「ロシア宇宙主義」「アフロフューチャリズム」「サイバースペース論」という三部構成で、近代や資本主義を脱しようとしたユートピア思想を概観していく。
SFマガジンでの連載をまとめたもの。
木澤佐登志の著作は以前から多少気になってはいたものの、自分の興味関心の中ではそれほど大きくなかったことと、何となく取り扱っている内容のあやしさを警戒して*1手を出していなかった。
今回、宇宙主義が取り上げられているということで、読んでみることにした。
とはいえ、もう少し宇宙主義以外の文脈もある。
読むまでの経緯とか
- 手に取ったきっかけ
ロシア宇宙主義に以前から興味があったというのは、桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2にも書いたことがあるので、引用しておく。
- 宇宙主義(コスミズム)への興味
コスミズムって最近時々名前を聞くけど、一体何なんだというのが気になっていた。
もともとは山形浩生のブログがきっかけだったかと思う。
セミョーノヴァ『ロシアの宇宙精神』:変態だー!! 「屍者の帝国」ディープな読者必読! - 山形浩生の「経済のトリセツ」
ロシア未来派とコスミズム - 山形浩生の「経済のトリセツ」
次いで、『ロシア宇宙開発史』をちょっと眺め、美術手帖やSFMの木澤連載でも見かけていた。
冨田信之『ロシア宇宙開発史』(一部) - logical cypher scape2
『美術手帖2019年10月号』 - logical cypher scape2
『SFマガジン』2021年6月号 - logical cypher scape2
ただ、これ以外にも補助線があって、帯にある「イーロン・マスクはなぜ火星を目指すのか?」という惹句にも関わる。
まあ、この帯の惹句はあくまでも惹句でしかなくて、目次を見れば分かるとおり、本書に直接的にこれに答える箇所があるわけではないのだが(間接的には、その背景に連なる思想が扱われている)。
最近、イーロン・マスクをはじめとして、シリコンバレーのテック企業経営者などに共通する思想をTESCREALと呼ぶことをテクノ楽観主義者からラッダイトまで – WirelessWire Newsおよび八田真行 イーロン・マスクは一人ではない|科学|中央公論.jpで知った*2。
トランスヒューマニズム(Transhumanism)、エクストリピアニズム(Extropianism)、シンギュラリタリアニズム(Singularitarianism)、宇宙主義(Cosmicism)、合理主義(Rationalism)、効果的利他主義(Effective altruism)、長期主義(Longtermism)の頭文字をつないだ造語で、2023年に提唱されたものだという。
カリフォルニアン・イデオロギーのある種の変質、つまり左翼的なカウンターカルチャーから保守反動的・エスタブリッシュメントの支配思想的なものへの変化、とでも言えるだろうか。
本書は、TESCREALについて解説・検討している本ではない(本書の元になった連載が書かれた時期には、まだTESCREALという語自体が生まれていない)。
ただ、何かしらヒントがあるかもしれないと思って手を取った。
- 扱われる思想との距離の取り方や自分の関心の中での位置づけの問題
話を戻すと、宇宙主義については、山形浩生が面白がっていたので、そういうのがあるのかーと知ったのがきっかけだったが、以前、「ロシア宇宙主義、なんとなく面白そうだなーと思うのだが、どういう距離感でどう面白がればいいのかまだつかみあぐねている」と書いた通り、歴史上のトンデモ思想としてネタ扱いしてていいのか、というところはある(山形はトンデモネタ扱いしているように読める)。そして、単に過去のトンデモ思想ということであれば、別にそんな勉強しようとしなくてもいいよな、とも思う(まあ、ツィオルコフスキーにも影響を与えていたという点で、宇宙開発史ひいては科学史の一環としても興味深いではあるが)。
しかし、こうTESCREALという形にされると、過去の問題ではなく、現代の問題でもあるよな、ということにはなってくる。
とはいえ、このTESCREALにせよ、あるいはここでは扱わないけど新反動主義にせよ、もしくは反出生主義にせよ*3、自分は共感も賛同もしないし、そもそもあまり自分にとって主たる興味分野ではない。
もちろん、思想研究をする人たちがみな、研究対象である思想に賛同しているとは限らなくて、自分とは相反する思想を研究していたり、その主張を肯定も否定もしなくて、何か別の歴史的関心とかから研究していたりすることも多いだろう。
ただまあ、趣味の読書において、共感しない思想についてわざわざ読まなくてもな、という気持ちもある。木澤本に触れてこなかったのも、加速主義とかダーク・ウェブとかあんまり共感・賛同できなさそうな話だし、木澤本のスタンスもいまいちよく分からないからな、というのがあった。
単純に共感・賛同だけの話じゃなくて、自分の興味関心の系列のどこに位置づければいいのだろうか、という収まりどころがよく分からない、というのもある。
自分は読書をすすめるにあたって、まあ単に自分の興味関心にかかわる本をランダムに読んでいっているだけで、別に系統立って勉強をしているわけではないのだけれど、しかしそれでも、何となく自分の中に、こういう系列やああいう系列があるなあというのはあって、それは具体的にはこのブログのカテゴリータグに現れてきている。
そんな中に「思想」というもやもやした系列・カテゴリーがあって、10年以上前にはそれなりに関心を持っていたのだろうが、ある時期からこの系列に対する関心が途絶えていた。
ところが、振り返ってみると去年から今年の頭にかけて、山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』 - logical cypher scape2とか山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【戦前昭和篇】』 - logical cypher scape2とかブルース・ククリック『アメリカ哲学史』(大厩諒・入江哲朗・岩下弘史・岸本智典訳) - logical cypher scape2とか桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2とかを読んでいて、あまり意識していなかったのだが、何となく「思想史」への興味関心系列が自分の中にできはじめているのかもしれない。
実際、自分は別にマルクス主義も国家主義もあるいは何らかの宗教にも、特に共感・賛同するものではないが、このあたりの本の、マルクス主義や国家主義や宗教思想についての記述はわりと面白く読んでいたのだった。
この本もそういう風に自分の中で位置づけられるのかもと思いつつ、しかし、本当にそこなのかとも思いつつ読んだ。
- 本書についての大枠での感想
本書『闇の精神史』も結論からいうと面白く読んだ。
特に、目次からあまり内容を推察できなかった第3章が面白くて、上述したカリフォルニアン・イデオロギーがTESCREALに至ったヒントがあるのではないか、という期待に、うまく応えてくれる内容になっていた。この伏線として、スキナーとカジノの話をうまくはめこんだのが、本書のオリジナリティなのではないだろうかと思う。
さて、本書は、上述したように「近代や資本主義を脱しようとしたユートピア思想」をいくつか紹介していくというものである。
で、この「近代への超克」とか「脱資本主義」みたいな考え方自体が、個人的にはあまりピンとこないというか、共感・賛同しないタイプの思想ではある
だからこそ、上記の話とも繋がるのだけど、この「近代の超克」みたいな思想を自分の中でどのあたりに置いておけばいいのか、結局よく分からなかった、というのがある。
ところで、本書の筆者が、本書で取り上げられている思想を素朴に賛同・称揚しているかといえば決してそういうわけではなく、また、トンデモ思想としてネタにしているかといえばそういうわけでもない。
「未来の破片をサルベージする」という言い方をしているが、過去にこういう未来像を持っていた人たちがいた、ということを拾って並べてみるという作業なのである。
その上で、筆者自身は、フーコーの「ユートピア的身体」という考え方を今後の処方箋的なものとして呈示している。
終盤で示される筆者自身のスタンスは、(紹介してきた思想と比べて)ある意味でかなり穏当なポジションでもあって、拒否感や警戒感は覚えないものであった。
とはいえ、そうした筆者自身のスタンスを論じた箇所は、抽象的かつ短いものであって、その内容面においても、それにコミットメントできるのかという点においても、よく分からないな、というのが正直な感想でもある。
そんなわけで、内容として面白かったし、勉強になるところもあったのだが、自分の中での置き所が分からなくてモヤモヤする、というのは結局読み終わった後も続いている。
ところで、話を戻すと本書の第3章では、サイバースペース論やメタバースの隆盛について、心身二元論的な西欧の価値観を前提として、肉体を捨てて純粋な精神へ向かおうとする運動としてとらえて、だから、そこに「身体」をぶつけようというのが筆者の提案なのだけど、現代思想とかAI研究とかで身体性を考えようみたいな議論と、どう接続していくのかは考えどころかもしれない。
本書の構成的な話をすると、「ロシア宇宙主義」「アフロフューチャリズム」「サイバースペース論」という三部構成なのだが、この3つの間のつながりについて、はっきり明示しない書き方をしている。
このため、特にアフロフューチャリズムについては、何故紹介されたのか、という文脈がいまいち判然としなかったというところはある。まあ、話の流れとしては、宇宙の話である第1章からサイバースペースの第3章へ、というつなぎとしての役割は果たしているのだが……。
とはいえ、内容としては面白いことは面白くて、特に第3節のマイルス・デイヴィスとボコーダーの話は普通に勉強になりもしたのだが。
まえがき
第1章 ロシア宇宙主義── 居住区(コロニー)としての宇宙
1 新しい人間――アレクサンドル・ボグダーノフ
2 死者の復活──ニコライ・フョードロフ
3 実体化する「精神圏」──現代ロシアにおける展開①
4 新ユーラシア主義──現代ロシアにおける展開②
第2章 アフロフューチャリズム──故郷(ルーツ) としての宇宙
1 止まって、僕を乗せておくれ──サン・ラー
2 未来は黒い──リー・ペリー
3 変性=変声するヒューマニティ──サイボーグ化の夢
第3章 サイバースペース──もうひとつのフロンティア
1 一九八四年──ニューロマンサー、マッキントッシュ、VR
2 幸福な監禁──行動分析学的ユートピア
3 人はなぜ炎上するのか──SNSと道具主義
4 メタバースは「解放」か?──精神と肉体の二分法
5 身体というアーキテクチャ──私がユートピアであるために
終章 失われた未来を解き放つ
まえがき
未来を人質にとる? イーロン・マスクを駆り立てる「長期主義」という特異な倫理観――木澤佐登志『闇の精神史』まえがき全文公開|Hayakawa Books & Magazines(β)で公開されている。
イーロン・マスクと長期主義の関連について触れられているが、マスクの火星植民もまた「過去の延長としての未来」に過ぎないのではいかと否定的に取り扱っている。
第1章 ロシア宇宙主義── 居住区(コロニー)としての宇宙
1 新しい人間――アレクサンドル・ボグダーノフ
この第1節では、タイトルにある通り、ボグダーノフについて紹介されているが、前半はむしろ、本書全体のコンセプトについての説明にあてられている。
冒頭で、ヴェイパーウェイブやそのサブジャンルであるソビエトウェイブについて触れて、かつてあった未来へのノスタルジーを見ている。
その後、ピーター・ティールのいう「手にしたのはたったの140文字」という言葉を引用している。つまり、かつて宇宙開発など様々な未来のビジョンがあったのに、実際の21世紀が訪れたらtwitterに興じてるばかりだ、という皮肉めいた言葉で、彼は、そうした未来を取り戻すためには、イノベイションを阻害する規制をやめて市場を加速化する必要があると考えており、以前の大統領選挙ではトランプ支持に回った、と。
それに対して、プルシット・ジョブで有名な文化人類学者のデヴィッド・グレーバーの考える処方はその逆で、資本主義の外へ向かう必要があると論じる。
しかし、そんなことは可能なのか。
資本主義のオルタナティブなどないと思わせることを、マーク・フィッシャーは「資本主義リアリズム」と呼んだ。
さらにニック・ランドやカンタン・メイヤスーにも触れながら、本書は未来の破片をサルベージすることを目的としている、という。
で、具体的にまず取り上げられるのが、ボグダーノフということになる。
ボグダーノフは、『赤い星』という火星を舞台にしたユートピア小説を書いているが、これは小説であり、なおかつ、未来予測の書でもあった。
革命後の困窮にあえぐ人たちに対して、ソ連が進む未来を指し示したもの。
ボグダーノフの未来予測は、技術や社会に関することだけでなく、もっと壮大で、個人と集団の対立をこえることが目指される。
「集団的身体」とか「新しい人間」とかで、ニーチェからの影響がある超人思想。
超人へのあこがれは、ボグダーノフに限らず当時のボルシェビキに広く存在したものだという。例えば、建神主義にもみられる、と。
さて、実際に「新しい人間」になるためにどうすればいいか、という実践方法としてボグダーノフが注目していたのが「血液交換」
生命の交換による集団的社会の完成を目指す。筆者は、ここでいう生命の交換というのは遺伝子の融合だろう、みたいな説明をしていたが、血液交換の実験を実践する中、結核・マラリア患者の血液を自身に輸血して、ボグダーノフ自身は亡くなっている。
ボグダーノフの思想は、西欧の精神的危機に対する応答だという。近代を超克するためのユートピア思想。先にニーチェからの影響を挙げたように、19世紀末に生じた西欧や近代を批判するような思想から影響を受けていた。例えば、マッハの一元論からの影響など。
ボグダーノフについては桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2にも書いてあった。
2 死者の復活──ニコライ・フョードロフ
第2節ではまず、1857年、サイクロプス号の海底測量の際に発見された「原始生物」のエピソードから始まる。
トマス・ハクスリーはこれをヘッケルにちなんで「バシビウス・ヘッケリ」と命名する。ヘッケルは、無機物と生物のミッシングリンクとしてのモネラという原始生物を想定しており、ハクスリーはこれこそそのモネラだと思ったわけだが、実際にはこれは生物ではなかったことが明らかになっている。
さて、このサイクロプス号の海底測量の目的は、深海生物調査ではなく、海底ケーブル敷設であった。この時期、電信網が急速に広がっていたのである。
筆者は、19世紀の(あるいは本書の)キーワードとして「進化」と「ネットワーク」をあげて、この2つが組み合わさって、ド・シャルダンの「精神圏」、ソロヴィヨフの「神人」、ジュリアン・ハクスリーの「トランスヒューマニズム」などの思想が生まれてきたという。
ところで、ド・シャルダンの「精神圏(ヌースフィア)」は、本書では度々言及されているのだが、詳しい解説はほぼなされていない。
なので、とりあえずWikipedia読んだ。
ピエール・テイヤール・ド・シャルダン - Wikipedia
カトリックの司祭で古生物学者でもある人で、キリスト教的進化論を唱え、北京原人を発見した人、と。なんか、古人類学関係の本で名前を見かけたことがあるような気もするのだけど、自分のブログを検索しても出てこなかった。
また、失敗した歴史の瓦礫から、未来の可能性を組み立てなおす 木澤佐登志『闇の精神史』書評:乗松亨平(東京大学大学院総合文化研究科教授)|Hayakawa Books & Magazines(β)において以下のように書かれている。
たとえば第1章で触れられる「精神圏」概念は、テイヤール・ド・シャルダンを通じてマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』にとりいれられており、この系譜をたどってロシア宇宙主義とサイバースペース論を直接結びつけることもできたはずだが、著者はおそらくあえてそれを控えている。
なので、この「精神圏」概念はかなり重要なキーワードっぽいのだけど、本書では各所へのつながりについては暗示するにとどまっている。
閑話休題
ボグダーノフの場合は『テクトロギア』という著作があるらしいが、このテクトロギアという言葉はヘッケルに由来しており、ヘッケルが考えた生物に関する考え方を宇宙へ普遍化しようとした書物らしい。ここで「進化」と「ネットワーク」に次ぐキーワードである「宇宙」が出てくる。
この時期、例えばスキアパレッリの火星運河の研究があって、宇宙への興味関心も向けられていた時代、と。
という前フリをうけた上で、ロシア宇宙主義のフョードロフについて
フョードロフは貴族の出身だが、幼い頃から飢饉の恐ろしさの話などを聞いて育ち、さらに20代の頃に、育ての親である叔父が死に、その死に強い影響を受ける。
つまり、今までいた世代を新しい世代が追い落とすという世代交代の思想を考えるようになる。
また、キリスト教(正教)の影響も強い。
司書となった後、その記憶力から「モスクワのソクラテス」として尊敬をあつめて、サークルを形成。ツィオルコフスキーもフョードロフから影響を受けている。
彼の思想のキーワードは、神が人類に課した「共同事業」であり、彼の思想は死後に『共同事業の哲学』として刊行される。
生物の中で人間は、その自意識により特別な存在であるとする。また、唯物論を2つに分類し、物質の限界を超克していくことを「倫理的唯物主義」と位置づけた。
具体的には「肉体の改造」という考えになり、未来の人類は、飛行能力や遠視能力を身につけ、独立栄養生物として生きるようになる、と考えた。
そしてそれは、死者復活のプロジェクトへも繋がる。
科学と福音の一致であり、集団(ソボールノスチ)*4による神の意志の実現でもある。
生殖に用いるエネルギーを創造と再生へ使うべきだ、という一種の反出生主義的な考え方でもあるらしい。
大気中の粒子となって散逸した死者の肉体を集め直して復活させるという考えで、散逸した粒子を集めるにあたって宇宙進出が必要になる。
3 実体化する「精神圏」──現代ロシアにおける展開①
第3節は、ロシア宇宙主義の回帰
ソ連末期、実験的創造センターというのが作られて、新しいイデオロギーにするべく過去の思想が研究される。所長のクルギニャンは、ソロヴィヨフやヴェルナツキー*5に着目し、また、フョードロフについて直接言及していないが、「共同事業」というワードは頻繁に出てくる、という。
クルギニャンの考えは、共産主義とロシア・ナショナリズムの奇妙なアマルガム
さらに現代へと話を進めて、ロシアのとあるクライオニクス(遺体冷凍保存)企業についての話へ。
クライオニクスも含めて一種のトランスヒューマニズムだとして、例えば、Googleのラリー・ペイジによるCalicoや、イーロン・マスクのニューラリンクについてもあわせて紹介している。
その上で、21世紀のフョードロフ主義者とシリコンバレーのビリオネアの違いについて、前者は資本主義に対して否定的であり、ソ連へのノスタルジーといった背景を持ち、エンハンスメントは否定しており、関係者に女性も多いことを挙げている。
さらに、現在のロシアで展開されているNeuroNetというプロジェクトについても紹介している。
NeruoNetはWeb4.0を標榜した、BMIによるネットワーク構想で、「精神圏ヌースフィア」の実体化であり、フョードロフの共同事業をニューロテクノロジーで実現するものだ、と。
また、NeuroNetには「先見」というコンセプトがある。つまり、未来へのヴィジョンがあって、ソ連が失った未来の代わりとして支持されているらしい。
元々は、アマチュアの技術者などが言っているだけのプロジェクトだったが、2015年頃から、ロシア政府の文書の中にも名前が出てくるようになってきているらしい。
この節だけ、連載当時に読んだことがあった。
『SFマガジン』2021年6月号 - logical cypher scape2
連載時のタイトルは「さようなら、世界 〈外部〉への遁走論」
4 新ユーラシア主義──現代ロシアにおける展開②
第4節では、ユーラシア主義と新ユーラシア主義が紹介される。
ロシアのナショナリズムの系譜というか考え方のようなものが概観されて面白いが、宇宙主義とはやや離れる(最後に宇宙主義との関係も紹介されてはいるが)。
ロシアでは、ピョートルの西欧化改革に対する評価によって知識人が二分されており、西欧派とスラブ派に分かれている。
スラブ派は、没落する西欧と未来あるロシアという枠組みをもち、西欧近代を超克するものとして「ロシア的精神」があると考える。
「ロシア的精神」という考えの形成にあたっては、「ドイツ観念論とドイツロマン主義(とりわけシェリング)の輸入」、「ナポレオンを撃退したこと」、「正教のメシアニズム」が背景にある。
ホミャーコフは、ロシア的精神とソボールノスチ、総和の精神について論じ、
キレーエフスキイは、「全一性」というキーワードを用いた。
ホミャーコフやキレーエフスキイを研究した哲学者としてエフゲニー・トルベツコイがいて、その甥のニコライ・トルベツコイがユーラシア主義を唱えた。
ニコライは、十月革命により亡命を余儀なくされ、プラハ言語学サークルへと参加した。革命と亡命の経験、相対主義的な思想との接触が、ユーラシア主義を生み出したのではないかという。
エフゲニー・トルベツコイとニコライ・トルベツコイについては、桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2にも書かれていた。
続いて、本書では新ユーラシア主義、特にその代表的人物であるドゥーギンへと話が移る。彼は典型的なポストモダン右翼であるという(一見、リベラルな言論のパッチワーク)
また、アメリカのオルタナ右翼からもドゥーギンは人気がある、と。
ところで、本書ではユーラシア主義と新ユーラシア主義の関係について特に何も触れられていないが、最近偶々見かけた浜由樹子・羽根次郎「地政学の(再)流行現象とロシアのネオ・ユーラシア主義」には以下のように書かれていた。
但し、古典的ユーラシア主義とネオ・ユーラシア主義は、直接的な継承者ではなく、それぞれが異なる文脈の中で検討されるべきだというのが、このテーマに真剣に取り組んできた研究者たちの多くが到達した結論である。両者に共通するのは、ロシアを「ヨーロッパでもアジアでもないユーラシア」として再定義を試みたということ、そしてその根底に、西欧起源の価値の普遍化に対する懐疑と批判だけだといっても、過言ではない。
なお、この論文は、やはり怪しげであまりお近づきになりたくないなあと個人的に思っている「地政学」について、コンパクトにまとめてあって勉強になった*6
ここまで「面白いけど宇宙主義どこ行った」と思いながら読んでいたら、ユーラシア主義と宇宙主義を融合した論者の紹介もされていた。
まず、グミリョフという人が、ユーラシア主義と宇宙主義の総合をした、と。グミリョフは、民族の特徴は宇宙環境と地球環境全体に依存していると論じた。
「精神圏」のヴェルナツキーの息子である、ジョージ・ヴェルナツキーも、ユーラシア主義と宇宙主義を結びつけている。彼は、距離と時間を関係づける。京都から離れるほど古い言葉が残っている的な話だと思うのだけど、辺境のほど古いものが残っているという考え方と、宇宙では遠い距離を観測すると古い時代のことが分かるという考え方を結びつけて、シベリアと宇宙を結びつけるような言説をしているらしい。
最後に、日本における宇宙主義の受容として、三宅雪嶺『宇宙』について紹介しているが、ちょっと関係しているくらいの話っぽい。
第2章 アフロフューチャリズム──故郷(ルーツ) としての宇宙
アフロフューチャリズムについて、自分は大和田俊之『アメリカ音楽史』 - logical cypher scape2で知った。ピラミッドと宇宙とを描いたジャケットデザインは印象に残っている。
1 止まって、僕を乗せておくれ──サン・ラー
第1節では、サン・ラー、ジョージ・クリントンのPファンク、ドレクシアが取り上げられている。
アフリカ系アメリカ人、つまり黒人奴隷の子孫たちは、アフリカの地から強制移住させられた者の子孫であり、自らのルーツ・故郷を失ってしまっている(アフリカン・ディアスポラ)。
そこから、宇宙を自らのルーツとして改変する者たちとして、アフロフューチャリズムを位置づける。
アフロフューチャリズムという言葉自体は、1993年にマーク・デリーが提唱したもの。アフリカン・ディアスポラを異星人の誘拐に見立てる。
- サン・ラー
本名はハーマン・”ソニー”・ブラント、1914年生まれ。
土星人であると自称し(ルーツの改変)、エジプトの太陽神にちなんでラーと名乗っている。
1950年代中頃に結成した、アーケストラというバンドを率いたが、バンドというよりも一種のコミューンだったと述べられている(最大で30名ほどいたとか)
アーケストラの演奏は「宇宙ドラマ」とか「未来の神話」とか
1970年代、パーラメントとファンカデリックという2つのバンドを率いる。これらのバンドの音楽がPファンクと呼ばれた。
パーラメントに「Mothership Connection」という曲があって、歌詞の中でチャリオットという何重にも宗教的含意のある言葉が用いられているのだけど、これがさらに宇宙船マザーシップとされている。
宇宙へのイグジットでもあり、ホーム(故郷)としての宇宙でもある
デトロイト・テクノのアーティストだが、独自の神話を創造
奴隷船から捨てられた者が海底で独自の進化をとげたという神話らしいのだが、この神話の構造が、過去が未来を伴って現在へ回帰してくると表現されている。
2 未来は黒い──リー・ペリー
第2節は、ジャマイカのレゲエミュージシャンであるリー・ペリーについて
リー・ペリーは、1936年生まれ、60年代にキングストンでシンガーとしてデビューした。
彼もまた、ジャマイカへ「転生した」といって、ルーツを改変している。
ここではまずレゲエという音楽について、その特徴を説明している。
ジャマイカがアメリカ音楽を受容する過程で生まれてきた音楽
それから、サウンドシステムも特徴に挙げられている。
本書では、レコードが高価であるために大勢で聞くためにサウンドシステムが発展した的な説明がされている。
ところで、自分はレゲエという音楽について全然知らないのだけど、昔々に行ったイベントで、そのスピーカの独特さは目の当たりにしていたことがある。なので、レゲエの特徴はサウンドシステム、というのはよく分かる。
次にラスタファリニズムについて。
これは1930年代に生まれたジャマイカの霊性運動で、エチオピアの神への信仰などに特徴づけられるのだが、60年代からレゲエの歌詞で使われるようになっていったという。
再び、レゲエの話に戻って、レゲエでは元音源を加工してインスト盤にするなどした「ダブ・プレート」というのが作られていて、これが後にリミックス・カルチャーへ繋がっていったという。
ここで本書が注目するのは、ダブ・プレートの制作によって、エンジニアのプレゼンスがあがったということだ。
リー・ペリーもまた、エンジニアでもあった。彼は、自身のスタジオをブラック・アーク(黒い方舟)と名づける。
こうしたスタジオというのは、もちろん科学テクノロジーの集積なのだが、一方でペリーは呪具を置いたり、ガンジャを吹き替えたり、黒魔術的なことも行う。
ここでは、ジャマイカで「サイエンス」は、科学と魔術の両方の意味があるのだとか、下村寅太郎からの引用やバロウズを引き合いにだして、科学と魔術が表裏一体であることが論じられている。
そしてさらに、ペリーがスタジオを宇宙船のコックピットにも見立てていたという。
このことは後世にも影響を与えていて、レコーディングスタジオを宇宙船のコックピットに見立てたジャケットデザインが色々あるらしい。また、前節に登場したパーラメント「Mothership Connection」との同時代性もあわせて指摘されている。
順番が前後するが、本節の冒頭で、ケニアの哲学者ジョン・S・ムビティが指摘したアフリカの時間概念についても解説されている。
アフリカには「未来」にあたる概念がなくて、時間は、近未来と近過去を含む現在としての「ササ」、無窮の過去である「ザマニ」に分けられる。
ザマニとは、神話や霊たちの時間であり、ササを生きた人たちは、ザマニへと帰っていくことになる。
西欧(キリスト教と近代)がアフリカに「未来」という概念をもたらしたが、そもそも未来という概念をもたなかったアフリカ人にとっては、近い未来にメシアの到来を望む、極端なメシアニズムを誕生したという。上述のラスタファリニズムの話はそこに繋がってくる。
で、最後に宇宙とザマニを結びつける話をしている
3 変性=変声するヒューマニティ──サイボーグ化の夢
第3節は、マイルス・デイヴィスについて
こちらは宇宙の話はなくて、節タイトルにあるとおりサイボーグの話となる。
ここでは、菊地成孔と大谷能生の『M/D』が参照されており、60年代後半以降に「電化」「磁化」したとされている。電化とはエレキギターなどの使用をさし、磁化とはスタジオでの編集制作である。
この時期の名盤として、テオ・マセロというエンジニアと組んだ「オン・ザ・コーナー」
さて、さらにマイルスの変化を本書は「サイボーグ化」と称する。1つには、この時期相次いで手術を行うことになり、特に人工関節の移植が彼にとって大きな出来事だったことをあげる。また、敬愛していたジミヘンの死も「サイボーグ化」につながっていた。
ワウワウを使い、ジミヘンの声に近付くよう変声するようになった、と。
本節は後半から『エレクトロ・ヴォイス――変声楽器ヴォコーダー/トークボックスの文化史』を参照しながら、ヴォコーダーとトークボックスの歴史についてもまとめている。
ヴォコーダーの技術は1928年のベル研究所に遡り、1940年代には軍の音声通信システムとして開発され、トルーマンとチャーチルのホットラインに使われたという。
また、ソ連でも同様の技術開発が行われ、収容所に入っていたソルジェニーツィンがこの仕事に携わっていたという。
一方のトークボックスは人口咽頭の技術をもとにしており、1960年代後半に発明されたという。
ヴォコーダーよりもアナログで安価だったが、身体に負担をかけるものであったという。身体改造とマゾヒズム。
最後に、テクノサイエンスとマイノリティの関係ということで、ダナ・ハラウェイの『サイボーグ宣言』だったり、オクティヴィア・バトラーのSF作品だったりが参照されている。
第3章 サイバースペース──もうひとつのフロンティア
1 一九八四年──ニューロマンサー、マッキントッシュ、VR
第1節では、カウンターカルチャーとサイバーカルチャーがいかに合流したのか、という歴史が解説される。
主な登場人物は、ジョン・ペリー・バーロウとスチュアート・ブランドである。
60年代のカウンターカルチャーは反テクノロジー
コンピュータのイメージも、IBMのメインフレームであり、官僚主義・中央集権と結びついていた。
さて、スチュアート・ブランドは、WEC(Whole Earth Catalog)の創刊者として知られるが、WECはもともとヒッピーライフスタイルのためのカタログ誌であった。
ただ、ブランドは、バックミンスター・フラーとサイバネティクスから影響を受けていて、雑誌を読者と編集者のフィードバックループとして捉えた。
サイバネティクスの考え方を広めて、コンピュータのイメージを人間-機械混成システムへ
と変えていった。
ブランドは、サイバーカルチャーへと接近していき、1984年には「Whole Earth Software Review」創刊。同年には、The Hacker Conferenceを開催し、スティーブン・レヴィやスティーブン・ウォズニアックを招待した。
そして、1985年には電子掲示板サービスWELL(The Whole Earth Lectorotonic Link)を始める。
ロックバンド「グレイトフル・デッド」の作詞家であったジョン・ペロー・バーロウは、1986年にWELLに加入
「サイバースペース」という言葉を作ったのは無論ウィリアム・ギブスンだが、これを広めたのはバーロウで、1990年にWELLのことを「サイバースペース」「デジタルフロンティア」と表現して語っている。
西部出身のバーロウが、失われたワイルド・ウエスト、リバタリアン的なフロンティアを電子の世界に見いだしたのだ、と。
さらにバーロウは、VRについても熱心に語っていたという。
本節の最後に、最初期のVR企業を設立したジャロン・ラニアーが見た夢が書かれている。電話回線を通じて世界中の子どもたちがつながっていた夢。
2 幸福な監禁──行動分析学的ユートピア
第2節は、カジノとスキナーによる行動分析学について、あるいは環境管理型権力について
カジノの天井が低いのは何故か。
ヴェンチューリ『ラスベガス』ではコストの問題として説明されているが、『デザインされたギャンブル依存症』では、周到に意図されたものだという。以後、カジノについてはこの本が主に参照されている。
そこで言われているのは「空間消去の法則」で、空間を感じさせなくするように設計されているという(低い天井や壁によって見通しを悪くしたりしている)。
その結果として、客は「マシン・ゾーン」に入る。スロット・マシーンと自分だけの世界。
そのために温度、照明、カラー、サウンド、香りが設定され、アンビエント音楽がBGMとして流されている。
環境を意識させないことを目的としてデザインされた環境
日本のパチンコホールとラスベガスのカジノを比較して、それぞれ規律訓練型権力と環境管理型権力に対応させる(ただし、パチンコホールにそのような権力が働いているというわけではなくて、規律訓練型の建築と類似しているというよう言い方をしている)
カジノについて「幸福な監禁」という言い方がある。
しかし、環境管理型権力だけでは依存症の問題まで踏み込むのは難しい、として、スキナーのオペラント強化と行動分析学が紹介される。
『デザインされたギャンブル依存症』でも、カジノをスキナー箱ととらえる投稿が紹介されている、という。
スキナーは、行動は自由意志ではなく環境で決定されるという人間観を持つ。
ただし、その環境を再デザインできる、というところに、ただ環境に支配されるだけではないという含みをもつ。
スキナーは抑圧と自由を二項対立ではなく、コントロールとカウンターコントロールのスペクトラムでとらえる。
また、『Walden Two』というユートピア小説も発表している。
執筆時期は『1984』と同時期
ユートピアじゃなくてディストピアだろう、という話ではあるが
3 人はなぜ炎上するのか──SNSと道具主義
第3節では、第2節のカジノの話が現代のインターネット社会へと応用される。
冒頭で、筆者のソシャゲ天井までガチャを回してしまった時の体験を書いているのだが、(前節の「幸福な監禁」を受けて)決して「幸福」な体験ではなく「受難」であったと述べている。
また、SNSにも同様の構造があるとして、樋口恭介の炎上体験についても紹介している。
自分は、ガチャを天井まで回したこともSNSで炎上したこともないが、しかし、筆者のいう「受難」経験自体は理解できる。つまり、「もうやめたい」と頭で分かっていても辞められずに続けてしまう、という点で、SNSのタイムラインを眺め続けてしまうことがよくある。というかこのブログを書いている今まさにこの期間(数日間に分けて書いている)、無駄にSNSを眺め続けて抜け出せなくなる時間が発生しており、しんどい。
オペラント条件付けが起きている。
こうしたSNSで起きていることと、前節でのカジノの事例は類似している。
『監視資本主義』のズボフは、こうしたSNSのあり方を「道具主義」と呼んでいるらしい。支配やコントロールという点で全体主義と似ているが、しかし、道具主義は、訓練や教育をするのではなく、測定・予測・制御をしているだけだ、という点で全体主義とは異なると。
SNS時代におけるスキナーとして、本書ではMITメディアラボのアレックス・ペントランドの「社会物理学」が紹介されている。ペントランドは、人間の行動を「よい」行動へとコントロールできる社会を理想的な社会システムと呼び、具体的にはフェイスブックを称賛しているらしい。
人間の行動を測定したデータ資源が金を生むということに早くに気付いた者として、グーグルのアミット・パテルがいるという。つまり、ターゲティング広告である。
なお、憲法学者の山本龍彦は、ターゲティング広告は消費者法における「広告」より「勧誘」に近いと指摘しているという。
ところで、このターゲティング広告については、80年代のカジノで既に行われていたということが、やはり『デザインされたギャンブル依存症』から紹介されている。
どのスロットマシーンをどのように使っていたか、そして各店舗の情報をデータベース化して、顧客の行動追跡を行い、どのくらいの頻度で来店しどれくらいお金を使っているかのデータを蓄積して、それにあわせてDMを郵送している、と。
フロムの『自由からの逃走』で、外的権威、内的権威に次ぐ第三の権威として、不可視の権威・匿名の権威が論じられていたことが紹介されている。
不可視であるがゆえに抵抗しにくいので効果的に働く、とフロムは指摘しているが、SNSのアーキテクチャで働いているものそのものであろう。
ピンチョンの小説には「ネットの歴史そのものに、破滅のシナリオが、はじめから組み込まれていた」という一節があるという。
筆者は、1984年に公開されたAppleのCFへと立ち戻る。中央集権的なコンピュータのイメージを壊して、個人の「自由」を実現してくれるものとしてのコンピュータのイメージを打ち出したCFであったが、筆者はその翌年の1985年には、ハラーズ社のカジノでプレイヤー行動追跡システムが始動していたという構図を描いてみせる。
4 メタバースは「解放」か?──精神と肉体の二分法
第4節では、VRやメタバースの背景にある、心身二元論的な思考の枠組みについて指摘している。
80年代後半、VRが軍・航空産業から「サイバースペース」の名で民間へ
スチュアート・ブランドは、「スペース・ウォー」に没頭するハッカーたちを見て、幽体離脱を連想させる記事をかいた。
スチュアート・ブランドには、ヒッピーとコンピューターという二重性があるが、80年代において後者へと比重を変化させていく。
WELLはヒッピーとは異なる性格の共同体で、ヒッピーではないタイプの人たちが多く参加していた。
社会の外部にあるコミューンにこもるのではなく、スタートアップの起業によって社会は変革できるのだ、という信念の変化。
こうした変化は、『WIRED』創刊にも象徴される、と。
上述した通り、ブランドはハッカーたちがゲームに没頭する有様を幽体離脱に喩えたが、80年代後半から90年代、幻覚剤によるトリップとサイバースペースへのジャックインを比喩的に結び付けるのは常套句だった。
VR関連企業のオートデスクがティモシー・リアリーを起用したこと
あるいは、雑誌『High Frontiers』(のちに『Mondo2000』)も。
60年代サイケデリック、ニューエイジ、オカルトとハッカー、コンピュータとが融合していく→サイバーデリック・カルチャー
サイバーカルチャーとサイケデリック・カルチャーは「体外離脱」の夢を共有
『ニューロマンサー』のケイスの設定は、ユダヤ・キリスト教文化の二分法に由来していたとギブスンは語っているという。前述したラニアーの夢もそうだし、また、近年のメタバースに関連して、バーチャル美少女ねむや加藤直人の記述の中にも、肉体を捨て、精神・情報だけの存在になることを言祝ぐ価値観を見いだす。
肉体=物質に対して、霊・精神=情報を上位におくヒエラルキーは、西洋においては古くから見られる思想的枠組みである。
新プラトン主義における「一者」との「合一」(肉体を捨て不死の魂へ)
→アウグスティヌス、アクイナス経由でキリスト教へ
→エマソンにも間接的な影響
グノーシス主義(肉体を脱出してプレーローマへ)
→神秘思想への影響
ポストヒューマン、メタバース、バ美肉など新しそうに見えるが、その価値観は古典的
不死の観念と結びつくと千年王国となり、シンギュラリティによるマインド・アップロードという考えへ
また、この価値観の変化球的な現れとして、ボストロムのシミュレーション仮説
第4節の最後では、こうした、心身二元論的な枠組みにおさまらないものを指摘している。
東浩紀は「サイバースペースは何故そう呼ばれるのか」において、ギブスンになくてディックにある「不気味なもの」について論じている。
「不気味なもの」とは、物質と情報のあいだのどちらともつかないもの。ギブスンの場合、これが綺麗に切り分けられていて、それによって「サイバースペース」は成り立っている、と。
筆者は「不気味なもの」の具体例として、VR酔いがあるのではないか、と指摘する。
また、筋痛性脳脊髄炎患者であるアーティストの近藤銀河*7の、VRヘッドセットの長時間の利用が困難であるという発言も引用しつつ、メタバースに移住できるのは実は健康な肉体を持った者のみなのではないか、と心身二元論的枠組みを撹乱する。
5 身体というアーキテクチャ──私がユートピアであるために
第5節では、第4節の最後に触れられた、心身二元論的な枠組みでは捉えそこねるものを拾い上げる。
ディック『パーマーエルドリッチの三つの聖痕』では、遍在するエルドリッチによってコントロールされる世界が到来するが、メタバースによる不気味な統治では、と。
ラニアーも、スキナーボックスにとってVRは理想的装置だと述べている。
『三つの聖痕』におけるキャンDの世界はVRだが、現実との境界が消えるチューZの世界はMRではないだろうか、と。
ライフログとMRが組み合わされた時代におけるエルドリッチは、プラットフォーマー
ここまで、カウンターカルチャーからサイバーカルチャーへ、という流れが紹介されてきたが、80年代サイバーカルチャーがカウンターカルチャーから引き継がなかったもの、そして別のところから影響を受けたことについて
(アフロフューチャリズムの名付け親でもある)マーク・デリーは、サイバーデリックカルチャーが、カウンターカルチャーからドラッグやニューエイジなどの面で影響を受けつつも、反戦運動、公民権運動、ブラック・パワー、フェミニズムなどの政治的ラディカリズムを排除していたと指摘
一方、80年代は新自由主義の時代でもあり、例えばブランドはサイバネティクスの影響も受けながら、自生的秩序を構想していた。新自由主義によるニューエコノミーは、流動的な雇用をもたらしもした。
また、世界からのエグジットは、ヒッピーのコミューン思想だけでなく、アイン・ランドのリバタリアン思想(あるいはハインラインなどのリバタリアンSFとか)の影響もあるのではないか、と筆者は指摘している。
フレッド・ターナーはまた、テック・エリートの自立幻想が、インフラ維持の肉体労働や電力消費問題を無視したものと指摘。つまり、サイバースペースもまた物質からは逃れられない
第5節の最後で、筆者はフーコーの「ユートピア的身体」という概念にある種の希望を託す。
フーコーは、身体が、私にとっていつもある者という意味で、ユートピア=どこでもない場所の反対概念だとする。しかし、私の体には私にとって不可視なところもあり(頭の後ろを見ることはできない)、ユートピアとしての身体という概念を提唱する。
筆者は、身体というアーキテクチャを抵抗のアーキテクチャにできないか、と述べている。
第3章感想
スチュアート・ブランドはテクノ楽観主義者からラッダイトまで – WirelessWire Newsにも名前が出てきたが、実はあんまりよく分かっていなかったので、勉強になった。
ホール・アースという言葉自体は、飯田一史「セカイ系とシリコンバレー精神」で知った。読み返してみたら、スチュアート・ブラントとティモシー・リアリーの名前も出ていた。
上述したように、カリフォルニア・イデオロギーの変質について知るヒントになるのではないかという期待については、おおむね応えてくれる内容であった。環境管理型権力の話など、若干懐かしさを覚える話でもあるのだが、スキナーとカジノの話をはめていたのが面白かった。
カジノの話は、本来直接的にはサイバースペースの話にはならないはずだが、カジノ→ガチャ→SNSという流れによる説得力があった。ここはある種の連想であって、実証的な話ではないけれど、実感としては分かりやすい。無論、ペントランドの社会物理学やグーグルのターゲティング広告が傍証とはなっていて、特にAppleのCFとカジノのターゲティング広告が同時期であることの指摘は面白い。つまり、変質があったというよりは、当初からそうだったという、ピンチョンの小説を引用しての捉え方。
あと、サイバーカルチャーに、カウンターカルチャーの影響はあったとして、それはニューエイジとかの面であって、政治思想の面ではなかった。一方、政治思想的にはむしろリバタリアンからの影響があったのではないか、というのは、別に何の意外なところもない話だけれど、改めて整理しておくことは大事かなとは思う。
メタバースとか火星植民とか、開拓精神あふれるフロンティアというより富裕層のゲーテッド・コミュニティじゃん、というような話ともいえるのかもしれない。
その上で、じゃあなんでニューエイジとかとの結託があったのかというところで、心身二元論的な世界観の話が出てくるのだろう。
ドラッグカルチャーと結びつくことで「クール」になったのだ、と書かれている。ところで、ドラッグやサイケデリックが「クール」という感覚、自分にもないがしかし、理解はできるものではあるのだが、日本のオタクカルチャーとかにどっぷり浸かってる人だと、どう思うのかな、とちょっと思った。
閑話休題、そういう心身二元論的な枠組みの乗り越えとして「不気味なもの」や「身体」を出してくるの、それはそれで古典的だなという印象は受けた。
ところで、ユートピア的身体についての具体例を挙げるならば、腸内細菌叢/腸内微生物叢じゃないのかなあと思う。
失敗した歴史の瓦礫から、未来の可能性を組み立てなおす 木澤佐登志『闇の精神史』書評:乗松亨平(東京大学大学院総合文化研究科教授)|Hayakawa Books & Magazines(β)では、身体の未知の可能性の探究としてボグダーノフの血液交換実験があったのではないかと書かれているが、それこそ糞便移植とか、現代における血液交換なんじゃないのか、という気もしてくる。
ところで、腸内細菌叢ネタのSFとしては、ワッツ「内臓感覚」というのがある。どんな話だったか忘れてしまったが、邪悪と化したGoogleの話でもあるので、結構繋がってくる話なのではないだろうか。橋本輝幸編『2010年代海外SF傑作選』 - logical cypher scape2
ただ、腸内細菌叢もまたこうして既知の領域となることで、コントロールの対象になっていくのではないかと考えると、身体というユートピアもまた抵抗の地たりえないという悲観も成り立つかなと思う*8。
終章 失われた未来を解き放つ
各節ごとにエピグラフがあって、SFなりなんなりから引かれているのだけど、終章は「オメラスから歩み去る人々」と『われら』だったので、クライマックス感あった。どっちも読んだことないけど。
レーニン廟の話から始まって、ソ連の話になり、資本主義と社会主義は兄弟のような存在だと続き、近代の超克は、近代を必要とするのであり、それは終わりなき近代の弁証法なのだ、と。
近代における「単一性」(普遍性)のイデオロギーとそこからこぼれおちるもの。
一方で、零れ落ちるものによるアフロ・フューチャリズムがあったとしたら、他方で、こぼれおちて果たされなかったユートピアを隠すためにサイバースペースがあったのではないか、と。
実現しなかった大衆の夢を描く「ガーンズバック連続体」
スヴェトラーナ・ボイムは、ノスタルジーを復古的ノスタルジー」と「リフレクティブ・ノスタルジー」に分類
反動右翼的な前者に対して、後者は、実現しなかった夢へのノスタルジーであり、象徴ではなくディテールを愛し、過去にひかれながらも過去へは戻らないとする。
近代の夢をモンタージュすることで近代の弁証法の外部へといけるのではないか、本書はそういう試みである、と。
感想その2
ロシア宇宙主義、アフロフューチャリズム、サイバースペースの3つが何故並立されたのか改めて考えてみると、民族的・人種的アイデンティティや宗教的な救済をテクノロジーの中に見いだそうとした思想群といえるのかもしれない。
ロシア宇宙主義やユーラシア主義には西欧を乗り越えるロシア的精神とかソ連へのノスタルジーが、アフロフューチャリズムにはアフリカ系アメリカ人の故郷喪失が、サイバースペース論には失われたフロンティアへの渇望が、それぞれ背景にあると言えるだろう。つまり、ロシア人として、黒人として、アメリカ人としてという民族的・人種的アイデンティティを巡る問題が関係している。
そしてまた、ロシア正教、メシアニズム、あるいはニューエイジ的なものもそれぞれ絡みあいつつ、テクノロジーによりそうした喪失を補完しようとして生まれたユートピア思想であった、と。
しかし、テクノロジーへの期待というもの自体が崩壊してしまった現在において、改めてユートピアを補完するのは可能なのか、ということが本書の問題設定なのかもしれない。
ある種の科学文化史として、民族的・人種的アイデンティティや宗教心の問題あるいは近代の超克といったテーマが、科学やテクノロジーへの期待と結びついていく、というのは確かに面白い話だなあとは思う。
しかし一方で、やはり個人的な共感レベルの話でいうと、科学やテクノロジーについて輝かしい未来像が失われたという感覚を必ずしも共有しないので、失われたユートピアをどうやって再び補完するのか、という問題意識にはピンとこないのかもしれない。
宇宙開発についていうと、自分はかなり素朴にただのファンで、特に最近は宇宙開発が再び盛り上がっているので、普通に楽しいというのはある。
もう少し言うと、自分の子どもの頃は宇宙開発の縮小期であって、かつてあったような宇宙へのロマンというものは直接実感していないのかもしれない(もっともそれは本書の筆者も世代的には同じだと思うが)。一方で、そうでありながら、科学探査衛星は色々飛んでいたし、どちらかといえば今でも宇宙開発については、科学探査の方を応援している気持ちは強い。というか、自分が宇宙に行きたいとかそういう気持ちはないし、人類が地球以外で生活できるようになるかにもあまり関心がないかもしれない。
もっとも科学探査も有人宇宙開発も区別なく面白がってはいるけれど。
一方で、宇宙開発に対する人文的アプローチとしては、やはり宇宙倫理学に興味関心がある。
宇宙倫理学では、宇宙開発って正当化できるのかみたいな議論がなされていたりする。
自分は宇宙開発ファンではあるのだけど、宇宙を目指すのは人類の運命、みたいな考えには、確かにノリ切れないよなーとは思うようになっている。
環境破壊の問題もあるし(大気汚染やコンステレーションの光害)。
一方、宇宙法学とか宇宙ビジネスブームみたいなものもあって、その意味でも宇宙はユートピアじゃなくて、もっと実際的な世界になっているよなあと思うし、それはそれで面白いんじゃないのかなとも思う。
宇宙倫理学関係としては以下、
この本では、「リベラリズムという立場において許容できる宇宙植民とは一体どのようなものなのか」という問題を論じていく。
稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』 - logical cypher scape2
「人類存続の義務」が持ち出されることがあるけど、それが最優先されるかどうかは自明なことじゃないんじゃないかという話とか。
「宇宙倫理学研究会: 宇宙倫理学の現状と展望」 - logical cypher scape2
宇宙開発は巨額の予算が必要になる一方、一般の人たちにとってはメリットがわりとふわっとした分野であり、予算獲得という面では色々と厳しい点もある。
宇宙開発には意義がある、という主張を、哲学とか人文社会科学を使って、よりサポートすることはできないだろうか、という思惑があるということである。
科学基礎論学会シンポジウム「宇宙科学の哲学の可能性――宇宙探査の意義と課題を中心に」 - logical cypher scape2
あと、稲葉振一郎「「コンタクト・パラドックス」とその同類たち」というのがあって、「フェルミのパラドックス」にも似た「コンタクト・パラドックス」という問題を、ボストロムのいう存亡リスクとも関連付けながら論じている(存亡リスクは長期主義と関わってくる概念だが、そんなに深刻にとらえなくてもいいのではないか、という論文である)。
それから、宇宙倫理学 - 株式会社昭和堂も今後読みたいなあと思っている。
特に、第4章(呉羽真)、第8章(岡本慎平)、第12章(稲葉振一郎)、第13章(吉沢文武)あたりか。
トランスヒューマンやエンハンスメント技術関係については、あんまり最新のニュースや応用倫理学的な議論を追いかけていないけど、実際にそうした研究開発に携わっている人が書いた本を読んだ際の感想としては以下のようなことを書いたことはある。
まあ、考えとしては分かるし、作ってみたら面白いかもしれないなと思う一方で、無論、こういうのはどれくらいアリな話だろうかとかも思ったりもするわけで、そのあたり、かなりあっけらかんとした書きっぷりであったなとは思った
稲見昌彦『スーパーヒューマン誕生! 人間はSFを超える』 - logical cypher scape2
僕個人も、科学技術の発展については基本的に楽観的であり、科学技術の発達により未来はおおよそはよい方向へと進むだろうとは思っているが、根が文系なので(?)未来はバラ色一辺倒で話をされると違和感はある。
紺野大地・池谷裕二『脳と人工知能をつないだら、人間の能力はどこまで拡張できるのか 脳AI融合の最前線 』 - logical cypher scape2
ところで、インターネットについては、ユートピアとしての期待を抱いてたことがあるのではないか、と聞かれれば、それについては、イエスかもしれない。
だからこそ、本書の第3章については、個別には聞いたことがあるような話もあるにも関わらず、ピンチョンから引用した「ネットの歴史そのものに、破滅のシナリオが、はじめから組み込まれていた」のではないかという観点から組まれたストーリーに対して、逆に深く頷かされているのかもしれない。
もっと若い世代にとって、インターネットがよくいってもディストピアでしかないことは自明かもしれないので。
閑話休題
ロシア宇宙主義、アフロフューチャリズム、サイバースペースの3つについての類似性をまとめてみたけれど、やはり、アフロフューチャリズムは浮いているよな、と思う。
この本を手に取ったきっかけがロシア宇宙主義とTESCREALではあるので、そもそもの関心の問題もあるが、では何故その2つがきっかけとなったかといえば、ウクライナに侵攻したロシアとtwitterを崩壊させたイーロン・マスクが問題だからだ、と言える。
twitterの崩壊自体はどうでもいいといえばどうでもいいが、ビッグ・テック企業の富豪たちによる支配構造、みたいなものは、世界にとって漠たる不安材料ではあるだろう。
つまり、世界に危機をもたらす(かもしれない)奴らがいて、そいつらについて知るためにはどうすればいいのか、というのが、本書を読む際の動機かもしれない。
そういう動機のもとに読もうとすると、アフロフューチャリズムは明らかに浮いてしまうということである。
そうか、自分の中でこの本の位置づけが定まらなくてモヤモヤした理由がもう少し見えてきたかもしれない。
動機の面で言うと、むしろ時々安全保障の本を思い出したかのように読むのに近かったのかもしれない。
が、内容的には当然ながら、そういう政治学的なものではなくて、思想史とか科学文化論とかなので、そこに齟齬があったのかもしれない。
もちろん、安全保障論とか政治学的なものと思想・思想史や科学論は接続可能なものであるし、別に切り離されているわけでもないのだが、自分の中でそれをブリッジできる枠組みができていないのかもしれない。
加えて、この本もまた、そうした関心に直接的に応えるようなものではない。
例えば、ロシア宇宙主義やユーラシア主義の現代における回帰とか、サイバーカルチャーの政治的ラディカリズムの排除やインフラストラクチャーの軽視とかいったことについての指摘があって、(言い方があまりよくないが)現実の政治問題へと接地している箇所もあるのだけれど、しかし、現状への処方とか本書全体のコンセプトとかの話になると、精神ではなく身体というアーキテクチャによる抵抗とか、夢の破片をサルベージすることによる近代からの脱出とか、限りなく抽象的な話になっていく。
いや、抽象的だからよくない、というわけではないのだけど、心身二元論とか近代とか資本主義とか、相手取るものが巨大すぎる気がする。
ところで、民族的アイデンティティの問題とテクノロジーへの期待が結びつくという点では、中国でこそ、今まさに現在進行形で進んでいるところだろう。
中国というピースが一体どのようにはまるのか……。
アフロフューチャリズムについていうと、偶々、本当に偶々、以下の記事を見つけた。
「ぬかるみ派」という、加速主義などを紹介している批評系同人誌があるらしいのだが、そこのnote
イターシャ・L.ウォマック『アフロフューチャリズム』読書会/2022,10,9|ぬかるみ派
政治的に大事かはさておき、分析概念として文化や音楽が使えるというのは確かにそうです。(...)トリーシャ・ローズが、アフロフューチャリズムでロボットを扱うのは奴隷はロボットだからと言ったりなど、そうした意味合いで、批評の武器としては使える概念だとは思いますね。
アフロフューチャリズムもそうですけど、加速主義まわりに未来主義みたいなのがあるじゃないですか、あれすごく変だなと思って。(...)中華未来主義も、西洋人の勝手な中国社会への幻想・妄想を持つニック・ランドたちに対するユク・ホイの批判が出発点にあるんですが…
アフロフューチャリズム、中華未来主義、それともうひとつロシア宇宙主義が繋がる気がして、それがエイリアンとつながっているんじゃないか。
コドウォ・エシュンが言うのは、アフロフューチャリズムをもっと陣地戦的に使えということです。資本は過去だけでなく未来も植民地化するから、対抗的な未来表象を差し出して、それに対抗しろと言うわけです。
このnoteの記事を読んだからといって、アフロフューチャリズムのおさまりがよくなったかといえばそんなことはないのだが、うーん、やっぱり中国、とは思った。
何となく関連しそうな書籍を見つけた
本書の著者の2019年の著作。第1章がピーター・ティールだということに気づいた。ピーター・ティールという人自体最近知ったのだが、ペイ・パルの創業者でイーロン・マスクとも近しい人。
(追記)
アメリカ現代思想の教室 | 岡本裕一朗著 | 書籍 | PHP研究所の第5章がカリフォルニア・イデオロギー~ピーター・ティール~ニック・ランドらしいので、さらにコンパクトになっている版として読めるかも。第6章はアメリカの社会主義やポスト資本主義について。
(追記おわり)
サブタイトルは「〈ポスト資本主義〉を展望するための四類型」であり、この四類型として、「コミュニズム」「レンティズム」「ソーシャリズム」「エクスターミニズム(絶滅主義)」をあげている。目次をみると序論が「黙示録とユートピアとしてのテクノロジーとエコロジー」というタイトルで、ここにもユートピアとテクノロジーが……。
『闇の精神史』は、ポスト資本主義的なことをなんとなくほのめかしてはいるのだけれど、そちらについてはあまり踏み込んではいないので。
自分は、政治的にも経済的にも心情的には左派ではあって、まあだからこそ、『闇の精神史』の、ユートピア的身体による抵抗を~とか、夢をサルベージしたりコラージュしたりすることで~とかは、フワフワしすぎなのでは、と思ったりもするのだけど、一方で、左派であるといっても、共産主義や社会主義にコミットするガチ左翼ではないし、左派とはいっても、社会運動にも参加していないただのノンポリなので、そのフワフワ感に留まりたい気持ちもある。
(追記)
テクノロジーによる「ポスト資本主義」を夢みる「加速主義」、その思想が見逃していたこと(木澤 佐登志) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)
人間が労働から解放される日は来るか? アメリカのミレニアル世代が支持する「左派加速主義」 | Web Voice|新しい日本を創るオピニオンサイト
左派加速主義は、労働のオートメーション化による労働からの解放・脱資本主義みたいなことを考えているらしい……。
本書『闇の精神史』の終章で、資本主義と社会主義はともにオートメーション化の夢を見ている(た)ということが書かれていて、上にまとめる際には省略してしまったのだが、この左派加速主義の議論と関わってくる話題だったのだな、と気付いた。
また、テクノロジーがもたらすユートピアと脱資本主義みたいな話は、ここでつながってくるのだなということが分かった。
ただ、上記記事で読む限りにおいては、左派加速主義の主張って、「そりゃあ働かなくてよくなってBIで暮らせるようになったらいいけどさー、さすがに現実味がなさすぎるのでは」という感じだし、実際、上の現代ビジネスの方の記事は、左派加速主義を批判する本の紹介である。
木澤が左派加速主義に対してどのようなスタンスをとっているのかは不明だが、しかし、本書のちょっとフワフワした感じは、左派加速主義への距離感のあらわれなのかもしれない、とはちょっと思った。少なくとも、本書に明示されていない文脈がまだあるのだな、と。
(追記おわり)
サブタイトルは「〈長期主義〉倫理学のフレームワーク」であり、筆者は効果的利他主義を主張している哲学者とのことである。
ベネターの『生まれてこない方がよかった』もチラ見して結局読むのやめたしなー。反出生主義よりも、感覚的に受け入れやすそうな主張のようには思える。
(追記)
これからの「ソーシャル・グッド」の話をしよう。「効果的な利他主義」のジレンマを乗り越えるヒントとは|英文学者・河野真太郎 - あしたメディア by BIGLOBE
効果的利他主義への批判
効果的利他主義から長期主義へ──哲学者ウィリアム・マッカスキルが見据える未来の最大のリスク | WIRED.jp
有料記事なので読めていないが、上記の本『見えない未来を変える「いま」』の著者へのインタビュー。「長期主義に対するイーロン・マスクの関心がこの運動の障害になるリスクについて、マッカスキルに話を聞いた」と書かれており、長期主義者にとってもイーロン・マスクはナシなのか?
(追記終わり)
うーん、しかしこれらを読みたいか、自分?
ある種の思想的文脈を背景におきつつも、しかし文化史・文化論的な本であることが、自分にとって『闇の精神史』に対するモヤモヤになってはいるのだが、しかし一方で、あくまでも文化史・文化論的な本であるからこそ、読みたいとも思えたし、読んで面白かったのではないか、という気もしてくる。
気候変動をきっかけにしてポスト資本主義社会を目指すSF、キム・スタンリー・ロビンスン『未来省』を読むことにするか(これは以前から読みたい本リストの中に入っている)。
ロビンスンは、マーズ三部作やキム・スタンリー・ロビンスン『2312 太陽系動乱』 - logical cypher scape2でもポスト資本主義経済を描いているのだけど、そういえばマーズ三部作の登場人物の1人が、ボクダーノフの子孫という設定なんだよな……。
なんか、めちゃくちゃ長文の記事を書いてしまったけど、これでうまくオチがついた気がするので、ここで終わることにする。
*1:後述する
*2:これらの記事は2023-11-14 - 青色3号からリンクをたどって読んだ
*3:効果的利他主義と長期主義の組み合わせによって導かれる考え方と、反出生主義に似た匂いを感じることがある
*4:ソボールノスチはロシア思想のキーワードである。桑野隆『20世紀ロシア思想史 宗教・革命・言語』 - logical cypher scape2参照
*6:2010年代になって、地政学を関した書籍の出版点数が増えていることを受けて、地政学の流行現象、特にロシアにおけるそれを検討するというもの。地政学の「流行」は、日本だけでなくロシアやブラジルにも見られているらしい。学問としての地政学は一度消滅した後、実は80年代・90年代に復活している。しかし、近年になって「流行」している地政学は、100年前の古典的地政学そのもので、80年代・90年代の議論は反映されておらず、ドゥーギンも、古典的地政学の焼き直しだ、と。いわゆる地政学の「流行」は以前から気になっていたけれど、つい最近、本屋で子ども向けの本にも地政学のタイトルがあって、「ううむ……」と思っていたところだった
*7:つい最近、攻殻機動隊 M.M.A. - Messed Mesh Ambitions_ISSUE #01 特集_東洋的|The East - logical cypher scape2で名前を知ったばかりだったので、なんかタイムリーだった
*8:一方、個人的に、腸内細菌叢や脳腸相関というの、思われている程すごいものではない、という形で落ち着いていくのではないか、ともうっすら思っていたりはする