川村記念美術館は、千葉県の何もない田園地帯の山林の中に建っているところで、周囲を広い庭園に囲まれている。平日に行ったのでそんなに混んでいないだろうと思ったが、そういう立地であるためか、観光スポットのようになっていて平日とは思えない人の入りだった。客層の中心は中高年の主婦層だが、小さな子どもを連れた親子など若い人もいて、加えて小学生や高校生ないし大学生の団体客もいた。
通常展示の方も面白かったので、それも含めて感想を書く。
1階 印象派からシュールレアリスム
最初の展示室は、印象派とエコール・ド・パリの部屋。
モネの『睡蓮』があって、これは解説を聞いて実際に体験してみてすごいなあということが分かった。僕はモネの絵というのは、何だか輪郭のぼんやりした感じの絵だとずっと思っていたのだが、それは近くで見ているからで、6,7メートルくらい離れてみると水の透明感がはっきりと見て取れるようになっている。
それからマティスが1枚あって、ブラックやピカソ、レジェといったキュビスムがあって、藤田嗣治があって、ブランクーシのブロンズがあって、シャガールがある。
僕はシャガールが、キレイだなあとは思うのだけど積極的に好きというわけではなかった*1。ところが、ここにあった「ダヴィデ王の夢」というのは、なかなか迫力があって見とれてしまった。ぐるりと回る感じや昼と夜の対比とがあって、構図も練られているのだなあと思った。多分、油絵の筆の跡とか絵の大きさとかが迫力を生みだしているのだと思う。あとで、ポストカードで見るとやっぱりあんまり惹かれない。
隣の部屋はレンブラントが1枚だけかけてあって、次の部屋は抽象絵画の部屋。マレーヴィチとカンディンスキーがかかっていて、なんか嬉しくなってくる。マレーヴィチは白地に黒い曲線が遠くへ伸びる道のように描かれていて、何かのロゴマークのような感じでかっこいい。一部、黒が緑色になっていたのは元からなんだろうか劣化なんだろうか。カンディンスキーの絵は、細い直線と白黒の市松模様が十字に交わっている構図がスピード感があってかっこいい。それから、モホイ=ナジの絵もかっこよかった。というか、「スペース・モデュレータ」っていうタイトルがかっこいいね(1943年の作品ですよ)。それから、構成主義のガボの立体作品。ずらっと並んだ糸が交差してる奴。この時代の建築模型とかにもありそうな感じ。ところでこれ、42年の作品なんだけど、ロシア構成主義の作家でこの時代にもまだこんな前衛的な作品を作れていたのか。と思って、今調べてみたら、とっくに亡命済でした。
そして次の部屋がシュールレアリスム。エルンストが、ドアの扉に描いた男性とも女性ともつかない人間の絵がある。その手には、小さな白い人が。ドアの扉だけが展示してあって何だこれと思ったのだが、友人宅の壁や扉を全部エルンストが描いたことがあったらしい。その後、その部屋は別の人の手に渡り塗り替えられてしまったのだけど、この扉だけが残っていたのだとか。もう一枚、エルンスト。油絵でカンバスの下半分が、目の粗いおろし金かのようにギザギザと毛羽立っている。多分何か新しい技法でも試していたのだろうなあと思うけど、この前、「ロンバルディア遠景」を読んだばかりなので*2、皮膚性の追求みたいなことをも考えてしまうような作品だった。それでマグリットがあって、マグリットの作ったオブジェがある。それから、ヴォルス。この人、知らなかったのだけど、かなり暗い感じの抽象画。
隣の部屋は、ジョゼフ・コーネル。やはりこの人も初めて知った名前。箱の中に色々なガラクタを詰め込んでいるオブジェと、コラージュ作品。名前の響きとコラージュという技法で、最初ブリティッシュ・ポップの人だろうかと思ったのだけど、そうやって作品を見ると全くポップな感じではない。調べてみると、アメリカ人でシュールレアリスムの影響を受けた人とのことで、確かに言われてみれば明らかにポップではなくてシュールレアリスムである。箱の作品は、精神を病んでいた弟のために作られたものだとかで、それが有名らしい。箱のよりも、コラージュの方が好きだったけど。シュールレアリスムほどどぎつい感じがない。
1階 屏風絵
日本の絵は全然分からないので最初パスしたのだけど、一応見てみることにした。
分からないなりにとりあえず見てみる。
17世紀の南蛮屏風絵。この屏風絵の塗りっていうのは、全部何かを貼り付けたようなペタッとした感じのものだと思っていたのだが、葉や船体部などは水彩っぽいので塗ったような感じになっていて、こういう塗りもあったんだなあと思った。それでも人とかはペタッとしているので見ようによっては、コラージュっぽくもある。それから横山大観の屏風絵。屏風絵なんてどれも同じようにしか見えないだろうと思っていたが、流石に17世紀と昭和とでは全く違った。海の描き方が明らかにリアリスティックになっている。
2階 アメリカ現代美術
階段を上ると、赤が目の前に飛び込んでくる。
ニューマン「アンナの光」の展示室がある。広めの会議室くらいの部屋にこの作品だけがかけられている。壁も天井も真っ白で、そして両側は一面窓になっている。その窓には薄いカーテンがかけられていて、カーテン越しに光が射し込んできて、木々の緑がうっすらと見えるようになっている。なんて贅沢な作りの部屋なのか。その日は非常に天気がよかったこともあって、部屋全体がとても明るくさわやかで、「アンナの光」の赤がとても眩しかった。
「アンナの光」は幅7メートル、高さ2メートルという大作で、そのほとんどが真っ赤に塗られている。そんなでかい作品なので、それを展示しようと思えばやはりこういう大きな部屋が必要になるのだろうけど、それにしてもやはり贅沢である。この絵も含めた贅沢な空間そのものを味わう。
次の部屋には、抽象表現主義とされる画家たちの絵が数点ずつかけられている。やはりどれもこれも大きいのだけど、その中ではジャクソン・ポロックのものが一番小さかった。ポロックはでかい絵を期待していたので、ちょっと拍子抜けしたのだが*3、存在感はあった。他の絵、特にサム・フランシスの絵なんかは、ポップな雰囲気が漂っている。サイズこそ巨大だけれども、小さくしたならば、ちょっとオシャレな包装紙か、ちょっと奇抜なTシャツの柄になるだろうなという感じ。アクリルで塗られているのもそういう感じを助長しているのかもしれない。
そういう絵に比べるとポロックは全然ポップじゃない。当たり前だけど。アクション・ペインティングという、絵の具を飛び散らして描いた作品なのだけど、色調の方はとても暗めで、緑とか黄土色が渋い色味。もっと明るくて原色に近い色を使ったら、もっと派手でけばけばしい絵になってより躍動的になったのではないかと思うけど、そうじゃない。渋い感じの緑や黄土色や白が溶け合って、これはこれで一つの調和になっているような気がして、そういう意味で他の絵よりも存在感があるような気がした。あとは油彩の筆の跡*4。
この部屋でもう一つ気に入ったのは、モーリス・ルイスの「ギメル」。これまためちゃくちゃでかいキャンバスに、アクリル絵の具を垂らしたものなのだけど、なんかロールシャッハテストやレントゲン写真や液体の対流やそういったものを想起させるイメージになっていて、いいなと思った。
そして隣の部屋は、フランク・ステラの作品が時代順に並べられている。この人はまだ現役のアーティストらしいけど、これまた僕は初めて名前を知った人だった。全く知らない人だったのだけど、時代順に作品が並んであるのを見ていくと何となく見えてくるものがあると思う。
この人の絵もまたとにかく巨大なのだけど、最初はモノクロである。そして、キャンバスの形を四角形ではなくしてしまう。60年代から70年代に入ると、キャンバスの形はもう完全に四角形を離れて円形になったりする上に、色がとてもサイケデリックな色調になる。さらに作品がついには立体化していく。鋭角的な三角形に切り取られたキャンバスが、金属の棒で固定されて何層にも重ねられている。壁から浮き上がっているような感じになっている。80年代にはこの立体化はさらに進んでいって、材料もアルミとかを使うようになって、巨大化していく。逆に色は、サイケデリックなものから少しずつ暗くなっていって、形も幾何学的な図形ではなくなってぼろぼろになったり虫食い穴が開いているようなものになっていく。90年代に入ると、色はなくなって錆びた金属が剥き出しになった状態になる。アルミのくしゃくしゃした質感がそのまま使われる。ここまでの作品は全部、立体ながらも壁に掛けられていたのだけれど、最後の作品になると普通の彫刻のよう
に床置きになっている。これは後ろも見えるのだけど、後ろを見たときにドキッとした。錆びた鉄の土台に土くれのようなものがこびりついてたからだ。
この人の作品を時系列順に追っていくと、未来のイメージあるいはアメリカのイメージといったものの変遷がそのままうつしとられていっているような感じだった(50〜60年代・白黒で四角い→60〜70年代、サイケデリックな色調で円形や三角形→80年代・巨大化していくものの色がはげ落ちていく→90年代・金属が剥き出しになっていてむしろ廃墟に近いイメージ)。
「マーク・ロスコ 瞑想する絵画」展
通常展示のレビューが随分と長くなってしまった。
通常展示を全て見終わると、ロスコ展の展示室がある。
ロスコというのもやはり、アメリカ抽象表現主義の画家の一人である。今回の展覧会の目玉は、「シーグラム壁画」である。「シーグラム壁画」というのは、ニューヨークのシーグラム・ビルが建てられるとき、レストランの壁を飾る絵として注文されたものである。一流の建築家が建てる一流レストランの内装を飾る絵を描く画家として選ばれたということで、ロスコは当初快諾したのだが、実際にレストランを見てキャンセルしてしまう。描き上げた絵は、売らずに自分の手元に残した。キャンセルした理由は正確には分かっていないが、レストランがあまりにセレブな雰囲気があって、多くの人に見てもらいたいというロスコの思いとはかけ離れていたかららしい。もともとロスコは、ロシア(現ラトビア)生まれのユダヤ人で、10歳の時にアメリカに亡命してきた。貧しい家庭で育ち、奨学金をもらって大学に行くほど優秀だったが、ユダヤ人が少なかったために途中で辞めているらしい。
さて、ロスコは自分の絵を展示する場所に多く注文をつける人で、同じ部屋に違う画家の作品は飾らないように、床から15センチの高さにかけるようにといった要望があり、さらには壁の色まで指定してきたこともあるらしい。そんなわけで、ロスコのシーグラム壁画も、展示場所を探すのに難航した。彼は自分の作品が永久に展示・保管される美術館を望んでいた。その頃、ロンドン・テートギャラリーの館長が、ロスコ・ルームを作ることを約束して、ロスコにシーグラム壁画の寄贈を依頼してきた。ロスコが館長に宛てた手紙が何通も展示されているが、それを見るとロスコの慎重さと少しずつ館長を信頼していく過程が見て取れる。ロスコは、テート・ギャラリーの模型を取り寄せたりして、自分の作品の展示方法を考えていくが、展示そのものは見ることなく亡くなる。病に冒されていたのだが、死因は自殺である。
最終的に、シーグラム壁画は、ロンドンのテートギャラリーとワシントンのナショナルギャラリー、そして川村記念美術館にそれぞれ分散して展示・保存されている。ロスコの遺志に基づき、これらは永久にその美術館に置かれ、巡回展示などもされてないのだが、今回、川村記念美術館に一堂に会することとなったのである*5。
シーグラム壁画15点は、できる限りロスコの要望通りに並べられている。部屋の四方を囲むように置かれて、それぞれの絵と絵のあいだの間隔は非常に狭い。もともとレストランに置かれることを予定していたので、他のロスコ作品と違って*6高い位置にかけられている。ニューマン「アンナの光」ほどではないけれど、やはりこれもまた巨大である。アンナの光ほど大きくないと言ったが、それは1枚の大きさで、それが数枚並べられているのだから、視界は完全に覆われてしまう感じである。暗い赤や茶色で塗られていて、四角い枠が描かれている。窓枠のようにも見えるし、スリットのようでもある。枠の輪郭はぼんやりとした感じになっている。何だか宇宙的なものを感じずにはいられない。何かのゲートのようでもある。弐瓶勉の『BLAME!』で統治局がガス状のインターフェイスで出てくるシーンがあるのだが、輪郭のぼんやりしたタッチからそれを想起した。あるいはゲートというところから、ハガレンの「真理の門」を想起したりもした。どちらにしろ、人間とは異なる存在を描いているように思われた。ただし、それは神なのかと言われると分からない。人間とは全く異質で、人間よりも遙かに大きな存在だろうけど、宇宙のどこかにいるような気がする。同じような、だけれど少しずつ異なる絵が並んでいるので、その並んでいるのを見渡すと宇宙船のような感じにも見えてくるのである。
ところで、会場にはロスコの言葉がところどころに書かれていて、私は人間の感情とそのドラマを描いているとか、この絵から神秘的なものを感じてもいいし世俗的なものを感じてもいいとかある。今言ったように、人間ではない存在が描かれているように思えたので*7、そのロスコの言葉がピンと来なかった。ところが、僕は実は美術館を2週していたのだけど、2週目に見たとき、ある一枚の絵の赤色から、何か怒りというか怨念というか悔しさというかそういうものを感じた。見るタイミングによって、違うものが見えてしまう、そういうものなのかもしれない。僕はやっぱり、全体としてはロスコの絵は宇宙的な、超人間的なものが描かれていると思うので、感情を描いているというロスコの言葉もやはり当たっているところがあるのだろう*8。
しかし、こんな絵に囲まれたらなかなか食事というわけにもいかないような気がする。
この展覧会には、シーグラム壁画ともう一つ目玉があって、それは黒い絵だ。
4枚の黒い絵が、部屋の三方にかけられている。この部屋は他の展示室と比べると大分小さくて、真ん中の椅子に座ると部屋の真っ白な壁と黒い絵しか見えなくなる。振り返れば別の部屋と監視員の姿が見えるわけだが、そうしなければ完全にロスコの絵が作り上げる空間の中に身を置くことができる。
やはりここも絵を見る、というよりは、空間を感じるという方がしっくりくる。白い壁に黒い長方形。まるで、『2001年宇宙の旅』の世界の中に紛れ込んでしまったかのような感覚を覚える。非日常的で、明らかに異質な空間なのだ。
さて、黒い絵なのだが、実はただ真っ黒なわけではなくて、やはりこの絵も枠が描かれていて、黒の中に黒い長方形がある。微妙に違う黒を使って描かれているのだ。見ていく人の多くは、近づいて「あ、これ黒だけど色が違う」ということを発見して部屋を出ていく。4枚中3枚はパッと見ただけでは黒一色に見えるのだが、1枚はかなり茶色に近い黒が使われていて、その違いがすぐに分かる。だから、「こっちの絵は色の違いがわかりやすいね」という感想を言って出ていく人も結構いた。
ただ僕としては、この部屋は『2001年宇宙の旅』の部屋だ、そしてこの絵はモノリスだと思ってしまったものだから、黒一色ではないということが逆に何故なのかが分からない。3枚を見てから、色の違いが分かりやすい方の1枚を見ると、なんでこれをもっと黒くしなかったのかと思ってしまう。何故黒の中に黒い四角を描いたのかは結局よく分からないけれども、この部屋の中にいる
のは意外と飽きなくて、それなりの時間いたと思う*9。面白かったのは、団体で来ていた小学生が次から次へと通り過ぎることで、正直うるさいなあとも思うのだけど、白と黒しかない異質な世界に、カラフルなパーカーやシャツを着た小学生が入ってくる様は、それはまたやっぱりどこか映画が現実になってしまったかのような不思議な情景になっていて、それを眺めていると楽しくなってくるくらいだった。
さてこの黒い絵は、本来は全部で9点あって、ロスコ・チャベルと呼ばれる教会のために描かれた晩年の作品らしい。こんな絵に周囲を取り囲まれた教会! こんな絵に囲まれて賛美歌とかが聞こえてきたら、それはもうなんと超現実的な空間だろうか。
ロスコは最初から抽象画を描いていたわけではなく、初期の頃は具象画を描いていて、地下鉄のホームなんかを描いている。僕は、地下鉄のホームやトンネルの入り口がとても好きで、ロスコも地下鉄を描いていると聞いて何だか嬉しくなった。やはり、別世界へと通じていく暗闇なのだ。
*1:僕は美術鑑賞に関して中二病っぽいところがあって、つまり「日本人が好き」とされるから印象派はあんまり好きじゃないとか思ってしまうところがあって、同じ理由でシャガールもちょっとなあと思ってしまう。ロシアだったら、断然マレーヴィチだろとw
*2:http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20090422/1240409629
*3:そうはいっても普通の絵としてみれば大きい方だと思う
*4:図版と展覧会で全く違うのは、この油彩の筆の跡が見えるか見えないか。油彩は、その跡を消してしまうこともできるし、荒々しい筆致をそのまま残すことも出来る。誰の作品だったか忘れたけど、こんもり盛られて画面上に大きく凹凸が出来ている作品もあった。描かれているデザインだけでなくて、そういうテクスチャも作品の要素なんだろうなあと思う。絵画というと平面作品だという感じだけど、油彩は立体作品っぽいところもあると思う
*5:なんで、どうやってそれが可能になったのかは知らない
*6:床上15センチという低さ
*8:モンドリアンとかニューマンだったら、感情の入り込んでくる余地はないだろう。ロスコの絵には直線がない。というか線がない
*9:10分ちょっとくらい? でももっと長くいることも出来た気がする