スーザン・ブラックモア『「意識」を語る』

哲学者、心理学者、神経科学者などなどの「意識」研究者へのインタビュー集。
著者のスーザン・ブラックモアは、『ミーム・マシンとしての私』の著者。僕は、このタイトルと名前しか知らなかったので、てっきり生物学者か何かだと思っていたので、訳者解説を読んで驚いた。この人、超心理学、つまり超能力の研究で博士号を取ったらしい。しかもこの人、自分には自由意志はないと公言して憚らないすごい人でもある。
とはいえ、本書における彼女は別にそんなとんでもない人ではなくて、とても分かりやすく深いところまで切り込んでくれる。彼女と研究者たちの打ち解けた対話から、彼らの本音まで伝わってくるようだ。彼女は、彼らの理論について尋ねるばかりではなく、「死後の世界はあるかどうか」といった質問や、「あなたの研究はあなたやあなたの生き方を変えたか」といった質問を投げかけて、単なる彼らの解説に終わらない言葉を引き出すことに成功している。
そのような雰囲気は、山形浩生の翻訳によって実に生き生きと日本語に直されている。彼の、砕けた話し言葉調による翻訳は、時として読者の困惑を誘うものだが、今回はインタビュー集ということもあって、これは実にはまっている。リチャード・グレゴリー(85歳)の「ちったあ思索的になったわけですな」「左様」「わたしは知っていますがな」といった口調はやりすぎだと思わなくもないが、思わず笑ってしまう。
あるいは、人間以外の動物にも意識があるのかどうか思い悩むコッホとブラックモアの会話。「肉は食べますか」「(ため息)うん」「むずかしい問題ですよね?」「そうです。あまり食べないようにしているけれど、とにかくうまいからなあ」
コッホのため息が聞こえてきそうだ!ww


意識や心の研究に関しては、大きく二つの考え方に分けられる。
このまま研究を進めていけばうまくいくよ派と
このまま研究を進めてもうまくいかないよ派だ。
うまくいくよ派も、自信満々な人とそうでもない人とに分かれるかもしれないが、彼らの多くが一致するのは、意識や心に関する科学はまだ全然進展していないということだ。特に、科学者のほとんどは、自分たちの手がけている研究テーマを一つ一つ明らかにしていくしかないと考えている。哲学者は立場が分かれるが、チャーチランドデネットは科学者の側に立つ(それにしても、デネットは意外とみんなから人気がない。彼は機能主義をちょっと極端に推し進めてしまったようだ)。
いわゆるハードプロブレムにしても意見は分かれる。上の分類と組み合わせるのであれば、
ハードプロブレムなんてないのだから、このまま研究を進めればおk派
ハードプロブレムは厄介な問題であり、このまま研究を進めていくことでなんとか乗り越えていきたい派
ハードプロブレムを解決するためには、このままの研究じゃうまくいかないよ派
のおおよそ3つに分かれるというべきかもしれない。
さて、この最後のグループはあんまり多くはないので、さっと紹介してしまおう。
まずは、ロジャー・ペンローズとスチュワート・ハメロフである。
彼らが言うには、神経やら脳やらを研究していてもダメで、意識というのは細胞の微小管での量子コヒーレンスなのだそうである。意識の謎と量子力学の謎を大胆にも一つに合わせてしまおうというものだが、ある謎を別の謎で説明しようとして結局何の説明にもなっていないという批判に曝されている。
もう一方は、デイヴィッド・チャーマーズで、彼の場合はある意味で二元論的な立場にある。意識というのは、意識子という未知の素粒子が担っているというのである。これまた、謎めいたものをさらに別の謎に置き換えてしまっただけで何の説明にもなってはいないと批判できるだろう。


それでは、このまま研究を進めていこう派の人たちはどんなことをやっているのか。
ざっと並べてみることにする。
スーザン・グリーンフィールドは、ニューロン・ネットワークの複雑さこそが意識と関係しているのだと考えている。ところで、ニューロン・ネットワークが意識を「生成」しているのか、それともその両者の関係は「相関」なのか、その言葉遣いを巡ってブラックモアがツッコミを入れるあたりが見物。
スティーブン・ラバージは明晰夢について研究している。夢を見ているときに、自分は夢を見ているなとわかる夢のことだ。夢もまた体験であると彼は主張する。明晰夢やあるいはチェンジ・ブライトネス(いわゆるアハ体験)の実験などを通して、意識の体験とは何かについて迫ろうとしている。
ケヴィン・オレーガンは、やはりチェンジ・ブライトネスの実験などを例に出しながら、体験とは脳の能力であると述べる。変化させるやり方こそが知覚なのだと述べる。視覚などの知覚は、世界を写し出しているわけではなく、むしろその都度脳が作り上げているものなのだ、と。彼はまた自分を含めて人間とはロボットであると考えていて、研究を始めたのだとも言っている。もちろんここでいうロボットというのは、意識や感情を持っていないという意味ではなくて、それらが物理的メカニズムによって起こっているという意味である。
ラマチャンドランは、中立一元論を唱えている。
ヴァレラは、神経科学と現象学をあわせた神経現象学なるものを唱えている。
ウェグナーは、二人羽織の実験などを例に出しながら、自分のオーサリティの感覚というものがかなりいい加減なものであるということを示す。彼によれば、様々な行為は無意識的に起こるのであって、それに必ずしも意識や意志は伴わない。ただ、ある種の指標としてオーサリティの感覚が生まれているのではないか、というものだ。


本書は他に、ブロック、チャーマーズチャーチランドデネット、サールといった哲学者たちが登場したり、あるいはクリックが自らの研究人生がどのようなだったか語っている。

「意識」を語る

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