SEP「科学におけるモデル」ほか

Models in Science (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
部分的に眺めたので、その時に書いたメモを放っておく

SEP「科学におけるモデル」

意味論
  • 世界の一部(ターゲットシステム)についてのモデル
    • 現象のモデル

モデルってそもそもどういう種類の表象なのか→非言語的表象
どういう表象のスタイルか→意味論的観点の2つの立場(1)ターゲットと同型isomorphic(2)similarity
以下、いくつかモデルを分類する(ただし、互いに排他的な分類ではない)
scale models
ターゲットシステムを縮小もしくは拡大したコピー。パースがいうイコンの特殊な例
idealized models
摩擦なしの飛行機、点質量、無限の速度、孤立系、全知のエージェント、完全均衡した市場など
アリストテレス的理想化:問題に関わってない性質は取り除く。
ガリレオ的理想化:故意に歪にする。複雑すぎる状況を単純化する。摩擦なしとか全知とか。 ideal limits
analogical models 
ガスのビリヤードボールモデルとか心のコンピュータモデルとか核の液滴モデルとか。二つの事物の間での共有された性質が類似性によってアナロジーが成り立つ。
phenomenological models 
伝統的な定義は観察可能な性質を描き、隠れたメカニズムを仮定しないモデルのこと。別の定義として理論から導出されないが、理論と結びついた原理・法則を盛り込んでいるモデル。

    • データのモデル

生データを正したり整えたりしたもの。カーブフィッティングなど

  • 理論についてのモデル
エピステモロジー

省略

モデルと理論

モデルは科学にとって付加的なもの

  • 理論を意味論的に見る立場

モデルは科学の理論化にとって中心的なもの

  • 理論と独立

実際にモデルは理論から自動的に作られるものではない、モデル構築は一種のアート。また、機能的にも理論から独立している、という考えもある。

自然法則とモデル

自然法則は世界についてあてはまる普遍のようなものという考え方があるが、むしろ、世界ではなくモデルについてあてはまるもの
自然法則は、世界のではなくモデルの存在や過程を支配している。
法則の実在論者からの回答が見当たらない。

モデルと科学的説明

モデルはツールという考えと
モデルを作ることこそが説明であるという考え

何故急に「科学におけるモデル」のSEP記事を眺めていたりしたのか

「地球惑星科学の哲学」ってどんな学問? / 青木滋之 / 哲学・科学思想史 | SYNODOS -シノドス-
このような記事があったのだが、内容的には宇宙倫理学っぽいことが書かれており、もう少し専門的な地球惑星科学の哲学としてはどのようなものがあるのだろうか、と。
気候シミュレーションの哲学とかあるから、モデルとシミュレーションみたいな話hありそうかと思った。
実際、地球惑星科学の哲学で検索するとヒットする以下のブログでも、モデルの話はされている。
地球惑星科学の科学哲学を構築する!
法則とモデルの関係というものも気になったり。
地球惑星科学におけるモデルに何があるのか分からないけれど、ミランコビッチ・サイクルやウィルソン・サイクルはそれにあたるのだろうか。うーん、ちょっと違うか。
ただ、物理学における自然法則による説明にあたるのか、そうでないのか、というのは要するに、生物学や歴史科学における説明とは科学的説明なのかというような問題なのかもしれない。そうすると、モデルの話なのかどうかよく分からなくなってくるけど。
シミュレーションとかは、scale modelsあたりなのだろうか。

グッドマンにおけるモデル

ネルソン・グッドマン『芸術の言語』(戸澤義夫・松永伸司訳) - logical cypher scapeでは、モデルについても少し触れられている。
端的に言ってしまえば、モデルとは図表の一種。
立体的な図表というか。
ただ、それ以外に、日常的に使われている「モデル」という言葉は多義的で、例示のサンプルとして使われているものなども「モデル」と呼ばれていることを指摘している


あと、モデルとは全然関係ない文脈だけど、コンピュータがデータからどのような曲線を描くかみたいな話が書かれていて、ちょっと、データのモデルの話と通じそうなところがある。あれはコンピュータがどうのという話だけども(削除と補完)

心の哲学についての思いつき

心の哲学には、いわゆるハードプロブレムないしクオリア問題という奴があるが、個人的にはあれに存在論的ギャップはなくて、認識論的ギャップか説明のギャップがあるのだと思っている。
特に、説明のギャップからアプローチできるのではないか、というような感じを持っている。
クオリア(というより、意識の現象的性質というよう言い方の方が、個人的には好ましく思っている)は、現象的であるがゆえに非命題的なところがあって、それが科学的説明とうまく噛み合わないのではないかと思った。
さて、SEPのモデルの項目を見ていたところ、モデルとは非言語的表象であること、科学的説明とはモデルを作ること(だとする立場があること)を知った。
ということは、クオリアのモデルを作ることが、そのままハードプロブレムの解消なのではと思った。いや、それが難しいのだと言われればその通りかもしれないが。