森村泰昌『踏み外す美術史』

名画に化けてそれを写真に撮るという作品を作り続けている森村泰昌による、美術入門書
少し違う観点から、絵を見てみるというもの。


最初は「モナ・リザ
彼自身がモナリザに変身するというのが目的なので、モナ・リザが一体どういう服を着ていて、どういうメイクをしていて、どういうポーズを取っているのかというところから見ていく。その際、本物のモナ・リザだけではなく、模写されたモナ・リザも参照している。今のモナ・リザは既に劣化している部分があるけれど、模写であれば、まだ劣化していなかった頃のモナ・リザの情報を伝えているところがあるからだ。それから、モナリザにまつわる様々な言説の中から、モナリザ自画像説とモナリザ妊娠説を取り上げる。森村流モナリザ解釈は、「身ごもる男」である。
さて、モナリザは何故これほどまでに名画と言われ続けているのか。森村は、彼女は西欧文化キャンペーンガールなのだと考える。「身ごもる男」という一種の異形の存在(アウトサイダー)を、西欧はキャンペーンガールに仕立て上げることでインサイダーへと取り込んだのではないか、と。


続いて、下手くそということについて。
岡本太郎の「太陽の塔」、ピカソゴッホを取り上げる。
森村は万博当時、太陽の塔がマッチしていないように見えた。でもそれは、70年代のお祭り空気と切り離されていたからであって、それ故に太陽の塔は今でも古びていないのではないか。
ゴッホの絵は悲しさが溢れているようだけど、どこかおかしい。本人は真面目に悲しんでいるのだけど、可笑しい。
自分自身の話。デッサンが下手で受験勉強でも上手くならなかった。だからその後、写真を撮るようになったけど、やっぱり上手くならなかった。そこで、絵と写真を両方やることにして、今のスタイルになった。どっちかが上手かったらこういう仕事にありつけていなかったかもしれない。


続いてウォーホル。
ウォーホルといえば、ポップアートで、大量消費社会やオリジナルとコピーの関係という話だけれど、森村の見方は違う。
ウォーホルが日本に入ってきたとき、それは好意的に受け入れられてまさにコピーとかの話の言説が出回ったけれど、当時の森村(日本人)にはそもそもキャンベルスープやブリロが一体何であるかもよく分からず、アメリカの生活ってかっこいいなあと思わせるものだったからこそ、受け入れられたのではないだろうかと考える。キャンベルスープの絵は23個描かれているらしいのだが、それも日本ではコピーが云々という話になるのだが、実はキャンベルスープは23種類の味があるから23個らしい。
それはともかく、森村はウォーホルが移民の子どもでホモセクシュアルであったことに注目する。彼はその劣等感をイメージを通じることで「魅力」へと変えて世界に向き合っていたのではないか、というのが森村の仮説だ。そしてその補うものとして、マリリン・モンローをあげる。モンローは孤児としてやはり不遇な幼少期を過ごし、金髪に髪を染めることで「魅力」ある女性へと変身したのである。ウォーホルもモンローもそれは本名ではなく、変身後の名前である。
モンローが死に、ウォーホルはモンローを題材とした作品を作った。それはもちろん、モンローがポップ・アイコンでもあり、時期的にもセンセーショナルだっただろうが、むしろ同志の死に対する反応だったのではないか。ノーマ・ジーンとマリリン・モンローの乖離に耐えられなくなったかのように死んでしまったモンローと、ウォーホラとウォーホルの乖離を抱えながら生き延びてしまったウォーホル。
さらに森村が注目するのは、ウォーホルの銃撃事件だ。アメリカを代表するポップ・アートの大スターとなっていたウォーホルが撃たれる。それも精神が錯乱した女性に。しかし、この女性、ヴァレリーソラナスは決して単なる精神錯乱者ではなかった。彼女はレズビアンで、男性不要論という過激な思想を奉じていた。時代は1968年で、まだまだレズビアンフェミニズム思想というものが浸透していたわけではなかった。もともとウォーホルはホモセクシュアルであって「白人の男社会」に属すことができない存在だったわけだが、ポップアートを武器として戦っているうちに、むしろ「白人の男社会」のヒーローになってしまっていた。そしてそのウォーホルを、レズビアンであるヴァレリーが銃撃する(銃というのは男根の象徴でもある)。森村はこの銃撃事件を、ウォーホルとヴァレリーによるハプニング作品に見立てる。
最初にウォーホルの作品が何故かっこいいかといえば、それはアメリカの生活がかっこよく見えるからだったと森村は述べたが、そのアメリカ自体が魅力的ではなくなったらどうなるか。ウォーホルの作品もまた魅力を失うのではないか。先の銃撃事件は、ウォーホルを彩るエピソードの一つとして片づけられ、あまり重要視されてこなかったらしいが、一種のハプニング作品としてアメリカ美術史に刻み込むことで、アメリカ美術に対して異なる見方が出来るのではないかと森村は考える。


最後の章は、シンディ・シャーマン
彼女はまるで映画のワンシーンかのようなセルフポートレイトを録るアーティストで、森村と非常に作風が似ている。彼女と森村の比較論も書かれているのだが、それは普通、二人はよく似ているけれど、それぞれに異なるところがあると論じる。だが森村は、似ていることが嬉しいのだと言う。似ているので、彼女のことをまるで妹のように思っているとも言う。
そして、96年のシドニービエンナーレの様子を紹介する。そこでは、違う作家のよく似た作品同士が並べられていたという。通常、違う作家の作品であれば、異なった特徴的な作品を展示するものだが、そうではない。さらに、織物や染め物といった作品がある部屋を見ていたところ、ターフ(という西欧の画家)の絵によく似た染め物があるなあと思ってよく見たら、実はターフの絵そのものだったということまであったらしい。
織物や染め物と油絵とは全く異なるジャンルのアートだと思われているけれど、だが油絵というのはoil on canvas でありオイルで染められた布だともいうことができる。だから、油絵というのは、むしろ織物や染め物といったテキスタイルというジャンルの中の一つなのではないだろうか、と森村は考える。世界的に見れば、テキスタイルの方がよっぽどメジャーなアートである。
抽象絵画であると尻込みする人も、衣服のデザインだと考えて見れば見ることができるのではないか。絵というのも、結局は布に何らかの柄やデザインがつけられているものなのである。森村は、着る服を選ぶように絵を見れと提案する*1
似ていることで繋がっていく、地球美術史の構想を述べて締めくくられる。

踏みはずす美術史 (講談社現代新書)

踏みはずす美術史 (講談社現代新書)

*1:柄やデザインとしてアートを見るということでは、佐々木健一の『美学への招待』で包装紙に着目していた。http://d.hatena.ne.jp/sakstyle/20080902/1220325687