柏端達也『自己欺瞞と自己犠牲』

5年前くらいから読みたいと思っていて、ようやく読めた本w
サブタイトルは「非合理性の哲学入門」
行為の哲学に属する話で、非合理な行為に思われる「自己欺瞞」と「自己犠牲」について分析を試みる。
非合理というのは、「何故それをやったのか」という問いに対してうまく答えられないというようなこと(合理性の規準について、本書内でもっと詳しく与えられる)。
自己欺瞞については、どういう非合理性なのか
自己犠牲については、実は合理的な行為として説明できる
というようなことが書かれている。
タイトルだと、自己欺瞞と自己犠牲で半々っぽいけど、自己欺瞞が1章と2章、自己犠牲が3章から8章まで、と自己犠牲の方が、割かれている紙面が多い。
論理学の道具立てが色々導入されていて、そうしたものについての入門としても読める。
具体的には、信念の論理、擬順序、メレオロジー
共同行為とか、一人称複数形における「観察によらない知識」とかの話もでてくる。実を言えば、自己欺瞞や自己犠牲よりも、そのあたりに興味があって読んだ。
あと、自己犠牲については、利他的ということでもあり、これを共同性から分析を試みるというのは、トマセロの協力本読んだ後だと特に興味深く読めた。

第1部 自己欺瞞

1章ではまず、自己欺瞞とは一体何かということの規定がなされる。
pであることを知っているにも関わらず、pでないと信じているような状態で、願望や恐怖などが原因となっており、pでないと信じる根拠が薄弱であること。
2章では、信念の論理からこのような自己欺瞞が可能かどうか論じる。
信念の論理は、合理的な主体について常識的な理解に沿ったモデルで、標準的な命題論理に、「pが論理的真理ならば、信念主体はpを信じている」「信念主体がpと信じているならば、その信念主体が他方でpでないと信じていることはない」「信念主体がpと信じているならば、その信念主体は自分がpと信じていることも信じている」などを加えることで成り立っている。意味論として、クリプキモデルの一つを与えることもできてるらしい。
自分はpと信じていると信じているが、実はpと信じていないのを、ヒンティッカ型自己欺瞞
自分はpと信じていないと信じているが、実はpと信じているのを、デイヴィドソン自己欺瞞と分類する。
自己欺瞞的な主体は、自分が自己欺瞞に陥っていることを認めないので、さらに高階の自己欺瞞を行う。自己欺瞞は動的な過程である、と結論

第2部 自己犠牲

自己犠牲は可能か

3章では、自己犠牲とは可能か、というのがどういう問題が規定している
一見、自己犠牲的に見える行為であっても、その人がその行為(人助けなり何なり)を自分がしたくてしているのであれば、それは自己犠牲とは言わないだろう。
黒田亘が論じた「行為の解釈の根本原則」を、「行為者はかならず「すべての点を考慮して自分にとってよりよい」と判断されるようなことを選択しようと意図する。」と定式化し、これを合理性の規準とする。自己犠牲的な行為は、この規準に違反している。

ジレンマについて

4章と5章では、自己犠牲から離れて、この合理性の規準について検討する。上で定式化した規準よりも、よりはっきりした規準、弱めた規準などが出される。そして、合理性の規準に従っても、決断を下せないジレンマについて検討される。
具体的には「よりよい」ということについて分析される
「xはyよりよい」などといった関係の性質について。推移性、反射性とともに、完備性という性質が重要になる。すなわち「∀x∀y(xRy∨yRx)」(ただし、xRyは、「xがy以上によい」という意味)という性質である。xとyが比較可能という性質である。ちなみに、xとyが同じくらいよいも、xとyが比較可能なものに含まれる*1
推移性、反射性、完備性の性質をどれも満たした関係を、「弱順序」と呼ぶ。
対して、完備性を欠く関係を、「擬順序」(ないし「準順序」「前順序」)と呼ぶ。
アローは、合理性の前提として完備性を置いたが、筆者は、普通は完備性はなかなか備わっていないと考え、経済学者や哲学者が完備性を前提にしてしまうことを「最大値症候群」と呼んで、批判している。その仮定は強すぎるのである。
そして、人間が行為する際の合理性というのも、擬順序に即したものへと弱めることが提案される。
完備性を備えた順序関係における、最もよい選択肢を最善と呼ぶのに対して、
本書では、完備性を備えていない順序関係において、それよりもよいものがない選択肢を、極善と呼ぶことにする。
極善の選択肢を選ぶことは、他の尺度で見ると、悪い選択肢を選ぶことでもあるから、そこにはジレンマが発生する。
尺度が統合されていないこと(価値の分裂*2 )がその原因だが、尺度が単一でも比較不可能性はある(溺れそうな2人のうちどちらか1人を助ける時とか)。
ビュリダンのロバのケースはジレンマではない*3
ジレンマの解決というのが、最善の選択肢を選ぶ道筋を選ぶ方法を探すことであるならば、筆者はこれを放棄していると自ら書いている。しかし、そもそも最善の選択肢なるものは存在しない(存在すると考えるのは「最大値症候群」)のであり、aとbとで何故aを選んだのか答えられなかったとしても、極善としてaを選んでいるなら、弱められた合理性には従えていることにある。
さて、5章の後半で再び自己犠牲の話へと戻る。そこで、私的なものと公的ないし「われわれ」的なものという表現が出てくる。自己犠牲とは、私的な価値と公的な価値との衝突と考えられがちである。ここまで、価値の分裂によるジレンマというものを論じてきたので、そういう論点で自己犠牲を考えるのかと思いきや、本書は自己犠牲について異なる方向からアプローチする。

共同行為と自己犠牲

6章から8章で、共同行為と自己犠牲について論じられる。
「私」と「われわれ」について考えるために、メレオロジーという道具が導入される。全体と部分についての考えである。「部分である」という時、以下の3つを満たす。
「いかなるものもそれ自身の部分である」(反射性)
「あるものの部分の部分もまたそのあるものの部分である」(推移性)
「あるものとそれの部分があって、逆に前者が後者の部分でもあるとすれば、両者は同一である」(反対称性)
この3つの性質を満たす関係を「半順序」と呼ぶ。半順序関係は、全体部分関係以外にもある。全体部分関係を特徴付けるものとしては他に、完備性を満たさないこと、真部分が全体よりかならず小さいことがある。
さらに、諸部分が一致すれば全体も一致するという「外延性」がある。
二つのものの和(メレオロジカルな和)をつくる操作というものも導入される。いかなるものもx+yと部分を共有するならば、xまたはyと部分を共有するし、xまたはyと部分を共有するならばx+yとも部分を共有する。
いくつか仮定をおけば、「任意の二者の和が存在する」ということも成立する。
外延性から、和の唯一性が保証されている。


その上で、行為の部分と全体を考える。
太郎と花子が一緒にピザを食べているといった場合、太郎がピザを食べるという行為と花子がピザを食べる行為のメレオロジカルな和として共同行為(太郎と花子がピザを食べる)を考える。その共同行為の行為者は、「太郎+花子」という行為者太郎と行為者花子のメレオロジカルな和である。
共同行為はどういう時に共同行為なのだろうか。太郎と花子が一緒にピザを食べているとしても、一緒にピザを食べているということを互いに知らずにたまたま一緒に食べているだけであったら、それは共同行為とは呼ばない。
ここで共同行為に必要なものとして「相互信念」が挙げられる。
また、共同行為しているかどうか日常的に判別する規準として、アンスコムが、意図的であるかどうかについて判断するのに導入した規準を、拡張することが提案される。
アンスコム規準というのは、「何故あなたは〜するのですか」と聞いて、相手がその問いを拒否しないかどうかというもの。あなたを「あなたたち」に拡張する。
ここで、共同行為である「われわれ」は、「われわれ」について「観察によらない知識」をもっていることになる。
「観察によらない知識」とは、直接性のことであり、不過謬性や私秘性ではないということが再三注意されている。


自己犠牲については、価値尺度の対立ではなく、「私」と「われわれ」の「視座」の対立であると論じられる。
「私」と「われわれ」は異なる判断を行うことがありうる。しかし、その判断のアウトプットである身体が同じもの(「私」の身体)であるために、対立が生じうる。
「私」の判断と「わたしたち」の判断のとりうる組み合わせを列挙して、どういう組み合わせが「自己犠牲」になるのかということを説明している。
「私」の視座と「わたしたち」の視座が不一致を起こして、かつ「わたしたち」の視座を優先して行為するのが自己犠牲である。逆に、「私」の視座を優先して行為する場合もある。この場合を本書ではさしあたり「反逆」と呼んでいる。
「私」の合理性の規準には反しているかもしれないが、「我々」の合理性の規準には合致しているので、自己犠牲は決して非合理な行為というわけではない。
また、「私」は最善判断(aはbよりよい)をしており、「われわれ」が極善判断(a、bがそれぞれ、それよりよりものがない)をしている時に、bの行為をする(つまり自己犠牲)場合、最善判断に逆らっているので微妙なケースに思えるかもしれないが、まず、「私」の最善判断は「われわれ」にとっての最善判断ではないので、「われわれ」の合理性の規準は破っていないし、最善判断を下すことができるからといって、極善判断しかできない主体よりも認識論的に優れているとは必ずしも言えないので優先する理由にはならない、とする。
「私」の視座と「われわれ」の視座が完全に一致するものを、筆者は自己犠牲とは呼ばない。ところで、たびたび引用される柴田は、自己犠牲を私的な価値と公的な価値の対立ととらえ、私的な価値が公的な価値と一致しているようなパターンは、「没入型の自己犠牲」として倫理的に批判していたりする。
筆者は、どのような行為が自己犠牲であるのか、自己犠牲とはどのように説明されるのかという点に関心があり、自己犠牲の倫理的な評価には関心を持っていない。自己犠牲については、倫理的に評価されるものもあれば、倫理的に評価されないものもある。さらにいえば、どうでもいい自己犠牲もたくさんある*4
筆者は一貫して、自己犠牲という概念と倫理的な評価は独立しているとしている。
最後に、共同行為ではなさそうな自己犠牲について検討される。例えば、なんらかの事故が起きたときに、浮き輪を人に譲って代わりに死んでしまうといった行為である。筆者はこういう場合でも、互いにとっさに助け合うという共同行為がなされているのではないか、とする。とっさな共同行為というものがありうる(「われわれ」には互いに見知りがある必要はない、複合的出来事であるなど)ことを論じる。


感想

面白かった
5年も待たずに読めばよかったと思うけどw 一方で、5年前に読んでてもあんまりよく分からなかっただろうなとも思う。
すごく哲学だなあと思いながら読んだ
哲学というのは必ずしも何か遠く離れた世界のことではなくて、この本はかなり日常的、常識的な世界の中で書かれている。出てくる道具立ては多少難しいかもしれないが、そこで主張されていることなどは常識的で納得しやすい。
「われわれ」は「われわれ」についての「観察によらない知識」を持っているとか、自然と納得していた。
「私」と「われわれ」のあたりで面白かったのは、「私」は「φする」という意図を持たずに、意図的にφすることができるんだなあということ。意図的に〜しているかどうかは、アンスコムの規準によって確かめられるとすると、「何故あなたはφしているんですか」と訊ねて、「われわれは〜がよいと思っているからです」と答えられれば、意図的にφしていることになっているけれど、別にそれが「私」の意図とは限らない、と。ちなみに、ここで理由を即答できる、ということを直接性と呼んでいる。
気になったのは、相互信念ないし共通知識のあたりくらいかなあ。無限を含む信念を持っているって言えるのか。筆者は、怯むことはないと言っている。
信念がどこかに格納されているというふうに考えると、無限を含む信念を持つためには無限の貯蔵庫が必要になることになってしまって問題だけど、信念ってそういうものじゃないし、みたいな。それ自体はまあ確かにそうだろう、と思う。
哲学において、信念とかどういうものとして扱われているのか、みたいなことも読んでいるとなんとなく分かってくると思う。
ちょいちょい文章がかっこよかったり、面白かったりした。
分析哲学って文章の文体的な面白さってあんまりないように思われているかもしれないけれど、意外とそういうのもあると個人的には思っている。



この記事が、今年最後の更新ということになると思う。
来年もまたよろしくお願いします。


自己欺瞞と自己犠牲 (双書エニグマ)

自己欺瞞と自己犠牲 (双書エニグマ)

*1:xとyが同じくらいよいは、「xRy∧yRx」となる。本書では「xIy」とも表記される

*2:例えばネーゲルが価値を分類している

*3:ジレンマが起こるのは、ある尺度から見るとl>r>n、別の尺度から見るとr>l>nの時。それに対して、ビュリダンのロバのケースは、l>n、r>nで、lIrなので、lとrのどちからをテキトーに選んでしまってよい

*4:例えば妻と買い物中に靴の裏にガムがついてしまった。妻との買い物という共同行為を優先させて、靴の裏のガムを取らないというのは、本書で規定した自己犠牲そのものであるが、しかしそれは倫理的によいか悪いかと問うほどのものではない