『暗闇の中で子供』舞城王太郎

すごい、すごい、凄すぎるぜ、舞城。
これはもう最高傑作といってしまっても良いのではないのだろうか。


90年代後半の“地獄”を如何にリハビリテーションしていくのか、あるいは、如何に拘り続けていくのか。
これは、自分のあるいは日本の一つの大きなテーマのように思う。
例えば斎藤環は、そのようなテーマをとりあえず「震災文学」と呼ぶ。
震災、オウム、酒鬼薔薇
舞城は、真っ向から酒鬼薔薇へと立ち向かう*1
ハンニバル・レクターが登場する。
レクターが透明な箱に閉じこめられているシーンがあるが、これは逆でむしろ自分たちの方が箱に閉じこめられているのではないか、と主人公が自問する。
それから、この作品では境界線についても語られる。くたくたになってほとんど見分けがつかないけれど、境界線というものがあるのだ、と。しかし、その境界線は本当に存在しているのだろうか。
「こちら側」と「向こう側」があって、自分たちは「こちら側」の人間だと思っているけれど、実は「向こう側」の人間かもしれない。
そのことに、舞城=奈津川三郎*2は真っ向から立ち向かうのだ。


奈津川ファミリーサーガ第二作。
一作目の『煙か土か食い物』は、末弟四郎が語り手となり進んでいく。
そこではむしろ、その圧倒的でスピード感溢れる文体が、強い印象に残る。
こちらは、四郎の兄、三郎が語り手となる。その文体はやはり独特なものではあるが、四郎より幾分もおとなしい。
そしてこのおとなしさは、とにかく三郎が悩み苦しむことを可能にする。
壮絶なるリハビリテーション
三郎は、「家族」「暴力」から「他者」「愛」へと抜け出していく。
「家族」と「暴力」を起点にしているところで、佐藤の鏡家サーガとも非常に近い。
家族についての描き方が、よく似ている。
今もって、何故舞城や佐藤が家族から書き始めたのかよく分からないのだけど、おそらく最もミニマムな人間関係から始めたかったのだろう、と思う。
あと、親子よりも兄弟が押し出されている点も注目できる*3


様々なキーワード、キーアイテム、あるいはキーシーン(?)が出てくる。その数とその処理の仕方が結構半端でない。
様々なものが、後半でぐおぉっと繋がっていく感覚がある。
作品全体としては、三郎の成長(?)が核となっていて、内省的独白が非常に多いにもかかわらず、ストーリーの方も作り込まれている。


ラストには、九十九十九へと繋がりそうなことも書かれている。
無数の選択肢、可能性というもの。
あと、正直、誠実、寛大がキーワードとして使われている。
そういえば、「駒月万紀子」では、『九十九十九』は奈津川三郎が書いた作品ということが言われていた。
ところで、この作品には明らかにおかしいところがある。被害者の一人の死因が、明らかに途中で変わっているということと池の名前が変わっていること。
今、いくつかのブログを読んだところ、これは途中から三郎の書いた小説になっているということらしい。ラストの九十九十九的な部分や、ラストシーンには、納得できていない人も多いらしく、三郎が書いた小説であるとするとすっきりするようだ。
死因が変わったことは気になって、何度かその部分を読み直したりしたんだけど、もともとミステリには興味がないのと、話が面白いから、途中からは気にしなくなっていた。ラストとかも気にならなかったし。
テーマからの組み立て、という点で、その解釈を採用しなくても問題なく読めた、自分には。ただ、そっちの解釈をとる方が、九十九十九との繋がりを考えても、確かに自然だし、面白い。



馬鹿げた世界、しっちゃかめっちゃか、一斉に容赦なく
それは襲いかかってくる。
三郎は最初から最後まである意味無力で*4、そして境界線に立たされている。
だが/それゆえに、境界線は崩壊する、生と死の、狂気の、暴力の、夜の、こちら側と向こう側の。
三郎は、暗闇の中へと逃亡し、暗闇の中から生還する*5
愛と希望と生を高らかに謳う。
そしてそのためにあるのは、赦し。
苦しみは消えない。出てしまった言葉を取り消すことはできない。何か問題が解消することはない。でも、だからこそ、赦しがある。


90年代への拘りとリハビリ。
そのことを描いた作品群があるとして、今まで読んだことのあるそうした作品の中で、紛れもなく最高傑作。
テーマへの接近の仕方、深め方、ストーリーの組み方、何をとってもよくできている。
では、90年代とは何なのか。
意味のない無力感、絶望。相対主義の地獄と妄想的な論理系。それらの帰結としての、暴力。
これこそ、自分の求める文学なんだ!


*1:煙か土か食い物』で登場したジャワクトラ神が再び出てくる。これは、当然ながらバモイドオキ神が意識されている。

*2:三郎は、愛媛川十三という作家であるが、舞城も愛媛川十三名義で文章を書くことがある

*3:奈津川家に関していえば、父−子の関係も重視されているが、三郎や四郎が己をアイデンティファイする時に重視するのはむしろ兄の二郎だ。鏡家の場合父は登場しない。あるいは、『スパイラル〜推理の絆〜』が父子ではなく兄弟なのも同様に注目に値するかもしれない

*4:兄に対する強力な劣等感とそこから来る無力(感)は、やはり鏡家サーガの公彦、『スパイラル』の歩を想起させないだろうか

*5:村上春樹