金杉武司「自己知と自己認知」(『シリーズ新・心の哲学1認知篇』)

『シリーズ新・心の哲学』の中で、とりあえず自己知の章だけ読みたかったのでそれだけ。
ただ、他の章も気になったものがあるので、後日また読むかもしれない。
第1章は、フォーだーの思考の言語説(LOT)及び概念原子論とそれに対する認知心理学のプロトタイプ説などの反論の整理らしい(フォーダーは2008年に『LOT2』という著作を出しているらしい)
第2章は、いわゆるウォーフ的な言語相対性仮説について

シリーズ 新・心の哲学I 認知篇

シリーズ 新・心の哲学I 認知篇

序論  思考の認知哲学[太田紘史]
 1 思考の構造
 2 思考と合理性
 3 思考についての思考

? 認知の本性

第1章  概念の構造とカテゴリー化[三木那由他]
 1 はじめに
 2 カテゴリー化の心理学
 3 概念原子論
 4 諸理論の統合
 5 情報原子論と二重説の批判的検討
 6 おわりに

第2章  思考について考えるときに言語の語ること──言語学認知神経科学の観点から[飯島和樹]
 1 はじめに
 2 言語が世界を色づけるのか?
 3 知覚的な数、言語的な数
 4 文と思考を組み立てる
 5 おわりに

第3章  思考の認知科学と合理性[太田紘史・小口峰樹]
 1 人間の思考は合理的か
 2 ヒューリスティクスとバイアス
 3 言語との類比からの議論
 4 生態学的合理性と「ツールボックス
 5 二重プロセス理論から三部分構造モデルへ
 6 結 語

? メタ認知の本性

第4章  自己知と自己認知 金杉武司
 1 はじめに
 2 直接性と確実性
 3 面識説
 4 内的知覚説
 5 自己知と現象的意識
 6 自己解釈説
 7 合理性説
 8 自己知の説明から心と自己の理解へ

第5章  他者理解──共感とミラーニューロン[信原幸弘]
 1 他者の心を理解するとはどのようなことか
 2 他者の心はどのようにして理解されるのか
 3 心の身体性
 4 ミラーニューロンと暗黙的シミュレーション
 5 むすび

読書案内
あとがき[信原幸弘]

事項索引
人名索引

自己知と自己認知

自己知の特徴として、「直接性」と「確実性」をあげる。
確実性はさらに、不可謬性と網羅性に分析される

面識説

内観によって説明する説
内観によって自分の心的状態を観察するが、普通の知覚と違って、観察対象との因果的な媒介過程を通じて形成されるわけではない
認識対象が認識状態の一部を構成する
見えと実在のギャップがないので、不可謬性を含意する(ガートラーは面識説でも誤りうることを主張するが、他の知覚とはその理由が異なる)
クオリアについては妥当しそうだが、命題的態度には問題がある

内的知覚説

同じく内観によって説明する説
面識説とは違い、普通の知覚と同様、因果的な媒介過程があると考える
アームストロングによる「自己スキャニング」
認知科学における、ニコルズとスティッチの「モニタリング機構理論」
この説では、直接性はあるが、完全な確実性(不可謬性)はない

自己知と現象的意識

第5節で、自己知と現象的意識(クオリア)との関係が論じられており、実を言えば、この節が一番気になっていたのだが、議論の内容が全く理解できなかった……
ゾンビ論証に背景にあるものの考え方と、面識説・内的知覚説の背景にあるものの考え方をそれぞれ比較している。
ゾンビ論証においては、思考可能性が形而上学的可能性を帰結するとしているが、物理学者は、思考可能性から形而上学的可能性は帰結しないと考える。なぜなら、水がH2Oでないことが思考可能だからといって、その形而上学的可能性は帰結しないのと同様だと。
これを筆者は、見えと実在にギャップがあり、現象的状態を、「隠れた本質」があるものとして理解することだと述べる。
一方、面識説には、見えと実在にギャップがなく、内的知覚説には、見えと実在にギャップがある。
ここから、面識説は、ゾンビ論証を支持する見解に一致する、と述べる。
ゾンビとH2Oの話もちょっとよく分からないところもあるんだけど、まあわからないではない。
面識説と内的知覚説の違いも、わかる。
しかし、その2つから、なんで面識説とゾンビ論証支持派とがつながるのかが、全然ピンとこない。

自己解釈説

ここから先は、特に、命題的態度の自己知について。
自己認知と他者認知では、そのプロセスに本質的な違いはないとする説
ライルやデネットの説として知られる。
近年、認知科学では、カルザースによる「解釈的感覚アクセス理論」がある。
同じ認知科学でも、ニコルズとスティッチの「モニタリング機構理論」などからは反論されている。
他者認知は、他者の行動を外部から観察して、そこから解釈によって他者に心的状態を帰属すると考えられる。
自己認知(自己知)についても、自分の行動を観察して、そこから解釈によって自分の心的状態を知るのだ、と考えるのが自己解釈説である。
この場合、直接性も確実性もない、ということになる。
自己認知の方が他者認知より確実性が高く見えるのは、使える証拠の量が多いから、。

合理性説

これに対して、主体が命題的態度を持つためには主体は合理性でなければならず、主体が合理的であるならば、命題的態度の自己認知には確実性がなければならないとする立場が、合理性説
シューメイカーなどの立場とされる。
また、確実性だけでなく直接性も必然的だとする。
主体が合理的であるためには、主体が自己帰属させる命題的態度にコミットメント、つまりその命題の真理性を引き受けていなくてはならない。
さて、この命題的態度の自己帰属とコミットメントにおいて、主体は「透明化」されていると言われるのだが、このことについては、モランならびに、モランが引用するエヴァンズの見解が紹介されている。

信念を自己帰属させる際、主体の眼はいわば、あるいはときに文字通りに、外界へと向けられる。「あなたは第三次世界大戦が生じると信じているか?」と問われたとき、私はそれに答えるために、「第三次世界大戦は生じるだろうか?」という問いに答えるために目を向けるのとまったく同じ外界の現象に、目を向けるに違いない。私は、Pかという問いに答えるための手続きを遂行することによって、自分がPと信じているかという問いに答えようとするのである。(Evans1982,225)
(p.194)

ここでは、自己認知は、内観によって説明されていない。
「自分はPを信じている」と言える(そういう信念についての自己知がある)ためには、Pの真理性にコミットメントしていなければならない。だからこそ、「Pを信じているか」という問いは「Pか」という問いとして変換されるのであり、この時、「私」という主体と「~を信じている」という態度は「透明化」されている。
合理性説は、この透明化手続きによって、自己知の直接性を説明している。
「P」という判断から、「Pを信じている」という信念を自己帰属させるのは、自己解釈ではなく技能知にもとづく、ともしている。

鈴木本における自己知の見解

鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』 - logical cypher scapeでも、自己知について言及されている。
意識の表象説及び物理主義から、内観説の立場はとれないと述べられている。
内観説は、内観という内的知覚の対象が主体の内部にあるというものだが、表象説において、そのような対象は存在しない。
また、現在の科学によれば、内観のための感覚的器官は存在しない。
というのが、その理由であるが、それ以上はそれほど内観について多く論じられてはいない。もっとも、認知科学において、内観説の一種である内的知覚説を支持しているならば、現在の科学において〜のところは、必ずしもそう言い切れないのかもしれない。
さて、内観説の代わりに、鈴木本で挙げられているのは、エヴァンズ(Evans 1982)による考えである。
エヴァンズによれば、外界についての知覚(赤いリンゴ)が生じれば、それについての信念(「赤いリンゴがある」)が生じ、そこからさらに「私は赤いリンゴがあるのを見ている」という信念が形成されていく。
ここでは、外界についての信念が生じれば、それに「私は〜見ている」を形式的につき加えるだけで、意識経験についての信念が生じるので、そこに推論は必要なく、直接性があることになる。
金杉論文でも鈴木本でも、同じEvansの”The Varieties of Reference”という本が参照されている。


金杉論文では、命題的態度についてを分けていたので、鈴木本の命題的態度についての考えにも触れておく。
鈴木本では、命題的態度を、意識的な命題的態度と無意識的な命題的態度にわけ、後者は行動に直接結びつくわけではなく、本来的表象ではないとしている。
一方、意識的な命題的態度については、それの内語(音声イメージ)を知覚しているのだと論じている。


自己知と少し離れるが、イメージの意識体験について、鈴木本の主張が面白いのでメモっておく。
鈴木本は、意識の表象説の立場をとり、意識体験は全て知覚体験だとする。
そして、内的なイメージ・内語・思考もまた、知覚体験なのだと主張している。
内的なイメージは、真正ではない知覚体験なのだ、と。
これについて、古典的実験の実例をあげている。被験者に白いスクリーンを見せて、何かある色をイメージしてもらう。そして、そのスクリーンに薄く色を映すが、被験者はこれに気付かないという。知覚とイメージが同じ体験なのだと述べられている。