西村清和『感情の哲学』

美学研究者として著名な筆者による、「感情の哲学」論。サブタイトルに「分析哲学現象学」とあるが、分析哲学的な感情についての議論の陥りがちな陥穽を指摘している。その陥穽に現象学をパッチしている、ようなところもあるが、現象学よりも分析哲学側の話の方が多い気がする。
美学についての議論も最終章でちょっとあるが、ほとんどが心の哲学、それに少し倫理学の範囲の議論がなされている。
命題的態度をベースにした心の哲学ってどうなのよ、ということを延々突っつき回しているような感じの本で、とかく怒濤のサーベイが続く。
矢継ぎ早に多数の哲学者の名前が登場し、論旨がまとめられ、批判され、次へと移っていくのが大変といえば大変な本であり、西村清和『感情の哲学――分析哲学と現象学』の感想 - 昆虫亀で指摘されている通り、ナビゲーションがなされていないので、そこは読みにくいといえば読みにくい本なのかもしれない。
個人的には、サーベイ部分は大変勉強になるし面白くて読み応えがあったと思うが、「なるほど、それが問題なのは分かったが、じゃあどうすりゃいいねん」というところにあまり明解な答えがないように感じた。
それはそれとして、D.ルイスの話をしていたかと思ったら、ハイデッガーへと移り、この2人の言っていることってちょっと似てない? みたいな話をしているところが、個人的なハイライトだった
後半(5,6章)は正直、全然よくわからんかった(テーマに対してあまり興味関心がわかなくて、読み飛ばしてしまった)。


近年、感情の哲学関連の本が次々と刊行されている。

源河さんが、4冊あげているが、そのうち3冊までは読んだということになる。
sakstyle.hatenadiary.jp
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自分は、プリンツ説で大体いいのではと思ったので、感情の哲学についてはプリンツ本読んだしもういいか、と思っていたところがあるのだが、西村本は、現象学についても触れているというので一応読んでおこうかなというところで手にとったのだけど、こうなると、信原本もいつか読んでおいた方がいいのだろうか。

第1章 感情の認知理論
第2章 命題的態度の現象学
第3章 感情のトポグラフィー
第4章 感情の義務論
第5章 道徳の情操主義
第6章 合理的利他主義と感情
第7章 芸術と感情

感情の哲学: 分析哲学と現象学

感情の哲学: 分析哲学と現象学

第1章 感情の認知理論

1970年代以降にあらわれた、感情を命題的態度として論じる、感情の「認知理論」
ロバート・サロモンやロナルド・ド・スーザが代表的


ソロモンの感情の認知理論
(1)感情は志向的である
(2)感情は判断である
(3)われわれは感情を選択でき、したがって自分の感情に責任がある
(4)感情は「自分の世界」を構築する
第1章は、ソロモンの認知理論を中心に論じられる。


アンソニー・ケニー『行為、感情、意志』(1963)
ソロモンに先立って、感情論に志向性概念を導入
三人称的で客観的な命題と、一人称的で現象学的な経験
→ソロモン:ケニーを批判
認知的判断は信念、そして命題と結びつく一方で、
感情という熟慮されない非反省的な判断は、知覚と結びつく


感情の選択について→西村曰く、これは明確に誤り
(第4章 感情の義務論へ)


感情の「世界構築」
ハイデガーのいう「情態性」を踏まえた議論
感情=主観的な判断や身構え
→ソロモンは、準ハイデガー的としているが、西村はハイデガーとの違いを指摘
→ケニー同様、主観・客観関係を捨てきれていない


認知理論=判断主義
(ソロモンは、自分は判断主義ではないというが、実際は判断主義。ド・スーザも同様)
対して、2000年以降の傾向として、感情の「知覚理論」がある
知覚とはなにか
→概念主義論争
→概念主義のマクダウェル、非概念主義のピーコックのほか、セラーズや村井の議論を検討
これに対して、タイラー・バージの知覚理論
ロバート・クラウトの感情の「感覚理論」
→クラウトの「感覚」とバージの「知覚」は対応する
デーリングの感情の「知覚理論」


知覚理論に対する批判とそれへの再反論
感情の「正しさ」に対する「道徳主義的誤謬」(ダームス+ジェイコブソン)
どの立場にたつにせよ、主観・客観関係の枠組みから離れられないので失敗している、というまとめ

第2章 命題的態度の現象学

命題的態度論は、他者の行為の解釈ないし理解を目指している
命題的態度と言われる心的状態は、一人称的な信念「所有」なのか、三人称的な信念「帰属」なのか


信念のパズルについて
カプラン
リチャード「信念の三項理論」(信念所有は形而上学的なことがら)
ネイサン・サモン=信念帰属を意味論、信念所有を「語用論」
ジョン・ペリー「自己定位知識」
クリミンズとペリーによる、三項関係の定式化


クワイン「中心化された事態」「中心化された可能世界のクラス」「自己中心的な命題的態度」
D.ルイス=諸態度の対象は「性質」/性質の自己帰属=de se信念
ルイスとチザムの「自己」の比較
→チザムのいう「自己」はデカルト的コギトやカント的な統一された自己
→ルイス、あるいはレカナーティが想定する自己は、それとは異なる
自己定位的な「いま・ここ」の知覚状況
自己定位信念、中心化された事態、ハイデガーの〈現〉

第3章 感情のトポグラフィー

感情が、信念や判断などほかの心的状態とどのような関係にあるか(感情のトポグラフィー)


信念と判断の区別
信念=心的な態度・状態
判断=反省的な認知的な行為
信念は、自分の信念世界における自己定位信念に支えられた自己の存在情況についての情態的了解
感情や欲求もまた、情態的了解


ライル『心の概念』による諸感情の分類
(1)性向(2)動揺(3)感覚(4)気分


快は感情か?
アリストテレス:快と完全性・善とを結びつける
快は特定の感覚・感情だと考える人たち=ベンサム、ムーア、プリンツシュレーダー
快は感覚ではないと考える人たち=ウィトゲンシュタイン、シジウィック、フェルドマン


快楽主義について

第4章 感情の義務論

この章は、タイトルこそ「感情の義務論」ではあるが、どちらかとえいば信念の義務論について多くの頁が割かれている。
80年代以降、行為だけでなく認識にまで拡張する、認識的義務論ないし信念の義務論が登場する
アクラシア(意志の弱さ)や自己欺瞞、希望的観測、現実逃避といった信念の不合理性に由来すると考えられる葛藤が論じられるが、これとパラレルに、感情の不合理性についても論じられるだろう、ということになっている。


チザム:行為の義務論との対比で信念の義務論を扱う→信念の随意性
シャー+ヴェルマンなど近年の論調:信念の不随意性を主張
フェルドマン:証拠主義
クリスマン:行為の「なすべし」と状態の「あるべし」との区別に、セラーズがいう「行為のルール」と「批評のルール」の区別を適用
「ドクサ的熟慮は批評のルールとして、あるべき信念状態をめざす行為のルールを要請」
「(不合理な信念について)当人にとって制御不可能な「抵抗できない信念」である以上、そのような信念形成は義務論的に非難されることはない」
行為のルールに責任を負うのは認識共同体


アクラシアや自己欺瞞などについてみてきたのち、デイヴィドソンの「心の分割」について
「理にかなった判断をなす側と、自制を欠いた意図と行為を示す側」
→〈われわれ〉と〈わたし〉
金杉や柏端、ネーゲルの議論などを検討・参考にしつつ、デイヴィドソンがいうように心が分割されているのではなく、〈わたし=われわれ〉であるという存在の事実について論ずる


感情の義務論について

第5章 道徳の情操主義

〈わたし〉であり同時に〈われわれ〉であることは何の不思議もないただの事実だが、一人称的な視点と三人称的な視点とのあいだに葛藤があるのもまた事実
→感情の倫理がいかにして可能か


「感情移入」について
18世紀・ヘルダーに由来、19世紀に美学上の術語となり、20世紀初頭、リップスにより当時の心理学、美学、哲学に影響を与えるようになり、英語圏にも伝わった(1909年、empathyという訳語が登場)。その後、注目されていなかったが、1960年代以降に注目されるようになり、90年代以降さらに論じられるようになった。
ゴルドマン
コプラン
これに対して、感情移入へ懐疑的な論者
ゴルディ
ザハヴィ
例えばゴルディの議論では、ウォルハイムの「中心的に想像する」「内的に想像する」という区別が導入されているが、西村はこれを『イメージの修辞学』で語りのモード(叙法)の問題として論じているという
いずれにせよ、ゴルディも筆者も、他者と同じような心的状態になるという意味での感情移入は不可能だ、と論じている


感情移入の議論の混乱の要因は、「想像する」概念の曖昧さ
リチャード・モラン
→想像には、冷静な想像や感情的な想像、視覚的な想像など、「想像の流儀(mannner)」の異なりがある。
相手の感情を想像するのは、推察や思考であって感情移入ではない


道徳の情操主義
ヒュームやアダム・スミス
→スロート、ダヴォール、フィロノヴィッチなどによる再評価
共感などの感情による動機付け
プリンツ:共感や感情移入は、道徳の動機付けにはならない
共感の党派性と道徳・正義の非党派性の間の葛藤
→〈わたし〉と〈われわれ〉の葛藤と同型

第6章 合理的利他主義と感情

プリンツやゴルディ→共感や感情移入が道徳の動機付けになることについては懐疑的だが、ある種の感情は道徳的判断に含まれるとする
ネーゲル:道徳判断に感情は含まれない

以後、この章は、主にネーゲルの議論を中心に展開

第7章 芸術と感情

美的快
プリンツの議論は「おどろくほどに」カントの議論そのまま
筆者はプリンツよりもむしろ、ライルやストローソンを参照しつつ、美的快という感情の一種があるわけではない、とする


美的感情
表現的性質や美的質は、対象の質であって鑑賞者の感情ではない


美的義務論
よき趣味に従うべきなのか


フィクションと感情移入
「悲劇の快」や「混合感情」の問題
ウォルトンに対するデイヴィスの批判


フィクションの経験において、鑑賞者は、「殺人現場の目撃者であったり(中略)する情況に現にあるのではなく、「フィクションを楽しむ」という美的な存在情況に〈現〉にある」
絵をみる経験は、あたかも現実であるかのように見ている経験ではなく、端的に絵を見る経験
フィクションとは仕掛けもの
想像的抵抗についての問題も、誤った前提に基づく混乱
「悲劇は悲しい」というのは、「この絵は悲しい」と同じく、対象の表現的質・美的質を表す言葉であって、鑑賞者の感情ではない