大和田俊之『アメリカ音楽史』

僕の周辺で覇権*1とまで呼ばれていた本をようやく読んだ。
その名の通り、アメリカ音楽の歴史の本であるが、いわゆる大文字のHistoryを解体し、様々な伏線を通してhistoriesを見出していくタイプの研究。自分が大学の時に受けていた授業には、これと似たようなアプローチのものもあったこともあって、アメリカの音楽には全く明るくないけれど、面白く読めた。
著者は、アメリカ文学とポピュラー音楽研究を専攻しているらしいが、音楽研究がどういうものなのかあまりよく知らないけれど、文学研究っぽいということは感じた。


基本的には、アメリ音楽史というのは白人と黒人とのせめぎ合いとして記述される。
例えば、白人のカントリー・ミュージックと黒人のリズム&ブルースが混淆して、ロックンロールが生まれた、というように。
本書でも、白人と黒人の関係というものが軸に進んでいくことになるが、上に述べたような、白人+黒人→新しい音楽、というような弁証法的なスタイルはとらない。
そもそも後の世から見られる、〈白人性〉や〈黒人性〉といったものが、白人であれば黒人の、黒人であれば白人のネガポジ反転として現れてくることが繰り返し論じられる。それは、本書の基調となっているテーマ「擬装」ということでもある。
例えば、アメリカは移民の国であるが、一言に白人の移民といっても、初期のアングロ・サクソン系移民と、その後にやってくるアイルランド人やユダヤ系などとの間には懸隔がある。本書の最初に取り上げられているミンストレル・ショウと呼ばれる大衆芸能においては、白人が顔を黒く塗り黒人のようにして歌い踊るというものであった。これは、黒人の特徴を滑稽に取り上げることで、〈黒人らしさ〉を表象するわけだが、一方でそれを演じているのは白人であって「黒人ではない」。アイルランド人やユダヤ人は、この「黒人ではない」ことを通して「白人となっ」たのだ。
黒人のブルース、白人のカントリーというのは、必ずしも当初の実態には沿っていない。これらの音楽ジャンルは元々それほどはっきり分かれていたわけではないし、人種的にも区別されていたわけではないが、音楽産業が黒人市場を「発見」することにより、レイス・ミュージックという人種によるジャンル分けが確立されていく。
また、フォークとカントリーについては、その分化をレッド・パージに見て取り、左翼的なものとしてのフォークと保守的なものとしてのカントリーに分かれていく。
音楽ジャンルの中で様々に見出される「黒人らしさ」とか「保守性」とかいった特徴を、その音楽ジャンルが、歴史的、政治的、産業的にどのように成立していったかを見ることによって、何故そのように言われるに至ったかを見ていく、といえるかもしれない。こういうのは、新しめの文学研究に多いアプローチなのではないかなと思う*2


都市における音楽作品の大量生産、あるいはテクノロジーの発展によって生まれた、エンタテイメント産業としてのティンパン・アレー
ジャズについては、ビバップが革命と呼ばれ決定的な分断だと普通は言われているが、本書では、むしろコードからモードへの変化にこそ決定的な違いを見出そうとする。
アメリカの音楽市場は、人種によって分けられていたが、白人にも黒人にも売れるような音楽が生まれ始める。この背景には、ラジオの台頭があるのだが、ここには著作権を巡る演奏家・作曲者団体と放送局側の団体とのあいだの勢力争いが背景にある。彼らはそれぞれその利益について対立があるわけだが、時代の変化と共に激化してしまい、演奏家・作曲者側がかなり過激な方向に舵を切ってしまう。この結果、放送局側は新たに著作権管理団体を立ち上げ、作曲者側の団体が管理する曲を流さなくなってしまうのだ。これにより(というのは実は正確ではないのだが)ラジオで流れる音楽が新しいものへと変わっていく。ラジオ局自体も数を増やし、今までは届かなかった層に音楽が届くようになる。
そしてここに、人種ではなく世代による集団、「若者」が登場する。
人種混淆と、新たに誕生した「若者」に向けられた非行(特に性的なそれ)に関する言説が混じり合いながら、若者の音楽としてのロックンロールが誕生する。


ところで、本書のいくつかの箇所で注意が促されていることについて。本書は、白人による黒人の搾取についてそれほど大きく注目をしていない。これはどういうことかといえば、白人による黒人の搾取というのは前提であって、音楽に限らず経済においてずっと起きていることである。しかるに、音楽について取り立ててそのことを特別視するよりも、音楽文化におけるより複雑な相互の欲望のありようを明らかにすることを本書は重視しているのである。
ここら辺は扱うの結構大変そうだなと思うのは、別にここで搾取の構造にさほど注目しないことは、搾取の構造を肯定するものでは決してないわけだけれど、そのようなものとも捉えられてしまうことがあるということ。
あと、「でもやっぱり黒人は搾取されてたんでしょ」っていうふうにしか理解してくれない人がいること。
まあ後者はスルーってことでも別にいいんだけど、似たようなテーマの授業を受けていたとき、学生から出る質問やコメントの多くがそういうものだったので、「お前らは一体何を聞いていたんだよ」って思った経験があったから気になった。あるいは、そういう学生はそういうテーマの方にこそ関心があって、そういう問題を取り扱ってくれるものという期待があったのかもしれない(それは前者のこととも関係しそう)。


閑話休題
普通の音楽史の場合、このあとビートルズの登場まで、いささかつまらない音楽が続く時代、とされてしまうことが多いらしい。
だが、本書はそれを「偉大なる作家/スター」を中心にした歴史だとして、その歴史の書き換えを求める。
この時代は決してつまらない音楽の時代などではない。
例えば、人に着目して見ると、当時は知られていなかったものの、女性作家が多く進出した時代である。
また音響技術の発展により、様々な音響効果が試されるようになり、「空間化」が始まったという。これを本書は、ポストモダニズムと捉えている。
さらにはジャズにおけるモード化や、ジェームズ・ブラウンの「ファンク」にも同様の「空間化」を見て取っている
その後の黒人音楽について、公民権運動の歴史と重なるところが多いのだが、本書では宇宙開発史との関係を論じようとする。それは、この当時見られた、アフロ・フューチャリズムという運動の中で黒人音楽を捉える試みである。実際に当時のファンクやレゲエのレコードのジャケットには宇宙をイメージしたものが多くでてくる。黒人と宇宙人というものが結びつけられる。また、宇宙という未来的な表象は、古代エジプトという過去とも結びつけられる。過去と未来が等価とされ同じ空間=宇宙に配置されるポストモダニズムとして、そしてここまで論じられてきた人種的他者への〈擬装〉が惑星的他者への〈擬装〉にまで高められた瞬間として、本書の歴史叙述はここに最高潮を迎えると言ってもいいのではないだろうか。*3


続いて、ディスコ・パンク・ヒップホップについて
ディスコにおいては、人種よりもむしろセクシャル・マイノリティの〈擬装〉が注目される
また、ヒップホップにおける、「リズム・ブレイク」の発見*4や、ギャングへの擬装
ディスコにおける「キャンプ」や、ヒップホップにおける「チーズ」のような、キッチュなものに対する美学についてなど


最後は、本書全体のパースペクティブを覆すかのように、ヒスパニック系への視点をまじえることの提案がなされている。白と黒の二項対立ではなく、そこに茶という三項を導入すること。
既に、「黒人らしい」音楽とされていたところに、様々な形でラテン音楽が混入していたことを指摘する研究がなされているそうだ。
そもそもアメリカ研究という枠組み自体が、「南北アメリカ研究」という形で再編されつつあるとして、アメリ音楽史という歴史も、あらたに記述直されていくことが今後必要であるとして閉められている。

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

*1:ネットスラングで、人気のアニメ作品を「覇権」と称することになぞらえて

*2:文学研究に詳しくないので、どれくらいのタイムスパンで「新しい」といえるのかはちょっと定かではないが。ところで、文学研究というと、小説をじっと読んでそれの解釈をしているというイメージがあると思われるが、そして広い意味では間違っていないのだが、結構歴史研究だったり小説以外の文化についての研究だったりが混ざっていて、パッと見小説についての研究をしているように見えなかったりするし、実際に小説以外のものを取り扱い始める人もいる。

*3:もっとも、この空間化の議論についてはhttp://d.hatena.ne.jp/shinimai/20110517/p1のような批判も見られる。

*4:これまたポストモダニズム的な、サンプリングと歴史(の空間化)論