ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子・訳)

フォークナーのヨクナパトーファ・サーガを構成する長編作品の一つ。
ミシシッピ州ヨクナパトーファ郡ジェファソンに突如現れて、大地主となったトマス・サトペンの盛衰を、関係者たちの回想の語りが描き出す。
原作は1936年刊行。
訳者解説によれば、フォークナー39歳の時の作品であり、長編小説としては9作目にあたる。
タイトルがやたらかっこいいが、これは旧約聖書からの引用らしい。アブサロムはダビデ王の息子の名前で、彼は父王に反旗を翻す。亡くなった息子に対してダビデ王が「アブサロム、アブサロム!」と叫んだとか何とか。
フォークナーの最高傑作としても名高い。
今回読んだ岩波文庫版では上下巻に分かれているが、上巻を読み終わった段階では、「決してつまらなくはないが、この癖のある文章にずっと付き合わされるのか、うむむ」みたいな感想だった。しかし、下巻を過ぎると、読むのが止まらなくなり「なるほど、これは確かに面白いぞ」となった。
トマス・サトペンという男が固執した「血」を巡って、メロドラマ的な悲劇が展開される物語で、確かに家族と土地を巡ったサーガであった。

読むに至った経緯

海外文学を読むぞ期間の一環として、いよいよフォークナーに手を出してみることにした。
そもそも自分にとっては、文学への入口として、阿部和重神町サーガと佐藤友哉鏡家サーガ*1があったわけで、ヨクナパトーファ・サーガもいつか読まなきゃいけないのではと思っていたが、読むの大変そうなのでずっと敬遠していたところがある。
しかし、今年は文学読むモチベーションが高まっているので、この機会を逃してはならないなと思って読んでみることにした。
ただ、一口にフォークナーといっても作品数が多くて、どれがどれだか分からなかったのだが、今回、海外文学読む期間を始めるにあたって、池澤夏樹の世界文学全集の収録作品一覧を眺めていたら、本作『アブサロム、アブサロム!』が入っていたので、ではこれから読んでみるか、と思った次第。
さて、作品が多いだけでなく、翻訳も何種類かある。
アブサロム、アブサロム!』については、大橋訳(1965)、篠田訳(1966)、高橋訳(1970)、藤平訳(2011)がある。新訳で読みたいなと思ったので岩波文庫の藤平訳で読むことにした。なお、池澤夏樹の世界文学全集はものによっては新訳・改訳を謳っているのだが、『アブサロム』については篠田訳を用いている。


岩波文庫版の表紙は、フォークナー自身が描いたジェファソンの地図で、これの日本語訳も収録されている。
他のものと比較していないが、岩波文庫版では、この地図のほか、登場人物紹介、家系図、各章のあらすじ、訳者解説、年表などがついていて解説が手厚い。ただし、巻頭にある登場人物紹介や各章のあらすじには、誰がいつ死ぬか書かれており、容赦ないネタバレを食らう。
もっとも、古典にいまさらネタバレなどないということかもしれないし、本作はそこはあまり重要ではないということかもしれない

語りの構造

物語内容自体は、サトペン一代記みたいな話なのだが、それがどのように語られるのかというのが独特で、フォークナー作品の読みにくさの一因でもあり、また、フォークナーが高く評価される由縁でもある。
聞き手・語り手となっているのは、クエンティン・コンプソンという18歳の青年で、彼は、トマス・サトペンの友人だったコンプソン将軍の孫である。
本作は、このクエンティンが、トマス・サトペンの義理の妹であるローザ・コールドフィールドや、あるいは自分の父親から、サトペンについての話を聞き、さらにクエンティン自身が、ルームメイトのシュリーブとサトペンについて話す、という構成になっている。
ローザが語るサトペン、クエンティンの父が語るサトペン、クエンティンがそれらを聞いて解釈するサトペンがそれぞれ異なっていて、自分が直接見聞きしたことだけでなく、伝聞や推量、思い込みなどが多く入り込んだ語りを読者は読んでいくことになる。
なお、既に述べた通り、岩波文庫版では巻頭に各章のあらすじがあるのだが、これは、それぞれの章が誰がどういう状況で語っているのかという説明になっている。そして、その説明は本文中ではほとんど書かれていないので、この説明は非常に助かる。


(特に上巻は)ほとんど地の文というものがなく、ひたすら彼らの語りによって物語は展開していく。
そんなに長々と喋るものかと思うほど長いセリフが続くが、一人称小説だと思えばそれはまあ不自然ではないとしても、なかなか読みにくい文が続く。
一つには、一文の長さが長い文が多い。ギネス・ブックに文学史上最も長い1文に認定された文があるとかないとかなのだが、あまりにも長いので、形容詞や節が一体どこにかかっていったのか、油断すると分からなくなってしまう。それどころか、読み直しても全然分からん文すらある(一番極端な奴は訳注で、難解で解釈が分かれるくらいのことが書いてあった気がする)。
また、語りが入れ子状になっている部分が多数ある。例えば「ここには○○があった(この○○というのは~)。」みたいな感じで、( )書きで説明を始める箇所がある。これ自体は普通の小説にもよくあるが、その( )だけで1ページ以上あるみたいなことが普通にある上に、その( )の中に会話文が入ってきたりする。あるいは、聞き手の側が、何かを思い出したり、思いついたりしたことが挿入されてきたりすることもある。例えば、クエンティンとシュリーブとの会話のさなかに、クエンティンがそういえば父親がこんなこと話してたなと思いだして、父親による語りがそのまま始まったりする。
また、一つ一つのことを説明するのにあたり、やたらと色々な形容をつけて話すので、出来事が進む速度が遅い。これだけのページ数読んだけど、起きた出来事ってこれだけか? ってなったりする。
あと、人称代名詞が誰を指しているのかもわかりにくい。この文の「彼は」の彼は一体誰を指すのか、と。まあ、これは辿れば分かるし、また、時々作者も「彼(クエンティン)は」と書いて補足してくれたりしている。

上巻

上巻は、1~5まで
1と5は、ローザからクエンティンへの語り、2~4は、ミスター・コンプソンからクエンティンへの語り
トマス・サトペンという男は、ある時突然、黒人たちとフランス人建築家を連れてジェファソンへと現れる。どこからともなく現れたかと思うと、インディアンの土地の権利をいつの間にか手に入れて「サトペン100マイル領地」として、そこに、黒人たちとともに一から屋敷を建てていく。
その後、サトペンは、ジェファソンで商店を営んでいたコールドフィールドと何らかの取引を行い、娘のエレンと結婚し、ヘンリーとジュディスという二児をもうける。
ローザはエレンの妹なのだが、ジュディスよりも年下で、年上の姪、年下の叔母という関係にある。
元々ローザは叔母に育てられていて、かなり世間知らず、偏屈な感じで育ち、サトペンへの憎しみをずっと抱き続けた人であり、彼女によるサトペン家についての語りは、結構一方的で省略されたところが多い。
その後、ミスター・コンプソンの語りの中では、ローザはこのことは知らないだろう、という旨のことが時々言われたりもしている。
サトペンは、黒人同士を殴り合わせる見世物をやっていて、まだ子どもだったヘンリーやジュディス、サトペンが黒人奴隷に生ませたクライティ(ジュディスの異母姉)もこれを見ている。エレンは子どもに見せるのは辞めてくれと頼むのだが、当のジュディスは全然気にしていない風というエピソードが、1の終わりで語られていて、ローザから見たサトペンやサトペンの血をひいた子どもたちの不気味さ、非道徳性を強調しているのかなという気がする。
ヘンリーは、ミシシッピ大学に入学して、チャールズ・ボンという男と友人になる。ヘンリーよりも10才年上で、大学生としては浮いている男なのだが、ヘンリーはすっかり惹かれて、家に連れてくる。エレンは、ヘンリーから送られてきた手紙を読んだ時点でチャールズのことを気に入ってしまい、ヘンリーもエレンも、チャールズ・ボンとジュディスを結婚させようとする。
しかし、クリスマスにサトペンとヘンリーとの間に起きた「何か」がきっかけで、この結婚話は暗礁に乗り上げる。ヘンリーはチャールズ・ボンに対して「保護観察」期間をもうける。この保護観察期間というのは、2人が南北戦争に行っていた期間でもある。
南北戦争にはトマス・サトペンも従軍しており、彼は当初サートリス*2の部下であったが、その後、連隊長になっている。
また、エレンとローザの父親は、南軍に反対し、自室に閉じこもるようになり、ハンストの末に餓死する。
南北戦争後、サトペン領地へ戻ってきたヘンリーは、チャールズ・ボンを射殺し、行方をくらます。
ジュディス、クライティとローザはチャールズを埋葬し、この3人は共同生活をするようになる。また、以前からサトペン領地に暮していた貧しい白人であるウォッシュが、度々手伝いをするようになる。
サトペンも戦争から帰ってくる。ローザと婚約するが、領地復興に精力を傾け、さらにローザを侮辱し婚約は解消される。
ジュディスとクライティは、チャールズの遺児を引き取って育てる。
ローザはクエンティンに対して、今はクライティしかいないはずのサトペン屋敷に数年前から何かが隠れていると言って、一緒に屋敷に行くように頼む。

下巻

上巻がつまらないわけではないが、下巻から面白くなっていく感じはある。
クエンティンが、ローザや父親から話を聞いている上巻の舞台は9月だが、下巻では1月になっていて、父親から送られてきた手紙をきっかけに、ハーバード大学生寮でクエンティンとルームメイトのシュリーブが、サトペンがいかにして「構想」を抱き、そしてその構想に挫折していったかを再構築していく。
冬の夜のケンブリッジで、非常に寒いのだが、カナダ人のシュリーブは何故か(風呂上がりだったかな)上半身裸で話をしている。
彼らは語り合う中で次第に2人で1人になるようになっていく。同じことを考えながら話しているので、どちらが話しているかはもはや問題ではなくなっていた、というように言われている。
さらに、2人は、あるいは4人は、今やサトペンの屋敷にいた、みたいな文が出てくる。ここで言われる4人というのは、クエンティン、シュリーブ、ヘンリー、チャールズで、クエンティンとシュリーブが、およそ50年前の出来事に完全に没入していっている様子が描かれており、読者もまたそこに引き込まれていくことになる。

サトペンの話

トマス・サトペンという男は、ジェファソンの人々にとっては余所者であり、その時点で既に得体の知れない人物なのだが、彼は何年もかけてジェファソンへと馴染んでいく。
しかし、一方で彼はその本心をごく限られた人物(具体的にはクエンティンの祖父)にしか明かしておらず、クエンティンの祖父にすらその全てを語っているわけではないだろう。
アブサロム、アブサロム!』は、多くの人の語りによって構成され、また、その語り手たちは、見知らぬ人物の内面についても勝手に推測しながら語っていくわけだが、そのような中でも、サトペンの内面・考え・心情はほとんど語られることがないため、読者にとっても、得体の知れない人物として物語の中心に居続ける。
ただ、語り手が変わる度に、その様相は変わっていき、少しずつ核心へ近付いていく構造になっている。
例えば、ローザはサトペンのことを悪魔的な人物として語っており、彼女の語りからはサトペンが極悪人のようにしか思われない(ところで、シュリーブもサトペンのことを「悪魔」と呼び続けるが、これはシュリーブがサトペンのことを悪魔的だと思っているというよりも、むしろローザのことを面白がっているように思われる)。
これが、クエンティンの父親による語りに変わると少し雰囲気が変わってくる。何らかの悪事を働いていたことは確かなようだが、それは、貧しい身の上から地主へと成り上がる上でやってきたことであって、「悪魔」的な印象ではなくなっている。
ただ、クエンティンの父親は、ローザよりも事情に詳しいとはいえ、サトペンについて肝心なことを分かっておらず、クエンティンの父親の語りの時点では、サトペンに対する得体の知れない人物だという印象はさほど変わらない。
下巻に入り、サトペンがクエンティンの祖父に語ったことが、クエンティンを通じて明かされる。これにより、サトペンの経歴が分かり、彼がジェファソンで何をしようとしていたのかがようやく分かる形になっている。
彼はもともと非常に貧しい白人家庭に生まれ、黒人奴隷の存在すら知らなかったが、ある時、とある屋敷に赴いた際、黒人奴隷の執事に追い払われる経験をして、白人間の貧富の差や白人黒人間の差について初めて思いを巡らせるようになる(なお、こうしたサトペンのあり方は「無垢」と称されている)。
ハイチにわたり、農園での奴隷反乱を鎮圧し、農園主の娘と結婚、一児をなすのだが、その娘に黒人の血が入っていることを知り、自分の「構想」にそぐわないと考えて、離婚する。
そうして彼は、自らの「構想」のためにジェファソンへとやってくる。
彼がジェファソンに来て早くから妻を探していたというのはローザが語っているところだが、何故コールドフィールド家だったのか、というのが謎とされてきた。しかし、要するに自分の財力でコントロールできるが、階級上昇する際にそこそこ通用するくらいの家ということで選ばれていたのだった。
ヘンリー、チャールズ、ジュディスの件でこの「構想」はまたも頓挫。
しかし、サトペンは諦めることをせず、とはいえ自分の年齢的に時間がないことに焦りながら、ローザと婚約しようとするがこれは失敗。続いて、ウォッシュの孫娘との間に子をなすが、生まれた子が女児だったため、罵る。これにキレたウォッシュが、サトペン、孫、ひ孫もろとも惨殺。ウォッシュは保安官に撃たれて死ぬ。
(ウォッシュは、サトペン領地への不法侵入者であったが、サトペンと酒を飲み交わす仲であり、サトペンのことを「英雄視」していた)
サトペンの最期についてはあまり同情の余地なし、というところではあるのだが、彼の「構想」というか野望は、ある種分かりやすく俗っぽいものでもあり、その点では得体の知れない人物ではなくなる。とはいえ、一方で、彼がこの「構想」を持つに至る感情の動きや、この「構想」を実現する際のある種の合理性みたいなものは、やはり常人離れしているところがある。そのあたりは結局何考えているのか分からない人物、というままではある。

チャールズ・ボンの話

アブサロム、アブサロム!』は、最終的には、チャールズ・ボンの悲劇として一応結実することになる。
パート8は、クエンティンとシュリーブが、チャールズとヘンリーの間に一体何があったのかの結論に達して終わる。
もっともこの結論は、クエンティンが父親から聞いた話に2人が推論を重ねた上で作られたものであって、事実であったかどうかは不明だが、一方で既に書いたとおり、2人はこの2人の出来事に完全に没入しており、読者は一つの事実として読まされることになる。
さて、チャールズであるが、彼は都会であるニューオーリンズで育っており、また、サトペンは離婚にあたり禍根を残さぬようにかなりの大金を残していたため、金に困らぬ生活は送っていた。しかし、チャールズの母はサトペンのことを憎んでおり、チャールズを復讐の徒として育てようとしていた。
チャールズはそんな母親の思惑には気付いており、彼女の憎しみに取り込まれることはなかったが、一方で、自分は一体何のために生きるのか、ということが自分でも分からずに生きていた。
彼はミシシッピ大学でヘンリーと出会うことになるわけだが、彼がミシシッピ大学に進学したのも、母親が雇っていた弁護士の差し金であった。
さて、何も知らないヘンリーは、すっかりチャールズを慕うようになり、妹のことも捧げてしまうが、しかし、あるクリスマスの日に「何か」が起きて、4年間の南北戦争従軍後、ヘンリーはチャールズを射殺する。
一体何故なのか。
アブサロム、アブサロム!』全体を通じて物語を動かしているのは、主にこの問いである。
これに対する答えは、重婚疑惑→近親相姦のおそれ→人種混淆のおそれと移り変わっていく。
まず、チャールズには実は妻子がいる。相手はオクトルーン(八分の一黒人)の女性である。黒人を愛人としてその間に子どももできる、というのはこの当時珍しいことではなく、それ自体は問題ないのだが、チャールズが彼女と結婚式を挙げていたらしい、というのをヘンリーが問題視した、というのが、まず最初に語られる説である。
次に、ヘンリーが態度を変えたクリスマスの夜に、実はサトペンがチャールズが自分の子である、つまり、チャールズがヘンリーとジュディスの実兄であることを告げたのではないか、ということが語られる。
しかし、下巻の後半、クエンティンとシュリーブは、あの「保護観察期間」に何があったかを語る。ヘンリーは、近親相姦も問題視しなかったというか、受け入れようと努めたのであろう、と。だが、南北戦争も終わりに近付いた頃、連隊長である父親と久しぶりに再会することになったヘンリーは、チャールズに黒人の血が入っていることを知らされる。
クエンティンとシュリーブは、それが理由だったのではないかと考えるに至る。
ところで、このチャールズという人物、上巻では、どちらかといえば軽薄そうな人物で、やはりまた何を考えているのかよく分からない感じで描かれる。
しかし、後半、チャールズ寄りで描かれることによって、かなりチャールズの内面へと肉薄していくことになる。
先述したとおり、彼は自分が何をしたいのか分かっていないため、その点での軽さは確かにあるが、彼の思いとしては、サトペンに自分を認識してほしいという一点に尽きるのである。
彼は実のところジュディスと結婚するつもりもなくて、ただ、サトペンが自分に反応してさえくれれば、姿を消そうと思っているのである。
しかし、サトペンはこの件について、流れに身を任せているというか、あまり積極的に動いているところがない。ニューオーリンズに一度行っているのだが、チャールズへの直接的な働きかけはないのだ。
純粋な白人の血だけからなる自分の「家系」を作ろうとする男と、その男のもとに生まれたが母方の祖先に黒人がいたがためにその男を父と呼べなかった息子との間に起きた悲劇、とまあそんな風にまとめてしまうこともできるだろう。
サトペンにはやはりなんともいえない酷薄さがあって同情できないのに対して、チャールズはその点、ジュディスに対する冷たさのようなものも理由があってのことで、最終的には、チャールズ可哀想だなあ、となる。

クエンティンと南部の話

ところで、単にチャールズ可哀想だなあだけで終わる話でもない。
チャールズとヘンリーの顛末を語り終えた後、さらに、9月にクエンティンがローザとともにサトペン屋敷で何を見たのかが語られる。
夜中に、馬車でサトペン屋敷に向かう中、クエンティンが疾駆する黒馬を幻視するあたりとかエモい(サトペンがジェファソンの町へ行くのに、度々馬を走らせているシーンが出てくる)。
実はクライティが数年前からヘンリーを屋敷に匿っていたというのだが分かるのだが、その後、クライティは屋敷に火を放ち亡くなる。
ところで、この屋敷にチャールズの孫で白痴のジムという男もいるのだけど、クエンティンは子どもの頃にジムと会っていたりする。
で、最後の最後に、シュリーブはクエンティンに「何故南部を憎んでいるの」と聞くと、クエンティンはベッドの中で震えながら「憎んでなんかいないさ」と答えるのである。
ところで、これは登場人物紹介や解説などを読んで知ったことだが、クエンティンは実はヨクナパトーファ・サーガの一作である『響きと怒り』の主人公でもあり、その中で自殺している。
このクエンティンとシュリーブの会話は1910年1月のことなのだが、1910年にケンブリッジで自殺しているらしい。そして、クエンティンは妹のことで悩んでいたらしい。
アブサロム、アブサロム!』では、クエンティンのこのような事情は何も語られていないが、彼はヘンリーに自らのことを半ば重ね見ていたはずなのである。
カナダ人であるシュリーブにとっては、合衆国南部の人種差別というのは実感のないことであり、50年前に起きたサトペン家の悲劇などは歴史上の出来事のようなものだが、そのシュリーブが指摘するように、クエンティンにとっては、その50年前の出来事を容易に回想できるような連続性が自分の生まれ育った土地にある。
そういうわけで、最後の「憎んでなんかいないさ」というクエンティンの台詞にかかっている重みというのはなかなかずっしりくるものがある。
なので、本作は、トマス・サトペンの野望の破局とチャールズ・ボンの悲劇が一体どういうものだったのかが解明されていくというプロットの面白さがあるわけだが、さらに、何故、その50年後の直接的には彼らとは関係のない青年が聞いたり、語ったりという構造の中でその物語が展開されるのか、ということに理由があって、その語りの重層性の凄みがある、という作品なのである。

他のキャラクターについて

ここでは、サトペン、チャールズ、クエンティンにおおよそ的を絞って書いたが、
ローザはローザでなかなか強烈なキャラクターであり、あの人一体なんだったんだとはなる。シュリーブなんかはおそらく、ローザがお気に入りのキャラクターなのだろうなあという気がする。
とはいえ、エレンやジュディスも、負けず劣らずヤバそうな人たちではあり、この記事の冒頭でサトペン一代記と書いたが、やはりファミリー・サーガなのだよなあとは思う。
クライティは記述が少ないのでどういう人なのか分かりにくいが。
ウォッシュもウォッシュで、単なるロクデナシみたいな人ではあるけど、サトペンとの関係は掘り下げるとそれはそれで複雑そうであったりする。

その他

タイトルが聖書に由来するのは上述した通りだが、他にも聖書やシェイクスピアギリシア神話に由来する言葉、言い回しがちょくちょく出てくる(というのが訳注を見ると分かる)

*1:文学じゃなくてミステリだけども

*2:同じくヨクナパトーファ・サーガの一作である『サートリス』の登場人物