稲見昌彦『スーパーヒューマン誕生! 人間はSFを超える』

人間拡張工学・エンターテイメント工学を標榜する筆者が、エンハンスメントやVR、テレイグジスタンス、ロボットなどの技術を紹介しながら、人間の拡張という「スーパーヒューマン」の概略を描きだす本。


筆者は、2003年頃に「光学迷彩」を発明したことで一躍有名になった人で、近年では、中村伊知哉、暦本純一とともに、超人スポーツ協会を発足させている
元々、学生時代は、日本におけるVRの第一人者である舘章の研究室に所属していたらしい。
工学らしい(?)楽観的なビジョンにあふれる本だが、色々な事例が紹介されているのが面白い
特に、最後の章のポスト身体のあたりが、面白かった


大きく分け三部構成になっており、
第1章では義足やパワードスーツ、BMI、さらにラバー・ハンド・イリュージョンなどの話から、身体の拡張について
第2章は、「インターフェイスとしての身体」というタイトルで、主にVRとテレイグジスタンスが扱われているが、これは、人間が身体を通してどのように世界を知覚しているかということについて
第3章は、ロボットの話から、身体の分身、変身、合体、共有などについてが扱われている。

序章 SFから人間拡張工学を考える
第一章 人間の身体は拡張する
 1 拡張身体とは何か?――「補綴」から「拡張」へ
 2 どこまでが拡張身体なのか?――脳と道具の間にあるもの
 3 どこまでが身体なのか?――曖昧な身体の境界線を探る
第二章 インターフェイスとしての身体
 1 現実世界はひとつなのか?――五感がつくる現実感
 2 新たな現実はつくれるのか?――感覚と情報がつくるヴァーチャル・リアリティ
 3 人間は離れた場所に実在できるのか?――脱身体としてのテレイグジスタンス
第三章 ポスト身体社会を考える
 1 ロボットはなぜヒト型なのか?――分身ロボットとヒューマノイド
 2 他人の身体を生きられるのか?――分身から変身へ
 3 身体は融け合うことができるのか?――融身体・合体からポスト身体社会へ

スーパーヒューマン誕生!  人間はSFを超える (NHK出版新書)

スーパーヒューマン誕生! 人間はSFを超える (NHK出版新書)

序章 SFから人間拡張工学を考える

SFは、作りたいもの(WHAT)を示してくれるが、それをどのように実現するか(HOW)は示してくれない。そこを考えるのが、研究の醍醐味、みたいなことが書いてある。


エンターテイメントと技術の関わりというところで、「ペッパーの幽霊(ペッパーズゴースト)」について触れられていた。
以前、THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC♪ GROOVE☆ - logical cypher scape2でちょっと触れたが、ペッパーズ・ゴーストというのは、1858年のイギリスで、土木技師かつ発明家のヘンリー・ダークスが発表し、これを王立科学技術学院院長ジョン・ペッパーが改良。1862年ディケンズ『憑かれた男』の舞台効果として使われた、とのこと

第一章 人間の身体は拡張する

まず、「拡張身体」の紹介
筆者は、拡張身体とサイボーグとの違いを、着脱可能かどうかで線を引いている。そういう意味では、メガネなども拡張身体の一種となる。
義足やパワードスーツの話がまずなされる。
パワードスーツというと、サイバーダインの「HAL」を思い出すが(それも紹介されているが)、1960年代に、GE社が「ハーディマン」という試作機を作っていたらしい
ただ、この時期はまだコンピュータの能力が低く、パワーを制御しきれなかったために、開発は下火になったらしい。


拡張身体の一種として、ウェアラブル・コンピュータも紹介されているが、その中で、例えば、表情を記録しフィードバックすることで、情動を制御できるのではないか、という「アフェクティブ・ウェア」「アフェクティブ・コンピューティング」という考えが紹介されている。
まあ、考えとしては分かるし、作ってみたら面白いかもしれないなと思う一方で、無論、こういうのはどれくらいアリな話だろうかとかも思ったりもするわけで、そのあたり、かなりあっけらかんとした書きっぷりであったなとは思った


次に、道具と身体の関係
道具を自分の身体のように感じてしまったりするような系の話とか、BMIの話とか
面白かったのは、筆者と明治大渡邊恵太の共同研究による「カーソルカモフラージュ」
ショルダーハックを防ぐための技術なのだが、画面上に、動いているマウスのカーソルが複数映っているというもの。カーソルを動かしている本人には、その状態でも、どれが自分の動かしているカーソルかは分かるのだが、他人からは分からないという。


BMIについて、「あ、確かに」と思った話として、人間の行動が、脳内でどこまで言語的に表象されているかどうか
言語依存していたら、使用者の言語に応じて、発火している神経も違ってたりする可能性を今後考えないといけない問題なのでは、と。


メンタルローテーションというのがあるが、手術支援ロボットダ・ヴィンチでは、その点を考えて、画面の向きがあわせられているという話が、なるほどねーと思った


最後に、どこまで自分の身体か、という問題
ラバー・ハンド・イリュージョンという実験があるが、さらに進んで、インビジブル・ハンド・イリュージョンという実験もあるらしい
自分の身体と感じられるかどうかに、時間的範囲があるという話が面白かった。
ジョイスティックを使って自分の身体をくすぐってもらう。自分で自分のことをくすぐっても、くすぐったいと感じない人は、ジョイスティックを使っても、くすぐったいと感じないが、ジョイスティックが動くのを0.2秒遅らせると、くすぐったいと感じるようになる。
先に挙げた「カーソルカモフラージュ」でも、0.2秒遅らせると、分からなくなる、とか。
イグ・ノーベル賞を受賞した「スピーチ・ジャマー」もこれを使っている


ウィーナーやデネットを引用して、自分の範囲の線引きとして、制御できるか否かというものがあるのではないか、とした上で、筆者が目指すものとしての「自在化」「人機一体」という標語について説明されている。

暫定的な仮説だが、身体は脳と世界をシンク(同期)するためのインターフェイスである、というのが現在の私の身体観だ。私たちは、自分の頭の中に現実感という現実世界のモデルをつくっている。そのモデルの精度を上げ、更新するために、私たちの身体の五感というインターフェイスが存在しているのではないだろうか。(p.107)

予測コーディング理論のような話をしていた。
参考:クリス・フリス『心をつくる――脳が生み出す心の世界』 - logical cypher scape2

第二章 インターフェイスとしての身体

ヴァーチャル・リアリティについての章
錯覚の話などを交えながら、現実感について書かれている。
前半の方で、アイバン・サザランドについて紹介されている。
サザランドは、CGやCADの生みの親であり、GUIの起源ともなったという「スケッチパッド」という装置を発明、さらにHMDを発明したという人だという。
なんと、シャノンの弟子で、アラン・ケイの師匠なんだかと。


後半からは、バーチャル・リアリティの一種として、テレイグジスタンスについて
テレイグジスタンス的なものの発想は、ガーンズバックハインラインSF小説にも登場するらしい
遠隔操作+VRインターフェイスという概念として、舘章が1980年に「テレイグジスタンス」という言葉を提唱するが、2か月違いで、ミンスキーがほぼ同じ概念を「テレプレゼンス」という言葉で発表しているらしい。
両方聞いたことあったけど、そういうことだったのか、と。


筆者が初めてテレイグジスタンス(遠隔操作ロボットとHMDの組み合わせ)を体験したときに、自分の背中姿を見ることになった驚きが書かれている
それから、三人称視点でスキーを滑れる装置や、ドローン映像で自分の姿を見て動き回る装置の話などが続く。
これは結構面白そうな体験っぽいなと思う。
また、藤井直敬によるSR(代替現実)もここで紹介されている
現実の側の解像度を下げるところがポイント、と。
あと、SRを用いたアトラクションが、ハウステンボスにあったらしい。少し前に行ったことがあるのだが、知らなかったー

第三章 ポスト身体社会を考える

この章の前半は、ロボット、特にヒューマノイドが何故ヒト型なのか、という点などについて書かれているが、中盤から面白くなってくる


分身ないし複数の身体
まず、テレイグジスタンスが普及した場合、それは分身を他の場所に置いておく、というようなことなのかもしれない、と。
次に、複数の目で見ることはできるか、という研究
後ろ方向を映した映像を、HMDに投影して、前と後ろを同時に見ることができる「スパイダー・ビジョン」
後ろの映像は半透明のレイヤーで重ねられるのだが、それで十分、両方の視野を認識できるらしい。今後、このレイヤーをどれくらいまで増やせるのか実験するという
その他、分身としては、ダブル・ロボティクス社の「ダブル・ロボット」が紹介されているが、さらに簡易的なものとして、暦本純一による、「カメレオンマスク」といって、ビデオ通話中のタブレットをお面のように他の人が顔に装着するという実験が紹介されている


他人の身体を操作する・される
ステラーク、というオーストラリア出身のパフォーマンス・アーティストの作品に「パラサイト」というものがあり、電気刺激によって筋肉を縮ませ手足が動くような装置を身に着け、インターネットを通じて、他の人がステラークを動かすことができるという
また、前田太郎の「パラサイトヒューマン」も、人の身体の動きをコントロールするような技術である。


他の人の体験を共有
「オムニプレゼンツ」というサービスや「オキュ旅」という取り組みが紹介される。
これは、ある人が頭の位置にカメラをつけて撮った映像を、他の人が見るというも。の。オムニプレゼンツでは、指示を出すこともできるらしく、相手を操作しているような感覚もあるらしい。
体験のシェアというものがニーズが生まれつつある。
HMDを使ったりなんだりすると、他人の身体についても、自分の身体としての専有感がでてくるかもしれない

自分が専有している時間と、他人が専有している時間のスケジュール調整の問題さえ解決できれば、誰の身体であろうが、自分の身体としての専有感が出てくるだろう。クルマや家のシェアリングがバーチャルな所有感を生み出せるように、デジタル・メディアの後押しにより身体までもが共有可能になってくる可能性が見えてきているのだ。

1人の人間と1つの身体という結びつき、あるいは、自分は自分の身体の中に入っていて抜け出すことができない、というのはこれまで所与の前提だったわけだけれど、これを覆せるかもしれないテクノロジーというのは非常にわくわくする。
幼い頃、何で自分は自分の身体からしか見ることができなくて、他の人の身体に入り込むことができないのだろう、と思ったことがあるのだが、他の人の身体からものを見ることができるようになったら、どのような感じ方になるのだろうか。
また、この本を読んでいる最中に想起したのは、『マルドゥック・ヴェロシティ』のシザーズや「レベレーション・スペース」シリーズの連接脳派だった。
あれは、複数の身体に完全に一つに統合された意識がある、というものだったはずで、これらの技術は、意識の統合・融合という話ではないけれど、それに近いものがもっとカジュアルな形で実現しうるのかもしれない、と思うと、結構SFのネタ的にも面白そうな気がする。
参考:瀬名秀明編著『サイエンス・イマジネーション』 - logical cypher scape2


融身体
これとは逆に、一つの身体を複数の人が動かす、ということも考えらえる。筆者はをそれを、融身体と呼ぶ。
例として、ロボットではないが、海賊党のリキッド・デモクラシーが挙げられている。