科学における美とは何か

といった大上段な問いに答える用意はないのだが、ロバート・P・クリース『世界でもっとも美しい10の科学実験』 - logical cypher scape『現代思想2017年3月臨時増刊号 総特集=知のトップランナー50人の美しいセオリー』 - logical cypher scapeとを連続して読んだので気にかかるところである。
科学哲学と美学は、自分にとって興味のある二大分野なので、その2つが重なる問いという意味でも気になる。
というわけで、ちょっと考えてみようかと思ったのだけど、自分自身が科学に直接従事した経験がないために、個人的な体験として、科学に対して美しいと感じたことがない。そのため、考え始めるとっかかりがなかった。

人の行為としての科学

とりあえず、ロバート・P・クリース『世界でもっとも美しい10の科学実験』 - logical cypher scapeにおける、「第3章Interlude ニュートンベートーヴェン比較論」「第9章Interlude 科学の芸術性」あたりが考えやすい。
この本はそもそも、タイトルから分かるとおり、科学の中でも「実験」に焦点を当てている。科学における美しさというと「理論」が注目されがちであるが、「実験」にも美しさがあるということに改めて注意を向けている本だ。
その上で、科学者、特に実験家としての科学者を芸術家に、実験を芸術作品に喩えて、科学と芸術を類比的に扱っているのが、先に挙げた2つのInterludeだと言える。
実験とは、何より特定の人間によって考案されるものであり、さらにそこには実験家のインスピレーションや技術が必要とされる。
ここで言われているのは、実験というと、理論を確かめるために、ある意味では機械的にないし理詰めで行われるものであり、芸術活動にあるようなひらめきや個人の才能とは無縁のものと思われがちなところ、そうではないのだという指摘だろう。
もちろん、そうした要素は芸術における必要条件でも十分条件でもないだろうから、科学(実験)=芸術ということではない。
ただ、これを読んで「そうか」と思ったのは、ここで「科学(実験)の美しさ」を論じられる際に対象とされている「科学(実験)」というのは、アート(技芸)としての人間の営みのことなのだな、ということだ。


科学の美しさという時、科学が対象としている自然現象の美しさという面ももちろん含まれているのだろうけど(ことに「理論」の美しさという際にその側面はより大きくなるように思えるが)、こと、実験の美しさといった際には、その実験を創り上げた行為の美しさなのかな、と思った。
先ほどの本では、美しい実験の特徴として、基礎的であること、効率的であること、決定的であることを挙げているが、少なくとも効率的であることと決定的であることは、対象となっている自然現象の側の性質ではなくて、人間の行為の側の性質だろう。

認知的価値と美的価値

「科学の美しさ」という言葉は、人によって何か違和感を覚えさせるものだろう。
実際、『現代思想2017年3月臨時増刊号 総特集=知のトップランナー50人の美しいセオリー』 - logical cypher scapeでは、そうした当惑を記したり、科学と美を切り離して考えようとしたりするものも見受けられる。
自分も当初は、この違和感を共有していたのだけれど、今では普通に認めてもいいのでは、という気になっている。
科学という行為に対する価値として、重要なものは「認知的価値」だろう。
様々な理論や実験、考察などの科学的行為があって、そうした個々の行為は、まずは、認知的価値によって評価されているはずだ。
つまり、より自然現象(なりなんなり対象となっているものごと)について知識を得られるかどうか、という評価だ。
しかし、同じ行為に対して、同時に「美的価値」による評価をすることに、何か問題があるようにも思えない。
つまり、「美しい」という形容は、メタファーなどではなく、文字通りのものなのではないだろうか、と思う。
実験を始めとする科学的営為が、芸術行為と同一視はされないとしても、広い意味でのアート(技芸)であるとするならば、それに対して美的評価を下すのは、むしろ当然のようにも思える。


無論、「科学は美しい」に対する違和感や当惑、異論が間違っているというわけではない。
「認知的価値」と「美的価値」とを混同するようであれば、おそらくそれは問題だろう。
ある行為に美的価値があるからといって、認知的価値があるとも限らない(=美しいからといって正しいとは限らない)し、その逆もそうだ(=正しいからといって美しいとは限らない)。
とりあえず、この2つの価値は独立しているのではないか、と当面は仮定しておくのが穏当なのではないかと思う。
もっとも、科学の美しさを論じる中には、そこに真と美の一致を見出そうという論もあるし、一致とまでは言わないまでも、美が発見の手法となるという主張も見られる。
だから、絶対に無関係だとも、とりあえず今のところは判断できない。

美の主観性

カントに従えば、美の特徴は、主観的であり、普遍妥当性をもち、無関心的であることである。
科学は美しいという時、美は主観的なものだが、科学は客観的なので、科学が美しいというのはおかしい、と言われることもある。
ただこれも、科学という行為を、認知的価値と美的価値という2つの側面から評価することが可能だと捉えるのであれば、そんなに可笑しいことではない。
つまり、科学を認知的価値という客観的な価値で評価することもできるが、一方で、美的価値という主観的な価値で評価することもできるだろう、という話で、普通は前者で評価されることがもっぱらであるということだろう。

美の無関心性

美の対象となるものは、それそのものへの関心のみで鑑賞されるということ
つまり、この食べ物は美味しいとか、この椅子は座り心地がいいとかいうのは、栄養補給とか身体の休憩とか実用的な関心からもたらされているから、美的とは言えないのだ、という話である。
そう考えると、科学というのも、まずは「認知的価値」という実用的な関心があるのだから、美的とは言えないのではないかとも言える。
ところで、ロバート・ステッカー『分析美学入門』によれば、カントは自由美と従属美という2つを考えていた、と。
自由美、というのは上述したとおり、無関心性による美
従属美、というのはそれ以外ということになる。
ステッカーは、後者も美として扱っていこう、という考えのようだ*1
確かに、無関心性で条件を絞ってしまうと、そもそも美の範囲としては狭すぎるような気はする。
美食は、本当の意味では美ではないというのもなんか実感とはあわないというか(食については、そもそも単なる快であって、普遍妥当性持ってないのではというような反論もありうるけれど、それにしたって、建築はどうなのだ、工芸品はどうなのだ、と色々言いつのることはできるはず)
まあ必ずしもカントに従わなければいけない理由はないのだから、科学も美的な対象になると考えてもいいはずだ。


ディッキーも無関心性批判やってるようだ→カロル・タロン=ユゴン『美学への手引き』(上村博・訳) - logical cypher scape

「美しい」と美的概念

美学の基礎的なところの再確認となるが、美学において美的と呼ばれるのは必ずしも「美しい」に限らない(というか、次第に拡張されてきたっぽい)。
「美しい」だけではなく「崇高」だとか「雄大」だとか「かわいらしい」だとか「エレガンス」だとか、そういった諸々を含めて美的と呼ぶことが多いので、ここでもそれに倣う。
例えば、ロバート・P・クリース『世界でもっとも美しい10の科学実験』 - logical cypher scapeの「第7章Interlude 科学と崇高」では、崇高が扱われている。
科学について「美しい」とはどういう感覚なのか、個人的にはあまりピンとこないのだが、「崇高」というのは少し分からないでもないかなと思う。
「エレガンス」というのは、科学に対して使われることの多い語だと思うのだけど、これが一体どういう概念なのかというのは、どうも掴みがたい。大雑把に言えば「美しい」に似たようなものだとはいえるのだろうが、微妙に区別されているようにも思える。

美的概念と非美的概念

先に述べた通り、『世界でもっとも美しい10の科学実験』において、美しい科学実験は、「基礎的」「決定的」「効率的」だという。
また、エレガンスな科学や美しい科学は、時に「単純さ」「シンプルさ」と結びつけられることがある。
「基礎的」「決定的」「効率的」「単純さ」「シンプルさ」といった性質は、非美的な性質であろう。
「この実験は美しい」「この理論はエレガントだ」という時、それは「この実験は基礎的で決定的で効率的だ」「この理論はシンプルだ」と言い換えられるのだろうか。
美的概念は、非美的概念に基礎づけられているとしても、非美的概念には還元されない、とりあえず仮定しておくのであれば、そのような言い換えはできないということになる。
芸術作品や自然観賞において、そのような仮定はもっとものように思えるが、科学についても果たして同様なのだろうか。
そもそも科学に「美しさ」は関係ないのだと考える人は、非美的概念に還元できてしまうと考えているのかもしれない。
発見との関わりでいうならば、つまり、「より美しい理論を探すのがよい」みたいな話をする場合、その「美しい」は、例えば「単純である」などに置き換えてしまってもよいのではないか、というような気もする。


また、あるいは、芸術作品や自然観賞についての美的な概念も含めて、非美的な概念へと還元できると考える人というのは、それなりにいそうだなという感じもしている。件の『現代思想』を読むと、美しさを進化的に、あるいは神経科学的に説明できてしまうだろうというようなことを述べている人たちも見受けられるからだ。これはちょっと違うような気はしている。

知覚をゆるがすこと

崇高の話とも繋がるが、『世界でもっとも美しい10の科学実験』では、科学実験が、知覚のあり方を変えるというような話をしている。見えなかったものが見える、見え方が変わる、など。
これを自分は、優れた芸術作品にもある効果なのではないかなと思うのだけど、その点で、この観点から考えるというのはとっかかりがありそうだなと思う。
そういう経験に触れたときに感じる言葉が「美しい」なのかどうかは分からないけれど、そこに美的評価・概念が関わってくることはありそうだと思う。


ところで、直接的にはあまり関係ないが、『化石の意味』を読んでいると、17世紀くらいだと山並みというのは、無秩序で美しくないと思われていたということが分かって、驚いた。崇高美というのは、確かに最近の話といえば最近の話なのかもしれない。

*1:うーん、確か松永さんだったと思うのだけど、無関心性ってどうよ、みたいな話やtwitterやブログでしていたような気がするし、おそらく無関心性と美については何か議論があるのだろうけれど、そこまで勉強できていない……