ラリー・ラウダン『科学と価値』

日本語版のサブタイトルに「相対主義実在論を論駁する」とある通り、科学哲学における二つの極端な(?)考えを批判していく中で、ラウダン*1の網状モデルという科学哲学が展開されている(解説で戸田山さんが述べているが、「網状モデル」というより「三項ネットワーク」というネーミングの方が確かに適切だと思う)。
ここで相対主義と言われているのは、主にクーン以降の科学哲学・科学社会学の流れであり、ラウダンの主張は、クーンを継承しつつもその相対主義的な側面に対して批判を加えたものとなっている*2
全部で五章から成るが、第一章と第二章でこれまでの科学哲学の流れを概観した上で、第三章と第四章で相対主義を批判しながら網状モデルを展開し、第五章で実在論批判を行っている。


この本で主に説明が試みられていることは、科学者の見解がこれまで何度となく不一致と一致を繰り返してきたことについてである。
論理実証主義ポパーあたりの科学哲学は、科学が何故見解の一致に辿り着くのかを説明しようとしてきた。それは合理的な基準にもとづいて科学が行われているからであろうという考えにいたる(合理主義)。
そうした科学哲学の流れに対して、クーンがもたらした衝撃は大きかった。彼は科学史の中から不一致の実例を指摘し、いわゆるパラダイム転換を主張する。ラウダンいうところの「ニューウェーブ」である科学哲学や科学社会学は、異なる主張のどちらを選ぶべきかを判断する合理的な基準はないということを主張していく(相対主義)。
ラウダンは、合理主義の立場に立つのだが、上にあげた両者に関しては、科学史において度々見られる一致と不一致のそれぞれ片面しか説明しておらず、どちらも不充分なものだと見なしている。
さらにいえば、前者の考え方の中に既に相対主義が胚胎していたことを見て取る。それが階層的構造のモデルである。
科学の理論、方法論、目的を区別した上で、理論は方法論によって、方法論は目的によって正当化される、というのが階層的構造モデルである。
ところでこのモデルでは、目的に関しては正当化がなされていない。それゆえに、目的に関しては科学者個人の「趣味の問題」となってしまう。
こうした考えは、クーンにも受け継がれていく。
クーンは、目的・方法論・理論が密接に繋がっていると考え、異なるパラダイムに属する者同士は、その理論も方法論も目的も異なるとしており、別のパラダイムに移行する際にはその全てが一挙に変化するとしている。
ラウダンは、理論が方法論によって、方法論が目的によって正当化されるばかりではなく、目的や方法論が理論によって制約されたりすることがあると主張する。
既に判明している科学的事実に照らして、あまりにも不合理な目的は却下される(例えば、光速以上の移動を可能にするとか)。また、様々な事実が判明するにつれて、方法論も変化していく(例えば、盲検法はプラセボ効果が判明することによって用いられるようになったとか)。
また、理論・方法論・目的は同時に変化するものではない。一つが変化しなくても残りの2つは変化しないことはよくあることであり、そしてそうであるからこそ、選択において合理的な基準を用いることができる。
例えば、ある時に理論が変化し、しばらく経ってからそれに伴い方法論、目的が変化していくとする。これを後の世から見てみると、変化前と全ての変化が終わったあとで比較して、あたかも共役不可能なパラダイム変換が起こっているように見えるにすぎないのである。
こうしたことを、ラウダン科学史の様々な事例を持ち出して説明していく。まあ、実際の科学史的事実に関する詳細な分析は別の論文を参照せよ、ということになるが、それでも幾つかのそうした科学史上における変化の事例に触れられている。
科学においてどのような方法論や目的が正当化されるのか、を探求するのがメタ科学としての科学哲学の仕事であるが、それを、「哲学的な」直観やら何やらを用いるのではなく、経験的事実に基づいて行う立場を自然主義と呼ぶ。自然主義の立場は、クワインの「認識論の自然化」によって広がり始めた立場であるが、ラウダンのそれはクワインのとは異なる。クワインは、認識論が心理学の一部門になるとしているが、ラウダンの考える自然化は、哲学を心理学にしてしまうことではない。


実在論批判は、ここまでで展開されてきたラウダン科学哲学の応用編となる。
実在論とは、(成熟した)科学の理論は近似的に真であること、そしてそのような理論で措定されている対象(クォークとか)は実在していることを主張する立場である。
実在論がこのような立場を主張するのは、科学は現に成功しており、そうであるならばその理論は近似的に真であり、またその理論の対象は実在していると考えられるからである。
だがラウダンは、ある科学理論が現に成功していることと、その理論が近似的に真であること、あるいはその理論が正真正銘の指示を行っていること*3とは関係ないことを主張する。
まず、そもそも実在論者が主張するところの「成功」や「近似的に真」が一体何を意味しているのかが不明瞭であるとした上で、ここでもラウダンは、科学史的事実に訴えかける。
つまり、かつて成功してきた理論が必ずしも近似的に真であったり正真正銘の指示を行ってきたわけではないということである(ここでラウダンはいくつもの理論を次々と列挙してみせる)*4
また、近似的に真であったり正真正銘の指示を行う理論が、成功することを含意しているわけでもないとも論じている。
さらにラウダンは、実在論者が採用している「最良の説明への推論」という推論の方法自体も批判している。


こうしてラウダンは、「自然主義・合理主義・科学的反実在論」というのをセットにした立場を打ち出している。


戸田山の巻末解説では、ラウダンの規範的自然主義という哲学的立場についてや、ラカトシュのリサーチ・プログラム説との違いなどが解説されている。
また、ラウダンが「線引き問題」を疑似問題としていることも書かれている。
これまでに様々な線引きの基準が作られながら失敗してきた例をだし、何らかの基準によって何かが科学かどうかを判断するのは不毛だ、とラウダンは主張しているらしい。もちろん、これは科学と疑似科学を区別しない相対主義を帰結するものではない。ラウダンによれば、どのような時にある信念がよくテストされたものといえるかどうかという問題と、ある信念が科学かどうかという問題は区別されるということである*5
最後に、この本に対する批判とラウダンの再反論もまとめられている。
ちなみに戸田山さんは、「自然主義・合理主義・科学的実在論」という立場である。伊勢田さんとの往復書簡においてもそうだったが、このラウダンの本などを読んでしまうと、科学的実在論を擁護するのが実に難しいのが分かる。確か、科学的実在論っていまだと、数学的構造が実在しているとかそういう主張になっているとかどっかで見掛けたような気がするし*6。ハッキングの介入実在論あたりはどうなるんだろうか。ラウダンに批判されるような「成功」による説明はしていない気がするし*7、戸田山・伊勢田往復書簡でも「介入」の範囲がどこまでかで差異があったけど、介入実在論自体は二人とも認めてたし*8
参照:イアン・ハッキング『表現と介入』 - logical cypher scape
今日立ち読みした雑誌 - logical cypher scape


ラウダンによってけちょんけちょんにされていたパトナムを今度は読みたいなあ
と思いつつ、もっと細かい科学史も読みたい*9

科学と価値―相対主義と実在論を論駁する (双書現代哲学)

科学と価値―相対主義と実在論を論駁する (双書現代哲学)

*1:従来はローダンと表記されていたが、この訳では「伊勢田さんの耳を信頼して」ラウダンと表記したとのこと

*2:戸田山の解説に寄れば、ラウダンはクーン右派、ラウダンの批判対象はクーン左派ということになる

*3:ラウダンは、「理論的対象が実在する」という表現は使わずに、このようにいう

*4:いわゆる悲観的帰納法

*5:疑似科学」とか「非科学的」とかという判断が、認識論的なそれを越えて、政治的・社会的効果をもってしまっているがゆえに、科学哲学の問題としてこれを議論するのは不毛だって話ではないかなと思う

*6:ここだ→http://www.wakate-forum.org/data/2008/abstract6.php

*7:ってかもともとハッキングは実在論者じゃなかったんだよな、確か。

*8:まあ、そもそも伊勢田さんがバリバリの反実在論者ではなくて、往復書簡の体裁上、反実在論の立場に立ってたというのもあるかも。あの二人はむしろ、自然主義反自然主義かで立場に大きな相違がある

*9:科学史を重視するとはいえ、科学史の本だったわけじゃないから