ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』(平石貴樹・新納卓也・訳)

フォークナーのヨクナパトーファ・サーガの第2作目で、1929年に発表された作品
フォークナーについては以前、ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子・訳) - logical cypher scape2ウィリアム・フォークナー『エミリーに薔薇を』(高橋正雄・訳) - logical cypher scape2を読んだが、やはり一度『アブサロム、アブサロム!』を読んでいると、フォークナー作品に対して恐れをなさなくてすむw
ただ、どこかで『アブサロム、アブサロム!』がフォークナーの最高傑作みたいなことが書かれていたような気がするのだけど、実際、『アブサロム、アブサロム!』の方が面白かったかもなーとは思う。ただ、読みにくさも『アブサロム、アブサロム!』は段違いである。
本作『響きと怒り』も、実験的手法で書かれていることで有名であるが、それも4章構成の最初の1章だけの話で、残りの3章は、文章のレベルでそこまで読みにくくはない(2章はそれなりに難しさがあるが、下巻はほぼ普通の小説)。
物語は、コンプソン家の4兄弟の話で、ジェファソンの名家だったコンプソン家がこの兄弟の代で途絶えることになる。
その没落の過程を描く、といえばそうなんだけど、フォークナーなので、必ずしも年代記風になっているわけではなくて、いくつかのエピソードの断片からなっている。


以下の、4章構成になっている。

1928年4月7日
1910年6月2日
1928年4月6日
1928年4月8日

なお、さらに巻末に「付録――コンプソン一族」がつけられている。これは、1946年刊行の『ポータブル・フォークナー』のために新たに書き下ろされたもので、『響きと怒り』の再版の際には序文として収録されるようになったもの。
さて、上の目次を見ればわかるように、4分の3が1928年の4月6日~8日の3日間にあてられている。
しかし、第1章(4月7日)は、知的障碍者の末弟ベンジャミンの一人称となっており、気ままな連想による回想がランダムに差しはさまれる構成になって、コンプソン家30年間の様々なエピソードをいったりきたりすることになる。
続く第2章(1910年6月2日)は、長兄クエンティンの一人称によるもので、彼が自殺することになる一日を追ったもの。こちらも度々回想が入っていて、時間はあちこち飛ぶが、しかしおよそこの1日について描いたパートとなる。
そして、第3章(4月6日)は次男ジェイソンの一人称で、第4章(4月8日)は三人称でつづられており、過去への言及はあるものの、第1章や第2章のように読んでいて時間があちこちに飛ばされることはなく、タイトルにある1日を描いていくものになっている。
今回、岩波文庫版で読んだが、第1章と第2章が収録されている上巻の巻末には、訳者による場面転換表というものがついており、これが非常に役に立つ。
これがあることで難易度がぐっと下がった。
逆に言うと、これがないと正直どうやって読めばいいかわからない。
あと、訳注がないと、クエンティンとジェイソンという名前の人物が2人ずついるというのがしばらくわからなかったと思う。ジェイソンはともかく、クエンティンが2人いて、シーンの時期によってどっちのクエンティンが出てきているか異なる、というのがわからないと、第1章は相当わけがわからなくなってしまうと思う。
この第1章は、行明けなどなくシームレスに回想に入っていく。回想などでシーンが切り替わったことは、太字になることで示されるのだが、このルールも訳注で解説されていた。
第1章は、訳注と場面転換表のおかげで、わりとするすると読み進めることができたが、逆になかった場合、一体どうなっていたことか、とは思う。
何回か読み直してければある程度把握できるようになっていくとは思うのだけれど、そのあたりの労力をある程度スキップして、初読からある程度把握しながら読めるので、非常にありがたかった。


コンプソン家の4兄弟は、上から、クエンティン、キャディ、ジェイソン、ベンジャミンの4人である。ウィリアム・フォークナー『エミリーに薔薇を』(高橋正雄・訳) - logical cypher scape2の「あの夕陽」にも、ベンジャミン以外の3人が登場している。
「付録」によればコンプソン家は元々かなり広い土地を持っていたが、それを少しずつ売っていっているらしい。
長男クエンティンのハーバード進学にあたっても草地を売却している。この草地はベンジャミンのお気に入りだったらしく、作中では、クエンティンがハーバードへ行くためにベンジャミンの草地を売ったとして度々言及されている。
このハーバード進学と、妹キャディの結婚がほぼ同時期なのだが(なので草地売却は結婚費用にもあてられていたようだ)、この結婚が訳ありなのである。
キャディは、14,5歳の頃から彼氏を取っ替え引っ替えするような生活を始めているのだが、ある時妊娠してしまう。で、この妊娠が婚前のものだとバレないように、その子の父親とは別の男と結婚する。
クエンティンはそのことを知ってショックを受けており、自分の父親に対して、近親相姦を犯したと嘘の告白までするのだが、嘘だとバレている。
クエンティンパートは、クエンティンがボストンの街を歩き回りながら、キャディとの会話や父親との会話を思い出すものになっている。
で、クエンティンは自殺するわけだが、キャディも子どもが別の男との子だと結局バレてしまい離婚される。
キャディの子は、クエンティンと名付けられた女の子で、コンプソン家が引き取ることになる。
こうしてコンプソン家の4兄弟は、末弟は知的障害、長男は自殺、長女は離婚という形でコンプソン家の衰退と結びつけられる。
では次男のジェイソンはどうか。
第3部のジェイソンのパートで彼はクローズアップされる。すでに30を過ぎたジェイソンはいまだ独身で、コンプソン家を一人背負わされているが、欲深で鬱屈を抱える人物として登場する。
弟のベンジャミン、キャディの娘であるクエンティン、母親、そしてコンプソン家の家政婦をしている黒人女性のディルシーとその家族をいわば世話しなければならないわけだが、彼は兄と姉に対してもある種の恨みがある。
つまり、兄であるクエンティンは、草地売却によりハーバード大へ進学させてもらったのだが、自分は州立大学にすら進学させてもらえなかった(ジェイソンは高卒)、と。また、ジェイソンは、キャディの結婚相手の伝手で銀行に就職する予定だったのだが、キャディが離婚したためにその話がなくなってしまった。
結果としてジェイソンは、ジェファソンの雑貨屋の店員として働いている。
ジェイソンは、キャディが仕送りしているクエンティンの養育費を着服しつつ、綿相場で儲けることを目論見ながら生活している。
ジェイソンは、ベンジャミンのことをすぐにでも精神病院へ送りたがっている。ベンジーが精神病院行きになっていないのは、コンプソン家が曲がりなりにも裕福な家であり、住み込みで働いてる黒人一家が彼の世話をしてくれているからだろう。直接的には、母親がベンジーを手元に置いておかせているからで、付録によれば、母親が亡くなった後には、結局ジェイソンはベンジーを精神病院へ入れたようだ。
兄弟の中で、キャディがベンジーのことを可愛がっていたのは、彼らの幼少期のエピソードからも見て取れるし、ベンジーもキャディのことを慕っていたようである。
「あの夕陽」では、キャディがジェイソンを揶揄いジェイソンが強がるところが描かれている。これは当時、7才と5才の姉弟の様子なので、それ自体はほほえましい関係といった様子なのだが、本作では、ジェイソンはクエンティンやキャディとは気質が違ったことが示されている。母親が、クエンティンとキャディはコンプソンの影響が強いが、ジェイソンは自分の家系の子だと繰り返し述べている。このあたりも、ジェイソンの他の兄姉への悪感情に繋がっているのだろう。
で、物語自体は、ジェイソンが着服していた養育費を、クエンティン(キャディの娘)が盗み返してまんまと逃げおおすところで終わっている。
そして、それを描く第4章は、三人称視点で描かれるが、主には、コンプソン家で住み込みで働いている黒人家政婦のディルシー視点で描かれることになる。

1928年4月7日

知的障害者であるベンジャミン視点で書かれている。
4月7日の夜に、ジェファソンにはショーの一座が訪れており、ディルシーの孫でありベンジーの世話係をしているラスターは、それを見に行くための25セント玉をなくしてしまい探し回っている。
という現在時点の話がありつつも、ベンジー自身はさまざまなきっかけで過去の色々なことを思い出しており、時系列がシャッフルされた状態でいくつものエピソードが並列して進んでいく。
すでに述べた通り、岩波文庫版では、訳者による場面転換表があるおかけで、なんとかついていくことができるが、何も知らずに読むと何が起こっているのかさっぱり分からないと思う。
また、時期によってベンジーの世話係が、ディルシーの長男であるヴァーシュ、次男のティーピー、孫のラスターと変わっていっている。
これにより、その場面がいつの時期かわかるというか仕掛けなのだが、そもそもヴァーシュ、ティーピー、ラスターが一体何者なのか分かる記述や描写がないので、初見だと、場面が切り替わったことは分かるがいつの話なのか分からん……とはなる。
という時系列の進行といった面では大変わかりにくいのだが、ベンジャミンは言葉を話さないので(唸り声をあげたりはしているらしい)、彼の一人称(ボク)ではあるのだが、描写自体はわりと三人称的なものになっていて、案外と読めるものになっている。とはいえ、知的障害者からの視点なので、彼の知識にないことについての描写はかなり間接的なので、その場面で起きてることの全体像を知るのは難しい。
訳註や場面転換表と合わせて読むことで、ベンジャミン兄弟の子供の頃の出来事がなんとなく分かってくる。
色々な時期のことが書かれてはいるのだが、とりわけ祖母の葬儀の日の話などが多かったかなと思う。

1910年6月2日

勝利なんて幻想に過ぎないのだ、という父の言葉からはじまるクエンティンパートは、この章だけ1910年の話だし、他と少し雰囲気が異なるかもしれない(4章ともそれぞれ雰囲気が違うとも言えるが)。
このパートだけ取り出して独立した作品として成り立つのではないかと思う(なお、フォークナー自身はベンジャミンパートの方で作品として成り立つと考えていた、少なくとも書こうとしたものはそちらのパートの方らしい)。
朝起きてから、時計屋へ赴き、ボートを漕ぐ級友を見やり、さらに電車で郊外へと向かう。そこで迷子になっているイタリア移民の少女と出会う。英語を解さないらしい彼女にパンを分け与え、離れようとするがついてくるので、彼女の家を探そうとする。ところが、罷り間違って誘拐犯と誤解され逮捕されてしまうのである。
最終的に釈放されるわけだが、しかし、そもそもこの日のクエンティンは妹のキャディについての回想に気を取られていて、自身が逮捕されたことにはそれほど頓着した様子はない。
それでも、この迷子の少女を家に連れ帰ろうとするエピソードが、クエンティンの性格をなんとなく物語るものになっている。
キャディの処女を奪った相手と、ボートを漕ぐ級友(これがまあいけすかない奴なわけだが)を重ね合わせていたりする。
また、冒頭に述べた通り、クエンティンの父は二ヒリスティックなたちのようで、クエンティンの回想に陰を落としている。自殺を仄めかすクエンティンに対して、お前にはそんなことできやしない、という態度で接していたようである。
アブサロム、アブサロム!』にも登場していたクエンティンのルームメイトであるシュリーブももちろん登場している。クエンティンはシュリーブに対して書き置きを残している。
シュリーブは、クエンティンと妹のことをある程度知っていたようで、また、先の逮捕劇の際、たまたま通りかかって、無実の証言をしてくれたりもする。
クエンティンの自殺そのものや、自殺後のことは全く書かれていないのだが、正直、シュリーブのことが一番心配……。

1928年4月6日

ジェイソンは、置かれた境遇について本人にはあまり責がないのでかわいそうといえばかわいそうなのだが、しかし、そんなことを吹き飛ばすくらい、嫌な奴である。
あと、溢れ出すマザコン……(母親が好き、というわけではなく、明らかに母親のことを疎ましく思っているのだが、そのことも含めて母親との関係に呪縛されている感じのマザコン)
姪のクエンティンが学校にちゃんと行っていないことに苛立っており、この4月6日に、ショーでジェファソンに訪れた男と歩いているところを目撃した。
キャディから送られてくるクエンティンへの養育費を着服しており、クエンティンはジェイソンのことを疑っている。
綿取引の空売りで儲けようと目論んでいるのだが、ニューヨークからの市況を伝える電報会社とのディスコミュニケーションに苛ついている。
コンプソン家の家事を取り仕切っているディルシーに対しても、自分の雇い主である雑貨屋の店主にも、同じ雑貨屋で働く黒人の老人に対してもイラついている感じである(彼の黒人への差別的な考えも書かれている)
ベンジャミンの去勢手術を実行したのも、またジェイソンである。

1928年4月8日

主にディルシーと、その孫ラスターの視点から書かれているが、ジェイソン視点のシーンもある。
ラスターは無事ショーに行けたらしく、朝寝過ごしている。このため、ディルシーの朝の支度にも影響が出ててんやわんやしてるところから始まる。
一方、ジェイソンの部屋には空き巣が入っていた。クエンティンが、ジェイソンの金庫から金を盗んで逃げたのだが、ジェイソンがどうも金を着服しているっぽいということに保安官も勘づいていて、ジェイソンの訴えは一笑に付される。ジェイソンはすでに隣町へと巡業している一座を追いかける。
一方、ディルシーは、ラスターとベンジャミン、さらに娘のフラニーとともに、教会の説教へと向かう。黒人たちがみな集まってくる会なのだが、ディルシーは感動のあまり涙する。
結局、クエンティンはうまく逃げており、見つけることができずにジェイソンは戻ってくる。
ラスターがベンジャミンを車に乗せて運転することになったのだが、ロータリーをいつもとは違う方向で回ったのでベンジーがパニックになって叫んだところに、ジェイソンが戻ってきて車を戻すところで終わる。