ウィリアム・フォークナー『エミリーに薔薇を』(高橋正雄・訳)

フォークナーの短編集
ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子・訳) - logical cypher scape2は面白かったものの、文体が文体なだけに、フォークナーを続けて読む気はなかったのだが、他のフォークナー作品をぱらぱらっと見てみたら、「『アブサロム』はフォークナーの中でも読みにくい部類であって、他の作品はそうでもないな?」ということに気付き、とはいえ長編2連続も重たかったので、短編集を読むことにした。
実際、ほとんどが登場人物の語りによって展開され、時系列も入り乱れる『アブサロム』に対して、本短編集に収録されている作品は、その点ではオーソドックスな(?)三人称小説である(一人称小説もあるが、「ぼく」という一人称が地の文に出てくるだけで、限りなく三人称に近い)。まあ短編だし。
全ての収録作品が、ヨクナパトーファ・サーガに位置づけられるものであり、その点も楽しい。ただし、単体でも読めないことはないが、登場人物や位置づけについては、関連作品未読だと分からなくて、都度訳者解説を確認しながら読んだ。
(もっというと、読後にググって出てきた論文等を読んで「そういうことだったのか」と思うところも多々あり、その点では、一読してすらすらわかる小説というわけではないが)
フォークナー作品を多く翻訳している訳者が、ヨクナパトーファ・サーガへの入門として選んだ短編集。長編作品を読まないと分からないところもあるが、しかし、読みやすくてとっつきやすいし、白人が入植し始めた頃から第二次大戦の頃までの様々な時期のエピソードをつまみ食い的に読んでいけるので、確かにサーガ入門としてよい気がする。
海外文学読むぞ期間

赤い葉

ネイティブ・アメリカン(本文ではインディアン表記なので、以下インディアンとする)と黒人の話
訳者解説で、ジェファソン*1がまだインディアンの土地だった頃の話だと知った
インディアンと黒人がどういう関係にあったか、そういえば知らないなと思った。
ここでは、インディアンも黒人奴隷を所有している。
インディアンの頭が亡くなったため、お付きの奴隷を殉死させようとしたら逃亡されて捜索した、という話だと思う。
インディアン側の発言として、基本働きたくない、黒人を働かせるために働かなくてはいけない、白人が来てから世の中変わってしまった、黒人は働くのが好きで死ぬのを嫌がるが何故だ、的なものがあったと思う。

正義

響きと怒り』『アブサロム、アブサロム!』の語り手であるクエンティン・コンプソンが、黒人居住地に住む大工のサム・ファーザーズという老人の昔話を聞くというもの。
サム・ファーザーズは、黒人からも白人からも黒人を意味するスラングで呼ばれているが、インディアンと黒人のハーフである。
サムが話す昔話は、さらにサムがハーマン・バスケットから聞いたもので、人から聞いた話をさらに他の人に語るのを聞いてる、という入れ子構造は、『アブサロム』でもうお馴染みではある。
当時の頭であるドゥーム(イッケモテュッペ)とサムの父親、それからバスケットが主な登場人物である。
なお、ドゥームは「赤い葉」にも出てくる。「赤い葉」で亡くなった頭のさらに父親がドゥームである。また、「赤い葉」には、スリー・バスケットという人も出てきた。なるほど、こうやって繋がっているのかと思った。
話の内容は、サム・ファーザースの出自の話。
ニューオーリンズに行っていたドゥームが黒人を10人連れて戻ってきたあたりから始まる。このことは、「赤い葉」でもちょっと言及があった。
ドゥームがこの黒人らを、サムの父親とバスケットに譲るというのだが、バスケットは要らないといい、一方サムの父親は、その中に1人だけいた黒人女性を欲しがる。しかし、その女性はやはりドゥームが連れてきた別の黒人と結婚していた。
ドゥームが、使われなくなった蒸気船を自分の屋敷まで運ぼうとする話が展開される一方で、このサムの父親のあれこれも同時に進んでいく。
サムの父親は色々画策するのだが、その女性を手に入れるのには失敗する。例えば、明らかに自分が有利な闘鶏勝負をしかけるのだが、それを知ったドゥームが黒人側に手を貸して勝負に負ける。
しかしその後、その女性から生まれてきた子どもは、肌の色が明らかに違った。
で、黒人の方がドゥームに対して正義を示せといって、ドゥームは、黒人小屋のまわりを、黒人は飛び越せるがサムの父親には飛び越せない柵で囲う。また、産まれてきた子どもに「ハッド・ツー・ファーザーズ(2人の父親を持つ)」と名付ける。
という話をしている最中に、クエンティンはおじいさんに呼ばれて家に帰ることになる。
クエンティンは、12才なので聞かされた話の意味がよく分からないが……。


最後の柵で囲うのとかが謎の寓話感があったり、ドゥームが蒸気船を何ヶ月もかけて黒人たちに運ばせて「屋敷が広くなった」と喜んでいるのよく分からん感があるし、サムの父親とバスケットは唐突に白人を殺したり、そもそもサムの父親はクズ感があり、小説としては面白くもあるわけだが、「赤い葉」とともに、フォークナーの描くインディアン像って何なんだろうな、と思ったりもする。
ところで、ググったら以下の論文があって、本作の解釈がなされていて、「おお、そういうことだったのか」となった。
子供/大人のための物語り-フォ-クナ-の“A Justice”について-

エミリーに薔薇を

独身の老女エミリーが亡くなり、エミリーの半生がごく短いページ数の中で振り返られる。
アブサロム、アブサロム!』のミス・ローザをある程度彷彿とさせる。
ジェファソンの名家の出だが、結婚できぬまま、父親が亡くなり家を相続する。
当時、市長だったサートリスが、父親が町に金を貸しているので彼女の税金を免除することにしたのだが、彼の子世代が町長や議員になってきたときにさすがに税金払えよということになって、彼女の家に行くのだがにべもなく追い返されるなどのエピソードが書かれている。
ジェファソンにやってきた北部人の男と親しくなり、結婚が噂されるのだが、ある日、この男は忽然と姿を消す。
(一時子どもたちに絵を教えていたりはするものの)ほとんど引きこもり状態で亡くなるまで過ごしたエミリー。
「赤い葉」では黒人と書かれていたが、本作では黒んぼだった(『アブサロム、アブサロム!』は語り手によって違っていた気がする)。
「われわれ」という一人称複数形で書かれている。彼女について噂したりするジェファソンの人たち、という感じなのだろう。
本書の紹介には「ミステリの古典」とも書かれており、まあ確かにミステリ要素もなくはないが、同じく「ゴシック小説」とも称されており、ちょっとグロテスクな結末が待っているあたりに「ゴシック小説」感があった。短編小説としてはすごくまとまっていて面白い。

あの夕陽

「正義」の語り手でもあったクエンティン・コンプソンが、9歳の頃の思い出について語っているもの(「正義」は12歳の頃の思い出だったが)。
クエンティンと、妹のキャディ、弟のジェイソン、そして黒人女性で洗濯婦をしているナンシーが主な登場人物。
元々、コンプソン家ではディルシーという黒人女性が家政婦として働いているが、彼女が病気となっている間、ナンシーが代わりに働きにきている。
ナンシーは、行方知れずになった夫のジーザスのことを怖れており、クエンティンの父親に家に送ってもらったり、コンプソン家の子どもたちを自分の家に連れてきたりしようとする。
この短編自体は、ただそれだけの話で、ただひたすらにナンシーがジーザスのことを怖れており、クエンティンの父親や回復したディルシーがそれを諫めようとする一方で、コンプソン家の子どもたちは何だかよく分かっておらず(上から9才、7才、5才である)、キャディがジェイソンをからかい、ジェイソンが強がるというやりとりが繰り返されている。
何かが起きるわけではないが、白人と黒人との間の関係が垣間見えてくる作品となっている。つまり、彼らは、同じ共同体の中で生きる者同士として、互いに親しいやりとりはしているが、しかし、無意識的に差別的な言動などは見られるのだ。
ところで、何も起こらないとは書いたが、訳者解説を見ると、ナンシーはのちにジーザスに殺害されてしまうらしい。
また、そもそもナンシーは、白人男性の子を妊娠している。売春だったようだが、男の方が金を払っていないことを叫んだら、逆にナンシーが逮捕されてしまい、獄中で自殺を図ったが死ねなかったというくだりから、この話は始まっている(また、黒人はコカインを使っていないと自殺なんてしないはずだから、ナンシーはコカインを使っていたのだという、差別的な論理が言われたりしている)。
もう一つところで、クエンティンが15年前の9歳の頃の出来事として語っているのだが、クエンティンは20歳で自殺したのではなかったか(『響きと怒り』のエピソードなので未読だが)。『アブサロム、アブサロム!』の訳注では、フォークナー作品はしばしば、あえて年齢の表記などが誤っていることがあるとあったので、それの一種なのかもしれない。あるいは、本書の訳者解説では、殺されたはずのナンシーが何故かまた出てくる作品もあるようなことが書かれていたので、そこらへんの時間軸がむちゃくちゃなのかもしれない。

ウォッシュ

ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子・訳) - logical cypher scape2でも描かれた、ウォッシュとサトペンの話
南北戦争が始まっても、ウォッシュが戦争に行かずにサトペン屋敷の世話(?)をしていたところから、サトペン殺しまで。
内容的には『アブサロム、アブサロム!』で書かれたものと同じで、セリフや文章なども同じものが出てきているが、『アブサロム、アブサロム!』がクエンティンによる語りで展開されて、語られる順序も必ずしも時系列順でないのに対して、こちらは、基本的にはウォッシュ視点に近い三人称で、時系列順に書かれている。
ウォッシュとサトペンはある意味では境遇が似ている。白人ではあるが貧しいために、豊かな白人のもとで働く黒人よりも生活が苦しく、またそうした黒人にも下に見られることがある(あった)。また、同じ年齢という共通点がある。
一方のサトペンはそこから成り上がったわけだが、ウォッシュは貧しいままであり、サトペンは子どもを作るのに慎重を期したのに対して、ウォッシュは既に孫がいる。
ウォッシュはサトペンのことを英雄視していたが、戦争後、サトペンがウォッシュの孫に粉をかけはじめたところから少しずつズレはじめる。
結局、サトペンがウォッシュの孫の出産よりも馬の出産のことを気にかけていたっぽいことと、女児が産まれたことでサトペンが冷淡になったことで、凶行に至る。
アブサロム、アブサロム!』では、ウォッシュがサトペンを殺す前に、現場から逃げ出した産婆の証言と、その後にサトペンの死体を最初に発見することになった少年の証言から語られているので、殺した瞬間は描かれていないが、かといって、こちらの作品も殺人の様子そのものを直接描いているかというとそんなことはない。『アブサロム』では時系列シャッフルされているので殺人シーン自体が巧妙に隠されている感じだが、こちらでは、単純に描写が間接的になされている感じ。
この短編集では、黒人は基本的に「おら」「ですだ」口調で喋る形で訳されているが、ウォッシュも同じく「ですだ」口調になっている。

女王ありき

こちらは、サートリス家の話。
老婦人ジェニー、その甥の孫の妻であるナシッサ、黒人召使いのエレノーラが主な登場人物である。
訳者解説によると『サートリス』は、ナシッサが妊娠したところで終わるらしいが、本作はその子が10歳になっている頃の話である。
サートリス家は男性が既に亡くなっており、家にはもはやジェニー、ナシッサとその子しかいない状況で、ジェニーとエレノーラは、ナシッサがサートリス家には相応しくない女性だと考えている(エレノーラは自分の息子に愚痴っている)わけで、サートリス家の終焉を描いた作品である。
タイトルでググっていたら、以下の論文を見つけた。(「正義」の奴と同じ人の)
もう1つの優れた短編小説-Faulkner の“There Was a Queen” について-
一読しただけでは全然読めていなかったところもあり、これを読んで「なるほど、そういうことだったか」となったのだけど、しかし、そういう理解曖昧な状態でも、読後感は悪くなくて、なんかしみじみさせられる。
ジェニー視点パートとエレノーラ視点パートが交互に展開される。
ある日、ナシッサが理由もいわずにメンフィスで外泊した日があって、エレノーラはそれをただ悪くいうのだが、ナシッサは帰ってきた後にジェニーに理由を話しており、事情があったことをジェニーと読者は知る(エレノーラは最後まで知らない)ようになっている。
その事情というのは、かつてナシッサ宛に送られたラブレターを取り戻しにいったという顛末
このジェニーという老婦人が、ローザやエミリーとはまた違ったタイプの、古風で毅然としたタイプの人として描かれている。

過去

こちらはマッキャスリン家の話
マッキャスリン家の人は、『アブサロム、アブサロム!』にもちらっと出てきたが、あまり印象に残っていない。
正直、どういう話だったのかいまいちよく分からないままに読んだが、以下のような話
マッキャスリン家の黒人奴隷が1人逃亡する。実は、別の家の黒人女性に逢いに行くために度々逃げ出している。で、それを捕まえにいく、マッキャスリン家の双子のおじさん
逃亡奴隷を捕まえに行くという点では「赤い葉」と似ている。そしてどちらも、その割には雰囲気が緩い。なんかわりと行動がゆっくりしているし、一緒に出かけたマッキャスリン家の子どもが先にその黒人を見かけてたりするし。
それと並行して、マッキャスリンの双子の片割れと、その逃げた先の家の独身女性との間の結婚話もすすんでいく。この2人の間に生まれたのが、次の話に出てくるアイクおじさん。
お互いに押しつけたがっているところがあって、最終的にポーカーで決着をつける

デルタの秋

アイザック・マッキャスリン(アイクおじさん)の話
ヒトラーの話題が出てくるので第二次大戦中だと思う。アイクは80歳くらい。
タイトルのデルタは、ミシシッピ・デルタのこと。
親戚と連れだって鹿狩りにいく話だが、かつてはジェファソンの近くでも狩りができたのが、次第に開発が進んで、今ではデルタを何百マイルも遡らないといけなくなった、と。
狩りに向かうのも馬車ではなく自動車である。
自動車を運転するロス・エドモンズという若者は、道中何か様子が変である。
キャンプを設営し、明日の朝も早いのでみな寝床につくが、アイクは自分が眠れないことを自覚していて自分の来し方を思ったりしている。
翌朝、他の者たちが自分を置いて狩りに発つのを聞いて寝たふりをしていると、ロスが封筒を置いていく。このあと来る者にこれを渡して欲しいという。
ロスが去った後現れたのは、赤ん坊を連れた1人の女性。
要するにロスは、彼女との手切れ金をアイクに任せたのである。
で、ここからがフォークナー節で、この女性、ロスとの復縁も金も求めているわけではない、なのに何故ここに来たのかとアイクが問ううちに、この女性が、ロスやアイクにとって遠縁にあたる女性であり、また、見た目はほとんど白人ではあるが黒人の血が入っている(黒人の血が入っていれば、見た目は白人でも扱いは黒人となる)ことに気付く。
アイクは、いつかアメリカから人種差別がなくなる日がくることを夢想しているようだが、今はまだその時ではないのだということを、この女性の来訪により改めて突きつけられることになる。
ロスがああなのは、アイクおじさんにも責任があるのだ、と女性は述べて去っていく。
作品の冒頭と最後で、牝鹿とこの女性がかけられている(「あいつは牝鹿を狩りに行ってんだよ」などと別の人物が言ったりしている)。


さて、これだけだと何が何だか分からない話で、マッキャスリン家の家系図とかが分かっていないといけない話だったようだ。
どうも「熊」の後日談のような位置づけらしいし。
マッキャスリン家は、男系のマッキャスリン家と女系のエドモンズ家に分かれており、アイクは前者、ロスは後者の血筋
アイクは、マッキャスリン家の土地の相続を放棄して、エドモンズ家に譲渡してしまっている。先の女性は、そのことを責めている。
「過去」に登場してきた、マッキャスリン家から逃亡した黒人だが、彼もマッキャスリンの血を引いているらしい。先の女性は、こちらの家系に属する。
家系図が欲しい!
また、本作では、「正義」のサム・ファーザーズへの言及もある。
上述した子供/大人のための物語り-フォ-クナ-の“A Justice”について-では、サム・ファーザーズの父親は、作中でサム自身が父親と呼んでいるクロー=フォードではなく、頭のドゥームの方であるという解釈がなされている(なお、この論文筆者の独自解釈ではなく、サムの父親が誰であるかについてはクロー=フォード説とドゥーム説の2つがそもそもあるらしい)。
で、なんと本作では、サムの父親はイッケモテュッペ(ドゥーム)であると書かれているのだ。
(先の論文でも、この記述などをもとにしてドゥームを父親とする解釈が書かれてきた旨触れられている。なお、同論文は、この記述は直接の論拠とせず、「正義」内の記述だけからドゥーム父親解釈を導いている)。
他にも、アイクがかつて一緒に狩りに出かけていた人の中にド・スペイン少佐の名前もあった。スペイン少佐は「ウォッシュ」に出てきて、サトペンを殺害したウォッシュに家から出てくるよう呼びかけている人である。


ところで、アイクおじさんの内面の声がカタカナ混じり文で書かれていたり、そこに出てくる地名に下線が引いてあったりした。
今の翻訳だったら、太字にしたり斜体にしたりしそう……。原文だとどうなっているんだろうな。

訳者解説

フォークナー全体の解説と収録作品についての解説がなされている。
作家人生を、模索と彷徨の第一期(1作目と2作目)、意欲的創造の第二期(『サートリス』から『アブサロム、アブサロム!』まで)、そして、それ以降の円熟期としている。
また、『響きと怒り』『八月の光』『アブサロム、アブサロム!』をフォークナーの三大傑作とも称している。
円熟期を代表するのは『行け、モーゼ』で、この中にアイザック・マッキャスリンを主人公とする「昔の人々」「熊」「デルタの秋」が収録されている。

繁茂する南(中上健次

中上健次がフォークナーについて語った講演が2篇収録されている。
ここでは中上が、ヨクナパトーファ・サーガと『ラーマーヤナ』やラテンアメリカ文学を並べて、大陸の南の共通性みたいなことを語っている。
タイトルの「繁茂」は、フォークナーが度々書いているスイカズラのことを指している。
「南」の特徴として、時間、血、混交する交通を挙げていて、スイカズラが時間や血のメタファーになっているとしている。

フォークナー衝撃(中上健次

同じく、中上がフォークナーについて語った講演
フォークナーが何故どのように、ラテンアメリカやアジアの文学に影響をもたらしたのかについて。
「意識の流れ」技法をフォークナーはそのまま使うことはできなかった。アメリカ南部を描くにあたって、ヨーロッパ人のようにはできなかった、と。だから、フォークナーの書き方はラテンアメリカやアジアの作家にとっても使えるものだった、と。
歩くことや噂することを特徴として挙げている。

地理メモ

Wikipedia見ながら確認したことメモ
ヨクナパトーファ郡は、ラファイエット郡をモデルにしているとされる。
ところで、ラファイエット郡の郡都はオックスフォードだが、オックスフォードは『アブサロム、アブサロム!』にも出てくる。ヘンリー・サトペンとチャールズ・ボンが通っていたのはミシシッピ大学だが、それがオックスフォードにある*2
ちなみに、クエンティンが行ってるのはハーバード大*3
また、度々メンフィスが出てくることがあるが、こちらはミシシッピ州の北にあるテネシー州の州都。同じくニューオーリンズは、ミシシッピ州の西にあるルイジアナ州の州都。
ちなみに、ミシシッピ州の州都はジャクソンだが、少なくとも『アブサロム』と本書には言及がなかったような気がする(意識して読んでなかったので分からないが)。
あと、ラファイエット郡は、ミシシッピ・デルタの中には含まれていないようだ。

*1:ミシシッピ州ヨクナパトーファ郡の郡都

*2:なお、このラファイエット郡オックスフォードの名前の由来はもちろんイギリスのオックスフォードである

*3:こっちはマサチューセッツ州ケンブリッジにある