科学基礎論学会シンポジウム「宇宙科学の哲学の可能性――宇宙探査の意義と課題を中心に」

6/16・17に千葉大で行われた科学基礎論学会のうち、16日のシンポジウムに参加してきた。
近年、宇宙科学・探査についての人文社会科学的アプローチが増えてきている。
全然フォローしきれているわけではないが、これまでこのブログで扱ったものとしては、以下がある。
「宇宙倫理学研究会: 宇宙倫理学の現状と展望」 - logical cypher scape
稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』 - logical cypher scape
『現代思想2017年7月号 特集=宇宙のフロンティア』 - logical cypher scape
宇宙倫理学に先行して、宇宙人類学関係の著作が出ているのだが、そちらは読めてない。
また、このブログでは取り上げていないが、昨年12月に、「将来の宇宙探査・開発・利用がもつ倫理的・法的・社会的含意に関する研究調査報告書」が発行されている。

呉羽真「宇宙探査と科学の価値」

本シンポのオーガナイザーで、上述の報告書の代表者である呉羽さんから、本シンポジウムの背景などについて。
なお、呉羽さんは、昨年度まで、京大の宇宙総合学研究ユニット特定研究員であったが、任期切れで、今年度からは阪大に所属しており、こっちではロボット・AI関係のことをやっているらしい……
まあ、色々な話をしていたのだが
宇宙探査・宇宙開発事業というのはとかく金がかかるわけで、社会のリソースを割くだけの価値・意義があるのか、という話はよくある。
フィリップ・キッチャーという人が、科学的なアジェンダ設定の問題を論じていて、有意義性(いわゆる「役に立つ」だけでなく、人類の知識を向上させるという点も含めた上での有意義性)というものをあげている。
で、呉羽さんとしては、しかし、宇宙科学というのは、キッチャーのいう「有意義性」だけでなく「文化的価値」もあるのではないか、と。
簡単に言うと、宇宙の話はよく「夢」という言葉とともに語られやすい(法律の中にまで「夢」という言葉が使われている!)けど、この「夢」とか「ロマン」とか「運命」とか漠然と言われているものを、もう少し細かく内実のあるものとして論じていくことはできないのか、とか。
その一つの端緒として、示唆的なものとして、地球観の変化みたいなものがあるのではないか、という話をしていて、地球がかつて「ゆりかご」としていつか出ていくものとして語られていたのが、近年は「家」というイメージになっているのでは(近年の宇宙SFや、「宇宙船地球号」という言葉がすたれ「ホームプラネット」という言葉が使われるようになってきている傾向など)という話をしていた

  • そのほか

The Global Exploration Roadmap January 2018.pdf
今後の宇宙探査のロードマップ


宇宙科学の哲学の関連として、アストロバイオロジーの哲学とかSETIの哲学とかいった分野もできているみたい。
気になる!

寺薗淳也「惑星探査の過去・現在・未来」

探査機から得られる情報を分析するシステムの研究を行っている寺薗さん
JAXAで広報されていたことがあるとのことで、話がとても聞きやすかった。
内容としては、タイトルにあるとおり、惑星探査の歴史、というようなもの
ツィオルコフスキーの「運命」論に触れて、その内実はもっと深掘りされるべきだろう、と。例えば、今後民営化が進むのは不可避だけれど、一部の宇宙へ行きたい人の「運命」を人類全体に敷衍してもよいものか、とかいったことを、ちらっと提起していた。

伊藤邦武「宇宙における野生の思考」

宇宙科学や宇宙探査にかかわる哲学について直接何か関わっていたわけではないけれど、京大時代に話を聞いたり、JAXAの「宇宙の人間学」研究会から出版された本を読んだりしたときに、気になった点について
まず、宇宙探査によって、心理学、社会学、芸術学などの人文社会科学分野においても意義にある知見が出てきているのは、確かなことだろう、と。
ところで、この「宇宙の人間学」研究会というのは「人間学」という言葉をカントからとっていて、また、カントのコスモポリタニズムを宇宙へと広げていこうというような考えが前提とされている。
で、それがちょっと気にかかるなあ、という話で、カントじゃなくてルソーの考えを紹介している。講演タイトルにある「野生の思考」はルソーから。
カント的に考えると、確かに、カントは実践理性とかの普遍性を述べているので、宇宙の話に使えそう。
だけど、例えばルソーは、自然状態、市民社会、都市を非連続的に捉えている。つまり、宇宙に近代や民主主義の理念を拡大するといったって、別様から考えることも可能なのでは、という指摘。
宇宙における「自然状態」が一体どういうものか、いまだ分からないのだから、と。


(今回のシンポジウムを通して、特に言及はなかったが)稲葉『宇宙倫理学入門』をちょっと思い出したりしていた。
つまり、宇宙における「自然状態」ということについて、今いる地球人とは全然違う人々が全然違う共同体を作っていく可能性はあるなあ、と。


面白かったのは、カントから宇宙を考えるというのも一理あって、実はカントは、比較惑星論みたいなことを書いている、という話。もちろん、当時の知識が前提なので、今から見たら変なことを言っているのだけど、面白い。
暑いところの方が知性が低い、というまあちょっとアレな前提があって、そこから水星人は知性が低く、土星人は知性が高く、地球人はその中間くらいということをカントは書いているらしい。


そもそも、他の惑星に人がいるという発想はどこからと思って、家に帰ってからちょっとググったのだが、17世紀にフォントネルの『世界の複数性についての対話』という著作があって、この中で、月や他の惑星にも人がいるという話がされているみたい。
世界の複数性についての対話 - Wikipedia



立花幸司「宇宙科学の哲学の可能性」

とても面白い発表だけれど、一方で、会場から一番質問が集中していたよう気がする
倫理学と宇宙医学・宇宙行動科学について
立花さんの、元々の専門はアリストテレス倫理学
アリストテレスの徳倫理学についての特徴を3つ挙げている
(1)経験的な知見との整合性を重視する
(2)徳の定義よりも、徳の発達・獲得・教育を重視する
(3)理論は人をよくするためにある
こうしたことから、現代の心理学的な知見との整合性があり、また社会実装への応用ができる徳倫理学の可能性を、立花さんは模索しており、その際に出会ったのが、宇宙行動科学だった、と。
宇宙行動科学というのは、宇宙医学から派生してきた分野で、宇宙飛行士の健康、特に心理的・行動面での健康を扱う。
ISSでの活動も長期的になっており、mental healthならぬbehavior health/performance
というものも重視されるようになっている、と。
で、これって「徳」というものを考える上で、重要な経験科学的な知見になるんじゃね、と。
ISSのような閉鎖環境下では、パフォーマンスが発揮できるかどうか、というのも普通の環境とは変わってくる。
こうした宇宙行動科学の知見というのは、その応用として、例えばチリ鉱山の事故の際に使われているらしい。あの事件の時、NASAの担当者が招聘されて、閉鎖環境での生活を余儀なくされている人たちに対して、どのような情報をどのようなタイミングで与えるのかプレッシャーを軽減させるのか、といったアドバイスが求められたりしていたらしい。


話としては面白いけど、それ本当に徳倫理学の話になるのだろうか、とか
宇宙環境が人間の活動にとって過酷な場所だとすると、そういった場所での活動を倫理学が利用するのは問題ないのか、とか
そういった質問が会場からは飛んでいた

感想

かなり色々な論点があって面白そうだな、と思った。
さて、呉羽さんの発表でも少しあったし、なんとなく議論の背景として共有されていたけど、あまりはっきりとも言及されたなかったような気がする話として、そもそも何故近年、宇宙科学・宇宙探査についての人文社会科学的アプローチが増えているか、という点があるかと思う。
つまり、宇宙開発当局からの要請、という側面が結構あるということ。
宇宙開発は巨額の予算が必要になる一方、一般の人たちにとってはメリットがわりとふわっとした分野であり、予算獲得という面では色々と厳しい点もある。
宇宙開発には意義がある、という主張を、哲学とか人文社会科学を使って、よりサポートすることはできないだろうか、という思惑があるということである。
とはいえ、リソースには限りがあるという前提のもと、宇宙探査はした方がいいのか、しない方がいいのか、という議論は結局のところ、かなり政治的な話であって、哲学という学問が何か言えることってそんなにあるのかな、というのは謎
(つまり、哲学を使っても「宇宙探査はやるべき」とも「やらないべき」とも特に言えないのではないか、と)
その一方で、確かに科学的探求が持っている価値とは一体何なのか、特に、宇宙科学などでよく言われるような価値(文化的価値)とは一体どのようなものであるのか、についての分析は、哲学として取り組んでみても面白い問題かもしれない。
また、哲学の自然化が進む中で、立花発表のように、宇宙科学からの知見を哲学に持ってくるというのも、面白いところだと思う。