ジェラルド・M・エーデルマン『脳は空より広いか』

神経科学者エーデルマンによる、「意識」についての研究の一般向け啓蒙書。
基本的には、全くその通りだよなあと思いつつ読んだけれども、うむむまだよくわからんなーという部分もあった。


とりあえず、まずは本の内容をざっと紹介。

意識について

エーデルマンは意識の特徴として、主観的であること、統合されていながら、かつ変化していくことなどを挙げている。
特に重視しているのが、統合されながら変化していくということである。
意識は、様々な要素が合わさって単一のシーンとして構成されている。目に見えている様々な感覚やら感情やら何やら。そしてその中から要素だけを取り出そうとするのはほとんど不可能(例えば、クオリアについて、「赤」のクオリアなどといって、あたかもそれだけ単独で取り出せるかのように語られることがあるが、それを否定している)*1。そのように統合されながらも、時間的推移にともなって次々と変化していくものである。
エーデルマンは意識の特徴を三つに分類している。
「全般的な特徴」「「情報としての意識」に関連する特徴」「「主観としての意識」に関連する特徴」
上にあげた、統合性と変化は「全般的な特徴」である。
「「情報としての意識」に関連する特徴」としては、志向性や注意によって調節されていることを
「「主観としての意識」に関連する特徴」としては、主観性、クオリア、現象性などを挙げている。
クオリアに関して言えば、彼はクオリアが一人称的な体験によるものであり、そもそもそれを直接記述するようなことはできない、としている。一方で、クオリアを説明する理論そのものは可能である。クオリアを可能にしているような神経系的な基盤を説明することができれば、科学的理論としては十分であるとしている。
脳神経系の理論的記述に対して、そのような記述によってクオリアが感じられることはないという形で批判がなされることがあるが、そもそも理論を理解することと体験することは別ものである、としている。
また、クオリアは脳神経系のあるプロセスによって生じる特性ということになるのだが、神経系という基盤とその特性たるクオリアが、必ずしも似ている必要はないとしている。
クオリア、あるいは意識について、どのような説明であれば科学的説明として十分であるかということの線を引いている。
この線引きは、個人的にはとても妥当だと思う。
というか、クオリアを持ち出して、科学は原理的に心を説明できないとかいうのは、そもそも「説明する」という範囲にはないことを要求している無茶な話だと僕は思っていて、何度かこのブログでもそういうことを書いた。

神経ダーウィニズム

エーデルマンの脳についての基本的な主張
神経細胞群選択説(TNGS)」という名前の考え方
これは、ダーウィンの「集団的思考」を、進化だけではなく、脳の神経系の仕組みにも当てはめようというもの
ニューロンのネットワークがとりあえずわーっと発達したあとに、胎内での発生時期やその後の環境からの刺激によって、機能や構造が淘汰選択されていく、というもの
脳のOSについての考え方だと言える。
進化論が、生物種のデザイナーを不要にしたというのであれば、TNGSは、「頭の中のホムンクルス*2を不要にするものである。
さて、エーデルマンのこのTNGSというモデルは、「脳=チューリングマシン」というモデルに対する批判でもある。
エーデルマンは繰り返し、「脳=チューリングマシン(コンピュータ)」説(あるいは表象主義?)を批判する*3
ところで、この本には全く出てこないけれど、心の哲学の世界だと、脳の仕組みがどうもコンピュータっぽくないぞということが分かってきたところで、コネクショニズムという新しいモデルが登場してきた。とはいえ、このコネクショニズムも結局はどうもうまくいかないということが分かってきた。
コンピュータモデルにしろ、コネクショニズムモデルにしろ、誰かがプログラムしてやったり、学習を方向付けてやったりしないといけない。無論、実際の人間の脳にそんな「誰か」は存在しない。
TNGSはさらに、脳の局在論と全体論の対立に対して、「大局論」という形で反論する。
ここで重要となる考え方が「再入力」と「縮退」である。
この本は基本的にこの「再入力」と「縮退」によっておおよそのことを説明している。
「再入力」とは、
別々の脳の領域が双方向的に信号をやり取りして同期することである。
「縮退」とは、
構造の異なるものが同じ働きをする(同じ出力をする)ことである。具体例としては、遺伝子コードが挙げられている。あるアミノ酸を出力するコードとして、複数の塩基配列がある。同様に、同じような機能をする、複数の神経構造がありうるということである*4
この「再入力」と「縮退」によって、「結びつけ問題」が解かれる。
「結びつけ問題」とは、例えば視覚の場合、色、形、動きなどそれぞれ別々の領域で処理されているものが、どのようにして一つのまとまったものとして出力されているのか、という問題である。これらをまとめあげているような領域がないのである。
これは、それぞれ別の領域間で再入力が起こることによって、それらをとりまとめる上位機能なしに「結びつけ」が起きているとされる*5
知覚と記憶のあいだの再入力ループが形成されることで、意識が構成されるようになった、とされる。

ダイナミック・コア仮説

意識については、TNGSに加えて、この「ダイナミック・コア仮説」によって説明されている。
ダイナミック・コアとは、視床-皮質系において、再入力によって形成される系のことである。
このダイナミック・コアというのは、脳の特定の部位をさしているわけではなく、そのような再入力の信号が行き交うような神経回路のことを指していて、時間的な変化に伴って、他の回路と同期しながら変化・推移していく。
そして意識Cとは、このダイナミック・コアの神経プロセスC’に必然的に伴立するものである、とする。
C’の特性として、C’を忠実に表示するのがCである。
C’に伴って現れるのがCであり、C’がCを引き起こしているわけではない。
因果的効力を有するのはC’であり、Cは因果的効力をもたない。

スーパーヴィーニエンスとか随伴現象とかとダイナミック・コア

個人的には、心の哲学の中でもっともよく分かっていないのがこのあたりで、はなはだ心許ないのだが*6、ダイナミック・コア仮説にとってここらへんは整理しなきゃいけないところなのでしょう。
エーデルマンは、当たり前だけど、因果の物理的閉包性を主張していて、物理的な神経プロセスには因果作用を認めるけれども、心的事象には因果作用を認めない。
また、デイヴィドソンやキムの名前を挙げて、スーパーヴィーニエンスと自分の説が似ていることは認めている。
一方で、随伴現象説ではない、とも主張している。
キム論文は、実は手元にあるのだけど、ずっと積読になっていてまだ読めていない。とりあえず、訳者解説だけちらっと見てみると、
デイヴィドソンは、「非法則的一元論」を主張している。これは心的出来事トークンと物的出来事トークンは同一であるが、その両者の関係に法則性はなく、心的出来事トークンは因果的効力をもたないというもの。
キムは、デイヴィドソンの「非法則的一元論」を「随伴現象説」だといって批判する。随伴現象説とは、心的なものには因果的効力を認めない説のことである。キムは、心的性質が物的性質にスーパーヴィーンするのだといえば、心的性質にも物理的因果を認めることができると主張している。
ということらしい。
そう考えると、エーデルマンのダイナミック・コア仮説って、やっぱり随伴現象説なんじゃないのって感じもする。
エーデルマンは、意識Cの因果的効力を認めないし、意識Cに因果的効力があるかのように言うのは科学的には間違いだとしているが、意識Cは神経プロセスC’の忠実な反映であり、そもそも固体はC’をCを通してしか知ること・体験することができないので、そういうふうに見なしてしまうのは当然である、というか問題ないことなのだと主張することで、随伴現象説とは違うのだよ、と言おうとしている。
ここらへん、正直よくわからん。
(伴立が何の訳語かわからん。superveneは、本書では「重生起する」、キム論文では「付随する」という訳語。随伴現象はepiphenomenalの訳語)

現象性とか主観性とか

そもそもこの意識という奴が、科学にとって厄介なのは、一人称的な体験によってしか知られることのないものだからである。
エーデルマンは、意識の一人称的な性質(主観性)を積極的に認め、それが何故生じるかについて説明している。
まず一つ、そもそも基盤となっている神経回路が異なっているから、個々人によって異なっている。
これは実際に実験してみると、同じ体験報告(「青色が見えます」)をしていても、脳内で発火しているパターンは人によって異なっていることが分かっている。何故パターンは異なっているのに、似たような体験を報告するのかというと、それはつまり縮退によるのである。
もう一つ、胎児から次第に成長していく中で、脳に意識が生じていく過程で、まずそのもととなるのが自律神経系や身体感覚からの入力であり、それが一生涯続き、そもそも意識のおおもとが「自己」と関わっているから、である。
こうしたことからエーデルマンは、意識を生じさせる神経プロセスについては説明できるが、ある意識現象に対応する特定の神経プロセスを同定することはできない、というか、そういうことには意味がないとしている*7
各個人の歴史性が反映されている、ともいえる。
(こうしたことから、「心的表象」とか「思考としての言語」とかいった考え方も否定している)
そもそも、そうした一人称的体験として、神経プロセスの振る舞いを出力するということが、進化的にも適応度が高かったのであろうとしている。
これが、いわゆる現象性とかクオリアとかがある説明になっている。
単に同じ機能をもっている動物よりも、それを意識として出力できる方が、高い識別が可能であるというのがエーデルマンの説明である。高い識別が可能な方が適応度も高いのは当然だろう。
(エーデルマンは繰り返し、クオリアを高次な識別であるとしている)
エーデルマンは哲学的ゾンビが不可能だと述べているが、それもどうもここらへんが理由っぽい。高度な識別を可能にする神経プロセスC’は、そもそも必然的に意識Cを伴う、と。


意識のハードプロブレム、という奴は、なんで脳は、現象性をもつ意識を生じさせてるのか、ということだと理解しているのだけど、それに対する仮説を並べてみる。
・エーデルマンのダイナミック・コア仮説
神経プロセスから必然的に伴立する。進化的には、意識の現象性ないしクオリアは、高い識別が可能で適応度が高いから。
・スーパーヴィーニエンス
僕はこのスーパーヴィーニエンスというのがよく分かっていないのだが、日本人だと柴田正良が主張している。ところで彼は、ロボットであっても適切な物理的性質があれば心的性質がスーパーヴィーンするという主張をしていたと思う。一方、エーデルマンは、人工物が人間と同じような意識を持つことはないと述べている。
・ハンフリーの考え
ハンフリーは、感覚と知覚が全く別々に進化して、感覚のモニタリング機能が身体の一部(具体的には脳)でループ構造になったのが意識である、としている。前適応みたいなもんかな、と理解している。エーデルマンは、知覚と記憶の再入力ループが意識を生じさせると述べており、感覚と知覚をハンフリーのようには区別していない。ハンフリーは、盲視の研究からこのような考えに至っているのだが、エーデルマンは盲視をダイナミック・コアの変調による病変と考えている。
ちなみに、エーデルマンの同書とハンフリーの『赤を見る』はともに同じ2004年に発表されている*8
三浦俊彦のファイン・チューニング
クオリアは宇宙定数みたいなもんなんだよ、って説だったはず
・消去主義
意識の現象性自体を消去しちゃうのは無理だと思うんだけど、クオリアに関して言うと、志向性とか他の性質に還元しちゃおうとする考え方はある。
ニコラス・ハンフリー『赤を見る』 - logical cypher scape
『感情とクオリアの謎』 - logical cypher scape


脳は空より広いか―「私」という現象を考える

脳は空より広いか―「私」という現象を考える

*1:僕は今、音楽を聴きながらPCの画面を見て、書く文章を考えながら、キーボードを叩いてて、それらが一体となって意識されている。PCの画面に映っている「白」だけを取り出して体験することはできない

*2:あるいは「デカルト劇場」

*3:名前は出てこないのだが、心の哲学分野でいうところの、フォーダーなのかなあと思ったり

*4:「おばあさん細胞」はない

*5:いまいちこの再入力がよく分からなかったのだが、坂井克之『心の脳科学』 - logical cypher scapeに書いてあったようなことかな、と思っている

*6:そもそもあまり心的因果の話に興味がない

*7:痛みCを、繊維Cの発火である、というような、心の哲学でよく出てくる心脳同一説は、エーデルマン的にはナンセンスっていうことであろう。心が脳によって生じるというのは大前提であるが、そういう1対1対応をしているわけではないということ

*8:エーデルマンは、「私という現象」と「価値」が密接に関係していると考えているようで、意識を「重要であること」と結びつけているハンフリーと、そこらへんは似ているのかなと思ったり