ロバート・P・クリース『世界でもっとも美しい10の科学実験』

古代から現代まで、物理学における「美しい」科学実験について紹介するとともに、科学実験における美についての哲学的エッセイがまとめられている本
筆者の専門は哲学・科学史で、『フィジックス・ワールド』誌でコラムを担当している。
ちなみに、訳は青木薫。案外とこの人の翻訳書を読む機会がなかなかなかった。


『世界でもっとも美しい10の科学実験』ロバート・P・クリース - 僕帝国幻想を見て気になったので、手にとった。

序文 移り変わる刹那
第1章 世界を測る―エラトステネスによる地球の外周の長さの測定
Interlude なぜ科学は美しいのか
第2章 球を落とす―斜塔の伝説
Inetrlude 実験とデモンストレーション
第3章 アルファ実験―ガリレオと斜面
Interlude ニュートンベートーヴェン比較論
第4章 決定実験―ニュートンによるプリズムを使った太陽光の分解
Inetrlude 科学は美を破壊するか
第5章 地球の重さを量る―キャヴェンディッシュの切り詰めた実験
Inetrlude 科学と大衆文化の融合
第6章 光という波―ヤングの明快なアナロジー
Interlude 科学とメタファー
第7章 地球の自転を見る―フーコーの崇高な振り子
Interlude 科学と崇高
第8章 電子を見る―ミリカンの油滴実験
Interlude 科学における知覚
第9章 わかりはじめることの美しさ―ラザフォードによる原子核の発見
Interlude 科学の芸術性
第10章 唯一の謎―一個の電子の量子干渉
Interlude 次点につけた実験
終章 それでも科学は美しくありうるか?

序文 移り変わる刹那

実験の美しさについて、深いこと、効率的であること、決定的であることの三要素を挙げている
深い=自然について深い事柄を明らかにし、世界に関する知識を塗り替える
効率的=実験の方法、要素の組み合わせが効率的
決定的=結果がはっきりと示される


この本ができた経緯
2002年、筆者がコラムを書いている『フィジックス・ワールド』誌で、読者を対象に、一番美しい実験を挙げるよう依頼
ネットでも評判となり、数百以上の実験が集まった
もともと、「物理学の実験」として集めたので、物理学の実験が多いが、それでも物理学に限らず様々な分野の実験が集まった
時代順に10個の実験。一つの例外を除き、得票数はほぼ同じ(二重スリット実験は、もっとも多くの票を集めた)。

第1章 世界を測る―エラトステネスによる地球の外周の長さの測定

どのような実験かという詳細については、このブログでは省略する
この実験の特徴として、
色々なやり方で再演されるという意味で「抽象的」とされている
エラトステネスの実験を再現することは、ゲティスバーグの戦いを再現することとは違うと書かれている。
また、地球の長さを直接測定することなく、影からでも確かなものを引き出せるという、実験がもつ性質を示している、とも。
この実験の美しさを雄大さに見て取る
小さなものを測定することで、大きなものを明らかにするという雄大

Interlude なぜ科学は美しいのか

科学や実験が美しいと語ることに対する異論として、(1)見当違い(2)エリート主義的(3)大衆受けを狙っているだけ、という3つをあげ、特に(3)について検討している
ところで、ここでは美とエレガンスは違うということが書かれている。美は真理への足掛かりになるが、エレガンスはならないと。詳しくは、ポランニーの論文を参照とのこと

第2章 球を落とす―斜塔の伝説

ピサの斜塔の実験について、ガリレオの記述や科学史家の研究をもとに、実際あったのかどうかという疑問に対して答えていく
やはりこの実験も、エラトステネスの実験と同じく、様々なやり方で再現されている

Inetrlude 実験とデモンストレーション
実験とデモンストレーションの違いについて
実験とは、何かをはじめて明らかにするパフォーマンスの一種であり、結果は不確実。上演者と観客が同一であるようなパフォーマンス
デモンストレーションは、実験の要点をおさえて再提示したもので、上演者と観客が異なる。博物館などで見ることができるのはデモンストレーション。観客と現象のあいだに距離を作り出す
今日の画期的な実験が、明日のデモンストレーションになるとも。
デモンストレーションは、実験をプロセスなのではなく、すでにわかっていることを確かめるだけのものだと誤解させる原因にもなっているという注意も書かれている

第3章 アルファ実験―ガリレオと斜面

ガリレオの斜面に球を転がした実験。加速度という概念が考案されることになった
運動を記述する際に、空間から時間へと観点の変化をもたらした
先の二つの実験との違いは、実験のための装置をあらたに作り上げたこと
ガリレオの専門家であるコイレは、ガリレオの実験装置が貧困であり、価値がなかったとこきおろしたが、1961年、セトルが当時手に入ったものだけを使って再現した
斜面の実験独特の美しさ=パターン・法則が現れる美しさ

Interlude ニュートンベートーヴェン比較論

ニュートンがいなくても誰かが微積分や引力理論を作っただろうが、ベートーヴェンがいなかったら彼の作品はこの世にはなかった、という科学者と芸術家の差異を強調した対比
また、カントは、「天才」が科学者にはないが、芸術家にはあるという。
科学はすでに定まっている世界のあり方を探求する。自分の作ったものをステップを踏んで説明することができる。
芸術は想像力・創造力により生み出さされ、芸術家が全体の構成に責任を負う。創造を説明することができない。
(説明できるかできないかが、カントのいう「天才」の有無の違い)

科学者も自分の理論の構造に責任を負う
ニュートンの理論体系には、別の説明の仕方もありえた。
ニュートンの偉業には想像力が果たした役割が大きい。
もちろん、科学と芸術は何から何まで類似しているわけではないが、差異ばかりではなく類似性もあるという指摘

  • レヴィ=ルブロンの思考実験

もしアインシュタインがいなかったら、相対性理論はどのようなものになったか


実験は自動的なプロセスではない。カントのいう「天才」が関係してくるところもある。
科学と芸術は異なるが、科学もやはり、個々の科学者の独創性・スタイルがかかわっている。

第4章 決定実験―ニュートンによるプリズムを使った太陽光の分解

科学的方法とは、「仮説を立て検証し、仮説を立てること」ではなく、「現象を見る」こと


ニュートンは何百も実験を行ったが、その中で同僚を納得させられる実験として選び出されたのがこの「決定実験」(王立協会の論文に発表された実験)
そのため、デモンストレーションの要素がある


史上初の「学術誌上の論争」を産み出した
あと、これはトリビア的なネタだが、
ニュートンの「巨人たちの肩の上に立ったおかげ」という言葉は、批判してきたロバート・フックの身長が低いことを前提としたあざけりの言葉だった、とか

Inetrlude 科学は美を破壊するか

キーツをはじめとして、ニュートンの光学が、ひいては科学が自然から美を奪ったと考える詩人たちがいる。ゲーテは、反ニュートン的な色の科学を作っている。
しかし、一方で、ニュートンの目で見るようになった詩人もいた。科学が美を深める、という見方もある。

第5章 地球の重さを量る―キャヴェンディッシュの切り詰めた実験

キャヴェンディッシュ:宇宙は測定できる物体のみでできており、それらを測定することを自らの仕事とした人。最初の論文は化学の測定に関するもの、死の前年に発表した論文は天文学の測定に関するもの
「実験家の気配り」実験の妨げになるものをあらかじめ測定し、補正しておくこと
地球の重さ(密度)をはかることが目的であったが、今ではニュートンの法則に出てくる比例定数Gを求めるのに使えることがわかっている(当時のキャベンディッシュはどちらも知らなかったが)
キャベンディッシュの実験の美は、誤差を丁寧に取り除いていった、端正で簡素な美だと述べられている。

Inetrlude 科学と大衆文化の融合

作品に科学を取り入れた演劇『コペンハーゲン』について

第6章 光という波―ヤングの明快なアナロジー

神童ヤング。複数の言語をマスターし、ロゼッタストーン解読も行っている。
王立研究所で、当時の科学を簡潔にまとめた連続講義をしており、その中で「エネルギー」という言葉が、今日的な意味で初めて使われた。
2つのスリットをつかった光の干渉の実験は、実は再現するのがとても難しい、らしい。一般向けの本の中には家でもできると書かれているが、筆者は実際にやってみても、うまい結果を得られなかったと書いている。
また、ヤング自身の記述の中にも、回析と干渉を取り違えていることがあることがわかっている。

Interlude 科学とメタファー

メタファーやアナロジーは科学にとってありかなしか
反メタファー派は、それは教育や伝達には役に立つが、科学にとっては不必要だと考える。
一方で、そもそも科学には、メタファーが必要不可欠だと考える人々もいる
ここでは、メタファーの機能を3つに分類している
(1)フィルター
「男はオオカミだ」「愛はバラだ」
一次主題(男、愛)の特徴を取り出し、それ以外にフィルターをかける
(2)創造的役割
一次主題と二次主題が逆転する
「光は波である」というときの、「波」が単なるアナロジーではなく、専門用語になる。さらに、エーテルが否定されて、媒質なしに伝わる光に対して、科学者たちの側の「波」概念が変化
また、「エネルギー」も同様。もともとは別の意味で、最初は運動エネルギーのことしかささなかった
(3)何かに対する全体像をすっかり塗り替えること
「地球は生物よりも一個の細胞に似ている」など
これら3つは厳密には区別できないし、混ざることもある
メタファーとそうでないものは区別できない

追記(2017/07/04)

以下の記事に、科学とメタファーについての興味深い実例のように思えるものがあったのでメモ
生命美学とバイオ(メディア)アート——芸術と科学の界面から考える生命/岩崎秀雄 - SYNODOS

たとえば、生物学では生体高分子や酵素はほかの物質を「認識する」としばしば記述されるが、これは物理学では通常許容されない記述様式だろう。いや、それは単に特定の分子と衝突し、反応しているだけだ、という反論がありそうだが、ならば敢えて認識するなどという擬人的な表現は避けたほうがずっと「客観的」であるようにも思える。

では、認識ということで何がもたらされているのだろう。それは、分子レベルの「主体性」に他ならない。これは主体概念の上層(細胞や個体)から下層(分子)への一種の還元とみなされなくもない。万物に生命性を認めるのはアニミズムだが、こうして生物学が分子を擬人的に語る時、そこに希薄化されたアニミズムの気配を感じることがありうる。

それは、生物学がまだ物理学のように厳密化されていないところから来ると言うよりも、「科学的に主体性を記述することの困難」を前に、生物学者たちがギリギリのラインで選択してきた絶妙な言語表現として捉え直せないだろうか、というのが僕の見通しである

第7章 地球の自転を見る―フーコーの崇高な振り子

フーコーの振り子が持つ魅力の一つ=視覚の多義性を暴くこと
振り子が動いているように見えるか、地球が回転しているように見えるか


当時からこの実験は人気で、より大きな振り子が使われるようになり「壮麗さ」が加わった


1851年:ロンドン万博で水晶宮、入場客の流れを管理するために初めてタイムスタンプが使われるようになる、といった歴史的な年で、この年、フーコーの振り子も、ランスのノートルダム大聖堂のほか、世界各地(ヨーロッパだけでなく、リオデジャネイロやセイロンにも)に設置された


振り子は、博物館にある他の展示物とは違う
インタラクティブ性がなく、人間とは無関係に動き、直観に反した事実を示す

Interlude 科学と崇高

バーク、カント、エーコを踏まえて、フーコーの振り子を崇高美としてとらえる
「人間の知覚の不完全さを――というよりむしろ、人間の知覚と自然のメカニズムとの食い違いを――露わにするからなのだ」
振り子を「見て」自転を「知る」のか、自転を「見る」のか
知識や教育が知覚にどのように影響するのか、知覚を矯正・教育するのか
といった点を指摘して終わっている。

第8章 電子を見る―ミリカンの油滴実験

ミリカンがいかに油滴実験を成功させたかに至ったか
電荷の測定は、他にも多くの科学者が試そうとしていて、多難だった話
この章でも「実験家の気配り」が出てくる
測定データのうち、うまくいなかったものを「捨て」ていて、そのことは論文にも書かれているのだけど、のちにこの点について、データのねつ造ではないかと色々言われるようになってしまったこととか


この実験の美しさについて筆者は、シラーが「われわれを感覚の世界にしっかりと繋ぎ止めながら、概念の世界へと導いていくれる」というような種類の美である、としている。

Interlude 科学における知覚

装置を介在して「見る」ことは、比喩的な口語表現なのか
また、美とは感覚的なものということが強調されるが、科学と美について考えるなら、科学における知覚を考える必要がある。
科学における知覚と、日常における知覚は、本質的には変わらない
知覚とは、外見の規則性や不変性のようなものをとらえること
(リンゴを見るとき、角度によって異なる形に見える、視覚、触覚、嗅覚それぞれ異なる感覚が刺激される、がそれらをあわせて「同じ」物体として認識する)
=予測される多数の射映(見かけ)からひとつの地平を把握すること
予期される地平が裏切られて驚かされる可能性を「神秘的」と呼ぶ。
その驚きを受け入れるのが、科学的な気質
実験によって、典型的な事例が起きるとき、その世界でそれを「見て」いる(ex.ミリカンの油滴実験)

第9章 わかりはじめることの美しさ―ラザフォードによる原子核の発見

アルファ線の研究
アルファ粒子を打ち込むと原子核にはじかれて〜、というのは後付けで言われた理屈で、実験当初はよくわかっていなかった。
ここでも「実験家の気配り」が。助手のガイガーによる散乱の測定
ラザフォードも誰も、当時はこの結果が画期的ななことだとはわかっていなかった

Interlude 科学の芸術性

筆者は、ラザフォードの実験を再現する計画をたて、物理学者に話をしたら、爆笑された
実験とは熟練の技であり、筆者の計画は、突然ヴァイオリン職人のところへいってストラディヴァリウスを作ろうとしているのですが、と言っているのと同じようなものだ、と
こうした、熟練の技がいることを、ここでは「芸術的な仕事」と呼んでいる。
また一方で、そのような芸術的な仕事も、時がたてば、規格化されていくということも

第10章 唯一の謎―一個の電子の量子干渉

最後は、電子の二重スリット実験
これまでの実験が、基本的には一人の科学者の名前と結びつけられていたのと違い、この実験には複数の科学者がかかわっている。
最初は、ファインマンの思考実験だったようだ。実際にやれるとは思われていなかったらしい。
ドイツのヨーンソン、イタリアのメルリとポッツィ、日本の外村


この実験は、基本的で、効率的で、かつ説得力がある
明晰さ、予期された驚きの宇津久井
エラトステネスの実験が、大きなスケールで見ることならば、この実験は小さなスケールで見ること

Interlude 次点につけた実験

惜しくもこの10の実験に選ばれなかった実験が、物理学に限らず複数紹介されている