ストップモーションアニメかつミュージカル映画のピノキオ
自分はピノキオというと、ディズニーによるものを見たことがあるくらいだが、あれとはだいぶ違っている。
デル・トロ作品は、これまで『パンズ・ラビリンス』 - logical cypher scape2『シェイプ・オブ・ウォーター』 - logical cypher scape2を見たことがある。
本作も前から気になっていたのだけど、ネトフリ入り直したのでこのタイミングで見た*1。
ファシスト政権下のイタリアが舞台
(フランコ政権下のスペインが舞台だった『パンズ・ラビリンス』を思い出す)
まず、このピノキオは、ゼペットじいさんが死んだ息子の代わりとして作ったという設定で、物語自体は、その息子カルロが生きていた頃から始まって、そこにもそれなりに尺が割かれている。
カルロは、第一次大戦中の空襲により不条理にも亡くなってしまう。
ピノキオに命を与える精霊というのが、デル・トロ作品らしいクリーチャー的なデザインをしていて、身体は獣で、顔だけ人の顔をしている奴
そもそも、ピノキオのデザイン自体が、明らかに木の人形然として、動くと結構不気味なところもあるのだが、しかしかわいらしくもある。
カルロが非常にいい子であるのに対して、命を与えられたピノキオは非常に自由奔放である。というか、生まれたばかりで何も知らなくて、幼い子のようにやりたい放題、という感じなのだけど、カルロとギャップが激しすぎて、ゼペットじいさんは戸惑うし、キレる。
しかし、次第に愛おしい我が子と思うようになっていく
ディズニー版のピノキオだと、狐と猫のコンビがピノキオを騙していたと思うが、こちらにはこの2人組はいない。
移動遊園地の座長と、その座長が飼っているサルのスパッツァトゥーラが出てくる。
このスパッツァトゥーラ、最初は嫌な奴なのだけど、結局、座長と仲違いして、ピノキオの仲間になる。
ムッソリーニも登場し、ピノキオは、座長への当てつけでムッソリーニを揶揄する歌を歌う。
また、ファシストの市長は、ピノキオのことを兵士にしようとしている。また、市長の息子も重要なキャラクターとして出てくる。こちらは、父親に臆病者と罵られながらも、父親の期待に応えて兵士になろうとする子どもなのだけど、兵士訓練所でピノキオとライバルになりつつも協力しあい、最終的には、この父親の支配から脱することになる。
このピノキオ、死んでもまた生き返るという設定があって、車に轢かれたり銃に撃たれたりすると死んで冥界に行くのだが、そこでトランプしているウサギたちと精霊に出会って、また蘇ってくる(前述の市長は、そのため、不死の兵士にしようと思っている)。
ゼペットじいさんを飲み込むクジラが、これまた怖そうなクリーチャー的なデザインをしている。
ピノキオは最後、不死の存在から普通の子どもと同じ死ぬ存在へと変わるのだけど、それでも、ゼペットじいさんやコオロギのセバスチャン、スパッツァトゥーラの方が先に亡くなっていく、というところまでラストで描かれている。
自分が親になっているためか、子ども(ピノキオ)が死ぬシーンとかは、思いのほか泣いてしまう。
ピノキオの自由っぷり、やんちゃっぷりに手を焼かされるところにも共感してしまったり。
ピノキオといえば、嘘をつくと鼻が伸びる、というのがあるが、本作では、クジラから脱出するのにこれを用いたりしている。
また、ピノキオはゼペットを助けるために、死から復活するためのルールである砂時計を破壊する。
ピノキオがいい子になる、のではなくて、ピノキオらしさを活かす、みたいなことなのだろう(本作のWikipediaにそれらしきことが書いてある)
ピノキオはゼペットを助ける代わりに死ぬのだが、それをコオロギのセバスチャンが、自分の権利である願い事を使って蘇らせる。
まあ、子どもの自己犠牲で終わってしまうのもよくないので、ここで蘇ってめでたしめでたしではあるのだが、最初見たとき、ご都合主義っぽいなあと思った。
ただ、コオロギのセバスチャンというのも、考えてみると、もともと自己本位な性格をしていたのが、ピノキオとの関係を通じて性格が少し変わった、という話なのかもしれない。
*1:なお、ネトフリはまた解約した。また何か見たい作品が出てきたら入ったり入らなかったりするのだろう