カロル・タロン=ユゴン『美学への手引き』(上村博・訳)

古代から現代に至る美学史をコンパクトにまとめた1冊
文章も読みやすく丁寧で、西洋哲学史の中での美学の変遷を掴むのにはよいのではないのかと思う。あまり類書を読んでいないので比較はできないが。
それぞれ時代ごと、人ごとの美学の紹介なのだが、その際に、その時代における特徴、前後に出てくる論者との違いなどがその都度確認されながら進むので読みやすいのだと思う。
美学とは、「美」と「感性的なもの」と「芸術」を哲学的に考察するものであり、これに類するものは古代から現在まであるが、この3つが結びついたのは近代特有ことなのではないかという視座のもと書かれている。

美学への手引き (文庫クセジュ)

美学への手引き (文庫クセジュ)

第1章 美学前史
 美の形而上学
 芸術についての省察
 美学以前の美学的省察
第2章 美学の誕生
 新しい知
 趣味の批判としての美学
 美学の命名バウムガルテン
 カントの契機
第3章 芸術についての哲学的諸理論
 芸術の言説としての美学
 芸術についての言説としての美学
 哲学者としての芸術家と芸術家としての哲学者
 結論―芸術と哲学
第4章 二十世紀の芸術的挑戦に対する美学
 芸術の脱定義
 フランクフルト学派
 現象学的美学
 分析美学
結論 きたるべき美学
 美学へのさまざまな反論
 以上の反論への回答
 アイステーシス(感性)に再び向かう美学
 考えるべき新しい対象

序論

美学とは何か
対象:「美」「感性的なもの」「芸術」
方法:哲学
後者の方法というのは、批評や美術史と美学を区別するもの
前者の対象について、それらを哲学的に考察することは、古代ギリシアからあったが、筆者はただ対象と方法がそろうだけではまだ十分ではないとする。
18世紀に、美と感性的なものと芸術が結合するような条件が揃ったのだと。
ただ、それ以降も、ヒューム、カント、ヘーゲルでそれぞれ主題としていることが違う。趣味についてなのか、感性についてなのか、芸術についてなのか。
美学は、開かれた概念。時代によって変わる。

第1章 美学前史

プラトンプロティノスアリストテレス、中世哲学など*1
感性的な美についても考察されてはいるが、究極的には、知性でとらえられる知性的な美に階梯が上昇していくという形而上学が前提となっている。
だから、美学として独立した領域とならない。
芸術については、まずそもそも現代における芸術と、当時のアルスとかテクネーとかは一致しない。アルスとかテクネーは、技術とか職人とかを指すので、靴職人や肉屋なども含まれる。
また、プラトンがいうところのミメーシス(模倣描写)も、話術や魔術、鳥の鳴き声のモノマネまで含むもので、今の芸術概念とは重ならない。
プラトンは芸術というかミメーシスに対して否定的だが、アリストテレスイデアからの模倣という形而上学的立場にないので、肯定的。ただ、彼の詩学は、芸術の性質やその規則などを導く考察であって、価値については論じていない。


感想
テクネーのところで、芸術は行為ではなく制作、と行為と制作を区別していたけれど、どういうことだろう
アリストテレスのところで

芸術とは(...)何か自分の外にある目的のためになされるという点に特色があります。芸術は実践的な活動ではなく、生産的な活動なのです。それだからこと、たとえばよく食べる行為と、治療を「目指して」行う医者の芸術とが区別されます。

とあるけど、これってエネルゲイアとキネーシスだったりするのだろうか??

第2章 美学の誕生

16世紀から17世紀にかけて
感性的なものが知性的なものから自律したものとして捉えられるようになる、なおかつ主観的なものとなる
芸術の成立
ルネサンス期に視覚芸術が権威化される→アカデミーや批評も成立
さらに「天才」「快」という概念が成立
18世紀は、美学、批評、芸術史が成立した時代


観衆や批評家が成立し、イギリス、フランス、スコットランドで趣味についての議論がなされるようになる
シャフツベリ
アディスン
クルーザ
アンドレ神父
美を道徳や形而上学と結びつけている点でまだ過去の考え方をひきづっている
ハチスン
客体の中の「多様性のなかの統一性」が美しさという観念を引き起こす
ヒューム
美を引き起こす客体ではなく、美を経験する主体へ着目。趣味の基準は、能力、通の人たち。
バーク
美と崇高の比較
デュボス神父
芸術と情念


バウムガルテン
哲学的詩学、だけでなく感性の理論としての美学
「完璧さ」によって美と真理を結び付けている


カント
バウムガルテンの知性主義もヒュームの経験主義も拒否
美を快と考えるが、無関心性によってほかの快とは区別される

第3章 芸術についての哲学的諸理論

3章は19世紀
18世紀までは、美学は感性についての学で、自然美も芸術美も扱っていた
19世紀からは、芸術の哲学の時代になる
「芸術の哲学」について3つの区別
1)芸術についての哲学
2)芸術の中に含まれる哲学的言説
3)芸術と哲学の同一性を主張するようなもの


ロマン主義
カントの不可知論に対して、カントによる限界を越えようとする
そのための芸術
哲学や知では到達できないところに、芸術によって到達する
芸術の中に哲学がある
詩が哲学を完成させる


ヘーゲル
ヘーゲルにとって美学は、感性についての学ではなくて芸術の哲学
彼の歴史哲学と関係づけられている
芸術は精神の契機の第一段階
絶対的なものが表れるの芸術
芸術の3つの段階
象徴的芸術(古代インド、古代エジプト):形式と内容まだ不一致
古典的芸術(古代ギリシア):形式と内容が一致。しかし、内的主観性の生に欠ける
ロマン的芸術(中世以降):精神が絶対的な内在性として発現。絵画→音楽→詩と、精神化の度合いが高くなる
ヘーゲルの時代で、芸術は精神を表現する時代を終える。その後、宗教、そして哲学が精神を表現するようになる
ヘーゲルは、芸術を最高の認識としない点でロマン主義と違うが、芸術に存在論的な地位と救済者的役割を与える点でロマン主義と同じ


ショーペンハウアー
ヘーゲルと違って美的経験についての理論だが、芸術とはどういうものかという点ではヘーゲルと同じ


ニーチェ
悲劇の誕生』の時期と『人間的な、あまりに人間的な』の時期と『悦ばしき知識』の時期とで、芸術についての考え方が異なる


ハイデッガー
作品とは真理の到来
哲学者と芸術家は兄弟で、芸術と現象学の役割は同じもの


19世紀から20世紀初頭にかけての美学
趣味や快、卓越性の基準という主題が薄れる
芸術が、美の感性的経験からではなく、真理という点から考えられるようになる
天才や崇高という主題が増す
芸術に影響を与え、芸術家たちの活動の中に哲学的言説が入り込んでくる
19世紀から20世紀の哲学は芸術に存在論的次元、認識論的射程、救済者的役割を与えた


感想
ヘーゲル歴史観とか、今見るとおおざっぱすぎて「は?」と思うのだけど、まあまだ何言ってるかは分かる。というか、その世界観には厨二的ワクワクは感じる
ただ、ニーチェとかハイデッガーとかになってくるともうよく分からない。
それから、「存在論的次元」という言葉
芸術が、世界とか存在とか神とかについての真理を表している、ないし哲学や知性的なものにかわって真理を与えてくれる、教えてくれるものだというような意味合いのことを言っているのだろうなあとは思うのだけど、そのことをなぜ「存在論的次元」という言葉で言い表しているのかが全然分からない。

第4章 二十世紀の芸術的挑戦に対する美学

20世紀の芸術
脱定義、脱審美化
作品やジャンルを揺さぶるような芸術作品
非西欧やアウトサイダーによる芸術
非美的な芸術(醜いものから、そもそも感性的ではないコンセプチュアルなものまで)
4章では、フランクフルト学派現象学的美学、分析美学を取り上げる


フランクフルト学派
ベンヤミン
『複製技術の時代における芸術作品』
人間の感性は歴史に依拠する
アドルノ
『美学理論』
芸術は批判的な機能をもちながら、社会に依拠するものでもあるという緊張関係をもつ


現象学的美学
メルロ・ポンティ
芸術も哲学も、認識以前の世界についての原初的経験
セザンヌ論:単なる現象的な諸瞬間を描いている
ミシェル・アンリ
「志向性という考えをとらず、それまで現象学の行ってきた還元作業をさらに根本的な仕方で実行しようとします。」
カンディンスキー論:見えないものを見せることが目的
見えないものとは主体性
形と色という情感によって、通常な関心ごとを離れて、抽象画であれば模倣的再現がないのでさらにその情感的な力を発揮できる


現象学の美学は、芸術の非歴史性・非時間的本質という前提にたつため、コンセプチュアルアートなどを扱えない
一方、芸術だけでなく感性の分析でもある。
メルロ・ポンティだけでなく、マリオンの透視図法論、デュフレンヌの自然論、マルディネのリズム論、サルトルの想像力論など


分析美学
芸術の定義について
ウェイツ、グッドマン、マンデルバウム→ダントー→ディッキー
ところで、グッドマンによる5つの徴候が「文脈の厚み、意味の厚み、飽和、範例化、多重参照」となってるんだけどこれって菅野訳『世界制作の方法』で「構文論的稠密、意味論的稠密、充満、例示、多重で複合された指示」となってる奴だよね。うーん……
美的経験について
ストルニッツの分析(無関心性、共感に満ちた注意)→ディッキーの批判(美的態度や無関心性は「神話」)→ビアズリーの反論(統一性、複合性、強さによって特徴づけられた経験)

結論 きたるべき美学

1979年になされた美学への5つの批判
(1)美学は芸術についてよくわかってない
(2)芸術を取り巻く事情もよくわかってない
(3)形而上学的言説だという不満(芸術を哲学のために利用してるだけ)
(4)芸術についての研究はいずれ心理学や認知科学社会学が扱うものになる(美学は残らない)
(5)美学の対象は主観的で、哲学には適さない
筆者の反論
反論というか、わりと確かにその通りかもしれないけど、がんばるよみたいなスタンスになってるw
最後に、芸術だけでなく広く感性的なものの研究へ、と締められている


森さんはこの本について

その後出た本としてはタロン=ユゴンの『美学への手引き』がある。悪い本ではないけど、話は薄っぺらいし「分析美学」紹介するところなんか60年代で紹介終わってるし、まぁ微妙。
2000年代の本のくせに美的経験論の話をビアズリー(1969)で終えるところなんか、罪だと思う。「芸術学から感性学へ」とか「現代科学との協同を」とか言うんならちゃんと現代の議論紹介しろや、という感じ。
とはいえ繰り返しますが悪い本ではないので、一読は勧めます。訳は読みやすいし安い。
https://twitter.com/conchucame/status/717533425809248256
https://twitter.com/conchucame/status/717533867033235456
https://twitter.com/conchucame/status/717536768547889154

と言っていて、厳しすぎではと思ったけど、最後まで読むとこの感想もなんとなく分かる
ただ、筆者の専門はあくまでも近代っぽいし、コンパクトに美学史を掴むという意味では良書ではないかと。

*1:本書では、プラトーン、プローティーノス、アリストテレースなどのように書かれている