谷口忠大『記号創発ロボティクス』

ベイズによる学習を使って、カテゴリーや言語を自律的に獲得させるロボットを作ることで、「知能とは何か」という問題にアプローチするという本。
作ることで対象を理解する、いわゆる構成論的アプローチについても一章を割いて解説している。
経験的なデータだけでどのように概念の獲得・学習が行われるか、ということについて、1つのモデルを提示していて面白い。
構成論的アプローチという科学哲学と、ベイズ的な確率モデルという理論でもって、新たな人工知能パラダイムを作るぞ、という本とも言えるかもしれない。
ところで、個人的には、この本の哲学に対する言及の仕方や距離の取り方・詰め方について気になってしまったところが多くて、この記事の後半でそれについては書こうと思う。ただし、自分が気になったところというのは、この本全体の趣旨に照らせば、やや枝葉にあたるところでもある(そうでないところもあるけれど、自分が指摘したい部分は重箱の隅突き的なもの)。もやもやしているので、分量的には多くなってしまって、ネガティブな印象が強くなるかもしれないけれど、この本全体に対する評価はわりとポジティブ、なつもり。

第一章 ロボットが心を持つとき
第二章 自ら概念を獲得するロボット
第三章 自ら言葉を学ぶ知能
第四章 潜んでいる二重分節構造
第五章 ロボットは共感して対話する
第六章 構成論的アプローチ
第七章 記号創発システム論

第一章が序論で、第二章から第五章が本論で、実際に作られたロボットとか実験とかを例に出しながら進んでいく。
第六章は、構成論的アプローチという、本書が依拠している方法論についてのメタ的な考察
第七章は、知能・ロボット研究に対する全体的な話。

第二章 自ら概念を獲得するロボット

「椅子」とか「犬」とかいったものの概念をどのようにロボットに獲得させるか
辞書的定義は循環する
あと、廣松渉が、「犬という概念を形成するためには、犬の事例を集めなければならないが、その事例を集めるために犬という概念が必要になる」というようなことを述べているのに触れて、しかし、クラスタリング手法を用いれば、このようなパラドクスは生じないと指摘する。
例えば、ここでは代表的なクラスタリング手法として、K平均法が挙げられる。
身体の大きさとか鳴き声の長さとかいった特徴量のデータを、適当にクラスタ分けして、繰り返し計算して、そのクラスタをどんどん更新していくことで、よりもっともらしいクラスタ分けに至る、というもの。


次に、マルチモーダルに物体概念を獲得するロボットが紹介される(電通大・中村、長井らの研究グループによるもの)。
つまり、物体概念を獲得するために使うデータとして、視覚、聴覚、触覚からの各感覚情報(マルチモーダル)を使うということ
各センサーで集めた情報を特徴量ごとにクラスタリングする
マルチモーダルLDAという手法を使っている。これは、もともと文章をクラスタリングするためのLDAという手法をマルチモーダル情報に応用したもの。ある特徴量(単語)が出現する頻度を用いる。
実際に行った実験
ぬいぐるみとかおもちゃのマラカスとかを用意して、まず人間に、カテゴリ分けしてもらう。見た目は似てるけど、ゴム製の人形とぬいぐるみのように、さわり心地が違ってカテゴリ分けされているのもある。
ロボットにも、人間の考えるカテゴリ分けと同じカテゴリ分けができ、またその後、未知物体を見せると、鳴らすと音が出るか、硬いかなどの予想ができた。
最初の実験では、カテゴリがいくつあるのかということを予め教えていたが、さらにカテゴリー数を発見できる手法も実装した。
また、ロボットが人間と同じカテゴリ分けできるのは、人間と同じ感覚情報(視覚、聴覚、触覚)を使っているからなので、視覚情報のみとか聴覚情報のみとか触覚情報のみとかにすると、カテゴリ数の推定や分類精度が落ちた。

第三章 自ら言葉を学ぶ知能

言語を獲得するにあたって、普通の状況だと、一単語だけが与えられるということはない。しかし、単語を覚えるためには、文を適切に形態素解析できないといけない。普通の自然言語処理では最初から辞書を持っているが、辞書なしで、感覚情報からだけで形態素解析できるか。
実はできる。
単語間の遷移確率(どの単語の次にどんな単語がくるかの確率)と、ブロック化ギブスサンプリング法(NTTコミュニケーション科学基礎研究所・持橋らによるもの)
ブロック化ギブスサンプリング方は、まず1文をとりあえず1つのかたまりとみなす、その適当な区切りをつけて、再計算を繰り返して、適切な区切りへと更新していく。
マルチモーダルな物体概念獲得と、教師なし形態素解析を組み合わせると、精度があがることがわかった(中村、長井、筆者らの研究グループ)。
しかし、そもそも音声を音節として認識する際のエラーが多い、という問題が現れた。→次章へ

第四章 潜んでいる二重分節構造

人間の話す言葉は、音素と単語というような二重分節構造になっている。
音声データという時系列データから、二重分節構造を解析するために、再びベイズを用いる(筆者らの研究グループ)。
この章で面白いのは、二重分節構造解析を、言語に限らず、より一般的なものと捉えて、他のことにも応用したことだ。
ここでは、人間の動作に対して解析を行っている。
例えば、自動車の運転は、「その角を右折する」という行動も、「左右を確認する」「アクセルを軽く踏む」「ステアリングを右に切る」などなどの動作からなっている。とはいえ、そのような個々の動作は、普段は意識されない。
動作における「単語」の切り替わりが、運転行動における文脈の変更点ではないかという仮説をたて、人間が考える行動の文脈の変化と二重分節解析器が発見した単語の切り替わりを比較。
さらに、それを使って、車載動画を自動的に要約するプログラムを作った。ドライビングレコーダーで録画されたものを、全部見直すのは大変であるが、自動的に要約されれば見やすくなる。そして、この方法で要約された動画を、実験協力者に見せたところ、自然な要約だと評された。

第五章 ロボットは共感して対話する

通常の人間の会話は「取って」などと曖昧な言葉でも、通じる。
曖昧な対話ができるロボットとして、関連性理論を参考にしつつ、信念モジュールと共有信念関数をもったものを作った(岩橋ら)
人形や箱が置いてある環境で、ロボットはそれらをカメラで見てアームで動かすことができる。
近くには水色の箱があり、遠くには青色の箱があり、「青い箱にカエルを載せて」と言われたとき、その青い箱の解釈は二通りある。どちらの解釈が正しいかは、それまで対話者とのあいだでどのような共有信念を作ってきたかによる。
ロボットと人間がやりとりをして、もしロボットが解釈を間違ったら、人間はそれを教える。すると、共有信念関数には、個別確信度ベクトルがついていて、ロボットはそれを更新させていく。
1つの発話に2つの解釈があって、どっちの解釈がもっともらしいかという値の差を、曖昧さの値とする。差が小さいほど、曖昧さが大きくなる。この曖昧さについての関数を学習することで、ロボットは人間の発話を自分がどれくらい理解できているかを学ぶ。
さらには、ロボットが、故意に曖昧に発話することも可能となった。
人間がどれくらいの確率で理解できるかという程度にあわせて、曖昧な発話ができる、と。
ただ、ロボットが95%の確率で人間に理解できるだろうと思った発話が、実際に実験してみると85%しか理解されなかった。しかし、ここでロボットが95%理解してくれると思ったのは、その共有信念を一緒に作った人間であって、全く新たな被験者は必ずしもそうではない。という意味では、かなり的を射た結果なのかもしれない。

第六章 構成論的アプローチ

構成論的アプローチは、「作ることによって理解する」というものだが、これをもう少し方法論としてちゃんと論じる、という章。
まず、構成論的アプローチについては
認知ロボティクスのファイファー、認知発達ロボティクスの浅田稔、複雑系研究者の橋本敬、金子邦彦らによる特徴付けが紹介される。
構成論的アプローチに対して、「科学的アプローチ」(浅田の場合は「分析的アプローチ」)が対置される。
「科学的アプローチ」というのは、ここでは主に実験科学のことを指し、仮説をたて、実験や測定により検証することをさす。そのアプローチによる出力は、命題群である。
筆者は、構成論的アプローチの役割として、以下の3つを挙げる
役割1「不可能性の反証」
役割2「理解するためのモデルの提供」
役割3「科学的実験のための仮説の示唆」
役割1は、例えば「機械には○○できない」というのに対して、実際に○○できる機械を作ることで反証とする、というようなこと。広くは、科学的アプローチに含まれるかもしれないともしている。


面白いのはやはり役割2から
科学的アプローチが、命題群を出力するのに対して、構成論的アプローチは「モデル」を出力する
モデルとは「比喩」であり、「既知の知識における関係や構造を、未知の対象へとマッピングすることを伴う」とされる。
構成論的アプローチにおけるモデルを作ることは、シミュレーションすることとは異なる、とされている。
ここについて説明が少なくてちゃんと分からなかったのだけど、シミュレーションが「できるだけ現象と似せ」る、「目標となる対象をつくりあげる」のに対して、構成論的アプローチは、「構造やしくみを表現する」ことにあることが違う、と。
モデルが妥当性をもつ条件として
(1)対象のもつ構造が適切に表現されている
(2)対象の振る舞いが適切に表現されている
(3)モデル内部の論理構造に齟齬がない
があげられている。
(2)はロボットの振る舞いを実験して確かめられる。(3)は、ロボットが数理モデルをもとに作られているのでそれ。
(1)は、主観的な洞察によるとされるが、その主観的洞察が、理解にとって中心的役割を果たしている、としている。
構成論的アプローチが、科学的アプローチに対して優越している点として、心という客観的に測定できないものを取り扱えることだとしている。科学的アプローチが、測定や実験をして仮説を確かめ、事実をあらわす命題群を出力するものである以上、心そのものは扱えないが、構成論的アプローチは、理解するためのモデルを作るものだから。
生物学や経済学も構成論的アプローチだよね、とも。


役割3
科学的アプローチは、仮説を実験するという方法だけれど、そもそもその仮説がどこから出てくるかについては述べていない。
構成論的アプローチが作ったモデルは、科学的アプローチにおける仮説として使える、というもの
構成論的アプローチで作られた計算論的モデルを仮説として、ではそのモデルにでてきたパラメータは、脳内のどこにあるのか、といったふうに使える、と。


科学哲学の話をしていて、この章は面白い。
科学が生成(出力)するものは何か
仮説形成はどのように行われるか
理解とは何か
といった話題が、絡み合ってでてきている感じかなあと思った。
まず、科学が作っているものは何か、ということについて
命題群とモデル、という対比がなされているけれど、これって、アレックス・ローゼンバーグ『科学哲学』 - logical cypher scapeに出てくる、科学理論とは何かということに対する、統語論的アプローチと意味論的アプローチに対応するかなあと思った。
そこでいう統語論的アプローチというのは、いわゆる仮説−演繹主義。科学的方法とは、仮説を経験的にテストすることで、科学理論は、そうやってテストされた仮説の集合という考えで、本書でいう科学的アプローチは、これに当てはまると思う。
意味論的アプローチというのは、科学理論を、「モデル」として捉える、というもの。ローゼンバーグ本では、モデルとは「定義によって真とされるもの」とある。これ、本書と言い方が全然違うので、本書でのモデルと同じものと見なしてよいのか難しいところだけれど。
主観的に正当化される、とか、計算論的モデルがマッピングの対応物を見つけようとする(脳内のどこに対応するかという実験へとつながっていく)、とかいったあたりが関係しているのかな、と思う。モデルはモデルだけだと、比喩であって、対応物というか真理値を確証されたものじゃない。だから、「定義によって真になる」のかなあ、と。
あと、ローゼンバーグは、この意味論的アプローチによる科学理論の例として、ダーウィン自然選択説を挙げており、生物学が構成論的アプローチをしているといっている本書と通じるところはあると思う。
「仮説形成」とか「理解」とかいったことも、哲学的に興味深いテーマで、そのあたりについて主題的に論じられているわけではないけれど、絡んで出てきているのは面白い。
それとあと、「構造が適切に表現されていること」のあたり、構造の適切な表現とか比喩とかで想起したのは、ジョン・カルヴィッキ『イメージ』(John V. KULVICKI "Images")後半(6〜9章) - logical cypher scapeで出てきた科学的イメージだった。
まあ、そっちはあくまでもイメージの話なので、違うのだけれど、対象そのものの再現ではなくて、構造の表現っていうのが、構造説と通じているところがあるのではないか、と。そうなると、構造の適切な表現って、同型とか透明性のないイメージとかに似た話になるのかなあ、とか。シミュレーションの違いってこのあたりと関係するだろうか。図像と非図像の違いが透明性の有無とされていたけれど、それと似たような関係があったりするか。シミュレーションはできるだけ対象と似てないといけないけど、構成論的アプローチは構造さえ保存されていればいい、とか。


この章では、最後に、心とか知能とかを記述するのには、自然言語は貧弱な言語で、数式を使った計算論モデルこそが記述能力があると述べている。
まあそれは当然のこととして、その後に補足的に書かれていたところ

計算論的表現にもさまざまな流儀がありえる。ニューラルネットワークを用いた力学的表現を中心的に用いるグループもあるし、ベイズ理論を基づく確率モデルを用いるグループも多い。(...)一方で、数学的には一部のニューラルネットワークベイズ理論に基づく確率モデルとして表現されうることなどが示されており、知能の計算論的表現も確率モデルに基づいた共通の数学的土台の上で統合の方向に向かいつつあるように思う。

とあって、これには「おおっ」となった。
人工知能心の哲学の歴史って、まず、古典的計算主義・表象主義があって、それの限界に対して、ニューラルネットワークを推すコネクショニズムと、そもそも知能を分散させてしまう包摂アーキテクチャとがあって、でもどっちも、古典的計算主義のぶちあたった限界に対してはある程度の解決を見せつつも、人間の知能っぽくはならなかった。さて次は、っていうのがなかなかなくて、人工知能研究が止まっていたという印象があった。心の哲学は、むしろ「意識」とかの方にいっちゃった感じで。
このブログを書いている最中にちょっとググっていたら、記号を用いたコミュニケーションを実現するために何が必要か?― 記号創発ロボティクスの 視点から ―というスライドを見つけた。
このスライド、前半が谷口忠大、岩橋直人、長井隆行となっていて、この本と重なるところが多くてよいのだけど、その中に、「「人工知能が表象主義」だとか、「コネクショニズム」なんて言葉を使っている情報科学者は死滅している」という一文が入っていて、なるほど、その後のパラダイムを打ち出したいんだなと思った。この本の中でも、フレーム問題なんて言ってる奴は古い、とか、2010年代の研究をやろう、みたいなことを書いてる。
まあそれはそれとして、ニューラルネットワークも実はベイズに統合できるとしたら、コネクショニストはベイジアンになるのか、と思って、科学哲学としてもベイジアンって増えているっぽいので、まあなかなか大きな流れとして面白いんじゃないかな、と思った。


ところで、そういえば昨年の下半期あたりって、人工知能ブーム再び、みたいな記事をよく見かけたなあ、ちゃんと読んでなかったけど、ということを思い出して、ちょっと見てみたんだけど、あれはニューラルネットワークがなんかブレイクスルーを越えた、みたいな話だったみたいね。
ニューラルネットワークって、入力層、中間層、出力層とあって、なんかその中間層を増やすことによって云々みたいな話だったみたい。深層学習、と呼ぶらしいが。
このあたりは、どういう関係にあるんだろうか。

第七章 記号創発システム論

まとめ的な

感想

マルチモーダルな概念形成っていうのは面白かった
諸感覚を統合するものが概念っていうの
哲学は、どうしても視覚偏重なところがあるし。最近はそれを脱しようとはしてるとはいえ。あと、マルチモーダルは、触覚大事だよね、という話でもなく、視覚・聴覚・触覚を全部あわせるっていうわけで、ここらへんは哲学より先いってる気がする。
あと、あのあたりで、人間とは違った、ロボット独自の概念形成・ロボット独自の知能も作れるのだ、というあたりとか。
心とか知能とかを、構成論的アプローチで考えるのの面白いところは、「人間の」心を離れて、もっと一般的な意味での心・知能を考えられるところかなあ、と。
個人的には、ロボットも心や知能は持てる、とは思うんだけど、それってどっかからは人間とは違う、ロボットならではの部分とかも出てくると思っていて、それでいい、それがいいと思ってる。
それから、概念を掴んだり、うまく会話できたりするのって、辞書的に意味を覚えることのではなくて、文脈に応じて概念や言葉を使えることだっていうのは、後期ウィトゲンシュタイン的なものとも通じるなあという感じがした。
関連性理論きたー、とかw

以下、もやもや

気になったところ。分量的に長いけれど、枝葉末節だったり本論から脱線したりしていたりするところでもある

「認知的な閉じ」という言葉について

本書では、ユクスキュルの環世界を参照して、「認知的な閉じ」という考え方を前提することが再三強調されている。
のだが、「認知的な閉じ」のポイントがどこにあるのかがいまいちよく分からなかった。
とりあえず、「認知的な閉じ」は、外界のことについて感覚器を通してしか知ることができない、ということとして説明される。
しかし、その後の、カテゴリや言語獲得の議論の部分からだと、天下り的に概念や言語を獲得するのではなく、経験的に得られたデータからのみで概念や言語を獲得しなければならない、ということなのかなと思えた。
というわけで、「生得」vs「経験」*1の図式における「経験(主義)的」と読み換えながら、読んでいた。
2〜4章は、教師なし学習などの話で、「経験的に得られるデータだけでやる」というのが「「認知的な閉じ」という前提」だと捉えて、問題なかったように思う。
で、そうであるならば、「認知的な閉じ」という言葉よりも、「経験的」ないし「経験主義的」といった言葉の方が、より適切ではないかと感じた。
というのは、これは個人的な感触に過ぎないかもしれないけれど、「認知的な閉じ」っていうのは、何か色々な含みを感じてしまう語感だから。「経験主義」という言葉は、「主義」という言葉からやはり何かしらの含みを感じてしまう人もいるかもしれないけど、実のところ、かなりざっくりとした言葉なので、何というかかなり広い意味合いの言葉としても使えてしまう、と思う。
「認知的な閉じ」の「閉じ」というのが、やっぱり気になるところで、ある特定の世界観へのコミットを感じてしまう。
というのは、そもそもこれがユクスキュルの環世界論を参照していることとも関わっているのだけれど、ユクスキュルはカンティアンで、環世界論における環世界と環境というのが、現象界と物自体に対応していたりする。
つまり、この「閉じ」という言い方から、どこかしら不可知論への含みを感じてしまうのである。
まあ、不可知論の立場にたっても問題はないんだけど、この本で書かれていることは、別に不可知論の立場に立たなくても同様に問題ない、と思う。つまり、カント的な不可知論に対しては別にどっちでもいいのにも関わらず、「ユクスキュルです」「認知的な閉じです」と言われると、何かそういうコミットメントへの含みを感じてしまわないでもない、と。
一方、「経験主義」くらいの言葉であれば、そういうコミットメントに対してはオープンでいられると思う。
「認知的な閉じ」という言葉に、無駄な負荷を感じてしまって、ちょっとした読みにくさはあった。


「認知的な閉じ」をすごく重視していたことに対する、これはすごく勝手な推測だけれど、発見の文脈と正当化の文脈みたいなものが実は混ざってないか、と
ユクスキュル読んだことで、考えていたことの糸が繋がったり、きっかけになったりしたのかなあって思うんだけど、別にそれは必ずしもユクスキュルでなくてもよかったのかもしれない、と。
個人的には、ダマシオのスピノザ推しにも、似たものを感じる。


と、読んでいる途中までは思っていたのだけど、5章以降を読むと、「認知的な閉じ」という言葉を選んだことにちゃんと「含み」があったのかと思える記述がちらほら出てきた。
コミュニケーションについて、他我問題的なことを書いていて、つまり「閉じ」ているから、相手の心について本当のことは分からない的な。
「閉じ」という言葉を選ぶことに、それなりの理由が一応あるのかなとも(必ずしもそれに首肯しないけど)。
それからもう一つ。
ユクスキュルの環世界が、主観的な世界であることに触れて、主観を扱うことのできるアプローチの必要性を述べている。科学的(分析的)アプローチと構成論的アプローチとの対比の中で、前者として行動主義的心理学をあげて、それだと、「客観的な」あるいは外から観測できる行動しか扱えなくて、「主観的な」あるいは内側の過程・ダイナミクスは扱えないのではないか、と提起している。
確かに、そういう問題提起をする上では、「経験主義的」というより「認知的な閉じ」という言葉を選んだ方がしっくりくると思った。
ただ、これに関していうと、認知革命ガン無視っぽいのは何故、とは思った。心理学が、あたかも行動主義心理学しかないかのような書かれ方をしているように読めた。


主観と客観の対立みたいなことについていうと、自分個人は、心についてはまずはライル的に捉えたい、というところがあって。
心って本人にしかわからない、というデカルト的な考えには与したくない、というか。


あと、話戻すと、経験主義的である、ということについても気になるところはないでもない。
つまり、この本で書かれている知能のイメージって、白紙のところに汎用的な知能が概念や言語を獲得していく感じがして
モジュール仮説とか生得仮説とかいった、認知心理学とかのトレンド(?)との折り合いはどうなるのかなあ、とか
ベイズ的な学習だけで、カテゴリわけできるっていうのはそれはそれで面白いんだけど、素朴物理学とか素朴生物学とかみたいに、基礎的なカテゴリはそもそも生得的に持っている可能性があって……。

哲学に対して

上の最後で書いたけど、心理学=行動主義心理学かのような書きぶりで、認知革命以後の認知心理学ないし認知科学への言及がほとんどなかった。
同様に、哲学についても、やや狭いイメージのみで言及されているような感じがした。
これについては、「だからダメだ」という気はもちろんなくて、そもそも作者はロボティクスの人であって、哲学の人ではないのだから哲学について十分に言及できなくても問題はない。
とはいえ、一哲学ファンとしてはもやもやしてしまうのも事実なのでここに愚痴るw


具体的に、哲学としてあがってきているのが、廣松渉だけっていうのが何だかなあと思うところで。
廣松渉がこういうことを言っていて、それに対してこういう反論ができる、という議論の内容自体には、特に異論ないのだけど、それを廣松渉ではなく、「哲学は」という大きい主語で書かれると、もやもやするよねっていう。
「哲学」って、哲学者ですら把握できないくらいに広いので、廣松渉1人を引き合いにだされて、哲学の議論はここに問題があるよねって言われてもなーと。
もちろんこれってブーメランで、哲学者(や自分)が安易に、「ロボット工学は」とか「物理学は」とか「科学は」とか言ってたりすることあるだろうから、いちいちつっかかっていってもというところではあるかもしれない。
さて、カテゴリを獲得するに当たって、しかし事前にカテゴリが必要になるのではないかというパラドクスがあるという廣松の指摘に対して、k平均法を使えばクラスタリングできるっていう回答は、十分「あり」だと思う。また、上では廣松渉1人を引き合いに「哲学は」とか言うなよって書いたけど、まあ確かに「哲学は」こういうこと言いがちだよなあとは思う。
ところで、ここで哲学の議論の仕方の特徴を「自然言語による」「決定論的な」と述べているのだけど、「決定論」って普通は因果的決定論のことを指す言葉で、あまり適切な形容に思えない。
うーん、「演繹的」とかかなあ。
「ファジーな定義を認めない」「必要十分的な定義しか定義や議論の前提として認めてない」ので、ここで指摘されているような問題が発生しているのだと思う。それは「決定論」とは違うよな、と。哲学が主に自然言語で行われるのは確かなんだけど、ここで指摘された問題は自然言語「だから」起きるものではないと思う。
心の仕組みを記述できるのは、自然言語より計算論的表現、という主張自体には異議はない。
そもそも、自然科学ってみんなそうなわけで、心だけその例外とは思えないし。
ただ、哲学と自然言語の関係もなかなか一言では言えない。
分析哲学の起源の1人であるラッセルとかは、自然言語で考えると間違うから形式言語でやろうぜっていうことをやりはじめたわけだし。
でもまあ一方で、心の哲学は、自然言語でやっている感じがあるなあ。vs消去主義で色々あるけど。


話戻って、そこで指摘されたクラスタリングの問題に対して、確率的な、ベイズ的な考え方を取り入れるといいよ、というような提案を返している。
この提案自体にも全く異論はないけれど、実のところ、哲学もそういう方向に舵を切ってはいると思う。自分がベイズに興味を持ったのも、科学哲学や生物学の哲学がきっかけだったし。
まあ、ここでいうカテゴリの認識論みたいな分野で、ベイズ的な話をしている哲学者がいるのかどうかは知らないけど。
カテゴリというものをファジーに捉えるという意味では、ベイズではないけれど、認知言語学の方を想起するし。そのつながりで、ウィトゲンシュタインの家族的類似を持ってきてもいいんだけど……。
あと、ここで引用された廣松の議論みたいなことを、今でもやってる哲学者ってどれくらいいるのか、という気もある。カテゴリをどう獲得するのかっていうのは、それはもう認知科学とかの仕事であって、哲学の仕事ではないんじゃないの、という感じもするので。
カテゴリっていうと、哲学であればむしろ形而上学を想起してしまう。けど、そっちいってしまうとそもそも問題設定の仕方が別物になっている。
クラスタリングはロボットでもできますって話だったけど、デイヴィッド・M・アームストロング『現代普遍論争入門』(秋葉剛史訳) - logical cypher scapeにあった話を考えれば、クラスタリングができるのは自明。いわゆる「自然なクラス」だと思うんだけど、その「自然なクラス」の「自然さ」って何なのか、みたいなことを考える中で、そうしたクラスタリングの根拠になるものとしての普遍というのが必要になるんだって話になってくる。でもまあ、そこまでいくと、世界はどうなっているのかという話であって、それをどう獲得するかという話ではないから、さしあたっては知能研究にとっては無関係な話だと思う。一方で、そういうクラスタリングが可能であることは、極端な唯名論に反対する傍証にはなるかもしれないけれど、やっぱりあまり関係しないかな。
もっとも、話を戻すと、廣松渉はそういう普遍論争的な話をしていたわけではなさそうだから、形而上学の話を本書への反例としてぶつけるのは論点がずれるだけだけど。
「言語獲得は不可能だ、と哲学は言うかもしれない」みたいなことが書かれていたけど、そして確かにそういうことを言いそうな哲学もあるけど、言うとしてもレトリックだと思う。哲学は一応は「現象を救う」ものであって、一見、言語獲得は不可能なように思えたとしても、実際人間は言語獲得してるんだから、それについて説明しなきゃいけない(救わなきゃいけない)と思うのが、哲学者だと思う。
理屈だけを回して現実から乖離しているのが哲学、というイメージを持たれているのかもしれないけれど(「決定論的な」「論理を」使った議論、みたいな言い方から窺える)、哲学も出発点は現実だし、現実から離れてしまったら哲学としてもよいものではないと思う。ただ、哲学が使える道具って理屈しかないから、その意味で、理屈だけ回してるっていうのは確か。どんだけ、理屈だけを使って現実から離れすぎないでやってけるかってもんだと思う。
廣松渉への言及の、この本の中での重要性って、相対的に高くないので、別になくてもよかったのではないのかって思ってしまう。
本の中での重要性が高くないのにもかかわらず、こうやってもやもやしてしまうからw
なんで哲学に触れたのかなあ、というのはちょっと謎で。
他にも、特に論じられているわけでもなく、ちらっと名前が一回出てくるだけなんだけど、何故かルーマンラカンの名前を見かけた。
これについては、本当にぽんと名前が出てくるだけなので、個人的には特にもやもやもしないんだけど、それにしたって、論旨に特に関係なくちょっと出てくるだけなんだけど、何故そんな面倒くさそうな名前をわざわざ出したし、とは思うw


あと、「概念」の話をしているところで、
ロボットは概念をもったといえると思うけど、心理学者や哲学者で、それは概念ではない、という指摘があればしてほしい。それは甘受するけど、どういう意味で概念ではないのかロボティクス側からもちゃんと質問させてほしい。言いがかりにはならないようにしてほしい。その上で、その意見を踏めたロボットをまた作って、「概念」への理解を深めたい、ということが書いてあった。
まあ、しごく当たり前のことのようなが気がするんだけど、そういうことをいちいち書かれてしまうほどに、哲学者って狭量な存在だと思われてるのかな、と
ただまあ、概念なんて難しい言葉、哲学者の中でも統一的な見解なんてないだろうから、それを踏まえた上で、他分野の人にも指摘するとなると、大変だよなあ、とは思う。

本当にどうでもいいこと

世間にあるであろうロボットのイメージとして、アニメで「人間と一緒に犯人を追い詰めるロボット」というのが書いてあって、まあ自分にアニメ知識なんて全然ないので、「そんなアニメはない」なんてことは言えないけど、特に思いつくものがなかったので、何を想定してたのかなあというのが気になった(多分どっかにある気はする)。
アニメに出てくるロボット→人間が操縦する巨大ロボット、というイメージが強く、「一緒に犯人を追い詰める」イメージだと、ぱっと思いつくのメタルヒーローシリーズ(特撮)だなあと思って。
まあ本当にどうでもいいことで、仮に特撮とアニメが混ざっていたとしても特に何も問題なく、オタクでなければそういうこともあるだろうなあと思ったのだけど
その後読んでいたら「円環の理」という単語が、不意に何の断りもなく、ごく当然のように使われていて(p.51)、「?!」ってなったw

追記(20150125)

作者の谷口さんからの反応があったので。

うすうす感じていたけど、認知革命again感はあるかもしれない。しかし、方法論レベルでどうも質的な差があって、そこに絡め取られると、議論が混乱する面があって、ある意味、無意識にか意識的にか接続しないようにしていた感はあるなぁ。ここは人工知能の文脈で難しいところ。
https://twitter.com/tanichu/status/559216511835856896

なるほど
問題提起までは似てるけど、それにどうやって挑むかは違う、という感じはした
どこまで同じで、どこから違うか、みたいな見取り図的なものって欲しいと思う

記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門 (講談社選書メチエ)

記号創発ロボティクス 知能のメカニズム入門 (講談社選書メチエ)

*1:というこれ自身ちょっと雑で既に時代遅れになってきた感もあるが