磯崎憲一郎『鳥獣戯画/我が人生最悪の時』

長編「鳥獣戯画」、短編「我が人生最悪の時」、乗代雄介による解説、年譜を収録した文庫
(なお、磯崎のサキの字は、本当は立サキ)
磯崎作品は何故かよく分からないが好きでよく読んでいるが、長編を読むのは7年ぶりだった。まあそんなことは気にせずに読んだけれども。
どちらも私小説的な作品で、どこまで実話かはともかく、作家の磯崎憲一郎が一応語り手となっている。
磯崎作品について、あまり私小説というイメージはなかったのだけれど(「肝心の子供」とか「赤の他人の瓜二つ」とか「電車道」とか歴史ベースのイメージがある)、しかし、「眼と太陽」とか「世紀の発見」とかは、磯崎自身のエピソードも実は織り込まれたりしていて、そういう作品がないわけでもない。
しかし、私小説的とはいえ、「鳥獣戯画」は半分くらい明恵上人の話なので、やはり歴史ベースのところもある。

鳥獣戯画

もとは、2016年2月から2017年8月にかけての『群像』連載

凡庸さは金になる
美人
犬の血液型
逃避行
伴侶
明恵上人
型のようなもの
護符
文覚
妨害
承久の乱
入滅
携帯電話
警官
卒業式
達成なのか? 停滞なのか?
暗黒大陸じゃがたら
佐渡

サラリーマン人生を終えた日に「私」は、高校の同級生だった女性と喫茶店で待ち合わせていたのだが、そこに現れたのは、若い女優だった、というところから始まる。
「私」は、サラリーマン時代の仕事がきっかけで、とある建築家との交友関係があり、テレビで対談番組をもったりもしていた(ところで、あとで年譜を見ると、磯崎憲一郎本人の場合、これに当てはまるのは横尾忠則? 羽生善治?)
で、私と女優は一緒に旅行に行ったりもするのだが、話は、作家と女優のスキャンダルという方向には行かず、女優の半生を辿る方向へといく。ここで、語り手の視点が作家から女優へと切り替わっていくあたりは、磯崎作品によくある奴。
と思っていたら、次は、明恵上人の話へと切り替わる。
作家と女優は、鳥獣戯画を所蔵することで有名な高山寺を訪れるのだが、この高山寺の開祖が明恵上人なのである。
この明恵上人パートが結構長くて、上の目次でいうと「明恵上人」から「入滅」までがそれにあたる。途中で、師である文覚についてあてている章もあるが、とにかく明恵の伝記みたくなっている。
明恵というのは、寺に入るのだけど、そこにいる僧侶がみな俗物ばかりであることに絶望して、なんとかして学究の道を進もうとするのだけど、なかなかうまくいかない。という展開が繰り返される。
1人で山ごもりしようとするけど、生きていくにはどうしても人里との交流が必要だったり、弟子とともに天竺行きを画策するのだけどこれも挫かれてしまったり、晩年に開くことになった寺はある時期から貴族たちに人気がでたりとか。
で、明恵の話が終わると、話はまた作家へと戻ってくるのだが、自分の娘が産まれた20年ほど前の話となり、次いで、娘の名前が実は高校時代の彼女と同じ名前なのだけど、と
高校時代へと話が遡る。
高校時代パートは青春小説として普通に面白い。
80年代の都立上野高校でバンドをしていた「私」は、同じバンドのドラムスが片思いしていた相手と、3年生の時につきあい始める。当然その友人とは関係が悪くなったりする。
また、2人とも受験には失敗して浪人になるのだが、浪人生の時期に恋愛としては安定期になる。友人たちとの合宿。東京藝大の学祭でじゃがたらのライブを見る話。大学入学後、しばらくして別れることになる。
飼い犬が死んだときのエピソードがあるのだが、この飼い犬の話は 「世紀の発見」にも使われている(母親が飼っていた犬で、一度いなくなったのだがまた戻ってきたという話)
乗代の解説によると、「私」や明恵というのは、凡庸さを逃れようとしているが、しかし凡庸になってしまうような人物として書かれている、と


我が人生最悪の時

これは以前も読んだことがあるが、大学時代の話で、まあ「鳥獣戯画」の続きのように読めなくもない。
バレリーナの女性と付き合っていたのだが、別れたあとに、競艇部の先輩とつきあい始めて結婚することになったという話。
そのことに納得いかず、彼女を最寄り駅で待ち伏せて話そうとするくだりがあり、この時の経験が後に小説を書くのに役に立ったとあるのだが、「眼と子供」に確かに同様のシーンがある(彼女の職業が違うが、主人公の心情などはほぼ同じように書かれている)。

年譜

磯崎憲一郎自作の年譜がついているのが面白い