磯崎憲一郎『世紀の発見』

自分の人生は全て仕組まれたものだったのか
(磯崎の「崎」は「大」でなく「立」の方だが、文字化けするのでこっちで)
近々、『赤の他人の瓜二つ』が文庫化されるということで、Amazonを見ていたら、これ未読だったのに気付いたので読んだ。

  • 世紀の発見

「彼」は子ども時代に、巨大な機関車を目撃する、巨大なコイを目撃する。しかし、どこかから誰にも言ってはならないという声を聞いて、「彼」は誰にも話さない。
また、家で飼っていた犬が人の家の鶏に噛みついたことで保健所へ連れられるのだが、何故か戻ってくる。不思議な出来事で理由は分からないのだが、彼にはそれが母が仕組んだことのように思われる。
さらに、友人のAが、森で一緒に遊んでいたときにどこかへ消えてしまう。その後、彼はAとは一度も会っていないのだが、特に事件や事故が起きたという気配はない。
物語は、彼が建設会社に勤めて、ナイジェリアに派遣されるところまで時間が飛ぶ。石油採掘設備を建設するべく、現地の有力者と交渉を行うのだが、11年が、あっという間に過ぎ去る。
ナイジェリアの森で、人生で起きた不思議な出来事はいつかAに報告するものなのではないかと考える。
「日本に帰ってから何年かすると、彼にはもう家族がいた。」
そこで、自分の人生が「誰のものでもある、不特定多数の人生」だという奇妙な達成感を覚える。
子ども時代の不思議な出来事もナイジェリアの11年間も夢で、娘だけが夢ではない、と思うようになる。
母が旅行先で倒れる。その病室で、人生が全て母の報告済のことなのではないかということに思い至る。


磯崎作品の中では、ストーリー的な点で、分かりやすい話かな、と思った。あらすじを書いても意味がある、というか。
意味づけられない、人生の中での(特に子ども時代の)不思議な出来事を、どのように捉え直すのか。その対象が、A→娘→母となる。Aへいずれ報告するのだっていうシーンは、まだなんかすっきりする感じなんだけど、母へ報告済みだった、あのメモを見なければっていうシーンは、なんと言えばいいのか分からないけど、読んでいて、ショックというか「こうなるのか」みたいなシーン。色々なことが次々と、脈絡もなく並べられているような作品だけど、やっぱりその最後のシーンに核があるんだな、というか。
あと、やっぱりナラティブ、ナレーションの作品であって、突然ナイジェリア行ったり、11年時間が経ってたり、家族ができてたり、時間がぱかぱか飛んでいく。

  • 絵画

白サギはまだ中州にいた。(中略)その羽の白さで周囲を同じ色に染め上げるかのような、この場の時間を巻き戻すかのような、神々しい動きだった。鳥のその動作を、三十メートルほど下流に架けられた幹線道路の橋の上で、信号待ちで止まっていた路線バスのいちばん後部座席の女子高生が窓越しに見ていた。女子高生は学校を二時限目で早退して、帰宅するところだった。

公園の桟橋みたいなところで画家が云々している前半から一転、サギをバスの中から見ていたということを通じて、公園の外にいる女子高生へと焦点がぐいっと変わる、この一節がやっぱり面白い。


世紀の発見 (河出文庫)

世紀の発見 (河出文庫)