ジュールズ・オリツキー天才かよ!
この展示会のキュレーターも天才!
川村記念美術館で「カラーフィールド色の海を泳ぐ」展を見てきた。
川村記念美術館自体は、2009年のロスコ展を見て以来の再訪となった。また行きたいなとは常々思っていたのだが、何ぶん遠いので……*1。
さて、カラーフィールドだが、戦後アメリカで起きた抽象表現主義から派生した流れだと、とりあえず言うことはできる。まず、抽象表現主義と大きく括られる画家たちの中で、ジャクソン・ポロックなどはアクション・ペインティング、マーク・ロスコなどはカラーフィールド・ペインティングと分類されることが多い。
そう、自分は川村記念美術館には毎回(2回だけだが)、カラーフィールド・ペインティングの画家を見に行っていることになる。
ただし、正確に言うとこの言い方は正しくない。
今回の「カラーフィールド」展は、正確に言うとカラーフィールド・ペインティングの画家を扱った展示会ではない。実際、ロスコやニューマンなどは含まれていない。
クレメント・グリーンバーグによって「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」と呼ばれた作家たちが対象となっている。これは、ロスコやニューマンに続く第2世代のカラーフィールド、あるいはポスト抽象表現主義とされる作家たちである。
この両者の差異については、下記のブログ記事が参考になる*2
「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」 : Living Well Is the Best Revenge
また、図録に収録されているサラ・スタナーズの論考では、「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」は様式ではなく実践だとされている。
実際、一つの様式と捉えるには、異なった画風の画家も含まれている。
ここでスタナーズが実践と呼んでいるのは、彼らの間に交流があったためである。彼らは、同じスタジオで制作をしていたり、一時的であれ共同生活を営んでいたり、同じ大学に出入りしていたりして、互いにかなり積極的な交流があったらしい。
モーリス・ルイスはステイニングという技法が特徴的だが、この技法自体は、ヘレン・フランケンサーラーが考案したもので、ルイスはフランケンサーラーのスタジオに訪れてこの技法を知ったという。また、これは余談だが、フランケンサーラーは当時、グリーンバーグの恋人だったらしい。
先述の通り、グリーンバーグは「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」という呼び方の命名者であり、例えば、カナダ人であるジャック・ブッシュが入っているのも、ブッシュとグリーンバーグの間で交流があったかららしい。
カナダ人がいるのがやや珍しい感じがするが、この企画展自体、カナダ人夫妻のコレクションによるものである。
さて、この「カラーフィールド」ないし「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」の画家たちというのは、日本では、比較的マイナーな作家たちだろう。
無論、現代美術に関心がある人であれば、知っている名前を見つけられるだろうが、日本ではほとんど作品を見ることができない作家も含まれている。
この記事の冒頭で「ジュールズ・オリツキー天才かよ」と書いたが、オリツキーもまた、誰しもが知っている有名な画家とは言えないだろう。
実は自分は、Michael Newall ”Abstraction” - logical cypher scape2で言及されていたのを読んでいたので、名前(と、googleの画像検索結果)だけは知っていた。そのときは、気になりつつも「こんな画家もいるのかー」程度の認識だった。
ただ、上記のブログ記事などもあり、オリツキーへの興味は高まっていた。
今回、オリツキー作品が展示されている一角へと足を踏み入れた際、思わず息を呑んだ。
以前、ロスコ展で、シーグラム壁画を見たときとも似た感覚だったようにも思う。
その巨大さも相まって一気に作品へと引き込まれるし、スプレーガンを用いた独特の技法は、あまり他に類を見ない視覚経験をもたらしてくれる。
美術館の公式twitterによれば、来場者の人気も高いようだし、オリツキーがこれまであまり日本では紹介されていなかった(ように思う)のが不思議に思える。
【カラーフィールド展 閉幕まであと3週間】
— DIC川村記念美術館 (@kawamura_dic) 2022年8月14日
本展で最も人気なのが、第3章でご紹介しているジュールズ・オリツキーの作品です。
明るく軽やかな空間の第1章から海へ漕ぎ出し、深海のような第2章を抜けると、「色の海」を感じさせる大画面の作品が待ち受けています🚣♂️ pic.twitter.com/OknAwqnImP
オリツキーについて、詳しくは後述する。
また、同じく冒頭で「この展示会のキュレーターも天才!」とも書いたが、これについては、もちろんこの企画展についてもそうなのだが、常設展もこれにあわせた配置になっていて、これがまたよかったという話で、やはり後述したい。
ところで、美術館の企画展は必ず、出展作品一覧の紙が置いてあるが、本展の場合、各作品のカラー写真付きであった。
普段、この一覧に印象に残った絵は、どういう絵だったか備忘メモを残しているのだが、それを省略できた!
なお、その代わりなのか、作品タイトルなどのキャプションは展示室の壁などには貼っておらず、この一覧を参照して確認する必要があった。
ジャック・ブッシュ
作家ごとの展示になっているので、以下、作家ごとに簡単な感想など。
最初の展示室にはいると、一番広い部屋になっており、ブッシュ、ノーランド、ステラおよびカロが一つの部屋に展示されている。
ブッシュはカナダ人の画家で、60年代の作品から4点がきている。
抽象絵画といえば抽象絵画だが、わりと元のモチーフが分かるような絵になっている。
ケネス・ノーランド
まず、ノーランドといえば同心円の奴だが、まさにその作品として、「あれ」(1958-59)がある。
一番外周がもやもやっとした感じになっているのが特徴。タイトルも含めて、わりと好き
また、同じく同心円の奴として、「春の涼しさ」(1962)という作品も並んでいる。
他にキャンパスを45度傾けた作品である「馬車」(1964)や、キャンパスを切り取って多角形に変形させたシェイプド・キャンバスの作品である「向ける」(1976)などがある。
フランク・ステラ
1959年から1966年までの作品5点が展示されている。
ステラは、川村美術館も所蔵しており、以前見たことある作品も含まれていた。
黒地の作品から、シェイプド・キャンバスの作品まで
アンソニー・カロ
イギリスの彫刻家
1965年から1968年の作品4点。企画展の入口と、2つの展示室にそれぞれ作品が展示されていた。
それぞれ、一つの色で塗った抽象彫刻(例えば入口に置いてあったのは赤一色だったり)。
ヘレン・フランケンサーラー
2つめの展示室へ入ると、フランケンサーラーの作品が3点、ルイスの作品が4点、カロの作品が1点それぞれ展示されている。
この中では特にフランケンサーラーの作品がよかった。
ステイニングという、絵の具を画布に染みこませる技法を用いている。
- シグナル(1969)
青色の棒状のものが画面中央をしめ、画面上部の色の面と重なっている。
2つのレイヤーが、互いに透けて重なっているので、どちらが上になっているか分からない感じが、面白かった。
- アンワインド(1972)
ステインングも用いているのだが、線も描き込まれている。
いかにもステイニング的な淡い色調もある一方で、絵の具の物質感を感じさせるようなベタっとした箇所もある(そこもステイニングによるものなのだが)
「シグナル」が垂直的だったのに対して、水平方向の構図の作品だが、複数の質感が混在しているかのような画面で、じっくり眺めたくなる。
3作品の中では一番よかった。
- ドライビング・イースト(2002)
2002年とかなり新しい作品で、まるで夜中の海岸を描いたかのような、画面が水平方向に黒く塗られた作品である。
個人的には思わずグッとくるタイプの作品なのだが、今回はそこまででもなかった。他の作品と比較してサイズが小さかったり、色あい的にも地味だったりするためかもしれない。また、2002年という制作年も評価が難しい。
モーリス・ルイス
- ギメル(1958年)
これは、美術館蔵で以前も見たことがあった。
垂直軸がいくつもある作品で、今回のルイス作品の中では一番好き
- 「無題(イタリアン・ヴェール)」「秋の終わり」(いずれも1960)
色のレイヤーが幾重にも重ねられている感じの作品
色をどう描くか、という観点でいうと面白いかもしれない。
フリーデル・ズーバス
70年代から80年代にかけての作品が4点
- 「開拓」(1972)「フェーン」(1974)
いずれも横長の作品で、アクリル絵の具により、色が力強く塗られている
いくつもの色の長方形が横にたなびくように描かれており、動きを感じさせるものになっているし、タイトルもそのことを意識させるようなものになっている。
タイトルに関していうと、アメリカとの関連が気になる(ここに挙げていないもう一つの作品はアメリカの地名がタイトルになっていたりする)。
やはり大きくて迫力があるし、とにかく色の長方形が走っているような感じが印象的
それぞれの長方形は、一方の辺は非常にくっきりとした輪郭なのだが、もう一方の辺などは曖昧な輪郭となっていて、そのあたりにカラーフィールド感(?)がある。
- 捕らわれたフェニックス(1982)
本展のポスターなどに使われている作品
比較的普通の長方形のキャンバスに描かれており、「開拓」や「フェーン」にあったような動きのある構図ではないが、しかしそれらの絵にあった要素もありつつ、よりまとまっている感じもありつつ、ポスターに使われるのも納得の作品
ラリー・プーンズ
- 大いなる紫(1972)
プーンズは、絵の具をキャンバスに垂らして描く作品が複数展示されており、「大いなる紫」はその内の一つ。
キャンバス表面に置かれた絵の具の質感は、手法としては異なるものの、ジャクソン・ポロックと似ているところがある。つまり、細い線が何本も重なりつつ、それらの線がキャンバス上に盛り上がって絵の具の物質感を強調しているところ。
一方、絵の具を垂らして制作しているので、ポロックと違い筆の動きはそこにはない。
まるで雨垂れのように縦の線が何本も何本も連なっている。
ある種の偶然性によって作られてはいるが、構図もはっきりとあって、この「大いなる紫」の場合、斜め横方向に色が切り替わっていく形で構図が作られている。
タイトルが「大いなる紫」ではあるが、紫よりも画面下部の黄色・オレンジの方が印象に残った(言われてみれば、確かに画面の中で紫の占める範囲が一番大きいのだが)
- 「クララへ、ロベルトより」「アクセサリー夫人」「朝は午後の陽のなかに」(いずれも1976)
これは、より黒っぽい絵の具で制作されているもので、それぞれ非常によく似ている
それも当然で、絵の具を垂らしたキャンバスを3つに切り分けて、それぞれ別の作品としたものであるらしい。
しかし、全く同じキャンバスから作られ、互いに非常によく似ていたら、タイトルがそれぞれ全く異なるというのも面白い。
いずれも非常に縦長の作品で、「クララへ、ロベルトより」は最も幅が細く、「アクセサリー夫人」と「朝は午後の陽のなかに」が同じくらいの大きさか。
よく似ているにもかかわらず、個人的には「アクセサリー夫人」がもっともよかった気がする。黒だけでなく上部に赤っぽい色も置かれていて、画面に変化があるからかもしれない。
何をもって、それぞれ、これで一つの作品だ、ということを確定していったのかが気になる作品群だった。確かに「アクセサリー夫人」には、なるほどこれで一つの作品だな、という説得力があるように思えるのだが。
- レグルス(1985)
さらに絵の具の物質性を強調するようになっていく。でこぼこした壁面のような作品。
ジュールズ・オリツキー
オリツキーについては、60年代から80年代まで10点の作品が展示されているが、これらがさらに60年代の5点、70年代の2点、80年代の3点に分けられ、年代ごとに手法が異なっている。
手法を次々と変えていくところに、オリツキーの特色があるようだ。
「オリツキー天才!」と書いたが、その理由の一つにはこの手法の変遷もある。60年代のスプレーガンは明らかに一つの到達点だと思うが、80年代には全く別の手法で別の到達点に達しているように感じられた。
- 広がりのある夢(1965)
スプレーガンによる作品のうちの一つ
オリツキー自身は、霧状の色を定着させたいといい、先述したニューオルは、透明なものを描いていると論じている。
実際のところ、どのように表現すればいいのかなかなか捉えがたい作品群でもある。
リヒター作品にはよく写真のボケの表現があるが、そうした「ボケ」だけをさらに極大に拡大したような感じがある。
描写の哲学では、描写を奥行きのある視覚経験で特徴付けることがあり、例えば、抽象絵画においても、青い長方形の上に赤い長方形が重なっているように見える場合、この重なりをもって、描写になっていると論ずることがある。
ニューオルによるオリツキー論もその方向で、透けているものを通して見る、というところに奥行き感が生じていることを指摘していたのではなかったかと思う。
しかし、実際見てみると、オリツキーのスプレーガン作品に、そのような奥行きが感じられるかというと難しいところがある(それぞれの色のレイヤー間の関係を捉えるのが難しいという意味。例えば、青の“上に”赤があるとは言いがたい感じ)。とはいえ、全くフラットな感じなのかというとそうでもない。画面の向こう側への広がりがあるように感じられるところもある。
先ほど「ボケ」と書いたが、ピントのあわない感じが独特の視覚経験を生じさせているように思う。
ところで、この「広がりのある夢」に関していうと、左側に赤色が縦方向に配置されており、フレームを感じさせるところがある。
- 高み(1966)
オリツキーで画像検索すると最初に出てくる作品(だと思う)。
主に青系の色で描かれている、単一の色ではなくもやもやとしている。霧状の色、というのは確かにその通りという感じである。
とにかくでかい。カラーフィールドの作品もどれも大きいが、今回展示されている作品の中で一番大きいのではないか。
とにかくこの大きさが没入感をうむ。
また、あまり目立たないが、キャンパスの4辺は、スプレーガンではなくくっきりと色が塗られており、明確なフレームがあるように思えた。
- イルクーツク1(1970)
こちらは白系である。
見ていて「美だな」と思った。絵を見てこういう感想を抱くのは自分としては珍しい。
例えば、ロスコは圧倒されるが、必ずしも美しいとは感じない。
ここでオリツキーを美しいと感じたのは、ロスコと比較するならば、近寄りやすさ・受け入れやすさみたいなもののためかもしれない。よりポップというか。もっとも、それは単に暗い色で描かれるロスコに対して、明るい色で描くオリツキーということに由来しているかもしれない。
ところで、オリツキーもロシア(現ウクライナ)からの移民である。とはいえ、1才の頃にアメリカに来たようなので、ロシアの記憶はおそらくないだろうが、この絵のタイトルが「イルクーツク」なのはどのような由来によるのかは少し気になるところである。
ところで、この作品にはフレームのようなものは見られない。
- 「ナタリー タイプ-3」(1976)「私たちの火」(1977)
この2点は、急に雰囲気が異なり、絵の具の物質性が出ていたり、明確な線が描かれていたりする。
正直、あのスプレーガン絵画のあとに、これを描いたのか、なんで? という感じはする
80年代に入ると、さらに「絵の具の物質感!」という感じの絵になる。
キャプションでは、色への追求が光へと至った、というようなことが書いてあって、それが補助線となった。
絵の具といっても新素材の絵の具を使用したもので、筆触によって生じる凹凸に光が反射した光沢がある。特にこの「アントニーとクレオパトラ」でそれは顕著である。
物質性の強調があるにしても、筆触よりも光沢に着目したそれになっている。
これまた個人的な、感覚的な物言いだけど、絵画よりも彫刻っぽいなと思った。
たぶん、このアクリル絵の具の生む光沢が、金属っぽい光沢だから、そう感じたのかなと思うけど。
ただ、あとで知ったけれど、オリツキーは絵画だけでなく彫刻も手がけているらしい。
とりわけ20世紀以降の美術というのは、「絵画とは何か」ということをそれぞれの画家がそれぞれに追求した試みともいえるはずで、抽象絵画というのは、そのエッジにあると思うので、個人的に興味があるのだと思う。
で、絵画とは何かということに答えるのは難しいけれど、個人的には、やはり二面性経験は基準の一つだと思う。その上で、抽象絵画で二面性経験が生じるのかというのは難しいところなのだけど、それでも自分は抽象絵画を見て、これはやはり絵画だな、と感じる瞬間が楽しかったりする。
また一方で、絵画とは何なのか、絵画になるかどうかの境界を攻めていって、結果として、その境界を超えてしまって、絵画ではなくなってしまった作品というのもあると思う。
個人的には、ステラは、シェイプド・キャンバスあたりから絵画ではなくなってしまったように思える。ステラは、絵画だと思っていたのかもしれないけれど。とはいえ、ステラはその後、立体作品を作るようになるわけで、やはりどこかで絵画ではなくなる線を越えたと思う。
それに比べれば、オリツキーの80年代の作品は、全然絵画側にいるようにも見えるが、そっとその一線を越えた作品のような気がする。
絵画のふりをしてもはや絵画ではない作品を作ってみせたのではないか、というのは、本当に何の根拠もない、ただの思いつきレベルの感想でしかないのだが、こうしたこともひっくるめて一言でまとめると「オリツキー天才かよ!」ということになる。
(ところで、ポロックやプーンズの作品には二面性経験はあまり生じないように思うものの、直観的には「絵画だな」と思わせるところがある。しかし、それが何かはよく分からない)
常設
企画展にあわせて、常設展は、色をテーマにした展示構成になっていた。
美術展について、個人的には、テーマ別の展示よりは経時的な展示の方が好みなのだが、今回の展示については、このテーマ別の構成がすごくフィットした。
緑/青
まず、最初の部屋は緑と青がテーマになっていて、
エルンストが2点、ルノワール、モネ、ポロック、中西寛之、アルバース、
ローランサン、キスリング、コーネルが2点、フランシス、リキテンスタインが2点、クラインの各作品が展示されていた。
モネの睡蓮は以前来たときも同じ位置に展示されていたので、通常時の展示をベースに、少しアレンジしているという感じなのかもしれない。
個人的にはエルンストの「石化せる森」がよかった。「緑……確かに緑だ!」っていう背景と、赤い円のコントラストが。
あと、リキテンスタインって、今まであまりピンときたことがなかったけど、「なるほど、確かに青だなー」と思いながら青の使い方を見てると、いい絵なのかもなーと思ったりした
コーネルは、以前見たときは、一つの部屋にまとめられていたのだけど、今回、他の画家の作品と隣り合った状態で見るというのも、面白いといえば面白かった。
あとは、キスリングの人物画もよかったような気がする。
赤/黒
緑/青の部屋の次は、レンブラント専用室で今回もそのまま。
で、その次の部屋に行くと、ばんっとシャガールの「ダヴィデ王の夢」とか置いてあって、よい。
さらに次の部屋では、マグリット、マティス、ヴォルス、マレーヴィチ、山口長男
山口勝弘などが置いてあり、部屋の真ん中にカルダーが2点。それぞれ「黒い葉、赤い枝」「Tの木」という作品名で、カルダー作品って植物モチーフなのかと今更ながら気付く。
山口勝弘は、ガラスなどで作れらた少し立体的な作品
灰
まず、デイヴィッド・スミスの「ヴォルトリ-ボルトン IV」という小さな彫刻。灰色っぽくはないのだけど、灰の部屋に置いてある。
続いて、ピカソ、マルグリット、ステラ、ジョーンズの作品が並んでいる。
これら、灰色という以外に共通点はあまりないが、キュビスム→シュールレアリスム→カラーフィールド→ポップと、20世紀美術の歴史が端的にまとまっていていい。
ジョーンズ作品は鉛製で、一見、灰色の平面に見えるのだが、よく見るとアメリカ国旗になっているのが分かる。
他に、マン・レイやティンゲリの彫刻作品など
金/黄
再びコーネルの作品があり、レジェがある。レジェ作品について、あまり色に着目して見たことがなかった。黄色ないしオレンジで背景が塗られている作品だった。それほど広くない部屋に、黄色、金色、オレンジ色系統の作品が並んでいて、否応なしに色へと目が向く。
ブランクーシがあり、ノイマンの「無題」という作品がこの部屋の中では一番大きな作品。
リキテンスタインの「積み藁」とピサロ「麦藁を積んだ荷馬車、モンフーコー」が並んでおいてあって、なるほど、藁の黄色かーとなる。
山口長男はそのものずばり「黄」というタイトルだが、黄土色っぽいなあという印象
白/透明
2階にあがると、かつて「アンナの光」が展示されていた部屋が「白/透明」というテーマで4作品ほど展示していた。
ロスコルーム
1階最後の展示室は、ロスコ専用室でシーグラム壁画が展示されている。
何度見てもロスコにはやはり心惹かれるが、今回は、オリツキーなどカラーフィールド作家との比較という観点から鑑賞した。
先ほど紹介したブログから、やや長くなるが引用してみたい。
そしてかかる視覚は抽象表現主義がとりわけその形成期に神話や元型、無意識や崇高といった人の力を超えた超越性を主題化したこととの関係において論じられてきた。ロスコでもニューマンでもよい、彼らの色面は一種の不明確さ、晦渋さを湛えているように感じられないだろうか。これに対して「カラーフィールド」の作家たちの色面は視覚的に徹底的に明瞭であって精神性とは無関係である。カラーフィールド・ペインティングとグリーンバーグがその後継者とみなした作家たちとの懸隔は深く思考されるべきである。逆にかくも臆面なき視覚性、明瞭性こそが「カラーフィールド」の特性と考えられないだろうか。
これらの絵画はステイニングやスプレーといったいわば機械的な手法で制作されており、確かに苦悩や超越性といった主題性とは無縁である。それにもかかわらず絵画がこれほどの力を帯びうることに私は感銘を受けたのだ。オリツキーやズーバスの作品を私は初めて見たが、私はそれらを傑作と呼ぶに躊躇しない。
今回の展示から私が学んだ教え、そして今後考えるべき課題は(やや誤解されやすいタイトルが付されているとはいえ)いわゆるカラーフィールド・ペインティング、ロスコやニューマン、スティルら抽象表現主義の第一世代の画家たちと、ここに展示されたポスト・ペインタリー抽象、ルイスやノーランド、オリツキーら後続する世代の画家たちの作品の間の微妙で決定的な相違と関わっている。ペインタリーな抽象絵画という点においてともすれば等し並に扱われてきた彼らの絵画は本質において大きく異なるのではないか。そしてそれを検証する場所としてこの美術館ほど適切な場所はない。なぜなら私たちはこの展覧会を見た後、ロスコ・ルームに足を運ぶことができる
「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」 : Living Well Is the Best Revenge
展示会場には、画家の言葉がいくつか引用されていたりするが、カラーフィールドの画家たちは色をどう描こうとしていたかという言葉が選ばれている。とりわけ、オリツキーなどは、霧状の色を描きたいということを述べていたりする。
一方で、ロスコの場合、私は感情を描いているのだという言葉が引かれていたと思う。
オリツキーにとっては、色そのものが描きたい対象だったのだろうが、ロスコの場合、色を描きたいわけではなく、ある色を通して何かを描こうとしていたのだろう。
実際、ロスコ作品を前にした時、それは実感される。オリツキーやズーバスやステラは色を描こうとしているが、ロスコは色を描こうとしているわけではなさそうだ。
最近、圀府寺司『ユダヤ人と近代美術』 - logical cypher scape2を読んだこともあり(あるいはこの本に限らずロスコについては同様のことが言われているだろうが)、見ているとどこか宗教的な何かを感じさせる*3。いや、信仰を持ち合わせていない自分にとって、ロスコが描こうとしていた宗教的な何かなどほとんど理解できていないだろうが、あの独特の矩形は、単なる矩形以上の何かを象徴しているように思える。
一方、オリツキーの霧状の色は、どこまでも美しい(霧状の)色なのであって、何かの象徴とはなっていないように思える。
もっともこれは、展示室のおりなす雰囲気も影響しているかもしれない。
明るく開放的な部屋に展示されていたオリツキーと、暗くどちらを見ても絵が目に入ってくるように展示されていたロスコ。
とはいえ、確かに一見似ているかもしれないが、この両者には違いがあるのだろう。
もっとも自分はどちらも好きで、ロスコに引き続き、オリツキーも自分にとって特別な画家の一人となった。
追記
図録に、加治屋健司による論考「カラーフィールド絵画における非コンポジション」が掲載されている。
また、加治屋にはほかに、
モダニズム美術のパフォーマンス-広島市立大学機関リポジトリ
カラーフィールド絵画とインテリア・デザイン-広島市立大学機関リポジトリ
という、カラーフィールド絵画について論じた論文がある。
「モダニズム絵画におけるパフォーマンス」は、一部「カラーフィールド絵画における非コンポジション」と重なる部分もある。
カラーフィールド絵画というと、モダニズム絵画の中に位置づけられ、いわば絵画の純粋性をつきつめたようなジャンルとみなされ、それが故に評価され、それが故に急速に忘れ去れらたが、しかし、実はそうではない側面もあったのではないか、というのが上記3論文に共通する
加治屋の目論見ではないかと思われる。
非コンポジションについては、そもそも自分がコンポジションをよくわかっていないところもあって、つかみかねているところがあるが
「パフォーマンス」については、フランケンサーラーのポロックからの影響についてのエピソードから始まっている
「カラーフィールド絵画とインテリア・デザイン」はちょっと面白くて、グリーンバーグが自宅にカラーフィールド絵画を飾っていて、美術館で鑑賞する芸術作品としてではなく、まさにインテリアとしても使用可能なカラーフィールド絵画というものを取り上げている。
いやいや、あんなの部屋に飾れるかよとも思うのだが、グリーンバーグ宅の写真もあって面白い。