『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』

公開直後からSNSで絶賛の嵐となり、それを受けて見に行った人もまた絶賛する流れとなっており、そりゃ見に行くしかないなと思って見に行ったら、全く評判に違わずめちゃくちゃ面白かった
自分は『ゲゲゲの鬼太郎』についていうと、子どもの頃にTVアニメ見てたくらいで、水木しげるの原作は未読(いや、1,2年前に1冊だけ読んだかな)。6期も、放映当時に3、4話くらいまでは見てたのだけど、結局そのまま見そびれている感じ。
なので、鬼太郎については、ミリ知らではないものの、通り一遍のことしか知らない程度。だからこそ、本作も当初はわりとスルー気味だった。
なお、本作を見ることを決めた後に、6期についてYoutubeで無料公開されている話があったのでそれだけ見てみたら、水木や目玉になるまえの目玉おやじが登場していて「伏線っっ」となったw
周知の通り、昭和31年を舞台にした、鬼太郎の父親と水木という青年の話なので、鬼太郎そのものについてそれほど知らなくても楽しめるものになっていると思う。
非常に丁寧に作られていることは1回見ただけでも感じられたが、他の人の感想を検索していると「X回目見たら、○○だということに気付いた」みたいな感想も多く見られて、複数回見ることでより楽しめる作品なのは間違いないだろうが、複数回見に行く予定はたてられないので、1回見た範囲での感想を書く。


あらすじ
本作は、まず現代で鬼太郎と猫娘、そして鬼太郎を追うジャーナリストが、とある廃村を訪れるところから始まる。この現代のシーンが最初と最後にあって、枠物語的な構造になっている。
昭和31年、とある村の有力者、龍賀家の当主である時貞が亡くなるところから始まる。
帝国血液銀行に勤める「水木」は、自分の取引先である龍賀製薬の社長、克典が龍賀家の跡目を継ぐと見越して、単身、村へと向かう。
しかし、いざ遺言状が開封されると、当主の座は、克典ではなく、長らく人前に姿を現してこなかった長男の時麿へ継ぐ、という内容であった。
さらに翌日には、その時麿が左目を貫かれて殺されてしまう。
その容疑者として、村長の長田が捕まえてきたのは、白髪で片目を隠した怪しい余所者の男であった。
水木とその男(ゲゲ郎)は、それぞれ、この村に来たのには理由があった。
水木は、戦争中に不死にもなると謳われ、戦後も企業戦士向けに密かに卸されている龍賀製薬の活力剤「M」の正体を探りに、ゲゲ郎は、数年前に行方不明となった妻を探しに来ていたのだった。
東京に連れ出してほしいと水木にすがる、克典の娘である沙代、病弱だが未来に夢を見る少年・時弥、禁忌の島を訪れて廃人となった孝三、まだ子どものねずみ男*1も出てくる。


最後の狂骨が時弥くんだったところで泣いてしまったんだけど、それとともに木澤佐登志『闇の精神史』 - logical cypher scape2を思い出していた。
いや、内容的には全然関係ないのだけれど、『闇の精神史』で「近代の夢をサルベージする」ことの意味が、少なくともあの本を読むだけでは、「文化史・科学史的に面白いねー」以上には分からなくてモヤモヤしていたところがあるんだけど、本作は、全然別の形で「近代の夢をサルベージ」しようとする作品だったな、と。
さて、本作は俗に「因習村もの」というジャンルとして受け取られている。
自分はホラー・ミステリー関係には疎く、横溝正史は原作も映像作品も未履修であるため、「因習村」ジャンル理解自体が不十分*2なのだが、おそらく「因習村」の「因習」というのは基本的に前近代の陰惨な風習のことを指すのだろう。
一方、ゲ謎について自分の感想として「徹頭徹尾、近代の中での話だったな」というのがある。
龍賀家自体は古くから続く家系なのだろうし、描かれる風習の中には、前近代からのもの(例えば近親相姦)があることは窺えるが、しかし、本作がその物語の根幹に置くのは、「M」という薬を巡るあれこれで、これは、時貞が始めたものと考えていいだろう。
龍賀製薬とMの始まりは、日清・日露からであり、そこから第二次大戦にいたるまでの、大日本帝国を裏から支えてきたテクノロジーとして描かれている。
Mのもとになっているのは、確かに幽霊族の血であり、そこは伝奇的・超自然的要素なのだが、それを薬にするためには、人間の血もまた必要で、その血液採取をする場所が「工場」と呼ばれていることからも分かる通り、龍賀家の製薬事業は、近代的なテクノロジーにより成り立っている。
龍賀家の長女たる乙米の言葉と、水木が戦争中に南方で上官から言われた言葉とがともに「大義」という点で重ね合わせられているが、いずれも富国強兵という日本の近代化を支えるイデオロギーであった。そしてこれが、戦後の高度経済成長にも敷衍されている。
「強い国家」とそこから得られる果実を享受することを、ある種の「ユートピア」と見立てることができるだろう。しかし、そのユートピアは著しい犠牲の上に成り立っており、得られた果実も一部の強者が理不尽にも独占する格好になっている。
本作のターゲットであり、水木が打ち倒そうとするものは、前近代の因習ではなく、あくまでもそうした近代化の歪みなのである。
ところで、一方で近代化はただ醜悪なだけではない。
水木とゲゲ郎は、時弥に対して、世界一の電波塔やあらゆる病気が治る医学の発展について語る。こうしたバラ色の未来もまた、近代がもたらすはずだったユートピアには違いない(時弥が「日本が世界一になるなんてすごいや」と素朴に語る時、しかしそれは「強い国家」イデオロギーと一直線につながっている)。
そして、そんなユートピアは訪れなかったことを21世紀に生きる我々は知っている。最後の狂骨であった時弥に対してわびる目玉のおやじもまた、そのことを知っている。
水木は、酒池肉林の夢により誘いをかける時貞の言葉を「つまらないな」と一蹴する。そう、時貞はあまりにも陳腐な悪役である。自らの欲望を求めるだけの小者だ。しかし、彼のテクノロジーが日清・日露における日本の勝利や、戦後の高度経済成長に一役買っていたとするならば、そのことによって豊かになることができた人たちもまたいることになる。時貞は、自らの魂を時弥の身体に乗り移らせて不老不死になろうとする。これまた、非常に典型的な悪役ムーブであり、唾棄するのはたやすい。しかし、あらゆる病気が治るユートピアを夢見ることと、不老不死への夢とのあいだに、どれほどの懸隔があるだろうか。
時弥が夢見るユートピアと、歪みをもたらす「大義」や欲望とは、表裏一体の関係にある。
時貞が絵に描いたような下衆キャラだったから、水木は「つまらないな」と一蹴できたけれど、時弥が夢見るユートピアを示された場合に、あの水木はちゃんと拒めるのだろうか、ということは思った。
本作について、本来の水木イズムとは異なるという指摘もいくつか見かけた。自分は原作未読なので、本来の水木イズムが何なのかはちょっとよく分からないけれど、そのあたりは関係してくるかもしれないな、と少し思う(ユートピア願望自体を捨て去るのがニヒリズムだろう。ゲ謎はしかし必ずしもそういう観点には立たなかったのではないだろうか、と)。
さて、「大義」や欲望に巻き取られることなくユートピアを達成することはできるのだろうか。
むしろ、現実には「大義」や欲望による歪みばかりが大きくなって、肝心のユートピアの達成は程遠くなるばかりだ。
しかし、本作のすごいところは、本作で直接描かれていないところでその方策を示していることだ。我々は、水木が鬼太郎を(おそらく)育てた(のであろう)ことや、その後、鬼太郎と目玉のおやじが人間のために戦い続けてくれたことを知っている。
(というか、鬼太郎が人間を助けてくれるのは水木という青年が助けてくれたから、というのが6期鬼太郎の設定となっているが、「こ、こんなものを背負っていたのか、お前は……!」ってなる)
時弥のことを「忘れない」ことは、おそらく「近代の夢をサルベージする」ことの1つの形なのではないだろうか。
近代の中で近代に抗い続ける物語だったのではないか、と思う。


本作は、鬼太郎作品でありながら、その実、妖怪要素はほとんどなくても成り立つような物語だったのではないか。
(おそらく)「因習村」の因習が前近代のものを指す(のであろう)ことに対して、本作で描かれる業があくまでも近代に属することを指摘した。
前近代的な迷信vs合理的な精神(探偵の推理)というような、今昔の価値観対立の話ではない、ということだ。「因習」と称される時、前近代的なものは迷信であり、打ち払うべきものとなる。
ところで一方、水木しげるに代表される妖怪ものにおける妖怪は、打ち払うべき迷信という扱いではない。むしろ、近代合理主義の中で人々が見失ってしまった「目には見えない大切なもの」とか「自然」とかのメタファーである。
安易にやると「昔はよかった」的なノスタルジーに陥ってしまうことからも分かるように、これはこれで、今昔の価値観対立の図式になっている。
因習ものも妖怪ものも、どちらをよりよいものとして扱うかでは異なるとはいえ、近代と近代それ以前を対比している点では似ている。
自分が子どもだった頃だと、自然環境破壊とかはアニメのテーマとして使われやすくて、妖怪は自然のメタファーとして理解されてきたように思う*3
ただ、本作の場合はどうだったろうか。
確かに、ゲゲ郎を始めとする幽霊族や、彼に協力する妖怪たちは、そうした妖怪イメージと重なるところはある。龍賀による幽霊族狩りは、近代化・工業化による自然や先住民族への搾取として読み取ることは可能ではあるが、しかし、そうしたことを読み取らせようとする意図は希薄だったように感じる。
例えばゲゲ郎の妻は、人間と交わらずに自然の中で生きてそこを無理矢理連れ去られた、というわけではなくて、モダンガールの1人として人間界の中で生活することを選んでいた。
幽霊族全体の描き方は、先住民族的なものを想起させはするのだけど、具体的に描写されるゲゲ郎の夫婦生活の描写からは、《近代=龍賀》が《自然・前近代=妖怪・幽霊族》を踏みにじったというメタファーを読み取るのは難しい。
妖怪もので近代化の歪みを描く場合、少なくとも自分の子ども時代の作品だったら、自然破壊のメタファーとして妖怪を描くのが一般的だったろうなと思うのだが、本作は、そういう方向には行かなかったというのも、一応指摘しておくべきことだと思う。
つまり、「因習」だったり「自然」だったりといった、近代ではないものとの比較を通じて、近代を描いていたわけではなかったという意味で、「徹頭徹尾、近代の中での話だったな」という感想につながる。
そして、最後に救うべきものとして、実際には達成されることのなかった時弥くんの夢を置いた点も、近代の「大義」と欲望の権化である龍賀家を打ち倒すべき敵として描きつつも、かといって脱近代すればok、という話になっていなくて、近代の中で近代に抗う物語だったのではないかな、と思う。


ゴジラ-1.0』(ゴジマイ)との比較
ゴジマイにとって、公開時期がゲ謎と重なってしまったのは不幸だったとしかいいようがないと思う。いやまあ、興行収入に影響を与えないだろうから、ゴジマイ側にとって別にダメージはないんだろうけど。
自分はゴジマイについて、戦後をどう描いているか的な話は気にしなかったというか無視したというか、そういう態度で見ていたし、感想でも極力触れなかったのだが、ゲ謎を見ていると、どうしてもゴジマイと比較せざるをえないシーンとかがいくつかあって、何というか、志の差みたいなものが浮き彫りになってしまったのではないか、と思えてならなかった。
先ほどまで「近代化」とか「近代の歪み」とか、スコープの大きい言葉を使ったが、作中の「水木」の怒りの源泉はあくまでも戦争体験にあって、「大義」とかも太平洋戦争におけるそれではある。ただ、龍賀製薬のMについて、日清・日露から始まって戦後復興期にも使われ続けていることが明言されている以上、本作は、「大義」の問題が、戦中に限定されるものではなくて、日本の近代化全体に通じるものとして想定していたと思う。
そういうところに志の差があるのだけど、まあそれは置いておこう。
決死作戦を命じられたが生きて帰ってきて、戦後の焼け野原と家族が失われていたことに呆然とするという流れが敷島と水木では共通していて、このあたりでゴジマイがどうしても思い浮かんでくる。
その上で、自分の命と引き替えに依り代となる覚悟を決めつつも「未来を見たくなった」ゲゲ郎と「生きて帰ってこいよ」という水木を見ると、ゴジラに特攻作戦をしようとする敷島と緊急脱出装置を説明する橘の描き方の薄さがありありとしてしまって……。
ゴジマイは、バディものではなくてあくまでも敷島個人の内面の物語であるという違いがあり、あまりに敷島個人の内面によりすぎた点を批判する感想も読んだことがあるが、それは好みの問題という点もあるし、敷島が形而上の罪をトラウマとして抱える設定自体は必ずしも悪くなかったとは思う(実際、アメリカではそれが受けているらしいし)。
問題は、それの乗り越え方の契機がどのようにしてだったかということで、個人的には吉岡秀隆演じる「学者」推しだということもあって、「学者」と敷島の関係から作り込んでいってもよかったのではないかと思うのだけど、一方で、確かに橘は重要人物であり、橘が敷島に緊急脱出装置付き震電を与えたっていうのはポイントなんだけど、それにしては結局、橘-敷島の関係の描き方が作り込めてなくない? と思う。つまり、水木とゲゲ郎は互いに少しずつ信頼関係を積み上げていった上で、「生きて帰ってこいよ」「未来を見たくなった」があるけど、敷島と橘の関係については描写の積み上げがなくない? と。そこまでの描写の積み上げという意味では「学者」との間の方が信頼関係があるはずなんだけど、しかし、敷島から学者への矢印がないんだよな。要素の整理が不十分。
それからゴジマイにとって、疑似家族の形成というのは結構重要なモチーフだったと思うのだが、そのあたりの意味づけを描き切れていなかったと思う。対してゲ謎は、疑似家族自体は全くテーマでもモチーフでもないにもかかわらず、水木と鬼太郎の疑似親子関係が後日談として存在しうることを匂わせることで、強烈に意識させることに成功している。
そういえば、「みんなの力を集めて」的なものの使い方も違う。ゴジマイは民間漁船の力でゴジラを引き揚げるという使われ方だけど(そして話全体としてあれは結構チグハグだと思うけど)、ゲ謎のちゃんちゃんこは、水木とゲゲ郎の妻(ひいては鬼太郎)を守るのに使われていて、狂骨との戦いに用いられるわけじゃない、とか。


声優とか
真面目なことを長々と書いたが、見終わった後の最初の感想は「え、石田のポジション、それ?!」だった。
糸目の石田がいることでも話題だったので、登場した瞬間「こいつか!」って笑いそうになってしまったけど、実はラスボスだったということもなく殺されていったので、「石田にしてはあっさり終わったな??」という意味での先の感想になる。
まあ、単に殺されるばっかりではなく、しっかり一矢報いている点で、決してあっさりはしていないんだけど、「石田にしては」みたいなところはある。
沙代さんについて、声優が誰だったか完全に失念してしまっていて、見ている最中ずっと「聞いたことある声なんだけど誰だか思い出せないー」状態で、エンドロールみた瞬間に「種崎敦美!それだ!」感が半端なかった。
なぜだか見ているさいちゅうは「大西沙織じゃないのは分かるんだけど、時々、大西沙織っぽく聞こえる」呪いにかけられていた。
あと、エンドロールでくぎゅの名前出てきて「どこにいたの?!」ってなった。あとで答え合わせしたけど「くぎゅだったのか、全然わからん」というまま


上で石田キャラがあっさり終わったとは言ったが、中盤のアクションシーンは最高だった。
関俊彦vs石田!
石田演じる長田が、ただの村長ではなく、長く幽霊族を借り続けてきた裏鬼道の陰陽師であることが判明し、洋館の屋上でバトルる例のシーン。
屋上というかバルコニーから銃撃ってくる雑魚を、1階の天井から突き破ってゲゲ郎が倒すところが白眉だった。
ゲゲ郎が、フィジカル型のパワーファイターだったのも意外性があり面白かった。
リモコン下駄とちゃんちゃんこは出てくる一方、髪の毛針と妖怪アンテナは出てこないんだけど、そっちは母親譲りということでよいのかな? 鬼太郎は、まだ子どもだからというのもあるかもしれないけれど、膂力で戦うイメージがないし、戦闘方法では母親からの遺伝が強いということになるのだろうか。
というか、鬼太郎に膂力で戦うイメージがないからこそ、見た目は鬼太郎にわりと似ているゲゲ郎が、バルコニーの手すりをめきめきとむしりとってぶん回すシーンが面白いんだろうな。


アクションシーンについては、中盤の関vs石田(言い方)が一番よくできていて、ラストのバトルシーンはアクション面では一段劣るところは確かにある(そういう感想をみかけた)。
「工場」で沙代が「死人」の怨念を集めるところとか、あまりにもアニメ的といえばアニメ的ではある(個人的には、それがよかったとも思うのだけど)。沙代の戦いについていえば、しかし、乙米の目玉抉りとか、水木を首締めとかが見どころとなっていたなあと思う(スプラッタ的な見せ場という意味でもそうだが、ちゃんと意味づけもあるし)。
最後の、時貞戦については、桜のイメージの使い方がうまい。
桜とくればその根元には死体が埋まっているものと決まっているので、その点ではもちろんとして、桜は日本を象徴するような花であり、あるいは「同期の桜」など太平洋戦争とつながるイメージでもある。また、根元に幽霊族が絡め取られているのはいかにも超自然的なイメージにも見えるが、一方で、例えば『マトリックス』の人間発電所的なもの*4も想起させて、幽霊族版の「工場」になっているのだな、ということが理解できる。
時貞のいかにも悪役ムーブとあわせて、絵としての新鮮さはないのだけど、むしろ絵的な「あるある」からちゃんとそのイメージの意味が汲み出せるように作られていたなあと思う。
そういえば、その点でいうと、印象的ではあったけどそのあたりの意味という点ではうまく解釈できていないところに、完全にノックダウンした水木が近景に映っているシーンがある。なんかどことなくエヴァっぽい絵だった(エヴァっぽいとは??)。


あと細かい話
長男・時麿の殺害に続き、次女の丙江、三女の庚子が殺される連続殺人事件なんだけど、丙江さんはちょっとあんまりだな、と
時麿は登場時からインパクトあるキャラだし、庚子は、おどおどしたところから徐々に変遷
していく様が描かれた末の最期だし、ってのに対して、丙江についてはキャラが掘り下げられなかったなーと。沙代の動機も、なんか薄いし。
丙江ってなんというか、捜査攪乱のために殺された人感が……。
何で殺されたのかという動機面でも、どうやって殺したのかというトリック面でも、そういう役割を負わされている感じがある。
ただ、ゲ謎の場合、主人公ズはあくまでもMの秘密&妻が目的で、探偵的役割がないので丙江殺人がなんか浮いたなという気がする。
水木が当初、ゲゲ郎が犯人じゃないことを示す必要があった点でフーダニット要素はあるけど、「話した感じこいつは犯人じゃなさそう」でその点が済まされているし、視聴者視点だと「依り代が~」のくだりがでてきたところで犯人が察せられる演出となっているので、フーダニット的な観点で物語は動かされていない。
ハウダニットについていうと、妖怪出てくる作品だからな、という点でそもそも気にならないし。
作品のフォーマット上の要請という理由だけで殺されてないか、あの人……。


基本的に、世間一般的に、水木とゲゲ郎のバディ関係に注目が集まっていて、実際そういう作品だとは思うけど、個人的に、キャラクターの感情という意味では、長田が気になった。
長田と乙米の関係ももちろんそうだけど、幽霊族へ向ける執念みたいなものも掘り下げたら(オタク的な意味で)面白そうなのではないかなと思った。いやまあ、あのアクションシーン面白かったから、というのが大きいけど。
「徹頭徹尾、近代の話だったなー」とかいう感想書いておいてあれだけど、長田は完全に前近代要素なんだよな。陰陽師だし、幽霊族狩りだってあれは祖先代々の生業でしょう?
逆に、長田と龍賀家は一体いつからの関係なんだろう、というのも気になったりはする。


ゲゲ郎の妻と孝三の話も気になる。これはなんか、制作側は一応、話としては用意してたけど尺の都合で入れられなかった的なところらしいが。
そもそも孝三って、ゲゲ郎の妻と出会う前までは何してた人だったんだろうか。
当主が「時」貞で、長男が「時」麿、また、娘たちは「乙」「丙」「庚」なのに対して、「孝三」という名付けなのも気になる。妾の子とか? 金だけ与えられて画家くずれの生活をしていたとか?
ゲゲ郎の妻が「人間という種族を愛していた」という設定が、妻発見後にもう一度出てこなかったのとかもちょっと気になっている。あの仕打ちは、その愛に対する裏切りでしかないと思うんだけど、そのことも分かった上で捕まったのかどうか、とかが気になる~。


水木とゲゲ郎の関係話について
克典は水木に対して、水木はゲゲ郎に対して「同じ余所者同士、協力しよう」というほぼ同じ言葉をかけているわけだけど、克典から手渡された葉巻に水木は咽せていて、水木から手渡されたタバコにゲゲ郎は咽せない、というところから、水木-克典の協力関係と水木-ゲゲ郎の協力関係の違いが対比されていたんだろうなーと思った。


水木吐くポイント、そこなのかー。


そういえば、制作側のコメントとして、水木が龍賀の一族でないにもかかわらず、禁域に入っても記憶を失うだけですんだ理由は、作画・演出レベルで示している、というのがあるみたいなんだけど、全然分からなかった。
設定上は、水木も妖怪が見える体質だとか、最後はちゃんちゃんこ着てるからとか、あるだろうけど……
そのことと関係しているかどうか分からないんだけど、禁域に入る度に水木が鼻血出しているのが何故なのかが気になった(禁域が人体にもたらすダメージなのはわかるが、何故それを描写するのに鼻血が用いられたのか、ということ)

*1:ねずみ男って成長するの? ということは老化もするの? 人間と妖怪のハーフだけども

*2:せいぜい子どもの頃に見た『金田一少年の事件簿』くらいだ

*3:あるいは平成の怪獣映画もそうだった気がする

*4:マトリックス』に限らずああいうのってあるよね