サイボーグにまつわる言説をひもとく技術思想史の本
ただし、サブタイトルに「人工物」とあるように、サイボーグにとどまる議論ではなく、例えばAI論としても敷衍できる議論になっている。
何でこのような本を突然読み始めたかは柴田崇「サイボーグの「原型」 : “ extension”の系譜学に基づくJ・D・バナールの読解」 - logical cypher scape2にも書いたが、アンディ・クラーク『生まれながらのサイボーグ』について書かれているようだったから。
なお、この「サイボーグの「原型」 : “ extension”の系譜学に基づくJ・D・バナールの読解」という論文が、本書の第1章の元になっている(結構加筆修正されているが)
また、本書は「知の生態学の冒険 J・J・ギブソンの継承」というシリーズの中の一冊ともなっている。目次だけ見ているとギブソンの位置づけが微妙にわかりにくいが(2章の2節のタイトルにギブソンの名前があるが、2章は3節から5節にも学者の名前が並んでいて位置づけの違いがわかりにくい)、第2章全体がギブソンの議論の紹介・評価にあたる
というわけで本書は主に、バナール(とプラトン)、ギブソン、クラークの議論を中心にして、サイボーグ論を論じるものとなっている(「サイボーグ論」論である)。
サイボーグとあるが、もう少し正確に言うと「extension」という言葉を巡る議論である。
道具(人工物)が人間のextensionである(人工物によってextensionされた人間がサイボーグであるともいえる)という時、このextensionという語が何を意味しているか。
extensionは多義語であって、日本語に訳そうとすると3つの用法に分けることができ、extensionという言葉を使って道具を論じる議論も、3つの系譜に分けられる、というのが本書の大きな前提となっている。
具体的には「拡張」「延長」「外化」の3つである*1。
第1章で「拡張」、第2章で「延長」、第3章で「外化」をそれぞれ論じる構成。
第1章では、サイボーグ論の多くが「拡張」の論理で語られており、その「起源」はプラトンの『パイドロス』まで遡ることができるが、この語り方は隘路に陥ることが指摘されている(本書ではそれを「プラトンの呪い」と呼ぶ)
第2章では、その隘路を回避するために、extensitonを「延長」として捉える言説が召喚される。それがJ・J・ギブソンである。
第3章では、「外化」の話と、アンディ・クラークの話がされているが、クラークは典型的な「拡張」論として整理されている。
第4章では、マクルーハンの議論を紹介しつつ、今後の展望を語っている。
序
第1章 サイボーグ論の正統:「拡張」の技術論
1 サイボーグの誕生:一九六〇年、宇宙
2 サイボーグ思想の「原型」:『世界・肉体・悪魔』(一九二九)
3 サイボーグ思想の「起源」:『パイドロス』
4 「拡張」論の系譜(一):AI論に続く道
5 「拡張」論の系譜(二):二一世紀のサイボーグ論
6 まとめ第2章 サイボーグ論の転回:「延長」への定位
1 「拡大」する身体の意義:「延長」の分節に向けて
2 「延長」の起源を超えて:J・J・ギブソンの道具論
3 F・ハイダーの視覚論:「透明になる」メディウム概念のさきがけ
4 D・カッツの色覚・触覚論:「運動」の発見
5 E・ホルトの行動主義:身体化の基礎理論
6 まとめ第3章 『生まれながらのサイボーグ』解題
1 第三の extension:「外化」
2 『生まれながらのサイボーグ』:異形のサイボーグ論?
3 『現れる存在』解題:「越境する心」の哲学
4 「大き過ぎる心」:「拡張」に無自覚なサイボーグ
5 アンディ・クラークのサイボーグ:「拡張」のキメラ
6 まとめ第4章 サイボーグ論の転回、そしてまとめ
1 サイボーグ論の「転回」:見込まれる効用
2 展望:理論化の方向性と課題
3 まとめ
第1章 サイボーグ論の正統:「拡張」の技術論
大雑把な内容は柴田崇「サイボーグの「原型」 : “ extension”の系譜学に基づくJ・D・バナールの読解」 - logical cypher scape2と同じだが、同論文にあった「二、extension の系譜学」という節は削除されている。
代わりにバナール『世界・肉体・悪魔』の紹介・要約や、プラトン『パイドロス』の論理展開についての解説が加筆される。
「プラトンの呪い」という言い方も、『パイドロス』解説を経ることででてきた言い方だと思う
また、上の論文では、アーサー・C・クラークとK・ウォーリックの議論が、「四、サイボーグ論の正統」という一つの節でまとおめて紹介されていたが、こちらでは、第4節と第5節に分かれている。
- 『世界・肉体・悪魔』
訳書のタイトルは『宇宙・肉体・悪魔』だが、ここではThe Worldを宇宙ではなく世界と訳している
この3つは克服すべき3つの敵である
世界は、機械技術と化学技術で克服する
肉体は、人工物への置き換え・改造によって
5段階あって、第一段階は人工生殖工場での誕生。ここまではホールデンの構想と同じ
第二段階は、X線や赤外線を受容できる感覚器官や効率的な運動器官による能力拡張
第三段階は、脳を新材料の円筒に格納
第四段階は、群体脳
第五段階は、脳も含めて人工物への置換
悪魔は、進化を妨害する心的要因のことで、能力の欠如と願望の欠如の2つ
- 『パイドロス』
人工物との「融合」によって能力が「拡張」される、という議論と
人工物からの「分離」によって能力が「衰退」する、という議論が並行して進む
「衰退」は「脆弱性」の露呈でもある。「脆弱性」は克服できるか=「分離」は制御可能か否か、というところで議論が行き詰まる。
サイボーグだけでなく、AIやロボットの反乱もの、というのは、脆弱性は克服できないパターンの話として整理できる。
逆に、楽観的な未来論は、人工物は制御可能だ、というパターン
楽観主義であろうと悲観主義であろうと、技術論がいずれかのパターンに陥ってしまうことを、ここでは「プラトンの呪い」と称している。
重要なのは、道具の「製作者」が、その道具の効果の「判別者」たりうるとは限らない、という点である。
筆者は、先験的に道具の効果を決めてしまうことが、この議論に陥ってしまう要因であって、ここから抜け出すためには、経験的な議論が必要なのではないか、とする。
第2章 サイボーグ論の転回:「延長」への定位
「拡張」論の問題は、人工物の使用方法を先験的に捉えてしまっていることで、それを乗り越えるためには、経験的な研究が求められる、とした上で、それが「延長」の議論に認められるとする
具体的にはJ・J・ギブソンの議論が紹介される。
その上でギブソンに影響を与えた同時代の研究者として、ハイダー、カッツ、ホルトの議論をあげ、ギブソンとの相違に着目することで、ギブソンが何を言い、何を言わなかったのかを明らかにしていく。
- ラルフ・モシャー(1920~2008)
サイボーグの歴史で必ず名前があがるGE社のエンジニア
モシャーの使う「extension」に拡張と訳せない概念があるとして、それを「拡大」とする
身体化、身体の身体的な伸長
稲見の人間拡張工学の中にも「拡大」がでているという(ただし、稲見は「拡大」も「拡張」と混ぜてしまう。なお、人間拡張工学についていうと、筆者は「拡大」についての論点があるという点で将来に期待していると好意的な評価をしているっぽいが、基本的に筆者がほかの論者を評価する際に、extensionに複数の用法があることを意識できているかという点をチェックしており、「拡張」と「拡大」を混同してしまっている議論には点が辛い傾向にある)
- J・J・ギブソン
道具を使っていると、自分の体が延長されているような現象
(メルロ=ポンティとかも同じような話をしている奴)
ギブソンの知覚論は、環境を「物質」「媒質」、その2つを分ける「表面」の3つで構成されているとして、この3つで知覚を記述する。これをエコロジカル・アプローチと呼ぶ
媒質というのは、情報を伝達するものであり、行動を可能とする(アフォードする)もの(大気とか)
ギブソンは、自動車の運転をこのアプローチで記述している(ギブソンによる図が多く引用されている。安全運転の場。運転している車を中心に車をうまく制御できる範囲みたいなのを図示している)。
人工物(例えばハサミとか自動車とか)を使うと、「表面」がどう変わるか、というのがポイント
「物質」というのは人工物でもあるし身体でもある。
- F・ハイダー
ギブソンと交友関係があった心理学者
ハイダー自身は、マイノングから影響を受けている
『物と媒質(メディア)』という著作があり、媒質(メディウム)に着目した点でギブソンと共通
しかし、人工物をメディウムとして捉えた点がギブソンと異なる
ギブソンの議論では、人工物は身体化するがメディウム化(透明化)はしない。ギブソンにとっての媒質は、行動を可能とするものでもあるというのがポイント
- D・カッツ
実験現象学の手法で色覚論と触覚論を展開
ギブソンはカッツを参照している
カッツは、ロッツェの弟子であるミュラーの弟子
ロッツェに倣い、「探り針」の比喩を使う
19世紀心理学では直に接触する感覚を「近感覚」、媒質を介在する感覚を「遠感覚」とする
触覚は近感覚だが、探り針のように道具を介在して受容する触覚があり、カッツは「遠隔触」と読んだ
表面色や空間色になぞらえ、表面触や空間触などといった触覚現象を名付けた(あとフィルム色に対応する貫通触面だったっけかな?)
道具を介在して対象を知覚するという現象において、それだけでなく、道具そのものについての触覚もあることを指摘した
ハンマーを握って釘を打つとき、ハンマーを通じて釘の感触も知覚しているけれど、ハンマーと指との間の感覚もある。
カッツの議論からみるとギブソンの議論は「素朴」である
ギブソンの側からみると、カッツは人工物をメディウム化してしまっている
筆者的には、「素朴」なままでいることで人工物をあくまで「物質」の側においてメディウム化(透明化)させない、というのが大事らしい
ギブソンにとって、カッツの議論で重要なのは、知覚と運動の関連性の発見だ、と。
最終的に本書の中ではやや否定的な評価をされているが、触覚を色覚のアナロジーで説明してたり、道具が身体化しているような状況でも、身体と道具の境界もあるよね、というように議論の精緻化を行っているところは面白いと思った。
実際、近年のギブソニアンは結構この方向に進んでいるみたい。筆者的には「素朴」に戻れ、ということらしいが。
- E・ホルト
ウィリアム・ジェームズの弟子で、フロイト支持者であり、「新実在主義」の指導者
ギブソンがホルトと直接接していたのは2年ほどだが、強い影響を受けた
ホルトの行動主義が、エコロジカル・アプローチのルーツ
動物の意図は、行動に現れる
反射弓があって、環境に対して何らかの反応をする(光に反応して動く、みたいな)。それが2つあれば、光に向かおうとする「意図」が生じる、3つあればそれは知性だ、というような論
ブライテンベルクという神経学者による「ヴィークル」論が、ホルトの議論とまったく同じらしい。で、このブライテンベルクのヴィークル論は、ファイファーによるロボティクスにおける自律エージェントに応用されている、と。
「意図」など心的なものは、環境と身体の関数であるということで、身体と物質の二元論・心身二元論を克服
(ホルトはこれを『フロイト流の意図』という著作で論じていて、本人はフロイトっぽい考え方をするとこうなると思っているらしいのが、ちょっと不思議な感じがした。この行動主義自体はわかりやすいが)
ギブソンの「延長」論は、起源であるデカルトから説き起こしつつ、デカルトの二元論を克服することで延長概念を更新している
エコロジカル・アプローチは、人工物がどのような情報を利用し、どのような行動を可能にするかを記述する
先験的に人工物の機能を決めるのではなく、使用から人工物の意味を見出していくアプローチ
人工物というのは、人間の機能の「拡張」や「置換」「代替」を行っているのではなく、行為のレパートリーの増加として語られる。
人間の能力の進化とは、行為レパートリーの管理にある
第3章 『生まれながらのサイボーグ』解題
この章ではextensionの3つめの意味である「外化」と、アンディ・クラークを紹介しているが、では、クラークの議論が「外化」の議論なのかというとそうではなくて、クラークの議論は典型的な「拡張」論であるとして話が進んでいく
クラークの議論については、21世紀に書かれた著名なサイボーグ論ということで検討の俎上にあがっているが、筆者の評価はあまり芳しくはない。
extensionの3つの系譜から読み解くという観点からすると、クラークのサイボーグ論も「拡張」の系譜におり、本書第1章で指摘された「拡張」論の欠点をそのままもっているからである。
ただし、クラークのサイボーグ論は単純に「拡張」とはいえないところもある。
クラークというと「拡張された心extended mind」概念が有名であるが、これは筆者がいうところの「拡張」という意味には相当しない。空間的な広がりという意味では、どちらかといえば「延長」っぽい議論である。
しかし、「延長」はデカルトの延長概念を起源にもつものであり、クラークの議論はあくまでも心についてであり身体の延長について語っているわけではない。というところから筆者は「extended mind」を「越境する心」と訳すことを提案する。なお、クラークの『現れる存在』では「漏れ出しやすい心」という表現をしており、筆者はこれを「越境」という訳を支持するものとしている。
クラークもまた、J・J・ギブソンを参照しているものの、身体を十分に位置づけられていない点で、ギブソンの議論のポイントをつかみ損ねている、というのが筆者の評価である。
- 3つのextension
ベルグソン、カップ、ダゴニェの議論を参照しながら、第三のextensionである「外化」について論じている
3つのextensionは以下のように整理される
【拡張】
母型:extension
ヴァリエーション:増強enhancement、増幅amplification、増大augmentation
起源:プラトン『パイドロス』
置換substitution、replacement、機能、能力といった語と共起しやすい
【延長】
母型:extension
ヴァリエーション:伸長、伸/縮自在
起源:デカルト
使用、身体化、境界に類する語と共起しやすい
【外化】
母型:射影(投影)projection
ヴァリエーション:外化、外在化externalization, outeringなど
起源:ヒポクラテス
身体の機能とか内的な状態とかが外に現れるないし投影されること
なんで起源がヒポクラテスかというと、人間の内臓の様子とかは直接見ることができないけど、外に現れるものを診ることでわかる、みたいな発想が元々、ということ
道具は、例えば手の機能を外化したものだ、というように使う。
- アンディ・クラーク
『生まれながらのサイボーグ』と『現れる存在』について紹介されている。
それぞれ各章の議論を要約しながら、それらがいかに「拡張」の系譜に属する議論であるかを述べている。
「延長」っぽい話もちょくちょく出てくるのだが、結局「拡張」の話に取り込まれている、としている。
拡張の中でも楽観主義の方
クラークにとっての身体は、人工物という外的リソースと脳という内的リソースを架橋するだけのもの
クラークは、神経回路というミクロダイナミクスと環境との相互作用というマクロダイナミクスの両方を統合する研究が必要だと論じ、後者の代表例としてギブソンをあげているが、実際のクラークの議論は前者に偏重していて、ギブソン的な身体論を展開できてない、と指摘している。
「拡張」論というのは、存在の階梯を上がっていく、みたいなところがある。
有機物を人工物に置き換えていく、とか、肉体を捨てて純粋な魂になるぞ、的な発想に近い
でも「延長」論はそうじゃない。ギブソンやホルトの考えでは、進化というのは内部機構の複雑化にすぎない、というような話もしていた。
筆者はクラークに対して厳しめの評価だが、人工物論として読むと典型的な拡張論でしかない、ということではあると思う。
(認知の話として読めば新しいことも言っているんだろう的なエクスキューズをどっかでしていた気がする。技術論として整理すると、すごく楽観主義的なタイプの議論なのだなあ、という感じ)
第4章 サイボーグ論の転回、そしてまとめ
章タイトルにもあるとおり、まとめの章だが、主にマクルーハンの議論が紹介されている。
マクルーハンについて、extensionに3つの意味があることを理解した議論がなされていると評価しつつ、自分が主張したい「サイボーグ論の転回」とは道が異なる、としている
「拡張」を「延長」に変えるんじゃなくて、「拡張」と「延長」をうまく組み合わせた議論をつくる(そのことを「編成」と呼んでいる)、ということを目指そうとしている。
最後、マクルーハン以外に、サイボーグ論関係で何人かの論者を駆け足で紹介していっているが、駆け足すぎてよくわからなかった。最後の最後には、サイボーグ論といえばダナ・ハラウェイも重要なのは承知しているけど、時間も紙幅も足りないのでまだ今度的な言及だけされてたりする。
マクルーハンは、メディア環境の変化をパラダイム論を援用して論じた、と。
マクルーハンがいう「銀河系」ってパラダイムってことだったのか~
あとがき
本書の英語版サブタイトル”The Key to Understanding Media”について
メディアはメディア論の文脈では人工物という意味なので、本書サブタイトル「人工物を理解するための鍵」を直訳したものだが、” Understanding Media”はマクルーハンの著作タイトルであり、ダブルミーニングになってんだよ的な解説がされていた。
感想
冒頭でも述べたけど、「サイボーグにまつわる言説をひもとく技術思想史の本」であり「「サイボーグ論」論」である。
だから、直接的にサイボーグとは何か、とか知りたい場合には全然よくわからない本だとは思う。
どういう風に論じるのがいいのか、ということでの思考のヒントという意味では、面白い議論が埋まっていたような気はする
とはいえ、じゃあどうすればいいの、という結論はわかりにくい
ギブソンのエコロジカル・アプローチの具体的な応用を実践するとかがある、とよりよかったかなと思ったりもする。
人工物はメディアではないんだ、というところのこだわりポイントの理由が、あんまりうまく飲み込めなかった。
本書の要旨からすると全然枝葉だが、ロルフ・ファイファーが気になった。身体性認知科学、バイオロボティクスとかの人のようだ。
*1:この3つは、同じ筆者による『マクルーハンとメディア論』(2013)でも論じられていたようである
