として「ゴミを道端に捨てない」ことは、結構美学の問題だとは思う。
ただし、美学史の中ではわりと長きに渡って、美学から外されてきた話であったのだとも思う。古代ギリシアまで遡ると、そこはくっついてたと思うんだけど、近代においてそこが分離された。そのおかげで、美学というのは独立した領域になりえたんだけども、そこも拾うべき話だったんじゃないの、ということは一方で議論されているような気がする。
ところで、そういう意味では、バークとカントに挟まれた道徳感覚学派は、美と道徳をあまり峻別していなかったという話は、面白い話だなと思う。

次に『なぜ美』について

納得度の順番はナナイ→ロペス→ニグル。また、最初に登場するナナイの議論は文章や構成が洗練されていて内容を理解しやすかったが、ニグルの文章や議論はまあまあで、ロペスの文章や議論はやや理解しづらかった。

これはめちゃくちゃ同意なんだよなー
ちなみに、ニグルじゃなくてリグルです。

結局のところ自分たちの経験を特権化することになっていてある種のエリート主義から逃れていないのではないか、と思えてしまった。

これもわりとそう思う。
リグルは一応この点については自覚的だったようにも思えるが。

この経験について家族にLINEで伝えることはしたが、SNSでシェアするといったことは行っていないし、基本的に「美味しいな」「綺麗だな」とわたしの胸の内で完結する経験であったが、それでも普段の東京における食事や自然鑑賞よりも鮮明で優れている経験であった。

wdnsdy ニグルさんとロペスさんは、夕方に散歩していてふと空を見たら夕焼けがとても綺麗だったが、特に写真も撮らずSNSにも上げず自分の心の中にその色彩をそっとしまっておく…みたいなのは美的体験に含まない感じ?

リグルもロペスも、あるいはナナイも、感想をSNSでシェアすることを美的であることの必要条件とは考えていないと思う。
というか、本書はタイトルに『なぜ美を気にかけるのか』とある通り、美を気にかける理由を問うものである。つまり、美とは何か、ではなくて、何故美には価値があるのか、ということを問うている。
だから「わたしの胸の内で完結する経験」や「自分の心の中にその色彩をそっとしまっておく」ことが美的な経験なり美的な生活であること自体は、3人とも否定しないと思う。
本書で問われているのは、それが何故我々にとって大事なのか、意味あることなのか、ということである。


簡潔に整理してしまうと、この3人は美的な価値を以下のようなものだと考えている。
ナナイ:美的なものに価値があるのは、ある種の経験を達成することだからである。
リグル:美的なものに価値があるのは、個性を発揮することや自由となることだからである。
ロペス:美的なものに価値があるのは、違いに触れることだからである。
なお、ライスさんは本書が何を問うているのかは分かっていて、その上で、別にリグルやロペス的な理由がなくなって、美的な経験は、価値ある経験たりえているだろ、と言っているようにも読める。
しかし、wdnsdy さんにはやや誤った形で伝わっている気がするし、実際、ライスさんの記事を読むとこのように読めてしまうと思う。


感想の共有や社会性について三者がどのように論じているかというと
ナナイは、経験を共有することは(必須だとはしてないが)重要だとは思っている
リグルは、美的な選択を通じて個性が発揮されるようになるが、他の人と意見を交わすことによって、他の人の個性も分かるようになっていくと考える。リグルの場合は、SNSでのシェア程度じゃ足りなくて、互いに意見を交わし合うことまで求めているよう気はする。その点で、「そんなことほとんどの人はしてねーよ、このエリート主義者め」という指摘は正しいと自分も思う。
もっとも、リグルにとってポイントなのは、あくまでも個性の発揮や自由になることだとは思うので、絶対に意見をかわさないといけないわけではないと思う。ただ、他の人と意見を交わすことが、個性の発揮にとってよい循環になると考えていて、それを重要視しているのは確かである。そして、それってエリートの理想論すぎやしないか、とは自分も思う。
そんな幸福な共同体はめったにないのではないかとは思うのだが、しかし一方で、絶対にない話でもないと思う。
うまくいったパターンのオタクの飲み会とは、わりとそういうとこあるのではないか、と思う。「あのシーンのここがよかったんだよなー」「あのシーン俺には全然刺さらんかったけど、そんな見方があったのか!」みたいなやりとりが成立するなら、それはかなりリグルの想定しているものだと思う。
こういう飲み会が必須だというわけではないと思うが、こういうやりとりを通すことで、より美的生活はよくなっていくものなんじゃないのか、というのがリグルの主張だと思う。
このうまくいったオタクの飲み会のような、互いに意見を交わしてその着目点の違いに気づき尊重し合うという状況は、時々生じることはあるけれど、実際に生じるのはまれである。そんなことができるのは少数派だというツッコミはありうるが、それでリグル説が完全に崩壊するわけではない。
リグル説は、「こういう対話が生じなければ美的生活にはならない」と言っているのではなくて、「美的生活を送ることに価値があるのは、こういう、うまくいった飲み会的な状況に出会えることができるから」と言いたいのではないかと思う。
もちろん「別に、そんな飲み会を目標にアニメ見てるわけじゃねーよ」とか「コミュニケーション目的のオタクかよ」とかいった反論は当然ありうるし、その点で、やはりリグルの論は納得しかねるところがあるというのは全くもってその通りだと思う。
ただ、やはりここで言いたいのは、「感想をシェアすることが美的生活の必要条件だ」という主張がなされているわけではない、ということである。
SNSでシェアしないと美的生活とはいえないよ」というよりはむしろ「美的生活を送っているとSNSでシェアできるものができる」という方がより適切かもしれない。
どういうことかというと、例えば「この作品が好きだ」という愛がまずあって(愛が最初にあるんだというのはリグル自身の言葉)、その愛をSNSで表明すると、「自分も好きですよー」とか「その作品が好きならこっちの作品もおすすめですよー」とか、あるいは「え、それが好きとかニワカだなw」とかいった反応が返ってくる。その中で自分の個性と相手の個性をより尊重できるようになれると、よりよいよね、ということ。
繰り返しになるけれど、そんなうまくいかねーよとか、そんなことするのは一部の奴だけだよとか、そういう反論は当然あり得るし、それはリグル説の弱点なんだけど、そういうことが可能になってくるから美的生活って価値があるんだよ、というのがリグル説なので、他人にシェアしない限り美的なものにならない、ということにはならないのではないか。


しかし、もう少し、リグルやロペスが何で「共同体」を持ち出してきているのかを自分なりに説明しておく。
リグルやロペスの提案は、『近代美学入門』に出てきた、美の主観主義と客観主義を調停する方策の一つだと捉えることができる。
ここで、主観主義と客観主義について、簡潔に特徴付けしてみる。
主観主義:美は、人の捉え方の側にある。
客観主義:美は、対象の側にある(ものの性質である)。
例えば、長さとか形とかは「ものの性質」で、誰が測定しても同じになる(「このコップの高さは8cmだ」とか「このコップを上から見ると丸い」とか)。逆に、熱さ・冷たさとかは「人の捉え方」の側にある(「触ったらひんやりしていた」とかは、その人の感じ方次第の問題となる(温度とは独立。同じ温度の物でも、暑い日中に外を歩いてきた人と、ずっとエアコンの効いた部屋にいた人とでは、どう感じるかは異なるだろう))。
「美」はどっちなのか、というのが、美学では問題になっているのだが、客観主義は近代以降ほとんど支持されていないとは思う。
古代から中世における美のプロポーション理論では、比率に美が宿ると考えられていた。比率というのは測定すれば分かるもので、対象に属する性質である。
ところで、ここで微妙というか、中間的な位置づけなのが「色」だったりする。
「色」は「ものの性質」ではない。反射する光の波長は測定可能だけど、それが赤色なのか青色なのかというのは、人の側で決めていることであって、ものの側にあるわけではない。
ただ、人の側といっても、これは人の視神経の細胞がどういう波長のものを感知することができるのかとか、視神経の細胞が3種類あってこの組み合わせで色を識別しているとか、そういう生理学的な理由によるので、同じ器官を持っていて、同じように機能しているなら、基本的に判断は一致する。
色は、ものの性質ではないので、厳密には客観主義は成り立たないんだけど、かなり客観寄りのもの扱いはされている。
一方で、赤い色が好きか嫌いか、というのは、完全に主観の問題となる。
これに対して「美」はどうなのかというと、色の判断ほど客観寄りではないんだけど、好き嫌いほど主観的でもない、というのが、美学者たちの基本的な共通見解になっていて、じゃあそれをどのように説明するのか、ということが問題になる。
ヒュームは、理想的鑑賞者なる理論的存在を措定して説明しようとする。
先ほど出てきた進化心理学的な美学も、客観主義というよりは、この主観主義と客観主義の調停の一種と見なせると思う。
サバンナそのものに美しい性質があるのではなくて、サバンナを好ましく思うようにヒト側が進化してきたという話だと思う。ヒトが淘汰圧にさらされた環境が別様だったならば、別の風景が美しく感じられたはずなので、その意味で客観主義ではない。しかし、同じ進化を辿ってきた者同士、判断がおおむね一致するという点で、かなり「色」に近いものとして「美」を位置づけることができる、という考え方になるだろう。
リグルやロペスの場合、「理想的鑑賞者」や「進化適応環境」の代わりに「共同体」なり「ネットワーク」なりを持ち出してきて、説明しようとしているのだと思う。
なお、本書の中では、主観主義や客観主義という言葉は使われておらず、相対主義や普遍主義という言葉が使われている。主観主義と相対主義、客観主義と普遍主義はイコールの言葉ではなく、色々と違いはあるだけだが、ここではおおよそ同じ意味として扱う。

ひとりで旅行先の美味しい食事やお酒を味わったり自然美を鑑賞するなどの「美的経験」をしていた。この経験について家族にLINEで伝えることはしたが、SNSでシェアするといったことは行っていないし、基本的に「美味しいな」「綺麗だな」とわたしの胸の内で完結する経験であった

ここに立ち戻って考えてみると、その食事やお酒についての「美味しい」という判断や、何故その自然の風景を「観賞」したのかといったことは、個人の主観だけには帰せられない、というのが美学という学問における前提条件になっている。
例えば、「このお酒が好きだ」というのは個人の主観だけで決まる。しかし、「このお酒は美味しい」というのは個人の主観だけでは決まらない。
もう少し言うと「このお酒が好きだ」という場合、あくまでも「僕は好きだ」という話であるが、「このお酒は美味しい」という場合、「君も飲んでみなよ」とか「おすすめだよ」とかいったことが、暗にせよ明にせよ含まれているだろう、ということだ。
実際には誰かにすすめたりはしなかったとしても「好き」と「美味しい」には概念として違いがあって、「美味しい」は本人の感じ方だけでは決まらない、ということだ。
その背景には共同体的実践がある、というのがリグルの考えだ。
何の酒を美味しく感じるかには、まあもちろん個人の体質の問題もある。自分は、日本酒と焼酎であったら、日本酒の方が美味く感じるというか、焼酎はほとんど味が分からんが、アルコール度数の高い酒が飲めないという体質によるところは大きいと思う。しかし一方で、日本酒を美味しいと思うようになったのは、学生時代の友人が日本酒をすすめてくれたから、というのもまた大きい。
これはあまりにも個人的で些細な例にすぎないが、しかし、日本酒が美味しいと感じられるには、「これ美味いから、飲んでみなよ」と言われて飲んでみて「なるほど、これが美味い酒なのか」と思う中で、自分の中での酒の美味さの基準ができてくるというのがあるはずで、それを支える日本酒文化が存在しなければならないだろう。
食に関して言うと、生理的な要素も大きいと思うので、純粋に共同体的説明だけに還元できないかもしれないが、しかしまあ、ファッションとか嗜好品とか映画や音楽とかは、共同体的背景はそれなりに大きいと思う。
一方、共同体的説明は、美的なものの相対性についても説明を与えてくれる。
例えば、納豆とか生魚とかは欧米人にとって美味しくないかもしれないが、そういったものを食べる文化の中には生きていないからである(食についていうと、美味しいかどうか以前に、そもそも食べ物として見なされていないというケースもあって、そういった例をリグルは色々と紹介している)。
属する文化や共同体によって「美味しい」とされるもの、「美しい」とされるもの、「優れている」とされるものは異なる。その点で、これらの性質は「ものの性質」ではない。そういう意味で、美の客観主義は成り立たない。しかし、同じ文化や共同体に属するもの同士では、こうした判断はしばしば一致する(場合によっては経験も一致するだろう)。その点で、完全に主観主義とはならない。


なお、ナナイは自分の立場が主観主義よりであることを認めている。
彼は美的判断は主観的ではないが、美的経験は主観的であると考えている。
その点で、ライスさんのナナイに対する納得度が一番高かったのは当然の話だと思う。
自分もナナイが一番納得できるし、おそらく多くの人が、ナナイに一番納得できて、リグルやロペスにはいまいち納得いかないのではないかと思う。
しかし、それはまさに、現在の我々がかなり主観主義的な立場に立っているからだと思う。
一方で、ナナイのように「自分は主観主義だよ」と認めちゃう人もいるのだろうが、美学者というのは「完全に主観的とはいえないのではないか」「長さのように客観的ではないにしろ、「好き嫌い」よりは「色」に近いのではないか」みたいなことを思っている人が多いように思う。
というか、単なる「好き嫌い」ではないから、美学という「学問」が成立するのである。
「美」というのは「好き嫌い」でしかない、と思う人にとって、美学は完全に意味不明な学問だと思う*1
「「美味しいな」「綺麗だな」とわたしの胸の内で完結する経験」や「夕焼けがとても綺麗だったが、(...)自分の心の中にその色彩をそっとしまっておく」こと自体は、典型的な美的経験だと思うのだけど、そこでいう「綺麗」には単に「好きだ」以上の何かを含むものなのではないか。そうだとするならば、それは何に由来するのか、ということが問題になっている。
リグルやロペスが、共同体や社会的な面を持ち出すのは、それを解決するためだと思う。
(逆に「「綺麗だ」は「好きだ」と互換可能である」という立場であれば、リグルやロペスの立場とは確かに相容れないと思う)
(もちろん、「「綺麗だ」と「好きだ」は別ものだが、それを説明するのに共同体や社会的な面を持ちだす必要はない」という立場もありうるが)


孤独のグルメ』という作品があるけど、あれは別に、1人で飯を食うのが好きな奇矯な人物を描いた作品というわけではなくて、1人で飯を食う経験にはそれ特有の「よさ」があることを描いた作品だと思う。
あの作品に対する適切な感想は「五郎さんは1人でご飯が食べるのが好きなフレンズなんだね」ではなくて「こういう食事は美味しそう」とか「これは確かに美味いんだよ、五郎分かってるな」とかであって、一人飯は、単に五郎という人の個人的な好きな行動としてではなく、他の人にも共有しうる価値ある経験として描かれているのだと思う。
その上で、五郎本人はもちろん食事の感想を他人と共有したりはしないわけなのだが、五郎の経験の美的価値については、ある程度はロペスのネットワーク説でも説明がつくと思う。
つまり、孤独のグルメは孤独ではあるんだけど、協働的側面もあるということ。
1人で飯を食べる経験がよきものになるためには、食べてる本人だけでなくて、その店の店主や従業員、他の客の関与(この場合は、例えば無闇に話しかけたりしない的な消極的な関与になるだろうが)も必要となる。彼らが共通して目指しているのが、一人飯の美的なものということになる。
例えば、インスタ映えのために写真をバシャバシャ撮る客が入ってきたら、五郎の経験は台無しになってしまうだろうが、この客には、一人飯経験の何たるかが共有されていないのである。逆に、「よい」経験のできる店は、常連たちや従業員がその何たるかを共有できているということだろう。

gcyn 『「社会的側面」や「協働性」「他者との関係」といったポイント』は同時に同所で行なわれるものとして議論されてるのかしら? 場所や時間を越える仕事や価値観と自分との関係ってまさに『社会的』だなと感じます。

これは微妙なところで、論旨的にいって、同時・同所に限定する理由はないと思うのが、リグルやロペスの出している具体例は、同時・同所のものがほとんどだったような気がする(読み直してないので正確には分からんが)。
ここでgcynさんがいう「場所や時間を越える」が普遍性を意味しているのであれば、リグルやロペスは否定するだろう。彼らはあくまで特定の共同体なりなんなりを想定している。とはいえ、例えばクラシック音楽共同体みたいなものを考えた場合、その時間的範囲は数百年に及ぶし、空間的にも世界中に及ぶので、そういう意味では、場所や時間を越えているとも言える。

*1:ここで自分の立場はちょっとコウモリめいてきてしまうところがあって、こういう美学の問題設定に一定の共感や理解はあるけれど、そこまで強い確信があるわけでもなく、わりと主観主義に近いところにいると思う