難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』

よりよい生を生きるための時間論、とでもいえばいいか。
タイトルがなかなかキャッチーで、ビジネス書風であるが、まあこれはいわゆる「タイトル詐欺」ではあって(個人的に書名のタイトル詐欺は即座に悪いことだとは思っていない。いや、ある程度は悪いかもしれないが、売るための方策と理解できるので許容範囲だと思っている)、文字通り、締め切りを守れない理由を論じている本では、もちろんない。
このタイトルの雰囲気を維持しつつ、それなりに内容を反映している形に、勝手にパラフレーズするならば「なぜ人は時に締め切りを守らなくてもよいのか」かな、と思う。
「守れない」と書くと、守らないといけないのに(意図せず)破ってしまう、というニュアンスがあるが、本書はどちらかというと、締め切りは「(往々にして)守らなくてもよい」ということを主張しているように思った。
元のタイトルに無理に戻すなら、なぜ人は締め切りを守れないのかというと、守らなくてもよいことがあるから、守らなくてもよいとわかっているから、と答えてもいいのかもしれない。
まあ「人間が先、締め切りは後」とか言い換えてもいいかもしれない。


筆者の難波さんとは、分析美学をやっている人ということで、ブログを通じて知り合った。1,2回ほど直接会ったこともあり、2021年には『物語の外の虚構へ』リリース! - logical cypher scape2の装丁をしてもらったこともある。
ただ、本人も美学者を名乗っており、ベースに分析美学があるのだろうけれど、しかし、難波さんの興味関心は美学にとどまらないところがあり、僕が思いもよらなかったような領域にまで手を広げて色々やっているなあ、とやや遠くから眺めさせてもらっているところがある。
今年になって『物語化批判の哲学』を講談社現代新書から出して単著デビューし、続いて本書を刊行、そして12月には『性的であるとはどのようなことか』が光文社新書から出版と、下半期に立て続けに3冊も本を出している。
本書は堀之内出版からで、この版元は新書レーベルがないと思われるので、いわゆる○○新書ではないが、判型やレベル感としては、ほぼ新書といっていいだろう。
しかも『物語化批判の哲学』は本屋で猛プッシュされているのを目にしたし、実際売れているっぽい。本書もやはり売れているらしい。


ところで、本書の感想からはズレるが、雑談として
最近、令和人文主義というワードが瞬間的に流行ったが、難波さんもそうした傾向・潮流の中に位置づけられる一人なのかな、と少し思ったりはしている。
令和人文主義というワード自体は、散々いわれてしまったので、ここに括られることにどう思うかはわからないけれど。
じゃあなんでそんなことを書いているかというと、元の令和人文主義であげられていた人たちのことを自分はほとんど知らず、特に分析哲学系の人が全然いないなあと思っていた(谷川さんや朱さんは哲学なのでカスってるところはあるのだが)。
一方で、『フィルカル』周辺では稲岡さん*1がポピュラー哲学の動向を追っていたり、あるいは企業内哲学の特集を組んでいたりして、そういうのは、谷川さんが令和人文主義と呼んだ流れとある程度共鳴しているものなのではないのかなあ、とあれこれ想像していたりした。



本書の存在は以前から知っていたが、実際に手に取ることにしたきっかけはまず以下
書評:『なぜ人は締め切りを守れないのか』 - シロクマの屑籠
普段、シロクマ先生のブログは読んでいないのだが、難波さんの本じゃんと思って。
あと、最近浦出美緒『死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。』 - logical cypher scape2を読んで、自分の死への恐怖感の中に、時間に対する不条理感・恐怖感があることを改めて認識したので、そのことについて考えるとっかかりになるのではないか、と思ったため。


哲学的な時間論というのは、一般的には以下の2つがあるだろう。
一つは、時間の形而上学
もう一つは、時空の科学哲学
この2つは完全に分かれるわけではなくて、お互いに関係しあうこともある。
ただ、やはり結構違うこともあって、後者は、物理学における時空概念を哲学的に検討するものなので、つまりは相対性理論について考えるものだが、前者は、必ずしも物理学や相対性理論を前提としない議論を展開することが多い。
ところで本書は、そのいずれでもなく、時間の倫理学を名乗っている。
時間についての形而上学的議論も、物理学における時空概念も本書には全く出てこない。
どちらかといえば、社会学などの議論が先行研究として参照されている。
つまり、この本が扱っているのは少なくとも物理学的な意味での時間ではなく、心理的ないし社会的な時間である。
また、哲学分野でいうと、倫理学や人生の意味の哲学*2が参照されている。
よい生とは何か、という問題を、どのような時間を過ごすかという観点から捉えようとしていると言えるかもしれない。
ところで、自分は相対的にこの分野への関心があまりない。
ビジネス書や自己啓発と比較すれば、よっぽど倫理学や人生の意味の哲学の方が興味関心があるが、同じ哲学同士で比較すると、美学や科学哲学に対するような関心がない。
上述したとおり、一応、この本を読むにあたって内在的な動機はあったのだけれど、一方で、友人である難波さんが本を出したのだから読んでみるか、という外在的な動機も多分にある。
こういう時、ブログをどうやってまとめていけばいいかな、というのは悩ましいところだったりする。

序章 なぜ人は締め切りを守れないのか
第1章 いい時間とわるい時間―私たちはどんな「今」を生きたいのか?
第2章 プロジェクト―私たちから時間を奪うもの
第3章 生きている時間―私たちはいつも何かに間に合わない
第4章 いろいろな遊びの時間を旅する―時間の遊び論
第5章 いい時間をつくる―時間正義のためのデザイン
第6章 デッドライン―死から締め切りの本性を考える


序章 なぜ人は締め切りを守れないのか

第1章 いい時間とわるい時間―私たちはどんな「今」を生きたいのか?

「いい時間」と「わるい時間」を区別してみる
時間的権力


人は、価値あることに時間を使えず、期限のあることに時間を使ってしまう
→断片的な時間の使い方をしている
これは、テレビをどれだけ見てるかみたいな調査からそういう主張をしている社会学研究があったりするらしいが、今現在であれば、何かあるとスマホを見てしまうというのに相当するだろうし、そういう時間の使い方をどうにかしたい、というのは多くの人が共感するところだろうなあと思う。
ところで、本書は次の章から、締め切りとか期限とかをプロジェクトという観点から見ていく。これは概ね労働の話である。
一方、ついついスマホを見てしまうというのは、必ずしも労働の話ではない。
時間の断片化に対してどうするか、みたいな話を期待すると、若干食い違う感じがする気もした。このあたりは例えば『奪われた集中力』とかを読んだ方がいいのかもしれない。


時間倫理学を提案している。
時間のデザイン=<時計>づくり=生きる時間の枠組みの再設定
時間の概念工学
時間を資源として考えるのではなく、関係性として考える


個人的に、第1章の問題設定自体はよかったなと思うのだけど、本書がこれに対してどう答えていったのかは、必ずしもよくわからないかな、と思った。<時計>づくりの議論は確かになされているが、一方で、時間を資源ではなく関係性として捉え直して概念工学する、という方はどうなったのか。第5章なのか?

第2章 プロジェクト―私たちから時間を奪うもの

プロジェクトについて、社会学などの研究を参照しながら論じている
ここが一番「締め切り」についての章


プロジェクトの歴史
元々、プロジェクトという言葉が、「陰謀」のようなニュアンスで使われていた時代も
ロビンソン・クルーソー』のデフォーがプロジェクトについてのエッセーを書いている、とか。


人類学者エスコバルによる「計画」批判論から、プロジェクトの特徴付け


時間的自己規律(時間感覚の内面化)について
締め切りを守ることが労働倫理となっていく
これについては、メディア研究学者グレッグによる、科学的管理法から自己啓発・生産性アプリに至る系譜の研究がある。
科学的管理法というと「能率*3」とか「テーラー・システム*4」とかだな


あとは、プロジェクトというのはだんだん人間を離れて暴走し、にもかかわらずそこから抜けだしにくいものだ、というような話が書かれている。


無理なスケジュールを提示された際にどう応答するか、若い労働者と熟練労働者を比較した研究
→自分にしかできないスキルがあった方が交渉できるよね(無理なプロジェクトから脱出できる)、みたいな話だった気がする
別の章で別の文脈ではあるのだが、自分がいないとだめだ、と思わせるのが経営側の管理法であって、自分が抜けても回るのだから、プロジェクトから脱出できる、みたいなことも書いてあった気がする。
自分の代わりはいた方がいいのかいない方がいいのか
交渉の話とマインドの話なので、両立可能な話かもしれないし、文脈が違うので即座に矛盾しているともいえないかもしれないが

第3章 生きている時間―私たちはいつも何かに間に合わない

現在は、過去と未来が重なり合っているものだ、と
(「丁寧な暮らし」vlogは、過去や未来からの重なりが脱色されていて、あんなものは偽物だという批判)


「いい時間」とは何か
ボルグマンによる「焦点となる機会」という概念が参考になる、としている
「自分がいたい(一緒にいたい)のはこの場所(人)をおいてほかにない」「ずっと覚えていたい」という感覚を伴うもの
具体例として、ボルグマンは自宅の夕食、キャンプファイヤー夜の音楽、礼拝堂での礼拝などをあげている。
難波さんは、ボルグマンの言ってることはわかるが、ハレの時間過ぎる。もう少しケの時間をあげたいとしている(例えばとして、「いい時間」を、邪魔されない自律的な時間と特徴付けて、少し体調が悪くて寝ているときなどをあげていたりする)
ボルグマンの原文に当たっていないので、結局ボルグマンがどういうことをいいたいのか分からないという前提でいうと、「ほかにない」とか「ずっと覚えていたい」とかいった特徴付けは確かにちょっと「ハレ」っぽいかなと思う一方、あげられている具体例には「ケ」っぽいところもあるような、と思った(キャンプファイヤーはともかく自宅の夕食とか夜の音楽とかは日常におけるそれなのではないかと思ったが)。


第3章の後半では、「いい時間」としてあげられることの多い「物語的時間」について検証している。このあたりは、『物語化批判の哲学』とも重なるような議論なのだろうと思われる。

第4章 いろいろな遊びの時間を旅する―時間の遊び論

第3章の後半で物語、そして第4章で、ゲーム、ギャンブル、パズル、おもちゃ遊びの時間をそれぞれ検討しているが、この分類も『物語化批判の哲学』から受け継いだものだろう。
『物語化批判の哲学』は読んでいないのだが、以下の対談記事を読んでいる。
『物語化批判の哲学』刊行記念対談 朱喜哲✕難波優輝「おうち遊びと公園遊び」(難波 優輝,朱 喜哲) | 現代新書 | 講談社
『物語化批判の哲学』刊行記念対談 近藤銀河✕難波優輝「生きながら、ゲームやってる」(難波 優輝,近藤 銀河) | 現代新書 | 講談社
『物語化批判の哲学』刊行記念対談 須藤輝彦✕難波優輝「〈運命〉と物語化」(難波 優輝,須藤 輝彦) | 現代新書 | 講談社


物語、ゲーム、ギャンブル、パズル、おもちゃ遊びというのは、時間の過ごし方のメタファーとして導入されている、ということだと思う。
その中で「おもちゃ遊び」というのがメタファーとして適切なのかどうかがいまいちピンとこなかった。
メタファーなので、文字通りの「おもちゃ遊び」以外の活動も「おもちゃ遊び」として呼んでいると思うんだけど。
例えば、文字通りの「ゲーム」や「ギャンブル」「パズル」ではない事柄・活動について、これらの言葉で喩えるのは、違和感がない。
「その働き方はゲームっぽい」「それを選ぶのはギャンブルだ」とか、そういう言い方は普通にある。
一方「その時間の過ごし方はおもちゃ遊びっぽいね」って、微妙によくわからんな、と。
ここで「おもちゃ遊び」というのは、自己目的的・自己充足的な活動のことかなあというような感じで*5、なんとなく理解はできる。
「おもちゃ遊び」的な時間になるだろうものとして、僕個人が思い浮かんだのは、例えば音楽鑑賞とか楽器演奏とかで、特にクラブとかで途切れることなく次から次へと曲を聴いてダンスに没頭している時とか、楽器についても特定の曲の練習とかではなくて、自分の気持ちの赴くままに音をつなげていく時とか、そういう状況である。
楽器演奏の方はまだ、楽器をおもちゃにして遊んでいると喩えられなくもないのだが、クラブでダンスに没頭している状態を「おもちゃ遊び」という言葉で喩えるのは、何となくピンとこない
まあ、難波さんだったら、ダンスって自分の身体をおもちゃみたいに使って遊んでいるんじゃないですか、とかはいいそうだなあとは思うんだけど
また逆に、有名なカイヨワの4分類にアゴン、アレア、ミミクリ、イリンクスってあるけれど、ゲームがアゴン、ギャンブルがアレアに対応するとして、おもちゃ遊びにはミミクリとイリンクスの両方の要素があるように思えて、そのあたりも「おもちゃ遊び」という述語(メタファー)をどう適用すればいいのかわかりにくい、と感じるところがある(難波さんはイリンクスだと思っているんだろうけれど)。
あるいは、「おもちゃ遊び」というと、おもちゃという道具・物質的な存在があるように思えてしまうな、とか(一方で、ここでおもちゃ遊び的な時間として想定されるものの範囲には、道具などを伴わないものも含まれているのではないか、と思っている)


何でここに引っかかっているかというと
本書でいうプロジェクト的なものと、おもちゃ遊び的なものの対比は、鬼界彰夫『生き方と哲学』 - logical cypher scape2でいうところのキネーシスとエネルゲイアに整理できるのではないか、とも思ったから
いろいろな〈時計〉や時間の枠組みがあるよねと相対化していくという意味で、5つくらいあげてみる、というのも方針としてわからなくはないものの、もう少しすっきりさせてもいいのではないか、とも思った
例えば「ゲーム」は結局プロジェクトと親和的なものともいわれていて、位置づけがわかりにくい。
ゲーム、ギャンブル、パズル、おもちゃ遊びにそれぞれの時間的な特徴がある、というのはわかるが、逆に、時間論の枠組みから見たときに、この5分類なり4分類なりを持ってくることのよさはなんなのか、というのが分かりにくかった。

第5章 いい時間をつくる―時間正義のためのデザイン

ワークライフバランス(あるいは今風にいうなら、ライフワークバランスか)についての議論に見えた。
時間正義という概念を打ち出すことにも意義はあるとは思うのだけど、実践的にどれくらい効用があるのか、これだけだとわからないところもあった
ケイパビリティ・アプローチって言葉は知ってたけど、中身全く知らなかったので、そこは勉強になった。センとヌスバウムに由来するものだったのか。


時間福利というのを提案していたり
価値には、数えられる価値(value)と数えられない価値(values)があるという話とか
ここらへんの計量できるとかできないとかもうーん


2章とか5章とかを読んでいて、自分がいまいちつかめなかったのは、議論の射程範囲で
例えば「プロジェクト」概念についても、どれくらいの抽象化レベルで捉えればいいのかがよくわからなかったところがある。

第6章 デッドライン―死から締め切りの本性を考える

不死の悪さを論じている。
不死が悪いものであると論じている哲学者として、ウィリアムズとシェフラーが紹介されている。


ウィリアムズは、カレル・チャペック『マクロプロスの処方箋』に登場する300年生きたマクロプロスが、何もかも無価値になってしまったという話を援用してくる。
欲望が尽きることによる退屈。
また、退屈したなら新たなことを望めばいいではないか、ということに対して、新たな欲望をどんどん追及していくと、自己同一性が崩壊するのではないか、と
個人的には、いや、イーガンの『ディアスポラ』があるでしょ、と思ったりはした。


シェフラー
ウィリアムズの議論は単なる長命。長命と不死は違う
様々な価値は喪失を前提としている
失うことで価値があったことがわかる、終わりがあるからこそ価値が生じる、というような議論
うーん、言いたいことは分からないでもないんだが、短くまとめられていたこともあり、どれだけ説得力がある議論なのか、とも思った。それはまあ、どちらかといえば自分は不死を擁護したい側の人間だからだけど。(浦出美緒『死ぬのが怖くてたまらない。だから、その正体が知りたかった。』 - logical cypher scape2
そういえば稲葉振一郎も、不死って結局何が悪いんだったっけみたいなことを言っていた気がする(『宇宙・動物・資本主義 ――稲葉振一郎対話集』 - logical cypher scape2の9章)


締め切りは多かれ少なかれ時間的不正義だが、必要不可欠なものでもある、と結論づけている。
締め切りの必要性は認めるけれど、それでもやっぱり(難波さん的には)不正義ではあるのか、と思った。
こはちょっと興味深い書きぶりだなと思ったのだが、何がどう、とうまく説明しにくい

あとがき

松永さん!

ブックガイド

参考文献とは別にいくつか本が紹介されている
その中からさらに、ちょっと気になったものなど

  • バトラー『キンドレッド』

バトラーは以前オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』(藤井光・訳) - logical cypher scape2を読んだことがある

  • シェフラー『死と後世』

シェフラーという人とこの本については、最近、稲葉振一郎のブログでも言及されていて知った。現代規範理論研究会例会報告(2025年11月8日 於:日本大学法学部) - shinichiroinaba's blog
2023年に邦訳がでたんだな

  • ジェイムソン『未来の考古学』

これもなんかで時々目にする本だなあと。
とりあえず自分のブログ内で検索をかけると『現代思想2025年6月号 特集=テラフォーミング』 - logical cypher scape2の木澤論文に当たった。

*1:稲岡さん自身は分析哲学の人ではないが

*2:という研究領域が近年の哲学にはあるのである

*3:山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2のコラム10

*4:桜井哲夫『戦争の世紀 第一次世界大戦と精神の危機』 - logical cypher scape2]の第3章

*5:この特徴付けだけだと他の遊びも当てはまるので不十分な言い方なのだが