マーティン・J・S・ラドウィック『化石の意味』

サブタイトルは古生物学史挿話で、16世紀から19世紀にかけての古生物学史
作者は、もともと地質学・古生物学の研究者であったが、のちに科学史家となった。
日本語訳は2013年に刊行されたものだが、原著は1972年と40年以上前に刊行された本である*1
とはいえ、自分の不勉強もあるだろうが、古生物学史というのはあまりよく知られていないものと思うので、勉強になった。
キリスト教的なバイアスのかかった考え方が、何人かの大科学者によって刷新されていったという歴史をつい思い描きがちであるが、それが誤りであることを教えてくれる。
キュビエは、キリスト教的価値観から進化論に反対していたわけではないし、ライエルの斉一説(この言葉については普通の理解が実は正確ではないことが書かれているのだが)はすでに当時に一般的になっていたのであるし、ダーウィンへの反対者も進化という考えに反対していたわけではなかった、ということがわかる。  

第一章 化石物
第二章 自然の古物
第三章 生命の革命
第四章 斉一性と進歩
第五章 生命の祖先
訳者あとがき
文献案内
用語解説
参照文献

化石の意味―― 古生物学史挿話

化石の意味―― 古生物学史挿話

第一章 化石物

16世紀最大のナチュラリスト コンラート・ゲスナーを中心に、16世紀についての章

  • 化石物fossiliumのスペクトル

現代人からすると、化石というのは生物由来のものであるが、当時は、あるスペクトルのもとに広がっていた。つまり、よく生物に似ているものから全然似ていないもの(鉱物など)へ。

  • 3つの新機軸

ゲスナー『化石物について』は、そのような「化石」についての著作だが、3つの新機軸が現れている。
(1)言葉による記述を補うための挿絵の使用
(2)標本コレクションの使用
(3)文通によって協働する学者共同体の形成

  • 化石研究の動機

自然を記述することが単純に神の創造物を記録するという価値があり、それとは別に、功利主義的動機があった。魔術ないし薬としての効用。
化石の「本性」より「能力」が優先されていた

  • 化石の本性

ゲスナーやアグリコラ等によって、生物などによく似ているものがあることがわかり、それに基づいて分類されるようになったが、必ずしも、生物の遺骸だとは考えられなかった
当時の、新プラトン主義ないしアリストテレス主義が、十分な説明を与えていたから。

宇宙は類縁のネットワークであり、何らかの「形成力」が石に対して働いた。当時のナチュラリストは化石を自然の「図像imagines」「模像icones」と称していた。

生物の「自然発生」が信じられており、例えば魚の「種子」が地中に流れ込み、石が魚に似た形になった


生物起源という考えがないわけではなかったが、化石が発見される「位置」の問題(海の生物が山から見つかる)があって、海に近い地層から発見されたもの以外には当てはまらなかった

第二章 自然の古物

17世紀、化石は生物起源のものであることが認められるようになり、地球の年齢が論じられるようになる。フックとステノが中心に取り上げられる。

  • 化石の生物起源説

ステノ(本名:ニールス・ステンセン)が、フィレンツェでのサメの研究から、舌石が間違いなくサメの歯であると確信するようになる
顕微鏡で有名なロバート・フックもまた、生物起源説を信じていた
石の中で成長するという考え方を拒んだが、目的論的見解は維持しており、むしろ、目的論において、この形態をしているのだから生命由来だと考えたらしい。
一方で、アンモナイトなど現生種とは似ていないものをあげ、リスターは生物起源説を拒む


ジョン・レイは、フックとリスターをあげて、生物起源説の賛否双方をまとめた
生物起源説の問題点
(1)現生種との相違
→絶滅を含意するが、神の創造が不完全だったことになる。まだ発見されていないだけで地球のどこかにいるのでは、とも考えられた
(2)位置の問題
→「大洪水」が用いられたが、化石が地層の中に埋まっている理由が不明
→ステノ:地層の堆積について論じ、化石が生命の歴史の証拠となるという新しい視点を導入した

  • 地球の歴史は数千歳であるという聖書的な時間

当時は、化石について考えるうえで、数千年という短さは問題にならなかった
(むしろそんなに長時間残るはずがないという懸念すらあった)
また、地球の歴史と人類の歴史はほぼ同じものだと考えられており、聖書文献学的な歴史研究と自然の歴史の研究があまり区別されていなかった


ステノ→化石を「大洪水」の時代のものと考える
大洪水は、大量の水の創造と消滅という問題がある
フック→「地震」を採用
また、老いる地球という考えや、地球の「幼年期」には巨人族がいたという伝統的信念とも適合する考えをもっていた

  • 発展的地球史

定向的時間というキリスト教的な概念枠組み
フックとステノには、デカルトも影響を与えていた
→熱い恒星から冷たい惑星へ・地殻が崩壊することで不規則な地形が形成というデカルトの考え
フックとステノは、年代学と合理性の双方を満たすように、地球史を構築

そこから影響を受けたトマス・バーネット『地球の聖なる理論』
地球を7つの時期にわける
「大洪水」を物理的に説明することに努める
デカルトによる地殻の崩壊で地形を説明することで、山が無秩序である(地球は秩序正しくなければならないという観念に対して)ことを説明
しかし、化石の生物起源的解釈とあわない

    • ウッドワード『地球の自然史試論』

化石が生物起源であることと大洪水の信念とを結合させ、包括的に説明
ただし、大洪水の機構は何一つ説明できなかった

    • ルイド

アリストテレス的な、種子による化石の説明

    • レイ

もともと生物起源を受け入れる用意があったが、バーネット、ウッドワード、ルイドらの議論があって、態度を保留しつづけた


ウッドワード理論は、問題があったが、受容されていった
べレムナイトの鞘がオウムガイがもつような殻室であることわかったり、現生のウミユリが発見されたことで、生物起源説への証拠が増していった(それまで、べレムナイトもウミユリも類似する現生種がないとされてきた)
化石の非生物的解釈は、18世紀の初頭に消えていった(「貝石」「魚石」のような言い方も消えていった)

  • 18世紀前半

「第一紀岩」「第二紀岩」「第三紀岩」という文類

化石の生物起源、ステノやウッドワードのように地層を堆積物とする理解をもち、聖書と理性の双方に適合
ライプニッツは、慣習的時間尺度を採用したが、レイは、地球の歴史が人類の歴史より長くなることを予見

  • ビュフォン

冷却する地球という観念から実験をおこない、数万年という時間尺度を採用

第三章 生命の革命

ジョルジュ・キュビエを中心に扱った章

  • パリ自然史博物館

フランス革命後、パリ自然史博物館として旧諸機関が再編統合される
当時、イギリスは科学に対する国家の援助はほぼない。
ドイツは、鉱山学校を中心に科学者集団が成立していた。
パリ自然史博物館は、他にないほど多分野を網羅した研究センターとなった

  • 「絶滅」

キュビエ解剖学における2つの合理的原理
(1)部分の相関:生体の各器官の相互依存性
(2)形質の従属:機能から類縁性を決定
→これらの法則から、古代生物を発見していく→メガテリウムマストドン
アジアゾウアフリカゾウが別種であることを明言し、さらに化石ゾウ(マンモス)が別個の種であるとして、「絶滅」という考え方を確固なものとしていく
(ちなみに、ビュフォンはヨーロッパからゾウが発見されたことで、昔の地球は今よりも熱かったことの証拠だととらえていた)

  • 「革命」とド・リュックの地質学

キュビエは地球史が「革命」によって区切られていると考えた
Revolutionという単語はもともと天文学・地学の用語だったようなのだが、フランス革命以後、激変というような意味が加わり、キュビエもそのような意味をこめている。
マンモスが寒さに適応していたことがわかる。環境の漸進的な変化ではなく、激変が絶滅を引き起こしたと考えた。

    • ド・リュックの地質学

イギリスのナチュラリストで聖書の「大洪水」と地質学を和解させようとし、激変が近い過去にあったことを論じた
キュビエは、聖書との和解という点は取り入れることせずに、ド・リュックを取り入れた。
このあとにも出てくるが、キュビエは、進化論に反対したために、保守的な考え方の持ち主だったと考えられがちだが、当時のフランスの知的風土において、宗教と科学はすでに切り離されていたようで、キュビエは私的には誠実な信徒だったようだが、彼は科学で聖書を説明しようとはしなかった
キュビエは「革命」を長期的な海の侵入と考えていた

  • 現在主義actualism

現在作用している観察可能な過程との類比で、過去の出来事を推測する方法論のこと
独仏など大陸での用語に由来し、ふつう、英語圏で「斉一説uniformitarianism」と呼ばれる考え方だが、本書では、「現在主義」と呼称する。
これの意味は第3章ではわからないのだが、第4章でライエルが出てくるとわかる。
先に書いておくと、一般にライエルが生み出したと考えられている現在主義的な考え方は、むしろライエル当時には既に多くの地質学者にとっては一般的な考え方となっていた。
ライエルに独自な部分はむしろ、地球史を「定常」的にとらえる考え方の方で、本書ではこちらを「斉一説」と呼ぶ

  • 絶滅(キュビエ)vs進化(ラマルク)

化石でしか発見されない動物について、絶滅か進化か移住かの3つの選択肢
移住は、少なくとも大型陸生四足動物についてはもう言えない

    • ラマルク

→キュビエよりも古い知的伝統に属す
種は実在しない
「存在の階梯」を前提とする
永遠に近い長い時間尺度を採用した定常的地球史
化石証拠をあまり用いない
→生物は、少しずつ変化していくが、決して消滅しない

    • キュビエ

種は自然界を科学的に研究するための基本単位
ラマルクが想定するよりはるかに短い時間尺度(ただし、当時の地質学では常識的な尺度)
キュビエは、宗教的な創造を擁護して進化に反対したのではなく、科学的な立場の違いによって反対していた


ジョフロワ・サン=ティレールが、エジプト遠征から持ち帰った動物のミイラ
→形態の変化が起きていないことから、キュビエは進化が起きていない証拠とした


ラマルクは、進化を論じるうえで化石証拠を用いず、むしろ、キュビエの研究がのちのダーウィンの進化論に説得力を与えることになった
キュビエとブロンニャール→時代を遡るほど生物の形態が今より遠ざかることと、化石が地層の同定に使えること
パリ周辺が、海水と淡水が交替している→大陸の沈降と隆起
キュビエ『地球革命論』
突然の変化で生物相は絶滅し、他の大陸からの移住で新しい生物相ができる(生物の起源を移住で説明した)

  • 科学と聖書

キュビエは、激変(カタストロフィ)という語は使わず、革命(レボリューション)という語を好んだ
ジェイムソンによる英訳において、ジェイムソンが、最新の革命を「大洪水」と同一視する注釈をつけた
そもそもキュビエは、最後の革命の時期に人類はまだいない、もしくはまだ原始的で革命の原因にはなりえなかったと論じている
科学と宗教は互いの領分に入るべきではないとキュビエは考えていたが、イギリスにおいて、キュビエを支持したのは宗教的権威を擁護したい人々で、、キュビエの革命を大洪水と考えた。
バックランドは、科学と聖書を結び付け、科学を歪曲したとフレミングに批判された

  • 層序学とキュビエの革命理論の結びつき

アルプスですら比較的最近(第3紀)に堆積したことが判明(ブロンニャール)
累層の間に動物相の不連続がみられるが認められてくる
ド・ボーモン
造山が、複数の異なる時代に起きていたことを証明
キュビエの革命に物理的な説明を与える

  • 生命の歴史に「前進的」または「定向的」概念生じる

キュビエは、「存在の階梯」に反対し、生命を大きく4つの分岐にわけ、すべての生命を一つの系列にすることは排除したが、分岐の中では序列を認めたし、ある程度は、前進的・定向的な化石解釈を暗黙に認めていた
ニベアによるプレシオサウルスの復元、マンテルによるイグアノドンの発見が相次ぎ、第二紀が爬虫類の時代だという考えが浮上
さらに、植物化石の研究が、この方向性を加速
ブロンニャール息子が化石植物を研究し、さらに、植物化石から第一紀(主に石炭時代)は現代よりも熱かったと結論
→地球はかつて熱く冷却していったという地球物理学の議論(かつて、ビュフォンが主張していたが一度忘れられ、フーリエによって復活した考え)
→地球と生命の歴史は、ともに定向的な性格を有する

  • キュビエとジョフロワ

もともと親しかったが、次第に険悪に
ジョフロワは胚発生から、キュビエが考えるほど、体制は安定していないと考えるようになる
キュビエ的な方法論で、生命が環境に適応したと論じ、そこから、生命が変化していくという非キュビエ的な結論へと至る
ヒヨコの孵化の実験で、環境の変化で奇形を作ることを発見
ラマルクの非科学的信念(生命自身に備わる前進的傾向)を採用せず、ラマルクが嫌悪したもの(地質学における革命)を採用して、進化論を作ることができた
キュビエは、ジョフロワの地質学と解剖学における間違いを発見し、容赦なく攻撃した
生命が単一の系列につながるか否かという、自然に対する哲学の対立
キュヴィエの攻撃と勝利によって、その後30年にわたり、進化論に非科学的のレッテルが

  • イギリスでのキュビエの影響

それだけでなく、イギリスでは、生物が「デザインに満ちていること」という神学的な伝統がキュビエと結びつき、ラマルクやジョフロワへの批判につながった
ただし、筆者は、神学がただ有害だっただけという従来的な歴史観には異を唱える
デザインの豊かさへの関心は、種の起源や高等な形態を生み出す機構を考えることを妨げたが、一方で、化石種の研究を推し進める原因にもなり、進化論の証拠につながったから

  • まとめ

1830年頃までに、キュビエ的な考えを中心に古生物学と地質学の総合が起きた
地質学的時間尺度の長大化/累層の同定と対比が可能に
「革命」による生命の歴史の区切り
山脈の隆起による環境変化→絶滅
冷却する地球と生命の進歩という、定向的な歴史


これらは、科学雑誌の増加、多数の論文、相互参照のネットワークなどによって表された

第四章 斉一性と進歩

チャールズ・ライエルを中心にした章
ライエルが科学的な地質学を創りあげたわけではない。1830年までに既に科学的な合意はあった。

  • ロンドン地質学会

1807年創設
ライエルは31歳で副会長に
やはり国家の援助はほぼなく、会員の寄付に依存
天文学が貴族の科学なら、地質学は中産階級の科学
イギリスでは、独仏と異なり、科学者と実務家・技術者は、社会的に区別されていた

  • バックランド「洪水説」への反対

ライエルは、バックランドの講義を受けており、彼への反対がまず動機としてはあった
地質学者プレイフェアの現在主義的な見解に同調

    • スクロープ

火山の研究
バックランドに反対し、プレイフェア的な結論へ
地質学的証拠から、より長大な時間的尺度が必要だと考える
時間を長くすれば、突発的に見える出来事も、緩慢で漸進的な変化に「アイロンがけ」される
定向的モデルと生命の進歩には合意

生物学的側面からバックランドへ反対
定向的モデルを当然視
絶滅種と現生種の混在から、漸次的絶滅を提唱
(大洪水以後の「ヘラジカ」は人類の狩猟による絶滅であると考えるなど)

    • ライエル

スクロープやフレミングの総合へ
生物は漸次的に絶滅し、また漸次的に生じてくると考えることで、キュビエ的な種の実在性と、プレイフェア的な地質学的原理を適合させる

  • ライエル2つの原理

(1)過去に作用した過程は現在作用している過程と同じ=現在主義
スクロープやフレミングと同じ方針
(2)過去の過程は、現在の過程が用いているものと異なる活力の度合いでは作用しなかった
こちらは異論のある原理
→ハットン的な定常モデルへ
(ハットンは18世紀の人物)
定常モデルは、科学的にも神学的にも優れているとみなした

  • 定常的モデルvs定向的モデル

(1)冷却していく地球へ反論
(2)化石的証拠へ反論
→進歩しているように見えるのは、化石保存の偶然
不連続にみえるのは、記録されていない期間があったせい

  • ライエルの三要素

(1)現在主義的方針
いくつかの例外をのぞいて、当時の多くの研究者が合意
(2)変化の漸進的(段階的gradual)性格の強調
セジウィックら同時代人から反発される
(3)定常的モデル
スクロープら友人からも反対される
確立されていた物理的・古生物学的証拠に反する
ライエルは、1830年の時点で「変わり者」であった

  • 「自然の斉一性」の創造的混同

「斉一説」(ヒューエルの命名
地球史の「斉一性」と方法論の「斉一性」と科学の自立を保証する形而上学的な「斉一性」

  • 漸進的な変化

ダーウィンはこれに追随し、いずれ進化論へ
ライエルおよび、デエ(仏)、ブロン(独)は同時期に、動物相の変化が少量ずつかつ漸進的で急激なものではないと確信
セジウィックであっても、動物相の変化に漸次的な性格があることは認めていた。彼は、ド・ボーモンの研究を支持し、連続性の法則には反対しつつも、ライエルの漸進的な変化にもいくらかは同意していた

  • マーチソンの画期的研究

「シルル系」の画定
無化石の第一紀と第二紀の間にある漸移岩から、シルル系として画定される累層を名づけ、シルル動物相が世界各地で一様であることがわかった→定向的モデル・生物の「前進的」モデルへの証拠
デ・ラ・ビーチ→デヴォンの漸移岩から石炭紀の植物発見→ライエルからもマーチソンからも反対されるが、デヴォン動物相は、シルルと石炭紀の中間的だといことがわかる
→ライエルの原理について、「変化は漸次的である」は立証されていき、「定常的である」ことはますます否定されていく
さらに、セジウィックによる「カンブリア系」の提唱(セジウィックとマーチソンとの間の論争)

いずれにせよ種の起源は、わからないまま
無化石の地層があることには変わりなく、そして初期の生命は、三葉虫など明らかに複雑で適応的な構造を持っていた
「デザインに満ちている」ことがますます強固に

進化論に対する代案ともいうべきアイデアを出していた
ダーウィンは自らの著作の中で、自分の進化論かそうでなければ素朴な創造説か、という二者択一を装っていたが、実際には、当時、オーウェンの考えが説得力あるものとみなされ、オーウェンダーウィンの敵対者となっていく
適応とデザイン、キュビエ的な伝統を重視
4つの主要分類は明瞭に区別しつつも、その中では、ジョフロワ的な「構成の一致」の原理が有効→オーウェンが「相同」と名付ける
相同は、「理想型」というオーウェン形而上学的信念にもとづく
1848『脊椎動物骨格の原型と相同について』
現生動物の多様性は、潜在的イデアが時間を通じて具現した結果
オーウェンの考えについて
現代から見ると
・因果的機構への関心が比較的欠如している点
・観念論的形而上学的に依拠していた点
から古臭く、非科学的にも見えるが
当時からすると
・化石生物と現生生物を、デザインに満ちた自然という観点から
・意義深い「計画」に従って発展してきた自然という観点から
説明していたことにより、知的に説得力をもつものであった。

第五章 生命の祖先

チャールズ・ダーウィンを中心にした章

  • 19世紀半ばの古生物学界

職業化
→ジェントル・ナチュラリストから、研究所・博物館・大学の教職員へ(科学者という新たな職業)
国際化
→国家意識の急速な成長と同時に、国際会議や国際プロジェクトの進行

  • ハインリヒ・ブロン

ダーウィンのような進化論には至らなかった「負け組」とされるが、ダーウィンの進化論を当時の科学者が受け入れられるようになるには、彼の古生物学的総合が必要だった
1850年 パリ科学アカデミーから賞を受賞(国際化)
学生からそのままアカデミーに職を得て、ハイデルベルクの教授職にとどまりつづけた(職業化)

  • ブロンの「創造力」と二つの法則

種の生成について「創造力」という言葉を使ったが、ここでいう「創造」とは、神による創造ではない。神が直接手を下すのではなく、「二次的」作用因によるもの。そしてこの「二次的」作用因というのは、自然的、物理的なものであると考えられていた。
ここでいう「創造力」とは、具体的にどんなものかは明らかではないものの、重力や化学親和力など同じく、物理的なものが想定されている
化石証拠からの一般化から二つの法則を導く
(1)内因的法則:前進的傾向、肯定的かつ生産的
(2)外因的法則:適応的潜在能力、否定的かつ禁止的
19世紀、古生物学は発生学との類比がよくなされていた
発生学では、機械論的説明から、法則による説明へと関心が移っていた(ウォーレスが「法則」を論ずるのも同じ知的伝統)

  • ブロンとラマルク

ラマルクと同意見のもの
(1)種の実在
(2)漸次的な変化
ラマルクと見解が異なるもの
・化石記録の不完全性
→化石記録が完全ではないことはブロンも認めるが、見本として役に立つ程度には信頼できるとした
→生命が「進歩」してきたのは確かだと思われる
→一方、ラマルクのような種の転成は認められない。分類をまたぐ共通祖先も見当たらない。そして、相同はオーウェンの考えが説得的な説明をしていると考えられていた。

マルサス人口論と品種改良から、種生成の因果的機構について1842年までに概略ができていた
が、ライエル以上に、化石の証拠が不十分だと考えざるを得なかった
科学界に受け入れられるために、自分が有能な研究者であることをわからせる必要があり、フジツボの研究→ダーウィンの仮説の証拠ともなる
ブロンの2つの法則に対して、「前進的」な変化も、(フジツボのような)「退行的」な変化も、適応的な1つの法則で説明する
自然状態では種の変化は緩慢すぎて観察できない(→現在主義が適用できない)→品種改良による育種で見えるようにする

ダーウィンの議論の受け入れられやすい点
・生物地理学の解釈
・解剖学と発生学に関して、オーウェンの原型が「形而上学的」すぎると思っていた読者には、好意的に受け入れられた
ダーウィン理論の課題
・人為選択と自然選択の類比が妥当か
・化石記録が不完全であることを利用していること


ウォーレスの発表により、慌てて要約を出すことに
→そのため、短く、専門家以外にもよく読まれた

  • 専門家の反応
    • ブロン

自然選択が「創造力」の因果的機構であることを認めた

    • ピクテ

フランスの古生物学者
自然選択によって種が変化し、新種が生まれること自体は受け入れた
しかし、類似した種間での小規模な変化では認められても、これをより大規模な変化に適用することは困難だとした。特に、化石的証拠がないのが難点
当時の古生物学者の一般的な反応

    • ジョン・フィリップス

化石記録の不完全さをダーウィンが強調しすぎていることに反論
ダーウィンが、時間的尺度を増大させすぎていることにも反発
ダーウィンによる地球史の長さの見積もりは、現在考えられているものから見ても、長すぎであった)

ダーウィンに反対したが、進化そのものに反対したわけではなく、ダーウィンが主張する進化の機構に反対した
オーウェンの主張に神学的要素が全くなかったわけではないが、しかし、進化の原因が自然的なものであることは疑っていなかった

    • ライエル

ダーウィンに自説を公開するよう促したのはライエル
しかし、生命の進化自体を認めることは、ライエル自身の誤りを認めることでもあり、複雑
それでもライエルはダーウィンに賛同した
人類の歴史についての本で軽く言及したのみだが、ダーウィン進化論が人間の来歴に関わってくることを見抜いていた
化石証拠が欠如していることを説明するあまり、古生物学が証拠を示すことができる可能性に触れそこねた。始祖鳥に言及しておきながら、それが進化の証拠になることを見抜けなかった

  • 属や科レベルでの検証
    • ゴードリ

フランスの古生物学者で、ギリシアの地層から、哺乳類の中間形態について研究
ウマなどについて系統樹を描く(ブロンやダーウィンも「樹」を書いたが仮説的なものにとどまる)
しかし、進化と系統発生については認めていたが、「機構」についてはダーウィンに反対
自然選択が、運と闘争によるもので、自然の均衡と調和を重視する従来の価値観に合致しなかったから

    • ハクスリー

始祖鳥やコンプソグナトゥスの発見が相次いだことで、これらをダーウィン進化論の証拠とする

    • ウマ進化の再検討

ロシアの古生物学者コワレフスキーや、アメリカの古生物学者マーシュの再検討により、より原始的な哺乳類との中間種がわかったり、ウマ科の系列がより明らかになった
西ヨーロッパ以外での研究の発展

  • 自然選択という機構への疑い

門レベルにおいては、いまだ、ダーウィン的な緩慢で漸次的な変化による進化の証拠はなかった
共通起源の証拠がない
さらに、ケルヴィン卿により、熱力学の観点から地球の歴史を再計算しなおしたことにより、ダーウィンが考えるような長大な時間の見積もりはできなくなってしまう

  • 自然選択以外の進化論

ダーウィンは、自身の時間の見積もりを取り下げ、自然選択という機構の考察は、18世紀後半において棚上げされる
しかし、そのことが、進化についての考察を自由にしたという利点もあった、と述べられている
・「適応放散」という再解釈
・「突然変異」という跳躍的な進化(現在いわれる「突然変異」とは異なる意味)
有害な点もあって、系統発生を反復する個体発生という考えは悪影響をもたらしたとしている。
また、スペンサーによる社会進化論など、より広範な影響があったことにも触れられている。

*1:翻訳に用いたのは1985年版のようである