稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』

サブタイトルは「人工知能スペースコロニーの夢を見るか」
宇宙倫理学、というのは応用倫理学の一分野として近年新たに生まれつつある分野であり、実際のところ様々なテーマが考えられる分野だが、この本では、「リベラリズムという立場において許容できる宇宙植民とは一体どのようなものなのか」という問題を論じていく。
いわゆる、○○学入門という本は、普通ならばその学問の概要や歴史、学説、立場などを紹介してできうるだけ全体像を提示していく、というものが一般的であろうが、その点では、この著作はあまり入門とはなっていない。
筆者のあとがきにおいても

現状での宇宙倫理学の総括というよりは、日本語圏における今後の宇宙倫理学・ポストヒューマン倫理学の研究のための踏み台として(中略)上記の論考・報告をもとに急ぎ書き上げた

網羅的に論じずあえて論点を絞る(中略)将来のより本格的な探求のための踏み台、捨て石となれば幸いである。何よりも書き手の私自身にとって、踏み台としてとりあえず自分の思考を客観化し、世に出してしまうことが必要であった。

とある通りである。


ちなみに、現状の宇宙倫理学の概観をまとめたものとしては、「宇宙倫理学研究会: 宇宙倫理学の現状と展望」 - logical cypher scape2がある。


この本、宇宙倫理学というタイトルではあるけれど、ポストヒューマン・ロボットの倫理学としての側面も強い。
そもそも有人宇宙開発(宇宙植民)ってどうなの? という話から始まり、
リベラリズムという立場において許容できる宇宙植民とは一体どのようなものなのか」と問うも、
このままだとあんまりその可能性がなさそうなので、「リベラリズムのもとでも宇宙植民が許容されうるとしたらそれは一体どんな社会になっているのか」と問いを変え、
人体改造とか人格をもったロボットが既にありふれている社会ならば宇宙植民もありうるのでは、という話になっていき、
ポストヒューマン・ロボットの倫理学へと繋がる、という展開。


本書、題材がSFっぽいというだけでなく、実際にSF小説を参照していて、宇宙SFからサイバーパンクを経由してポストヒューマンSFへというSFの流れを論ずる(ポストヒューマン)SF論的も収録されている。
宇宙倫理学という応用倫理学分野の本ではあるが、結構原理的な話も多い。
また、義務論、功利主義、徳倫理がどういう関係にあるか稲葉流に整理されているし、そこにフーコーがどう位置づけられるか、みたいな話もあり、結構色々な読み方も出来る本となっている。

宇宙倫理学入門

宇宙倫理学入門

1 倫理学・政治哲学と宇宙開発――リベラリズムを中心に
 1-1 応用倫理学のなかの宇宙倫理学
 1-2 ミドルレンジの宇宙倫理学の困難

2 「スペース・コロニー」の倫理学
 2-1 ジェラード・オニールの「島」
 2-2 オニール構想の吟味

3 宇宙植民に意味はあるか?
 3-1 有人宇宙ミッションの意義?
 3-2 野田篤司小惑星

4 恒星間航行
 4-1 有人恒星間航行の絶望的困難
 4-2 「人間」の意味転換

5 自律型‐人格的ロボット
 5-1 人格的ロボットの倫理学
 5-2 未来社会のひとつのイメージ―あるSFまんがから

6 「宇宙SF」の現在
 6-1 宇宙SFの変質と解体
 6-2 ポストヒューマンSFの台頭

7 リベラリズム再審
 7-1 「飛躍」の論理
 7-2 応用(宇宙・ロボット)倫理学から倫理学原理へ
 7-3 ハンナ・アーレントの宇宙開発論

補論1 ニック・ボストロムの「超知能」と「シングルトン」について
補論2 デイヴィドソン=ヒース的道徳実在論

1 倫理学・政治哲学と宇宙開発――リベラリズムを中心に

本書が扱うテーマとして、「ミドルレンジ」の宇宙倫理学というものが挙げられており、
それと「ロングレンジ」「ショートレンジ」が対比されている。
まず、ショートレンジからいうと、喫緊の宇宙法・宇宙政策にまつわる課題。
例えば、宇宙空間は、公海と同じくグローバル・コモンズとみなされるが、海については、領海とか200海里経済水域とかが設定されるようになったけれど、現状、宇宙についてはそういう領域権は主張されにくい(人工衛星はぐるぐると軌道をまわっているので領域を設定されても不可避的にそこを通過する)。
そういう独特の領域としての宇宙空間をどのように考えるか。また、スペースデブリなど公害の問題など。
次にロングレンジ
簡単に言うと、地球外生命の話なのだけれど、筆者はここではもはや倫理学という言葉を超えて「宇宙存在論」という呼び方をしている。
人間原理をもとにした多宇宙論について書いているのだが、正直ここは、論旨がよく分からなかった。

個別の宇宙のレベルでは根拠を欠いたものに見えるが、これを多宇宙全体のレベルにまで引き上げてしまうと(中略)格段に不穏なものとなる。(p.23)

個別の特定の宇宙のレベルについて言えば、ナンセンスな議論のように思われる。しかしながら多宇宙のレベルまで行けば、話は途端に怪しくなる。(p.24)

「根拠を欠いた」「ナンセンス」と「不穏なもの」「怪しくなる」との対比が、どういうことを示しているのかが分からなかった。


さて、本書は、そのどちらでもなく、ミドルレンジを対象にするという。
ショートレンジは、時間的に数十年のスケールで、地球の衛星軌道くらいの話で、現実的な考察をし、
ロングレンジは、天文学的なスケールの時間軸で、我々人類のことではなく、生命一般というより思弁的な考察を行う。
一方、ミドルレンジは、数百〜数千年で、ホモ・サピエンスないしその末裔たる種族の関わる問題を扱う。「中途半端に実践的で、中途半端に思弁的」な領域。
そもそも、未来予測というほとんど不可能なことをしなければならない。
そこで1つの補助線として、現在の人類社会がおおむね採用している「リベラリズム」という価値観のもとにおいて、どのような宇宙開発なら許容されうるか、と考える。


リベラリズムとは、基本的に民間の行動は妨げないというのが原則で、民間宇宙開発についてはリベラリズムは妨げない。ただし、公害が生じたときの規制などは考えられる。
しかし、宇宙開発は歴史的には公的なセクターによって主導されてきた。リベラリズム的には外部経済性が認められるのであれば、公的部門による宇宙開発も考えられる、ということになる。

2 「スペース・コロニー」の倫理学

ジェラード・オニールによるスペース・コロニー構想を検討するというもの
まず、オニールのスペース・コロニー構想は、人口爆発への解決策であり、地球上での生活レベルを落とさずに宇宙で生活することを目指すものである。つまり、人類の生存という大義名分のため、強制的に宇宙に送られるというものではなく、自由意志によって宇宙へ移住するという、リベラルな計画である。
また、コロニーでは太陽光発電を行い、これを地球に輸出することを主要産業として想定している。
これに対して、
当時は人口爆発が問題だったかもしれないけれど、むしろ現在では先進国は少子化しており、途上国についてもいずれそちらにトレンドが移るのであり、人口爆発はもはや問題とはなりにくい。
また、仮に人口爆発が問題だとしても、宇宙に行くよりももっと現実的な解決策がある(海上都市とか)。宇宙発電所を作るにしても、そこに恒久的な都市を造る必要もない。あと、放射線被曝の問題もある。
と、反論していく。
最後の、そもそもオニールのスペース・コロニーは本当に人口爆発のための計画だったのか、と。人類が宇宙に行くこと自体に価値があるとオニールは考えていたが、それを社会的に認められやすいものとするために、人口爆発のための対策を方便としたのではないか、と。
ならばと、人類の宇宙進出それ自体に価値があるという議論へと進む

3 宇宙植民に意味はあるか?

まず、有人宇宙ミッションについて考えるが、リベラリズムとしては、人命よりも公益を優先するという考え方は認められない。なれば、リベラリズムの元での有人ミッションは、無事生還が絶対条件となる。
しかし、無事生還させるためには、コストがかかる。往復分の燃料、生命維持装置分の燃料といった問題。
コスト的には、人間が行くメリットはなく、現実にも、科学探査ミッションはほとんど無人機で行われているのが現状。
となると、民間サイドから積極的に宇宙に行こうとする状況を考えることになる。
ここで補助線として、野田篤志による宇宙植民構想を検討する。
オニールと違い、地球軌道上にプラントを作るのではなく、小惑星を堀抜くというもの。コストも安くなるし、放射線の問題もクリアできる。その代わり、地球との距離は離れていて、少なくともリアルタイム通信はできなくなる。
これについて本書では、野田プロジェクトにおける人類史的意義を確認する。
すなわち、かつて分散を辿った人類社会が、近代以降はグローバル化し統合化されていったのに対して、小惑星コロニーは再び人類社会に分散・多様化をもたらす、というものだ。
ところで、そんなコロニーに行きたい人っているのか、という方向へ話は進んでいく。
そもそも、南極の観測基地みたいな、時々人がいる程度のものでもよいのでは、とか。
地球をもした環境になるとはいえ、小惑星で暮らすためには人体改造も必要になってくる。
「新天地で新たな社会を築きたい」のみならず「新天地で別の生き物になりたい」とまで思える人々がいるのか?
ここで考えが逆転する。
むしろ、もう人体改造がポピュラーになっていて、そういう人たちが普通にいるような社会なら、ありうるのではないか、と。

4 恒星間航行

ここも、議論としては同型をたどる。
有人の恒星間飛行は技術的にめちゃくちゃ難しい→人体改造不可避
それでもやる?
例えば、地球外知的生命との接触が想定される場合、「人間」が乗っていた方がよいのではないか。
ならば、「人間と同等の知性を有する自律型ロボット」を乗せるという考えはありうるのではないか。
「人間」の枠を拡張させる
しかし、人間と同等の知性を有する自律型ロボットの場合、やはり人間と同じだけの処遇が必要なのでは。

5 自律型‐人格的ロボット

というわけで、本書は宇宙倫理学からロボット倫理学へと進む
「人間と同等の知性」について、ボストロムにならってHLMIと表記されている。
技術的に可能かどうかはさておき、もし可能だとして、そもそもそんな需要はあるのか、と。
低知性であれば、動物倫理の延長として考えることができる。
一方、HLMIである以上、それは人格的存在として扱わなければいけないけど、そんなもの、製品として需要があるのか、と。
ここで面白いのは、考えられるのは「子ども」としての需要ではないか、と。HLMIを所有し、育て、その後は自然人として自由の身にする、というもの。
この章では、浦沢直樹PLUTO』に描かれる未来社会において、極限作業用ロボットが、非人間型ボディと人間型ボディの2つをもつのはどうしてか、ということも論じられている。

6 「宇宙SF」の現在

この章は、簡単なSF評論となっている。
かつてはSFにとってお馴染みだった宇宙が、近年では減っている。
宇宙が生身の人間には厳しい環境であるという認識が浸透し、宇宙SFは、ポストヒューマンSFとならざるをえないだろう、と。
そこで、ポストヒューマンSFについて、それ以前のオカルト的な「超人類もの」とは似て非なるジャンルであり、ヴァーリィの八世界やサイバーパンクからの流れを汲んでいる、と論じていく。
また、宇宙人もSFからは姿を消していることにも触れる。
異星人を出すことによって考えられていた「異質な存在(エイリアン)」というテーマは、むしろ人類の末裔(ポストヒューマン)に受け継がれている。

7 リベラリズム再審

最後の章は、原理的な話へと突入していく。
倫理学には、宇宙倫理学やロボット倫理学、あるいはヒューマン・エンハンスメントやポストヒューマンに関わるような生命倫理学といった、応用倫理学というジャンルがある。
宇宙開発やらロボットやらといった状況に対して、倫理学的にどのように考えられるかというものだけど、逆に、そういった状況が既存の倫理学の基礎を見返す契機としても働く。


リベラリズムにとって「自己決定」や「権利」というのが主要な原理になるわけだけど、これは基本的に成人を前提としている。
成人が、自己の責任において、自分を人体改造するのも宇宙へ行くのもなんら問題はない。
しかし、そうした行為が、次世代(子ども)にも及ぶとしたらどうか。あるいは、既に述べたとおり、ロボットを「子ども」のように捉える場合はどうか。子どもやロボットは「自己決定」できない。


近代の倫理学は、カント主義などの義務論にしても功利主義などの帰結主義にしても「行為」に照準を与え、人格の善し悪しは問題としない。
一方、人格を照準とするタイプの倫理学として、徳倫理学がある。
ここでは、道徳的評価の対象、主体、道徳的配慮の対象、主体、人格の存在論といったいくつかの観点から、義務論、帰結主義、徳倫理学を整理している。
道徳的配慮の対象はpatientだと考える帰結主義に対して、patientにしてagentであるpersonであると考える義務論といった整理などが面白い。
また、ここからフーコーの近代批判と徳倫理学の復興の呼応を見る。
つまり、近代においては「人格」ではなく「行為」こそが道徳的評価の対象であるにもかかわらず、実際には近代においては公的空間において「躾けdiscipline」が行われ、人格形成=徳の陶冶が行われていたのだ、と。


子ども、ロボット、動物、障害者などの倫理学を考えるに当たって、近代的なリベラリズム(義務論にせよ帰結主義にせよ)における、既に成立している人格の尊重、そうした人格同士による行為の評価という形で見ていくのはもう困難で、「人格の形成」そのものを問題にしなければならないのではないか、と。
筆者は、応用倫理学と徳倫理学の隆盛の一致は必然であったと述べる。
しかし、これは古典的な徳倫理学の単純な復興ではない。
古典的な徳倫理学では、あるべき理想の人間像が想定可能であった。近代のリベラリズムにおいては理想的な人間像の想定が出来なくなったが、既存の人間性については現状維持することができた。現代においては、既存の人間性についての暗黙の了解も成立せず、新たに人間性を構築していく必要が生じている状況だ、と。


ところで、これを読んでいて、義務論と帰結主義自由主義リベラリズム)、徳倫理学は共和主義を標榜することが多いとも述べられており、このあたりの話は、宇宙とかヒューマン・エンハンスメントとかだけでなく、かなり現実的な近年の政治状況について考えるのにも通じている話だと個人的には感じた。つまり、ポピュリズム云々の話。従来的な左派・リベラルが、民主的な形で現れた保守反動の動きに耐えられなくなっている点が。そういう話は本書には触れられていないけれども。


最後に、ハンナ・アーレントにも触れられている
アーレント自身、スプートニク・ショックの時代に、宇宙開発への言及をしていたことがあったらしい。
アーレントのいう「自己破壊」というのが、「人間」という概念が自体が変化せざるをえないポストヒューマンの問題系へと近づいていたということなのではないか、と論じている。

補論1 ニック・ボストロムの「超知能」と「シングルトン」について

ボストロムがシンギュラリティ到達で怖れていたのは、「よき全体主義」体制(ボストロムのいうところの「シングルトン」)の到来なのではないか、と述べた上で、
しかし、超知能の到来によって可能となる宇宙全域の植民において、光速度の限界により、各植民地は独立を維持し、シングルトンは崩壊するのではないか、と指摘する。
この補論は、以下の文によって締めくくられている。

全体主義もまた、光速度の限界には勝てないのだ。

すげーこのフレーズかっこいいww
いやこの一文、普通になんかスペオペもののSF小説*1とかにありそうw

補論2 デイヴィドソン=ヒース的道徳実在論

ここではまず、デイヴィドソン全体論について解説されている。
単にフレーゲ的な意味論としてではなく、単にクワイン的な全体論でもなく、信念・欲求・知識などの命題的態度をも含めた全体論
そして、この全体論寛容の原理がセットになっている。
ちなみに、この背景にはベイズ的意志決定論があるらしい。
さて、この全体論に加えて、デイヴィドソンが前提としている真理条件意味論が、実在論的な立場であることが確認され、そこから、真理の社会性・客観性が導かれる。
一方、デイヴィドソンは道徳理論・倫理学的主張については、まとまったものを行っていない。
これについて筆者は、ヒースが、寛容の原理を拡張した形で公的な価値・評価についての普遍化可能性・客観性について論証している、とする。
コミュニケーションが行われる状況において、デイヴィドソン寛容の原理において、相手が理性的・合理的であることを想定しなければならないが、ヒース的によれば、これに加えて道徳性も想定しなければならない。

誤字等

校正が不十分だったように思えた。
単なる誤字というより、あまりこういうの見かけないなと思えるタイプのものを結構見かけた。
以下、気付いたものを列挙しておく。

  • 「実現すれば極めて地球と周回軌道上の人工衛星のみならず」(p.57)

「極めて」が不要ではないかと思われる。

  • 「しかしながらこのいわば「地球環境危機継続説」をとったところで、問題がなくなるわけではない。しかしながら、農作物をはじめとする生物資源のみならず(中略)その限界に突き当たらないであろうとの予測も近年では有力である。」(p.61)

2つめの「しかしながら」が不要ではないかと思われる。

功利主義の原型たるベンサムの定式においては、道徳の目標は「最大多数の最大幸福」、世界のなかの幸福の総量の最大化である。(中略)功利主義者の間でも、いわば総量主義に対する平均主義、目標とされるべきは快楽の主体1人当たりの幸福の増大であって、「最大多数の最大幸福」である、という立場もまた有力である。(pp.156-157)

ここは間違いなのかどうかよく分からないのだけど、2つめの「最大多数の最大幸福」はもしかして別の言葉の方が適切だったのでは? というように思えた。

超知能がシングルトンではなく、複数のHLMIであるならば、ある意味でそれらは「人間」であり(中略)しかしながらシングルトンとなった超知能は、人間の後継者であるとは言えても、それ自体はもはや「人間」とは言いがたいとは言えない。(pp.197-198)

最後の「言えない」が不要ではないかと思われる。

  • 「第1章註2」(p.201)

正しくは「註5」ではないかと思われる。

  • 「選考」(p.209)

正しくは「選好」ではないかと思われるけど、これはよくある誤字で、あってもさほど気にならないタイプの奴。

*1:最初「銀英伝にありそうww」と思ったんだけど、あれは超光速が可能になってた