Glenn Persons "The Aesthetic Value of Animals"

動物の美学について論じた論文
動物を美的に鑑賞するのは不道徳なのかという問題に対して、機能美を鑑賞するのであれば不道徳ではないと論じる。


以前、青田麻未「動物の美的価値 : 擬人化と人間中心主義の関係から」を読んだ時に、主に紹介されていたもの
内容的にはおおよそ上の青田論文を読んでもわかる

要約

動物を美的に鑑賞することは、美学では無視されてきている。
まず、なんで美学で動物があまり扱われてこないかについて、筆者の推測が挙げられる
動物は芸術作品と比べて複雑な存在だからではないか→自然環境の美学は盛んなのに、動物が扱われていない理由にならない
動物を鑑賞することは非美的だからではないか→非美的なところは確かにあるけど、だからといって全く美的ではないということにはならない
動物を美的に鑑賞するのは不道徳だからではないか
道徳的な存在を、主体subjectではなく客体objectとして扱うのは倫理的に問題だろう。そして、あるものを美的に鑑賞するというのは、それを鑑賞の対象objectとすること。
パーソンズは、この不道徳反論に対して、不道徳ではないやり方で、動物を美的に鑑賞することはできると論じることで、動物の美的鑑賞を美学で扱えるようにしたい。


パーソンズは自身の説を展開する前に、他の哲学者や理論家が、動物の美的鑑賞をどのように理解してきたかを整理し、それらが不道徳反論を免れないことを示す。
ラスキンヘーゲルは、動物の生き生きとした様子を賞賛することだとした
あるいは、エキゾチズム
他には、擬人化やシンボリズム
そして、Zangwillらによるフォーマリズム
これらは全て、人間と動物との関係や動物自身には関係のない人間の関心から、動物を見ており、不道徳反論を免れないだろう、と。


パーソンズは、機能美として動物の美的価値を位置づける
実は18世紀にも、動物の美はこのように説明されていた
パーソンズは、機能美の意味を弱い意味と強い意味とに区別する
弱い機能美は、「Xの美しさがXの機能に適していること」
強い機能美は、「Xの機能がXの美しさの一部であること」
例えばキッチンの色や形は、前者。
カントのいう付属美や、デイヴィスによる機能美の分析も前者。
カントやデイヴィスによれば、機能と美は外在的な関係。機能から美は生じない。
これに対して、強い意味での機能美は、機能から美が生じてくる
チーターの身体のラインの美しさは、チーターの速く走るという機能から生じてくるもの


機能美を鑑賞することも、動物を対象objectとするという点は変わらない、とパーソンズは述べる。
その上で、機能というのは動物の主体性と関わるものであり、機能美の鑑賞は動物の主体性を倫理的に問題ある形で否定することはない、と論じている


機能美の鑑賞は、美的経験なのか? 知識獲得の喜びなのではないか、という反論に対して、確かにそこを混同してしまうこともあるが、芸術作品の鑑賞だって、芸術史やジャンルについての知識を得ることを含むわけで、だからといって美的でなくなるわけではない、と。


機能美は美なのか、ということについて、バークが『崇高と美の観念の起源』で論じているので、それに反論する。
バークはまず、美しいけど機能美じゃない例(孔雀)を挙げる
パーソンズは、別に全ての美が機能美だと主張してるわけじゃないから、これは問題ないとする。
次にバークは、機能美が美の十分条件にもなってない例(ブタの鼻)を挙げる。
パーソンズは、ブタの鼻は確かに機能に適しているが美しくない例だと認める。
しかし、確かに美しいbeautifulという評価語は適用されないだろうが、なお美的aestheticな性質は有するだろう、としている。