フランチェスコ・グアラ『制度とは何か』(瀧澤 弘和 監訳・水野 孝之 訳)

社会科学の哲学の立場から書かれた制度論
経済学的な制度理解と哲学的な制度理解とを架橋するための議論が展開されている。
二部構成となっており、前半では、制度についての均衡説と制度についてのルール説を統合した統一理論「均衡としてのルール」説を展開する。
ただし、これは均衡説とルール説との単なる折衷案ではなく、ルール説を均衡説へと還元するような方向の統一理論(正確には、ルール説の代表的立場であるサールが説く「構成的ルール」を、統整的ルール(均衡をももたらす条件付き戦略)へと還元する立場)。
後半では、制度についての実在論の立場にたち、反実在論的な社会構成主義を批判すると同時に、社会構成主義の動機である規範的アプローチないし改良主義的なアプローチを、実在論によって掬いとろうとしている。

個人的文脈

社会科学の哲学、社会的存在論については、以前から興味があった
例えば、下記の倉田論文 
『現代思想2017年12月臨時増刊号 総特集=分析哲学』 - logical cypher scape2

経済学の制度論については、本書の監訳者でもある瀧澤の下記著作
瀧澤弘和『現代経済学』(一部) - logical cypher scape2

この本は、発売当初から存在を知っていたが、下記の本でも言及されていて、さらに興味をもった
倉田剛『日常世界を哲学する』 - logical cypher scape2

が、この本を読むことに対するさらなるきっかけとしては、銭さんが芸術のカテゴリー論に、グァラの制度論を応用する議論を行ったこと
発表「駄作を愛でる/傑作を呪う」|応用哲学会年次大会あとがき - obakeweb
また、エイベルのフィクション論も、グァラの制度論を応用しているらしい。
Fiction - Catharine Abell - Oxford University Press

というわけで、美学分野からもグァラ制度論を抑えておく方がよさそうな流れが出てきたのもあって、実際に手にとることにした。
ところで、読んでみてグァラの制度論はなんとなく理解はできたと思うが、自分は銭さんみたく応用できる気がしないなあとも思った。

本書の構成

第1章から第6章までが第1部で「均衡としてのルール」説が展開されている
グァラ説の肝は第4章にあり、第5章と第6章はサール説をいかに取り込むかという議論
第7章と第8章は「幕間」とされており、推論がどのようになされるかという話
第9章から第14章が第2部で、実在論改良主義について論じられている。

第1章 ルール

ルールベースの制度論と均衡ベースの制度論について
(1)制度がルールであると述べるだけでは、人々がそれに従ったり、従わなかったりする理由は説明できない
(2)あるルールが効果的である(あるいは、名目的に過ぎない)ことを説明するには遵守を促進する要因(インセンティブ)の分析が必要
(3)その要因は均衡状態にある


トマス・シェリングのフォーカル・ポイント
デイヴィッド・ルイスの『コンヴェンション』

第2章 ゲーム

ゲーム理論について解説
特にコーディネーション・ゲームについて
複数均衡を持ったゲームのこと
下記の4つの例が挙げられている。
(a)走行ゲーム、(b)両性の闘い、(c)ハイ&ロウ、(d)鹿狩り
なお、ゲーム理論で有名な囚人のジレンマは、均衡が1つしかないのでコーディネーション・ゲームではない
均衡モデルは、「メカニズム的(因果的)説明」は与えないが、「機能的説明」の定式化に役立つ
均衡モデルは「ルールは人々がコーディネーション問題を解決するのに役立つという理由で存在する」という機能的説明を与える
ペティットによれば、機能的説明は創発の説明と復元力の説明に役立つ
均衡モデルによる説明は、とりわけルールの復元力の説明に役に立つ(=ルールが生じてきた理由は説明できないが、人々がルールを守り続ける理由は説明できる)

第3章 貨幣

社会科学者による貨幣の説明と、第1章までの制度の説明が適合することを示す
哲学者は、社会科学者が貨幣の存在論への関心が乏しいと考えているが、妥当な概念化をしていることを示す
「貨幣の商品理論」と「貨幣の証券理論」について
証券理論の方が、歴史記述としてより正しい
また、証券理論は、貨幣制度を頑健にする信念がどのように復元力を持つか説明する。国家がコーディネーション装置となっている。

第4章 相関

本章では、「相関均衡」という概念を通じて、制度は均衡したルールである、という本書が主張する制度概念を導いている。

  • ソバト渓谷の放牧ゲーム(タカ・ハトゲーム)

非対称な均衡をもったコーディネーション問題→条件付き戦略の導入
条件つき戦略の時、利得が対称になる
条件つき戦略において、境界線と領土という制度的存在物が出てくる(「川の北側ならば放牧する」という条件つき戦略。川が境界線となり、川の北側が「領土」となる)

  • 相関均衡

1970年代 ロバート・オーマンにより研究される
1995年 ピーター・ヴァンダーシュラマフが、ルイスのコンヴェンションが相関均衡であることを示す
ゲームGの相関均衡:新しい戦略の追加でGを拡張したゲームG*のナッシュ均衡
新しい戦略:XならばY
Xは相関装置の性質
私的にランダムに戦略を選ぶのではなく、公的な装置を用いて戦略を決める(「振付師」によるコイン投げ。その結果は共有知識)。


潜在的には他にも様々な相関均衡がありうるが、その中で一つの戦略が選ばれるのは、顕著さ(フォーカル・ポイント)による。フォーカル・ポイントは、歴史によって創出する
顕著さの謎は、相関均衡の理論によって解けるものではない
均衡はルールの集合ともいえる


動物にも相関均衡が見られるが、動物は制度を持たない
人間と動物を分けるのは、新たな均衡を発明できるかどうか。


制度の理論は、ルールが行動に影響を及ぼす可能性を持つものであり、単に行動を記述するための装置ではない事実を説明しなければならない


制度:均衡したルールであり、かつルールはある形式の象徴的表現を用いて要約される


均衡とルールを結びつけるアイデアは、グライフとキングストン青木昌彦にも見られる

第5章 構成

5章と6章とで、ルールアプローチの代表でもあるサールの理論を、均衡アプローチに還元できることを示し、統一理論の中に取り込む。
サールは、制度=構成的ルールの体系として、自分のアプローチは均衡アプローチと相容れないとしている。


統整的*1ルール:もしXならばYせよ
構成的ルール:CにおいてXはYとみなされる
※2つに分ける考え方はロールズ(要約的ルールと実践的ルール)に由来
サールによる構成的ルールの定式化は、単純かつ覚えやすいので哲学において成功を収めたが、複雑なものを覆い隠した
 

第4章で挙げた放牧ゲームは、統制的ルールだけで記述できるが、人類学者が観察したら、境界や領土などの制度的存在物を見出すだろう

基礎ルール(B):もしCならば、XはY
地位ルール(S):もしYならばZ
B+S=CR(構成的ルール)
CR:もしCならばXはYであり、かつ、もしYならばZである
CRからYを除去すると
もしCならばZ

Y項を発明するだけで、統整的ルールは構成的ルールへ拡張可能
Yは消去可能
ただし、思考と言語の経済を促進するというプラグマティックな機能を持つ
しかし、Yは統整的ルールと並んで、あるいはその上位に存在するわけではない
(椅子に原子のリストを加えて二重に数える誤謬)*2
Y項(理論語)は、ルールの束を一度に指し示すために導入される(単純な制度では理論語はわざわざ導入されない)


なお、筆者は野球を例に使っていたが、巻末についている文献案内で野球についてよく分かっていないことが告白されている

第6章 規範性

制度の「機能的性質」と「規範的な力」に焦点を当て、構成的ルールなしでもやっていけるかを検討する
構成的ルール(CならばXはY)において、YにはXにおいては果たせなかった機能が割り当てられる
Yを消去可能とする統一理論はこれをどのように説明するか


そもそも制度の機能は、コーディネーションを達成すること
構成的ルールでは、機能は対象に割り当てられる、と考える
統一理論では、制度は、コーディネーション・ゲームの条件付き戦略であり、条件付き戦略は統整的ルール。統整的ルールが機能を持つと考える。
ルールが機能を持つことで、コーディネーション装置として使われる対象(例えば信号機)も機能を持つ、と考える。
→構成的ルールは言葉を端折りすぎ


サール:Y項の導入は新たな規範的な力を生み出す
反論:どのようにして義務論的性質(力)が機能から導出できるのか全く明らかでない

→統一理論は、規範性を表現する道具は提供できる
一方、規範性がどこから生じるかという問題に対しては答えない。
規範性についての説明は様々な立場がありどれが正しいのかまだ分からないから、統一理論が中立的であるのは大事
一方、統一理論は、制度評価を可能にしない
このことで不満を持たれるかもしれないが、それは倫理の領域で社会存在論の領域ではない。統一理論が中立的なことなら2つの学問を分けておくのにも都合がよい


統一理論では、費用の観点で規範性を表現する
「内部費用(内面化された規範)」と「外部費用(外部制裁による規範)」
クロフォードとオストロムが、デルタ・パラメータ(δ)を導入
→規範的な力をデルタ・パラメータ(費用)によって表す
例えば、デルタによって囚人のジレンマが修正できる。「相手プレーヤーが協力するなら協力すべし」というルールに規範的な力があるとして、それを追加的な費用δとして表現すると、そのδが十分に大きいとき、コーディネーション・ゲームになる。
コーディネーション・ゲームであっても、プレーヤーたちがゲームについての完全な情報を持っているとは限らないので、追加的な費用をもうけることが有用になる。
多くのコンヴェンションが規範に転じるのは驚くことではない。


制度の二つの機能
(1)行動を安定させ行動の予測可能性を高める
(2)新たな行動を生み出す
規範は、これら2つの機能の実現に役立つ

第7章 読心

コーディネーションを成功させるためには、ルールに従うだけでなく、相手もルールに従うことを信じ、全員が同じことを信じているのが大事
これを読心問題と呼ぶ
第7章と第8章は、第1部と第2部の間の幕間となっており、この読心ならびに相手の行動をどう推論するかということについて論じている。


D.ルイスが、共通知識や公的事象ないしフォーカル・ポイントによって説明したことを紹介した上で、それが、心の理論におけるシミュレーション説と親和的であることを論じている。
また、アダム・モートンの解決思考というのが、やはりシミュレーションにより、読心問題を解決している

NYで待ち合わせしなければならないが、いつどこで会うか指示を受けておらず、待ち合わせ相手と相談することもできない。
公的事象Pは存在せず、私的な感覚だけでも共通信念が形成される例
同じ信念を有するからコーディネートするのではなく、コーディネートしたいと思うから同じ信念を持つ


「通常」において、シミュレーションは有効
対称性が成り立っていないと信じる理由があるとき、シミュレートする傾向が減り、理論的推論が行われる

第8章 集合性

個人主義的モードと集合的モードのを、推論のスタイルの違いとして調停する
個人主義的モード:例)7章に出てきたモートンの解決思考
集合的モード:近年の社会的存在論は集合的志向性を強調する


個人主義的にも集合的でも表現できることから、この議論はなされている
標準的な社会科学では、集合的意図の存在を仮定しない。しかし、社会的存在論では中心的なトピック
哲学者は、社会的現象と非社会的現象を区別するのが集合的志向性だと考えている
が、それだと、社会的存在論心の哲学の議論に依存することになる


集合的志向性は社会性にとって不可欠か?
サールやギルバート、セラーズらの、規範性による議論を紹介するが、集合的意図では、差別的な制度について説明できないという反論
サールはこの理論を修正しているが、そもそも集合的云々自体が不要ではないか、と
ただし、集合的モードの推論はコーディネーションにとって有用
前章で紹介した解決思考とチーム推論というものが、どちらもシミュレーションを使うという点でよく似ている。
「私を使って相手をシミュレートする」という推論スタイルが重要で、「私とあなた」と考えるか「あなたを含む私たち」と考えるかは二次的なこと


集合的志向性について、日本語で書かれた文献は少ないが、自分は下記の文献で読んだことがある。
柏端達也『自己欺瞞と自己犠牲』 - logical cypher scape26章~8章
倉田剛『日常世界を哲学する』 - logical cypher scape23章
『ワードマップ心の哲学』(一部) - logical cypher scape2Ⅱ-21


個人的には、集合的志向性は、集団的行為を説明するために十分検討すべき概念なのだと思う(というか、倉田本などを読んだことによてそう思うようになっている)が、グァラの主張は、集合的志向性があるかどうか、ではなく、制度や規範についての説明と集合的志向性の存在は独立した問題だ、ということのようだ。

第9章 再帰性

自然界と人間界とは、フィードバック・ループによって境界が引かれている、という考えへの検討
本章:フィードバック・ループ概念の解明
第10章:社会的な種類について
第11・12章:実在論と可謬主義について


マートン「自己成就的予言」(1948)
ハッキング「人間の種類に関するループ効果」(1995)
ピグマリオン効果

自己成就的予言=均衡
頑健な均衡と脆弱な均衡が有り、後者を転換点と呼ぶ
転換点を越えて均衡の激変が起こるダイナミクスを情報カスケードと呼ぶ
良い均衡と良くない均衡があり、自己成就的予言は、そのいずれも導くことがある
マートンが自己成就的予言が害をなすものだと考えていたのは、一面的な見方
良い均衡の脆弱性は恐ろしいが、同じ脆弱性が悪い均衡を変える機会にもなる

第10章 相互作用

自然的な種類と社会的な種類の区別を相互作用性によって導こうとする議論について
相互作用性は不安定性を含意するように思われているが、均衡アプローチは、社会的制度や社会的存在が状況依存的ではあるが安定性があることを示す
これは改革を目指す規範的研究とメカニズムを解明する認識論的研究の両立を可能にする
→グァラは、社会的な種類もまた実在的な種であることを示そうとしている
→実在的かどうかについては、因果的依存性と構成的依存性の2つの観点があり、本章は、因果的依存性について論じている章。11章で構成的依存性について論じられる。

因果メカニズムの存在
相関が比較的安定
実在的な種類は帰納的推論と一般化を支える(投射可能)
この意味では、自然的な種類だけでなく社会的な種類も実在的な種類に属すことができる

  • ハッキングによる線引き

自然的な種類:無反応
社会的な種類:相互作用する
→反論:自然にも相互作用する種類はある(ダグラスが指摘したブドウ球菌の例)
相互作用性は、不安定性を含意するので、科学的推論を難しくする、という解釈がある
しかし、相互作用性が不安定性を含意するかどうかは疑わしい
相互作用性は、状況依存的であり必然性を欠くが、安定性を欠くわけではない
社会構成主義
社会構成主義の第一の統一的原理:社会的な種類を自然主義的に説明することの拒絶
人種やジェンダーなどの自然的(生物学的)形質に基づく説明と社会的・経済的役割の結びつき(への拒絶)
本質主義や自然的説明は、制度を維持するのに役に立つ
社会構成主義は、こうした説明を批判することで、制度に挑むことを目標とする
→科学的説明自体に挑み相対主義を採用する者もいる
→科学は自然科学だけではなく、別の擬似的説明に置き換えられることもあるので、この戦略は誤り


均衡アプローチは、社会構成主義というプロジェクトの「実現可能性」と「成功の難しさ」の理由をいずれも説明できる
規範的プロジェクトと認識論的プロジェクトは手を取り合うべき

第11章 依存性

反実在論における依存性の2つの解釈
1.因果的依存性 →9・10章
2.非因果的依存性 →11・12章


11章では、非因果的依存性から導かれる不可謬主義について論じ、
12章では、非因果的依存性を否定する
グァラは、反実在論と不可謬主義いずれも誤りだと考えているが、11章ではまず、反実在論と不可謬主義がどのような議論なのかを整理している。


実在は心から独立していなければいけない(実在論の哲学的定式化のほとんどが求める要件)
因果的独立・依存と非因果的独立・依存の2つの解釈がある
因果的依存については10章で論じたとおり
非因果的依存は、存在論的~とか構成的~とか言われることもある

トークン存在物Xが社会的種類kに属するならば、必然的にXは Kという集合的態度(CA)がある
ある集団の集合的信念に依存している存在物について、その集団はその存在物がなんであるかに気付いていなければならない
だから、
心に依存する存在は心から独立した存在より認識論的に透明

※例えば、ある石膏の塊が彫刻であるためには、何が彫刻であるかという集合的信念が必要だとする。だとすれば、集合的信念を持っている集団にとって、何が彫刻かどうかは自明ということ。

実在しているならば以下の3つが当てはまる
1.外延性原理:人の諸概念から独立して外延を決定
2.誤解原理
3.無知原理
トマソン曰く社会的な種類はどれも当てはまらない
社会的種類の不可謬主義を擁護


社会的種類の不可謬主義は、社会科学を自然科学と分けるものであるとし、解釈学の伝統やウィトゲンシュタイン的伝統で、この見解が共有されているとしている。

  • 不可謬主義に対する但し書き
    • 全ての社会的種類には適用できない
    • 全ての要員の受容は要請できない

これらの但し書きにより、不可謬主義の領域は縮小
方法論的多元主義は導けなくなる
が、不可謬主義がトリビアルになるわけではない

第12章 実在論

反実在論における依存性の2つの解釈
1.因果的依存性 →9・10章
2.非因果的依存性 →11・12章


11章では、非因果的依存性から導かれる不可謬主義について論じ、
12章では、非因果的依存性を否定する


XをKにする条件Cに関する無知が一般的にもかかわらず、制度的な種類が存在するならば、依存性テーゼは成り立たない
→グァラはこれの例として貨幣を挙げる


貨幣と通貨を区別する
【貨幣として承認されていること】と【貨幣であること】は別
【分類上、人々がどのような信念を持つか】ではなく、【社会的相互作用の中で人々がどのように扱うか】


コインや手形(通貨)は人工物でもある
人工物は、意図された機能に基づいて分類される傾向があり、機能しなくなってもそれとして分類される
価値が下がった通貨は、機能しなくなった人工物であり機能しなくなった制度
→上述の傾向から、貨幣の機能を失った通貨のことも貨幣として分類してしまう
しかし、通貨であることは貨幣であることの十分条件ではない(例えば貝殻)

  • 意図と機能の分離

=制度が統整的ルールのシステムであることの帰結

貨幣(制度)とは、ある行為(「支払いとして受容する」)の集合とそれに関わる期待の集合
Cの条件は、コーディネーション装置(将来も受容されることを確信させるためのもの)
【コーディネーション装置】と【行為と期待の体系】の取り違え


制度的種類と自然的な種類の相違はそれほど重要ではない
制度的種類にとって(も)重要な性質=機能的性質
制度的種類かどうかはコンヴェンションの問題ではない
コンヴェンションは、コーディネート装置の選択に役割を果たすだけ
何をどう呼ぶのかという言語的なレベルでは、コンヴェンショナリズムは成立
何であるのかという問題は、コンヴェンション的ではない


機能不全をきたしている人工物、機能不全をきたしている有機物の議論に対して、機能不全をきたしている制度は、これまで議論されてこなかったという

第13章 意味

実在論と制度の改良をどのように両立させるか
結婚制度の改良(同性婚)を例としたケーススタディ
13章で従来的な考えを確認
14章でグァラ論を展開する


実在論と意味に関する外在主義は密接に関係

同性カップルの法的結びつきに対する「結婚」という言葉の使用について
召喚された専門家の中に2名の言語哲学者(ロバート・ステイトン、アデン・メルシェ)
→ステイトン:「結婚」という言葉の意味は「男性と女性の結びつき」であり、同性の結びつきには使用できない
→制度を実践として見る見解をとり、歴史的に男性と女性の結びつきを意味するのに用いられてきたと主張
一方、同性愛者にも「結婚」は適用されると考える「改革主義者」は、どのようにこれを正当化できるか

    • 経験的アプローチ

過去に同性婚があった事例を示すアプローチ
ex.皇帝ネロの同性婚
→過去にそういう事例があったとしても、それは異例のケースであって、正真正銘の事例ではないという反論がありうる

    • 規範的アプローチ

私たちが制度がどうあってほしいか、将来どうなってほしいか
社会構成主義の学者が特に追求したアプローチ

      • サリー・ハスランガーの議論

(1)稼働的概念:言葉の使用と結びついた概念(実践に内包された概念)
(2)顕現的概念:言葉を使用する人々によって使用されている理論・ステレオタイプ
(3)規範的概念:目標。私たちが望むような制度的存在物
この3つは一致することもあれば、不整合が生じる時もある
再帰的均衡により、この3つの整合性を達成することが目標となる

伝統主義者と改革主義者では、規範的原理に関して同意しないので、規範的考慮だけで制度とは何かを決めることはできない
しかし、事実の問題については、対話が可能
実在論のアドバンテージ

第14章 改革

実在論と制度の改良をどのように両立させるか
結婚制度の改良(同性婚)を例としたケーススタディ
13章で従来的な考えを確認
14章でグァラ論を展開する

下記の2つを両立させる方法を提案
(1)社会的制度の本性は世界のあり方によって決まる(外在主義的コミットメント)
(2)諸制度は、それらを異なるものにしなくても変えられる(本性を変化させることなく規範的に望ましいものへと修正できる)

  • 制度タイプと制度トークンの区別
    • 歴史的に存在してきた個々の結婚制度は、制度タイプの個別の例化(トークン)

=関連するコーディネーション問題の集合に対する個別の解

    • 結婚とは一般的には何か(結婚タイプとは何か)

→コーディネーション問題全体


世界各地、あるいは歴史上の様々なトークン制度は、どういう諸問題を解決しているのかという点で類似性がある
例えば結婚は、子どもの生産や教育などの問題や、その経済的協力、情動的サポートの問題を解決する
しかし、これらは「クラスタ」を構成しており、単一の本質があるわけではない
※タイプは普遍者で因果に関与しない、トークンは個物で因果に関与するという説明がなされている

  • 記述と規範の区別

結婚とは何かという問題(タイプの問題)と私たちが結婚のどのバージョンを採用すべきかという問題(トークンの問題)の区別
規範的考慮は後者に関わる

前者と後者の区別は、異なる専門性に対応する
前者は、社会的な種類についての探求であり、社会科学者たちが分類を担う
後者は、規範的な種類についての探求であり、例えば裁判官あるいは市民たちが担う
※Halpern v. Canada事件に召還されたアデン・メルシェは「法的な種類」というカテゴリを導入→立法による民主的な決定か、あるいは司法の専門性による決定がなされる

解説

監訳者である瀧澤による解説。
最後に、他の論者との争点の比較がされてる

  • ジョセフ・ヒースとの比較

グァラ:ルイスのコンヴェンション論に近く、制度の規範的側面については受け身。囚人のジレンマとコーディネーション問題では、後者をより根本的と捉え、前者を後者に還元する。
ヒース:規範的同調性を根源におく。囚人のジレンマとコーディネーション問題は異なる問題で、囚人のジレンマのような問題がより根本的とする

「均衡したルール」としての制度概念は、青木にも見られる
推論を用いて均衡行動の選択が行われるのか問題
青木:晩年はグァラと同様に「公的事象」を重視したが、むしろ、推論に基づく選択をせずに制度的秩序が生み出されるプロセスを重視

おまけ(倉田論文について)

グァラについて言及している倉田剛の論文を2編読んだので、これは別立ての記事にしておく

感想

○○は制度だとか、慣習だとかは、わりとよく言われがち、言ってしまいがちだが、じゃあ実際に制度や慣習とは一体何なのか、というと答えられなかったりするので、ちょっと制度の哲学を概観してみたかった
なるほどと思って読んだが、しかし、相関均衡を自分で応用して使えるようにするのはちょっと大変かも
意図と機能の区別のあたりとか面白かった
機能を失った制度の話とか
グォラ的には、それが制度かどうかは機能によって決まるから、機能を失ったら制度ではなくなってしまうのだと思うけど、しかし、有名無実化した(誰も従っていない)制度もまた制度なのでは、という気もするので、そのあたりは気になる。


実在論改良主義の関係が、読む前には分からなかったというか、実在論と相性の悪そうな主張をしているように思えたのだけど、タイプとトークンを区別することによって両立させるという話が、面白いといえば面白かった。


倉田論文を読み、確かに法学が欠けているなと気づいた
本書帯にも、経済学、政治学、人類学、社会学はあがっているのだけど

*1:統整的はregulativeを訳すにあたっての訳者の造語。普通は、統制的と訳される

*2:倉田剛が指摘しているが、現在の形而上学の一般的な見解としては、これは誤謬としないはず