『これが現象学だ』谷徹

ヤバイ。現象学ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。
現象学ヤバイ。


今までスルーしてきたのをちょっと後悔したくらい(もっとも、今このタイミングで読んだから面白さが分かった、というところもある)。
フッサールを誤解していた。というか、今までフッサールに対して抱いていたイメージが変わった。
エポケーして、カクテルグラスでも哲学できて、直方体は長方形と正方形に分解して、弟子のハイデガーを後継者にしようとしたけど結局なってくれなくて、なんかこう実存主義からポストモダニズムにかけてくらいの人たちにやけに気に入られて
という感じのイメージだったので、完全に食わず嫌いしていたところがあった。今まで、現象学をしっかり解説してくれる本には出会ってなかったし、あっても、「他の哲学の基礎になってて大切だからちょっと触れるけど、難しいからこれで勘弁ね」みたいなので、全然分からなかった。
ただ、サールが志向性という言葉を使っているのを知って、じゃあ「志向性」というのは何だろう、とちょっと調べてみたら、なんかブレンターノとかフッサールが使い始めた言葉だという(正確にはブレンターノは「志向性」という言葉そのものは使ってなかったらしいけど)。
それで、ブレンターノは、論理実証主義ウィーン学団の始祖みたいな人だから、なんかサールにつながるのはまだ分からないでもないにしても、何故フッサール?という疑問があった。
しかし、そんな疑問も解消した。
読み進めるうちに、「これは認知科学じゃないか」とも思った。で、ググってみたところ、現象学認知科学との繋がりについて書いてる文章も見つけた。

序章・第一章

そもそも、フッサール現象学は何を目指しているのか。
それは、あらゆる学問の基礎付けだ。
基礎付けって、戸田山和久の『知識の哲学』で読んだばかりだったが、現象学って分析哲学ともつながりうるのか?!と思って、いきなり驚いた。
(戸田山は、基礎付けをある意味では放棄して、自然科学との共闘を目指すわけだけど、フッサールはそういう自然主義心理主義を認めない。自然科学的知識を前提にしない基礎付けを目指す。この方向は、戸田山の本を読んだ後だと、無謀に思えてしまうが、かなり徹底してやっている)
結局、分析哲学のやり方とは全く異なる方向で進んでいくことになるわけだけれど、目指そうとしている場所はとても近い、というか同じだ。
哲学というものが、学問として見えてきたような感じになった。
哲学というと、何となく個々の哲学者が勝手気ままにやっているようなイメージもあったが、かなり強力な連関があるのではないか、と。少なくとも20世紀の哲学は、ヨーロッパ(仏独)もアメリカ(英米)も、ほとんど同じような問題系を扱っていたのではないか。そして、その問題系を提示したのが、ウィーン系の哲学者たち(フッサールウィトゲンシュタイン)だったのではないか。
僕は今まで、哲学の中でも戦後の(それこそ60〜70年代の)フランス思想に一番興味があって、最近になってアメリ分析哲学も気になり始めてきて、この二つがバラバラになって頭の中にあったのだけど、20世紀初頭の哲学あたりに俄然興味がわき始めてきた。
閑話休題フッサールは直接経験による学問の基礎付けを行おうとしたのだ。
経験による基礎付けはデカルトによって批判されているけれど、フッサールは違う。
超越論的還元なるものを行う。用語は難しいが、内容は難しくない。
僕たちは、僕たちの経験の外側に出ることはできない。僕は今、PCの画面を見ているけれど、僕の外側に出て、PCを操作している僕を見ることはできない。超越論的還元とは、そうやって自分の外側に出て神の視点にたつことを辞めよう、というものだ。
そこで現れてくるのが「現出」である。
何かモノを見たら、それは最初丸とか四角とかいった形として見える、それが現出だ。
そして、そうした現出は、「現出者」となる。長方形と平行四辺形の固まりだったものが直方体として捉えられる。というか、ティッシュの箱だったんだ、ということが分かったりする。
「現出」は「現出者」となる。そして、現出を現出者としているものこそが「志向性」なのである。
直接経験とは、この志向的体験のことであり、また志向的体験とは意識のことである。
また、現出には時間的経過がある。
「把持」「原印象」「予持」と呼ばれるが、例えばド・レ・ミという一連の流れがあったとして、今レの音が鳴っているとする。レの音が「原印象」であるが、その前に鳴っていたドの音は「把持」されており、これから鳴るであろうミの音は「予持(期待)」されている。この働きによって、ドレミというメロディが現出者として知覚される。

第二章

フッサールアプリオリな成分とアポステリオリな成分を区分しようとする。
カントは、その際、アプリオリな成分は予め人間に備え付けられていると考えた(カテゴリとか因果とか)。一方でフッサールは、アプリオリな成分も志向的体験から抽出できると考えた。ただし、経験から抽出されると同時に、そのアプリオリな成分は普遍的でなければならない。
そこからフッサールは、論理学の基礎を作る作業を行う。「命題論」と「存在論」を同時に進行させているこの部分は、正直捉えにくい。論理学が何故「存在論」を扱っているのが、今の論理学を知っていると違和感を覚えるから。この本で指摘されているが、論理学と存在論を分岐したのは最近の出来事で、例えばアリストテレスは一緒にやっていたらしい。
類や種でモノを分類しようとする「領域存在論」とかは、確かにアリストテレスに似てる、かも。
領域存在論では、秋田犬→犬→ほ乳類、というようなことを行っていく。そして、その最高位を「物質的自然」「生命的自然」「精神世界」と分類する。
この3つはまた依存関係にあり、精神世界は生命的自然に、生命的自然は物質的自然に依存している。
一方で、僕たちにとっては精神世界における態度が先行する。例えば、僕にとってあなたは、まず「あなた」(人格)である。しかるのち、「あなた」は「人」であり「炭素や水素などの固まり」と見ることもできるようになる。
そして、このように人格によって物事を捉える態度を人格主義的態度と呼び、そうした態度の精神世界を「生活世界」と呼ぶ。
この「生活世界」という概念は、ハイデガーメルロ=ポンティのみならず、シュッツ、ハーバーマスにも使われるようになる。僕自身は、そもそも社会学の用語だと思っていたので、こんなところで目にして非常に驚いた。
さて、その他諸々の基礎付けを試みようとしたのちに出てくる概念が「原事実」である。
フッサールは、経験と対象との対応を証明しようとしたらしい。これが、予想通りというか何というか上手くいかないのである。
それで持ち出してきたのが「原事実」である。これは、経験そのものを支えるものとされている。

第三章

志向的経験から、ものの本質といったものを抽出する。現出と現出者との関係について。
例えば、サイコロという現出者には、「白い」とか「立方体」という現出が伴う。「白い」かどうかはサイコロにとって本質的ではないが、「立方体」はサイコロにとって本質的である。
あるいは、数も抽出されていく。「白い」とか「四角い」とかそういったものを全て剥ぎ取ったあとに残っているものが「一」なのである。
ここらへんのことは、西洋語の数詞と日本語の数詞との比較を通して語られていて、面白い。普通、(西洋)哲学は、西洋語を基本として考えが進んでいくので、日本語だと分かりにくい。そういう場合、例えばドイツ語の単語とかが一緒に書かれている。要は、ドイツ語で考えろ、と言われているようなものだ。この本の面白いところの一つはは、フッサールの「自分自身で考える人」を実践するべく、同じ事を日本語でも考えようとしているところかもしれない。
さて、ここに時間や空間が加えられていく。
ここでちょっとフィクション論になりそうな概念が登場してくるのが興味深い。
存在を、「実在的」「中立的」「理念的」に分類する。
「実在的存在」は、現実の時空間の中で、ある特定の範囲を占める存在である。一方、「理念的存在」は、時空間のどの位置にも存在しうる。「中立的存在」は、現実の時空間には存在しない。擬似的な時空間にのみ存在している、架空の存在である。
紫式部は「実在的存在」であり、例えば豊臣秀吉より昔に存在していた、ということができる。だが、白雪姫は「中立的存在」であり、紫式部より昔かどうか、いうことはできない。
「実在的存在」は、時空の特定の範囲を占めるので、時制が変化する(あった、ある、あろう)が、「理念的存在」は時制が変化しない(ある)。一方の「中立的存在」は「接続法」によって表現される。
「何かが存在する」ということは、哲学の重大な命題の一つだが、フッサールはある時空に割り当てることで、存在が措定=構成される、とした。
続くのは、時間や空間の構成である。
時間は、先述した把持・原印象・予持を拡大することによって行われる。把持・原印象・予持が一セットで「現在」となる。そして、それらを想起することで「過去」が現れる。原印象が、把持であった時を想起することによって、過去へと遡っていく時間軸ができるのである。
一方、これを自分に対して行うことで、同一性を持った自我が構成される。
空間の構成には、キネステーゼ意識と呼ばれるものが出てくるが、これは運動を指す。運動することで、知覚している対象もまた動く。これによって空間が構成される。
そして、これを自分に対して行うことで、身体が構成される。
時空や身体は、こうしたことを繰り返しながら、少しずつ拡大していく。

第四章

フッサールは「発生」について考え始める。「発生」にとって重要なのはassociationである。要素がassociaitonすることによって「発生」が起こる。そして、このassociationに関わっているのが、「地平」である。
これは、「図」と「地」と言い換えてもいいかもしれない。「地」=「地平」から分かれたものがassociaitonして「図」として「発生」する。
さらに様相についても述べる。
予持の期待が裏切られることを否性と述べる。この否性が確実性を揺らがせ、可能性と蓋然性を生む。
続いて、世界へと進む。
世界を当初、フッサールは1+1+1+……を繰り返すことによって生まれる総体概念と捉えたが、しかし世界というのは絶えず広がっていくものであろう。世界の全てが既知とはならない。クローズとオープンを組み合わせたクロープンと呼ぶ。
世界とは時空そのものである。ところで、存在というのは時空の中で位置を持つことで措定=構成された。ということは、世界は存在であり得ない。
世界は存在しないのか。そうではない。既に、存在の措定は行ってきた。その際、既に世界の存在は前提されていた。世界は、対象とは全く異なる形で存在するのである。*1

第五章

世界は、存在措定の前提として存在している。これは志向的経験によるものではない。世界は、志向的経験に支えられていない。志向的経験に支えられずに与えられているとして、これを原受動性と呼ぶ。
そして、時間の原構造、空間の原形式という概念が現れてくる。これらは、それほどはっきりしないが、とにかく前提として与えられているものだ。
例えば、空間は運動によって構成されたが、その運動を与えるものが空間の原形式ということになる。運動している、というには、何か基点が必要となる。それが空間の原形式となる。ただし、これは静止しているわけでもない。運動や静止を可能にする、さらに根源的な前提なのである。
しかし、こうした原〜は、実際に空間や時間が構成されると隠蔽されることとなる(意識されなくなる)。
さて、ここで出てくる様々な「原〜」は、今までの志向的経験に基づく分析とは全く異なる方法によって出てきている。志向的経験をさらに支えるものとして提示されてくる。つまり、志向的経験が上手く動くためには、こういうものが必要になるから、という理由で出てきている。
もっといえば、これらには必然性が何もない。
しかし一方で、これらがなければ、フッサールや僕たちは現象学をすることができなかった。現象学をできる自分がいる、世界がある、ということは奇跡的な偶然に支えられているのではないだろうか。そして、事実として自分はいるし、世界はある。これが原事実である。
こんなところで宮台を引用してくるのもアレだが、「端的な事実性」という奴だろう。
この本には、原事実の、他の哲学者による言い換えが紹介されている。ハイデガーであればそれは「贈与」であり、レヴィナスにおいては「イリヤ」と呼ばれる。イリヤは与えも奪いもしない、無関心である。逆にフィンクは、与えることも奪うこともあるとした上でそれを遊戯と捉えた。

第六章

他者についての現象学
他者というのは、共通性と異他性を持つものと考える。
共通性から他者を捉える考えとして、自己移入がある。他者を自己として捉える、というような方法だ。他者から見える景色を自分でも想像してみる、とか。
これがさらに根源的なところへと突き詰められると、それこそ空間がまだ構成されていない時のように、自己と他者は分化しておらず同じだったのではないか、ということを言い出す。
個人的には、こうした他者観は全く同意できない。
フッサールは、故郷的、異他的という言い方をする。そして前者を、理解可能性、後者を理解不可能性につなぎ合わせる。
故郷というのは、生活世界のことだ。先ほどの、他者が自分と分化せずに同一だったことを考える、というのは、生活世界が同一であった他者に対しては適応できるが、そうでないものには適応できない。故郷=生活世界が異なる他者は、異他的であり理解不可能なのである。
ドイツ語で故郷的(heimlich)に否定をつけると「不気味(unheimlich)」となる。
世界が分裂する。自分たちの故郷と、不気味な世界とに、である。
しかし、不気味な世界に出会うことで、今まで対象とされなかった(意識されなかった)世界(故郷)が、対象化(意識化)される。対象となってしまっては、それはもう世界と呼べない。ここに、故郷も不気味な世界をも包み込むさらに大きな世界が生まれてくる(世界はクロープンなのでこのように拡大しうる)。
異他性との遭遇は、故郷を意識化し、世界を大きくする契機となりうる。
そして、同じ一つの世界に属するものとなったとき、異他的なものは理解可能なものとして構成されることとなる。

第七章

だが、この構成に失敗したらどうなるのか。
ここから先は、作者自身による、現象学の実践となる。
フッサールも読んでいたフロイトとの関係によって、新しい現象学を探っていく。
ここで例示されるのは、トラウマと反復強迫である。
予持とは期待であった。しかし、この期待が破られることがある。予想不可能な異他的な出来事の発生。フロイトはこれを「驚愕」と呼ぶ。
こうした出来事が、時間的系列の中に措定されなかったとしたらどうなるか。それは、浮遊することになる。浮遊という点でこれは中立的存在と似ている。実際の時間と関係なくなるので、それは反復することとなるのである。
フロイト自由連想法(association)は、そうした出来事を、再び時間軸の中に措定しなおすことである。
しかしこれがもし失敗した場合は?
フロイトは「死の欲動」を設定した。自己の分裂、死

超越論的自我が成立しているというのは(中略)なんの必然性もない「原事実」である。
(中略)いつバラバラに壊れてもおかしくないのに、これらの「原事実」は成立している。これは(中略)まさに驚くべきこと、ほとんど奇蹟的なことではなかろうか――なによりもフロイトの患者達が被った暴力が稀なことでないとすれば。
(中略)それは、むしろ、超越論的自我が存在することそれ自体と一体化した驚きなのである。誕生と死の事実、他者との関係の事実、世界唯一性の事実、これらはこの驚きによって新たな問いを促す。

雑感

哲学という哲学が放り込まれているのではないか、と思うほどに、内容が濃い。
フッサール現象学、マジヤバイ。
認識論や論理学との繋がりがこれほど深いとは思っていなかった。
認識についての話で言えば、フッサール以後、様々な研究が進んだために、フッサールの言っていることはある意味では物足りなくなってしまっている点はある。けれど、それほど大きくは外していない、という感じはする。現出と現出者の関係、志向的経験、存在や時空の措定などは、認知科学の側から大きく捉え直すことができるのではないだろうか(あらゆる学問の基礎付けとしての現象学を目指したフッサールにしてみれば、それを認知科学から基礎づけられるのは不愉快かもしれないが)(wikipediaによれば、現象学心の哲学の知的リソースとなっているとか)。
一方、後半のいわゆる「原〜」を巡る議論は、認知科学心の哲学から見ると、非実証的なものかもしれない。だが、こちらこそ、あらゆる認識や存在を支える根源的な議論、まさに哲学的な議論ともいえる。
今ここにいる自分がまさに他ならぬ自分でしかありえないこと、そのことに対して驚きを隠しきれない人種が、哲学者と呼ばれるのではないだろうか。

これが現象学だ (講談社現代新書)

これが現象学だ (講談社現代新書)

*1:追記20061025世界にノエマ(対象)はあるか、という議論がなされている。ノエマは必ず基体を持つ。基体とはノエマを収斂させるある特定の意味(本質?)のことである。しかし、世界にはそのような基体はありえない。基体なきノエマはありえないので、世界はノエマではない。ノエマとは別のありかたで存在する、ということになる。で、この基体なきノエマという言葉って、シニフィアンなきシニフィエと言い換えることができるのかもしれない、とふと思った。端的な事実性でもいいけど。ところで、id:klovのところでこんなことを書いた。ウィトゲンシュタインの語りえぬものも、シニフィアンなきシニフィエなのかなぁ。