加治屋健司『絵画の解放 カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』

カラーフィールド絵画と同時代に美術批評や文化との関係について論じた博士論文をもとにした本。
カラーフィールド絵画については、自分は「カラーフィールド色の海を泳ぐ」展 - logical cypher scape2によって初めて知ったが、見たら一発で気に入ってしまった。
この展覧会の図録には、本書の筆者である加治屋健司による論考もあり、また、加治屋によるカラーフィールド絵画についての著作(つまりこの本)が近刊と記されていたので、気になっていた。
カラーフィールド絵画というのは、抽象表現主義のあとに現れた抽象絵画をさし、本書の中では具体的には、ヘレン・フランケンサーラー、モーリス・ルイス、ケネス・ノーランド、ジュールズ・オリツキー、フランク・ステラの5名が対象となっている。
カラーフィールド絵画は、美術史的には、クレメント・グリーンバーグが「ポスト・絵画的抽象」などで紹介したことで知られる。グリーンバーグを筆頭としたモダニズム批評の中で評価されたが、それゆえに、モダニズム批評の衰退とともに、あわせて衰退してしまった、と思われている。
つまり、カラーフィールド絵画とモダニズム批評は一心同体・一蓮托生、と一般的には思われている、らしい。
これが本書の大前提になっていて、本書は、いやしかし実は、カラーフィールド絵画とモダニズム批評の結びつきというのは、思われているのとは違うものなのではないか、と検証していくものになっている。
なので、カラーフィールド絵画という具体的な話だけでなく、批評・批評家と作品・作家の関係みたいな話としても読むことができる本になっている。
まあ、読んでみての感想としては「ひ、批評の害悪……」と感じるところもあったが。
また、美術批評というものをあまりよく知らず、かろうじてモダニズム批評を最近ようやく少し知ったくらいの人間なんだけど、これを読むと、批評家によって言っていることがバラバラだな、ということを知れて、気が楽になったというか、面白かった。
また、何らかの文化現象というの、その渦中においては色々とあるわけだが、これが10年もするとわりと単純な図式で理解されるようになってしまう、というのはしばしば見受けられることだと思うのだが、本書は、単純な図式を本当にそうだったのか、ともう一度見直してみる、ということをしていて、これもまた、カラーフィールド絵画に限らない話として読むことができる気がする。


本書は4章構成になっていて、
第1章は、カラーフィールド絵画とモダニズム批評のかかわりを見ていく。
実際に関わりは深かったわけだが、一様に評価されていたわけではなかったし、画家から批評家への影響もあった、と。また、グリーンバーグとフリードの関係についても論じられている。
第2章は、モダニズム批評以外の批評家によるカラーフィールド絵画評価・解釈で、モダニズム批評以外からも様々な形で言及されていたことがわかる。
第3章は、ほかの美術動向とのかかわりになる。
カラーフィールド絵画に続く美術のムーブメントとして、ミニマル・アートやポップ・アートがある。モダニズム批評は、抽象表現主義やカラーフィールド絵画を評価する一方で、ミニマル・アートやポップ・アートに対しては否定的であった(モダニズム批評が退潮していくのはおそらくそのせいなのだが)。
それゆえに、カラーフィールド絵画とミニマル・アートやポップ・アートは対立するものであるかのような見方が、のちに広まるようになった、らしいのだが、本章は、一概にそういうわけではなかった、ということを論じていく。
第4章は、さらにカラーフィールド絵画と、美術以外のものとのかかわりを見ている。具体的には、商品デザイン、複製メディア、インテリア・デザインとの関係である。
美術というのは、特にモダニズム批評において顕著だが、それのみで独立で成立しているかのようにみなされることがあるが、実際には、その時々の(美術以外の)文化全体の中で成立していくものなのである、と。


カラーフィールド展に行った後に、一応クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」「ポスト・絵画的抽象」 - logical cypher scape2を読んでいる。また最近になって、『モダニズムのハード・コア 現代美術批評の地平 批評空間臨時増刊号』 - logical cypher scape2を読んで、フリードについても基礎知識を得たところだった。

序論 新たな出発に向けて
第1章 モダニズム美術批評との関わり――教導から協働へ
1 カラーフィールド画家とモダニズム美術批評家
2 クレメント・グリーンバーグマイケル・フリード
3 グリーンバーグの美術批評の変化
第2章 多様な美術批評による解釈――個展の展覧会評を中心に
1 ヘレン・フランケンサーラー
2 モーリス・ルイス
3 ケネス・ノーランド
4 ジュールズ・オリツキー
5 フランク・ステラ
第3章 六〇年代美術とともに――ポップ・アート、オプ・アート、ミニマル・アート
1 同時代の展覧会と批評
2 非コンポジションという共通の関心事
3 カラーフィールド絵画に対するミニマリストの関心
第4章 アメリカ文化の中で――商品デザイン、複製メディア、インテリア・デザイン
1 具象的なイメージや事物とのつながり
2 複製技術の経験との比較
3 インテリア・デザインとしての役割
結論 絵画の解放
あとがき

序論 新たな出発に向けて

第1章 モダニズム美術批評との関わり――教導から協働へ

1 カラーフィールド画家とモダニズム美術批評家

まず、5人のカラーフィールド画家とモダニズム批評との関わりについて

  • フランケンサーラー

カラーフィールド画家の筆頭を飾るフランケンサーラーだが、のっけから、モダニズム批評との関係はなかなか複雑である。というのも、モダニズム批評の代表であるグリーンバーグと一時期恋人の関係にあったからである。22歳で出会っていて5年ほど交際。ちなみに、グリーンバーグはおよそ20歳くらい年上。
グリーンバーグがバックにいたことで、彼女への評価が安定したということはあったらしい。
しかし一方で、そういう関係だったためか、グリーンバーグは自身の批評においてフランケンサーラーへの言及はしていないのである。
つまり、カラーフィールド絵画はモダニズム批評によって評価されたと一般的に言われているが、しかし、前者の代表であるフランケンサーラーが、後者の代表であるグリーンバーグによって評価された文章は、実は存在しない、ということになる。
ただ、唯一グリーンバーグが言及しているのは、「ルイスとノーランド」という文章である。フランケンサーラーは、ステイニング技法というカラーフィールド絵画を代表する技法を発明したことで知られるが、グリーンバーグは、ルイスとノーランドをフランケンサーラーに紹介し、2人はそこでステイニング技法を知り、自分たちもその技法を取り入れることになる。このエピソードをグリーンバーグが紹介しているのである。
そして、フランケンサーラーがステイニング技法を思いつくきっかけになったのは、ポロックのブラック・ポーリングなのだが、フランケンサーラーとポロックのつながりを作ったのもまたグリーンバーグだったようで、影響を及ぼしたという意味ではグリーンバーグの存在は大きい。
さて、グリーンバーグ以外のモダニズム批評家はどうだったかというと、フリードは批判、ローズは評価していた、と。

  • ルイス

ルイスは若くして亡くなっており、主にはヴェール絵画、ストライプ絵画、アンフォールド絵画の3つのスタイルで知られている。
ここでは特に、ストライプ絵画の向きをめぐって、グリーンバーグとの抜き差しならない関係が述べられている。
ストライプ絵画は縦方向に色が塗られているというものなのだが、片方が絵の具の垂れたような状態になっている。一般には、これが上向きになるように架けられた状態で状態で知られている。
ところが、生前のルイスの意向としては、逆でそちらが下向きになるように架けるというものだったらしい。
なぜ上下逆向きで架けられるようになったのかというと、グリーンバーグによるモダニズム批評的解釈が影響したというか、モリスの死後の展覧会でグリーンバーグがそう指示したっぽい。

  • ノーランド

グリーンバーグは、色彩の画家として評価した一方で、フリードもまたノーランドのことを評価していたが、解釈が異なっていて、色彩ではなくて「演繹的構造」に着目していた。支持体の形状から演繹されて絵画内容が決まっている、というようなこと。

  • オリツキー

ほかの画家に比べると世に知られるようになったのが遅く、1958年に偶然グリーンバーグによって発見された。
しかし、グリーンバーグは、モダニズムとは異なる論理でオリツキーのことを気に入っていたらしい。また、オリツキーというとスプレーガン絵画が有名だが、グリーンバーグが評価していたのはそれ以前のもの。
フリードはスプレーガン絵画を評価したが、その際「視覚的時間」という言葉によって解釈していた。モダニズム批評はむしろ無時間性・瞬間性を評価する立場だと考えると、フリードもまた、オリツキーをモダニズム批評とは異なる観点から評価していたらしい。

  • ステラ

グリーンバーグはステラを「ポスト絵画的抽象」展に選んだが、その後は言及しなくなった。
フリードは一貫してステラを擁護し、当初はステラ作品を「モノ性」から評価していた。しかし、フリードの中で「モノ性」についての考えは変化していき、のちに「客体性」となっていくが、むしろ批判対象となった。ステラ作品については、「モノ性」からではなくその「演繹的構造」やイリュージョンと支持体の形状のかかわりから評価するようになる。

2 クレメント・グリーンバーグマイケル・フリード

モダニズム批評を代表する批評家がグリーンバーグとフリードであるが、この2人の間にはいろいろな相違がある。
まず、ポロックをめぐってのものである。
ただし、これについて筆者は、フリードはグリーンバーグの掌中であったと評価している。フリードはポロックに「視覚性」を見出しており、かつ、自分がそれを初めて見出したと論じているのが、実際にはグリーンバーグの方が先にそれを言っていた、と。
ところで、やや細かい話だが、フリードはポロックを論じる際に、抽象的(アブストラクト)・具象的という概念対ではなくて、形象的(フィギュラティブ)・非形象的という概念対を提案したらしい。
また、先にも述べたが、オリツキーをめぐっても解釈の違いがあり、フリードは「視覚的時間」論を展開したが、実はのちに修正されている。
グリーンバーグの「即座性」という概念をもとに、フリードは「瞬間性」を論じるようになる。
ステラの評価についても対立している。
ルイスの解釈についても、「ジェスチャー」概念をめぐって、対立があったらしい。
ただ、全般的にフリードは、のちにグリーンバーグにそうように意見を修正したりなんだりしているらしい。
筆者によれば、フリードはたびたび、モダニズム批評とは異なる観点からの批評を試みているのだが、本格的には展開していないようだ。
最後に、他のモダニズム批評家についても触れられている。
モダニズム批評はミニマル・アートに批判的だが、もともとモダニズム批評をしていたロザリンド・クラウスは、ミニマル・アートのドナルド・ジャッドを評価して、モダニズム批評から離れる。
また、バーバラ・ローズは、やはりモダニズム批評では扱われていないネオ・ダダやポップアートをカラーフィールドとともに論じた。

3 グリーンバーグの美術批評の変化

本章の最後は、カラーフィールド絵画、というかフランケンサーラーからグリーンバーグへの影響について
ポロックのオールオーヴァーに対する評価・解釈が、実は次第に変容している
ポーリング技法について、当初、オールオーヴァーな画面の単調さを防ぐためにその物質性(絵の具の盛り上がり)が用いられているという点で評価していたのだが、のちに視覚性から評価するようになる。

第2章 多様な美術批評による解釈――個展の展覧会評を中心に

第2章では、カラーフィールド絵画がモダニズム批評以外からどのように評価・解釈されていたか、について

  • 1 ヘレン・フランケンサーラー

もともとは賛否両論というかどちらかというと否定的な評価ではあったようだが、モダニズム批評以外からも言及されていた。
1960年に早くも回顧展を行っているが、その際、シーライから酷評を受ける。酷評というか、心理主義的な解釈というか、作者に対する中傷にもなりかねないような評価であり、これに対しては、フランケンサーラーを擁護する反応が相次ぐ。
特にこの点で注目すべきは、モダニズム批評家はみな反応していなくて、モダニズム批評以外の画家や批評家がフランケンサーラー側にたっていたということ。
批評家のドリー・アシュトンによる評価など

  • 2 モーリス・ルイス

ルイスは、その初期に抽象表現主義風の作品を描いているが、先行する抽象表現主義とは異なり、その冷静さが評価の対象になっていた。
また、1960年には、多様な展開をしていて、様々なスタイルを試していたところがある。
ルイスには、現在知られているヴェール、ストライプ、アンフォールド以外にも色々なスタイルの可能性があって、そうした点を評価していた批評家もいたわけだが、実は、これらについてはグリーンバーグからの介入がある。
まず、抽象表現主義風の作品について、グリーンバーグは評価しておらず、どうもそれの影響で、ルイスはそうした作品群をほとんど廃棄してしまっているらしい。そのせいで、ルイスの画風の変遷というのが追えなくなっているところがある。
また、様々なスタイルの試行についても、グリーンバーグがそれを止めるように忠告している。これはかなり商業的な理由で、この作家の絵だ、というのが一目でわかるようなスタイルを確立しないとコレクターが買ってくれないよ、という話だったらしい。
上述した絵の向きの話とあわせて、グリーンバーグはかなりルイスに対して介入していたことがわかる。
上に「ひ、批評の害悪……」という感想を書いたが、主にはこのグリーンバーグのルイスに対する介入についての感想である。
オドハティが、ストライプに対して視覚性によって論じているが、これは、モダニズム批評における視覚性とは異なる概念で、オプ・アートのように目にちかちかするみたいな意味での視覚性だったらしい。

  • 3 ケネス・ノーランド

ノーランドについても、光学的ないし視覚効果としての視覚性が論じられている。
また、ノーランドについてはダダという指摘がなされることもあったらしいが、スタインバーグとフリードがこれについては反論している(つまり、ノーランドはダダではない、と)
第4章でも触れられるが、ノーランド作品にはその連想作用にも触れられている。抽象絵画ではあるのだが、具体的な事物を連想させる。
アシュトンからの批判を受けて、それへの反論として、作品を大型化させる、ということを行っている。
そして、その環境的な性質についても論じられるようになる。
視覚性、連想作用、環境的な性質と、いずれもモダニズム批評とは異なる観点からも評価・解釈されていた。

  • 4 ジュールズ・オリツキー

1958年に初の個展を開く。ルイス、ノーランド、ステラも同時期に初の個展を行っているが、彼らと比較して当時のオリツキーは無名。その個展をグリーンバーグが偶然訪れことが転機となる。
この当時手掛けていたのは厚塗り絵画で、アシュトンは批判していた。
グリーンバーグに直接批評されたわけではないが、グリーンバーグがアドバイザーをしているギャラリーで扱われるようになったことで、評価が好転する。
もともと、オリツキーの絵画が演繹的構造論と相容れず、視覚的時間の観点から論じていたフリードだったが、スプレー絵画からは、演繹的構造の観点から論じるようになる。
対して、もともとオリツキーに否定的だったリッパードは、フリードの批評にも反論する。リッパードとしては、抽象絵画の流れの中ではオリツキーのスプレー絵画はむしろ後退だ、と。
のち、オリツキーがスプレー絵画の縁に線を描くようにあると、フリードはそれをさらに高く評価。一方、リッパードはますます酷評するようになる。

初期の作品である「黒」(1958~1960)については、批評家は評価しなかったが、キュレーターや研究者が評価した。
グリーンバーグはステラについて言及せず、ステラとは大学の友人であるフリードも、この当時はまだ学生でイギリス留学中だったため、批評は書いていなかった。
のちにミニマル・アートの作家となるジャッドだが、もともとモダニズムにつながりを感じており、ステラの銅の絵画(1962)についてモダニズム的な視覚性を指摘している。
オドハティはステラ作品をニヒリズムだと批判しているが、ステラはそれに反論している。
リッパードやコズロフが、ステラ作品を物体性とそこから超える点から評価している。
不整多角形シリーズについて、アシュトンは、論理がないと批判している一方で、コズロフ、リッパード、クラウスはそれぞれ、独自の論理があると評価している。
クレーマーは、幻惑的な視覚性を指摘している。

第3章 六〇年代美術とともに――ポップ・アート、オプ・アート、ミニマル・アート

1 同時代の展覧会と批評

現在では、カラーフィールド絵画とミニマル・アートは、モダニズム批評の影響もあって、対立するものだと見なされがちだが、当時は同時展示もよくされていた。
1964年、アーヴィング・サンドラーは、「熱い抽象」「冷たい抽象」やマクルーハンの「ホットなメディア」「クールなメディア」という概念対を参照しながら、「クール・アート」を提唱。その中には、ステラ、プーンズ、ジャッド、ウォーホル、リキテンスタインと、カラーフィールド絵画、ミニマル・アート、ポップ・アートが区別なく含まれていた。
1965年の「応答する眼」展では、サイツが「視覚的絵画」「知覚的芸術」という概念を提唱。サイツは「オプ・アート」という言葉は使わず、オプ・アートとカラーフィールド絵画を、視覚的絵画と呼んだ。
1966年の「システム絵画」展やボッグナーの「シリアル・アート」論では、システムとか連続的(シリアル)とかいった概念から、カラーフィールド絵画とミニマル・アートが共通するものとして捉えられている。
1968年「リアルなものの美術」展は、オキーフ、ニューマン、ロスコ、フィーリー、ジョーンズ、ケリー、ルイス、ノーランド、ステラ、スミス、アンドレ、ジャッド、モリスが展示され、物質性というような意味で「リアルなもの」として捉えられた。直接には「芸術と客体性」へ言及していないが、同論文への批判的反応と考えられている。

2 非コンポジションという共通の関心事

カラーフィールド絵画とミニマル・アートにおいて、「非コンポジション」への関心という点が共通していたのではないか、と。
コンポジションというのは、画面全体をみてバランスをとる行為。画面の右にこれを置いたから、左にあれを配置して~みたいなこと。
作品制作において、全体ではなく部分を重視する姿勢があり、これは、デイヴィッド・スミス→ノーランド→カロ、という影響関係がある。制作中にあえて作品全体は見ずに、構成要素同士のつながりだけ見て制作していく。
オリツキーのスプレーガンも、色と色の境界が分からないようにして構造ができることを避け、また事前の構想というのも回避しようとした方法ではないか、と。
ルイスにおいても、コンポジションの除去が目論見られていたのではないかということについて、ルイス作品に寸法表示がないことが挙げられている。
ルイスは、作品を輸送する際に巻物のように丸めていたらしく、それを額装する際の寸法の指示をしていなかったらしい。ただここは、ルイスはそれを人任せにしていたかというとそういうわけでもなく、作家の意図する寸法はあったのではないか、という微妙な話もしているのだが、事前に決めていないという意味での非コンポジション
また、ステラ作品の対称性もまた非コンポジション性のあらわれではないか、と。
ノーランド作品の話とも通じるのだけど、対称的な形と決めてしまうことで、全体のバランスとかは考える必要がなくなって、色彩とか構成要素間の関係とかに集中できる、と。
こうした非コンポジションの話は、フリードにおいては演繹的構造論として論じられていて、のちに「芸術と客体性」でカロ作品については「シンタックス」という言葉で論じるのも、これの延長線上にある議論だろう、と。
ミニマル・アート側でいえば、ジャッドもまた、非コンポジションへの関心を持っていた。

3 カラーフィールド絵画に対するミニマリストの関心

モダニズム批評はミニマル・アートに否定的だったのだが、ジャッドはもともとモダニズムに親和的で、カラーフィールド絵画にも関心があった。
具体的には、フランケンサーラーやオリツキーには批判的、ルイス、ノーランド、ステラには好意的に言及しているらしい。
また、モーリス・ルイスに対してロバート・モリスも言及していて、物質性とプロセスに自らとの共通性を見いだそうとしていたらしい。
ところで、自分だけかもしれないが、モーリス・ルイスとロバート・モリスって名前がどっちがどっちだったかいつも混乱する。
ルイスについては、蛍光灯を用いた作品で有名なフレイヴィンによるオマージュ作品もある。
ステラは、美術史的にもカラーフィールド絵画とミニマル・アートの双方に属する画家と見なされており、人間関係的にも、ノーランド、ジャッドそれぞれと親しかった。ステラ自身、この両者の区別についてあまり頓着していなかった模様。
モダニズム批評の党派性を批判したローゼンブラムは、ステラ論を書いている。
スタインバーグ「他の批評基準」において、フラットベッド型絵画面という概念で両者を論じている。
ロザリンド・クラウスも、両者に、観者の問題の共通性を見て取っている。

第4章 アメリカ文化の中で――商品デザイン、複製メディア、インテリア・デザイン

1 具象的なイメージや事物とのつながり

ノーランド作品については、当時、商品ロゴや軍の階級章を連想させるという指摘が色々出ていたらしい。
アシュベリーはルイスやノーランドの抽象的なイメージの中に具象的な事物を見出す批評を書く。ルイス作品について「イソギンチャク」とか「日よけのストライプ」とか、ノーランド作品について「マニ車」とか。そして、単に形態的な類似を指摘しているのではなく、そこに抽象表現主義との違いと同時代のアメリカの精神(抑制や落着き、穏やかさ)を指摘する
1965年に『タイム』誌が、ルイスやノーランドを大衆文化と結び付けて論じる。背景として、1964年のヴェネツィアビエンナーレに、ルイス、ノーランドが、ラウシェンバーグ、ジョーンズとともに参加し、ラウシェンバーグが大賞をとっていたことがある。

2 複製技術の経験との比較

オリスキー・スプレー絵画についての評価で、カラー写真(マリンズ)、スライド・プロジェクター(フリード)、ルミア(1920年代に流行した抽象的な光の芸術)(クレーマー)との比較・連想が行われており、複製技術メディア経験と比較されていた。
また、ルイスのヴェール絵画も、ワイドスクリーンな映画経験との比較がされていた。

3 インテリア・デザインとしての役割

まずそもそもの話として、絵画をインテリアとして使うことについて前史が触れられている。メゾン・キュビストとか
1950年代から室内装飾として絵画を用いるのが、ファッション誌とかで紹介されたりしている。
1960年代、抽象表現主義やカラーフィールド絵画が室内へ入っていく。
あんな巨大なモノを一体……と思うのだが、当時の雑誌に掲載された写真がいくつか紹介されている。
1950年代においては、暖炉の上とかに絵画を置くという感じだけれど、抽象表現主義やカラーフィールド絵画は、当然ながら壁一面にどーんという感じになる。
美術館のホワイトキューブで鑑賞するのとはまた違った「鑑賞」がそこにはあったのではないか、と(必ずしも理想的なポジションから見れないとか)
グリーンバーグもまた自室にいくつも抽象表現主義やカラーフィールド絵画を架けていた。架けられている作品を見るとそれぞれバラバラなのだけど、カーペットとか近くに置かれている家具とかの色があわせられていて、インテリア・デザインとして部屋に調和をもたらすように使われているのだ、と。グリーンバーグは、カラーフィールド絵画に、作品としてだけではなく、インテリアとしての価値も見いだしていて、作家の意図を無視するモダニズム批評と整合的なのではないか、とか。
こうしたカラーフィールド絵画のインテリアへの利用は、カラーフィールド絵画風の模倣絵画やブラインドを生み出す。もはや、特定の作家の作品ではなくて、それっぽい色の配置であればいいということになる。

結論 絵画の解放

ここまでの4章の議論が改めてまとめられた後、インテリア化などは大衆文化への吸収であってキッチュ化なのではないか、という疑問に対して、相互に影響を与えあっていたのだという事例として、タペストリーとノーランドの例が挙げられる。
ノーランド風のタペストリーというのが作成されるのだけど、一方で、ノーランドもこのタペストリーから影響を受けた作品を作っていた、と。

感想

5人の画家について論じるという体裁になっているが、後半の議論の主人公はノーランドとルイスだったなという印象
ところで、カラーフィールド絵画って「カラーフィールド色の海を泳ぐ」展 - logical cypher scape2にもあったが、共通した様式があるというわけではなくて、個人的には、フランケンサーラーやオリツキーと、ノーランドやステラとではずいぶん違うんじゃないかなと思っている。まあ、作品の見た目の話だけど。
ノーランドやステラとミニマル・アートとの距離の近さはわかりやすい一方、同じカラーフィールド絵画というくくりではあるけれど、フランケンサーラーやオリツキーはやっぱりミニマル・アートとは距離があるのではないか、という気もする。
ところで、じゃあルイスは一体という話で、同じステイニング技法を使っているという点でフランケンサーラーと似ていると思うのだけど、本書を読んでいると、批評家からの反応という点でノーランドとルイスは近しく思われているんだなー、というのが意外だった。
ところで、大体において、カラーフィールド絵画はモダニズム批評ではない批評家にも評価されていた(賛否両論あれど「賛」もあったという意味で)という感じでまとまっているけれど、オリツキーについては、フリード以外からはほとんど評価されていなかったのではないかという感じがしていて、オリツキー好きな身としては悲しみ。そのフリードの議論にしても、いまいちよく分からなかった……。
しかし、フリードは『モダニズムのハードコア』読んだ際にも思ったが、言ってることよくわからないところもありつつ、何故か嫌いになれないところがある。対して、本書を読んで、グリーンバーグへの印象は悪くなったw
そういえば、以前、同じ著者による非コンポジションの話を読んだときはよくわからなかったのだが、システムや連続性、そして全体ではなく部分というようなところから何となくわかるような気がしてきた。