アポストロス・ドクシアディス、クリストス・パパデミトリウ『ロジ・コミックス』

サブタイトルは「ラッセルとめぐる論理哲学入門」
バートランド・ラッセルの半生を描くグラフィックノベル


著者の名前として、記事タイトルには、アポストロス・ドクシアディスとクリストス・パパデミトリウの名前を挙げたが、作画として、アレコス・パパダトス、アニー・デイ・ドンナの名もクレジットされている。
(より細かくいうと、アレコスはキャラクターデザインと作画、アニーは彩色、さらに調査担当のアン・バーディ、さらにペン入れのスタッフも2人クレジットされている)
松本剛史翻訳、高村夏輝監修


論理学を通じて真理を探求したラッセルの半生と彼を取り巻く論理学者・数学者・哲学者の群像を描く物語
「マンガで学ぶ論理学・哲学」的な本ではないので、この本を読んでも、ラッセルの哲学について分かるとかいうことはない
また、「物語であること」が強調されており、事実をもとにしてはいるが、事実とは異なる部分も多いことが巻末において筆者自ら解説されている。例えば、ラッセルがカントールフレーゲと直接会っているシーンがあるが、実際には直接会ったことはなかった。


この物語は、3つの階層にわかれた箱物語の構造をとっている。
つまり、
(1)作者であるアポストロスとクリストス、およびスタジオのメンバーが、この物語の内容について語るパート
(2)ラッセル自身が1939年の講演で自らの半生を語っているパート
(3)ラッセルの半生が描かれるパート
もちろん(3)の部分が大半を占めるのだけど、時々(2)や(1)へと戻ってくる。(1)や(2)でもそれぞれの物語が進行する。


アポストロスは、基本的にストーリーを考えていて、クリストスは論理学者としてそれのアドバイザーを務めている感じ。あと、作画スタッフと調査スタッフがいる。
アポストロスはこの物語のテーマを「論理と狂気」だと考えている。論理学者は狂うっていう悲劇を描こうとしている。ちなみに、この人達みんなギリシア人なので、ギリシア悲劇との重ね合わせもある。
それに対して、クリストスは、最初この「論理と狂気」というテーマ自体に疑義を示している。結局、このテーマ自体には納得するのだけど、ラッセルと論理学の行きついた先(ゲーデル不完全性定理)を悲劇として描こうとするアポストロスに対して、彼らの仕事がコンピュータを生むことになったのだから決して悲劇ではないと反論するクリストスという構図が、最後になって出てくることになる。


必ずしも事実そのままを描いているわけではなく、物語にするための単純化などを施しているという注意がついている本なわけだけれども、それでも「へえ知らなかったー」というとことが色々あって面白かった。
というか、自分が哲学者らの伝記的事実をほとんど知らないからだけれども。
ラッセルとホワイトヘッドが『プリンキピア・マテマティカ』を書いたというのは知っていたけれど、その執筆作業の過程で、ついにラッセルが妻をつれてホワイトヘッドの家に一緒に住むようになる、とかは知らなかった。しかも、ラッセルはホワイトヘッドの妻のことを好きになってしまう。結果的にラッセルは自分の妻と別れるも、ホワイトヘッドの妻と一緒になることもなかった。
カントールが晩年は頭がおかしくなってたとか、フレーゲが晩年は反ユダヤ言説を書くようになってたとかも知らなかった。


ラッセルとウィトゲンシュタインの対立は、実在論反実在論の対立みたいな感じで描かれていた。ここらへん、正直よくわかってなくて、まあ単純化なのかもしれないけど、なるほどーって思った。
『プリンキピア・マテマティカ』、ラッセル的にはまだ十分ではなかったみたいだけど、ホワイトヘッドがもう出版しようと話を進めて出版する。で、ラッセルはそのあとにウィトゲンシュタインと出会うのだけど、もうラッセルはその頃には論理学の方にはちょっと疲れていて、ウィトゲンシュタインの情熱に若き日の自分を見る。
第一次大戦が始まり、ラッセルは平和主義の活動を始め、一方、ウィトゲンシュタインは志願して従軍する。
戦後、ウィトゲンシュタインは『論考』を書き上げ、2人は再会する。
ラッセルとウィトゲンシュタインが話す雪の日のシーンのなんともいえない悲しさ。
ラッセルの追い求めていたものを、すごく軽い感じで、こともなげにウィトゲンシュタインは否定しちゃう。
このあとも話は続くのだけど、ここが事実上のクライマックスだと思う。


ただまあ、ここで終わっちゃうとやっぱりただの悲劇であって、ここで終わらないところもそれなりにポイントだと思うけど、このあとってラッセルが子育てと結婚に(また)失敗してたりとか、やっぱりあんまりろくな展開しない(この展開をもって、、アポストロスはやっぱり、論理と狂気のつながりを強調しようとする)。


戦争との関係、というのもこの物語の中ではポイントとなっている。
そもそも、ラッセルが自分の半生を語る講演というのは、第二次大戦に対して孤立主義を掲げてアメリカの参戦に反対するアメリカ人たちがラッセルを取り囲むところから始まる。第一次大戦の時に平和主義者だったラッセルを自分たちの味方にしようとするのだけど、それに対してラッセルが語る、という形となっている。
ここらへん、アメリカの孤立主義者が当時、ナチスをどう考えていたかみたいなのがちょっと描かれていて面白い。あまり深刻な危険と捉えてない。それに対してラッセルが、自由を脅かす奴には抵抗しなきゃと。
悲劇にしたいアポストロスに対して、クリストスは、ノイマンチューリングの名前をあげて、特にチューリングについて、論理がナチスを負かしたんだと反論するあたりは、それはそれで逆にふったロマンでしかないような気もした(ちなみに、即座に「同性愛を「治療」されたけどね」という相対化がなされるけど)。


最後のギリシア悲劇のところは、一読しただけだとちゃんと分からなかった