ネルソン・グッドマン『芸術の言語』(戸澤義夫・松永伸司訳)

待望の邦訳
原著についてはネルソン・グッドマン『Languages of Art』 - logical cypher scapeというか、超文フリにて新刊『筑波批評2013春』! - logical cypher scapeでレジュメをまとめたので、こちらの記事では内容まとめません。
ただまあ、やはり英語では読み切れていない部分などはあり、改めて日本語で読むことで再整理できたかなとは。特に4章後半とか5章とかは。

芸術の言語

芸術の言語

序文
序論

第一章 現実の再制作
1 指示
2 模倣
3 遠近法
4 彫刻
5 フィクション
6 トシテ再現
7 創意
8 写実性
9 記述と描写

第二章 絵の響き
1 対象領域の違い
2 方向のちがい
3 例示
4 サンプルとラベル
5 事実と比喩
6 図式
7 転移
8 隠喩の諸方式
9 表現

第三章 芸術と真正性
1 完璧な贋作
2 答え
3 贋作不可能なもの
4 理由
5 課題

第四章 記譜法の理論
1 記譜法の主機能
2 統語論的要件
3 符号の合成
4 準拠
5 意味論的要件
6 記譜法
7 時計と計数器
8 アナログとデジタル
9 帰納的な翻訳
10 図表、地図、モデル

第五章 譜、スケッチ、書
1 譜
2 音楽
3 スケッチ
4 絵画
5 書
6 投射可能性、同義性、分析性
7 文字
8 ダンス
9 建築

第六章 芸術と理解
1 絵と文
2 調べることと見せること
3 行為と態度
4 感情の機能
5 美的なものの徴候
6 価値の問題
7 芸術と理解

用語解説
概要
訳者あとがき
人名索引
事項索引

表現と例示

第二章の表現と例示のあたりは、やはり面白いところだなあと思う。
グッドマンは、「何か(絵画とか)が何か(感情とか)を表現する」というのは、「何かが何かを隠喩的に例示(その性質を所有し表示すること)すること」と捉えることで、「表現する」とは何かをより明確にしようとしている。
隠喩的ってなんやねんと思うけど、隠喩とは何ぞやということに、記号図式の転移transferということで説明を与えている
隠喩とは、あるラベル(語)を新しい対象に適用すること。ラベルの外延、諸ラベルの領野を移行させる。
*1
隠喩も、真偽の基準がある(正しい適用と正しくない適用がある)
訳注)適用するapply toをグッドマンは行為としては考えていない
グッドマンは、芸術作品には、より再現的(指示的)なもの、より例示的なもの、より表現的なもの、あるいはその3つのどれもが際立っているものなど色々あるよねと述べている(『芸術の言語』はあくまで概念の整理なので、どのような芸術が優れているかという評価には触れない)
グッドマンのこういう整理はそれなりに使えると思っていて、自分は2013年に出した『筑波批評』で、いくつかのアイマスMAD動画について、どのようにして例示的なものになっているか、そしていかに再現的なものと例示的なものとが混ざり合った作品であるかを論じたことがある。
ちなみに、ウォルトンは、"Metaphor and Prop Oriented Make-Believe"でこの新しい対象への適用について、ごっこ遊びで説明するということをしている。小道具志向のごっこ遊び。含意されたゲーム。


ウォルトンとグッドマンというと、高田さんが以下のようなことを述べていた。

メイクビリーブとかはじめに言い出したのは、Make-Believe and picturesだからね。そもそも最初期から、グッドマンの記号システム論のライバルプロジェクトとして構想されてるように思う。
https://twitter.com/at_akada_phi/status/862988040603435008

ウォルトンとグッドマン - Kendall Walton, 表象は記号か - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

アナログとデジタルの話

あるシステムがデジタルであるにはたんに非連続であるのではなく、統語論的かつ意味論的に全体的に差別化されていないければならない。(p.184)

アナログなのは全体的に稠密であるシステムだけであり、デジタルなのは全体的に差別化されているシステムだけである。いずれの種類にも属さないシステムは数多くある。(p.185)

ドット絵(だから必ずしもデジタルであるというわけではなく)見方によっては稠密と松永さんがよく言っていた記憶
このあたりの整理、やはり面白い

モデル

モデルという言葉は、色々な意味に使われすぎている、と。
いくつか、どのようなことにモデルという言葉が使われているか例を挙げているけれど、例示として使われているものなど
しかし、グッドマンは、多義的ではない「モデル」という言葉の使い方を提案する。サンプルでも記述でもないケース。船の模型など。

モデルは、サンプルとはちがって指示的であり、記述とはちがって非言語的である。この種のモデルは、実質的には図表――だいてい二次元より大きい次元を持ち、部分を動かすことができるような図表――である。あるいは別の言い方をすれば、図表は平面的かつ静的なモデルである。(p.194-195)

図表は、絵画と比べて充満ではない稠密な図式(p.266)
SEP「科学におけるモデル」ほか - logical cypher scape

芸術と理解

以前、科学における美とは何か - logical cypher scapeこんな記事を書いたので、興味深く読んだ。というか、この記事を書いたときにグッドマンを思い出すべきだったか。
グッドマンは、科学と芸術の区別を批判する。両者に、質的な差はなくて、程度の差みたいな違いなんだというような話。
この本では、美的な評価・価値についてあまり触れていないけれども、グッドマンは、美的に優れているものを、記号として卓越性のあるものなかで、特に美的なものについてなのだと述べている。
ここでいう「美的なもの」というのは、評価・価値をあらわしているわけではない。
記号一般の中で、稠密性や充満・表現的などの特徴があると、美的なものになる。科学も芸術も全部記号という点では同じで、そういう特徴があるものが、特に芸術と呼ばれている、と。ここで挙げられているのは、あくまでも区別するための特徴であって、繰り返すけれども、優劣・価値ではない。
優劣・価値・評価については、記号としての卓越性によって言われるとあるので、その点では、美的なものもそうでないものも同じ基準で、優れているかどうか諮られるという感じのようだ。

一般的な卓越性を美的対象が示す場合に、それが美的な卓越性になると考えた方がよい。つまり、美的価値とは、諸属性の特別な組み合わせにおって美的なものとしての身分を得た記号的な働きにおける卓越性にほかならない。このように、美的な卓越性は認知的な卓越性のもとに包摂される。(p.296)

こういう立場に立つと、そもそも科学における美とは何か、という問題設定自体が何かズレたものになってしまうのかもしれない。
ただ、この立場だと、自然美など記号ではないものの美はどうなるの、という疑問も生じるが。


いわく言いがたさのような美的特徴を、稠密性といった記号の特徴へと分析しているのなども面白いところだと思う。

唯名論

訳者あとがきには、唯名論実在論かというよりはむしろ、その二者択一を放棄する「脱−実在論」的な立場なのだと書かれている。
客観性をどこかで担保しようとする穏健な唯名論的なところなのではないかな、という気はする。わからんけど。