『現代思想2017年12月臨時増刊号 総特集=分析哲学』

多岐にわたるトピックを扱っていて、普段あまり触れてないジャンルについても知ることができてよかった。
個人的には、倉田さんの社会存在論、井頭さんの自然主義、佐藤さんの倫理学あたりが特に、勉強になったなー面白いなーという感じだった。
今回、特徴的なのは「人生の意味」などを扱う実存系の話題が3本程あったことだろう。
分析系の実存哲学など、全く想像できないという人も多いだろうが、近年ではこうしたトピックも普通に扱われるようになっている(例えば、分析的実存主義という言葉を、反出生主義で有名なベネターは使っている)。
また、他にも今回の特集では、分析的ヘーゲル主義と呼ばれる、分析哲学系のヘーゲルドイツ観念論研究について扱った論文も掲載されている。
というわけで、本特集は、分析哲学の従来のイメージを変えるところがあるのではないかと思う(自分としてもこのあたりは全く不勉強だったので面白かった)。
一方で、(これがない、あれがない等と言い出したらキリがないとは思うのだけど)生物学の哲学については1本もないのだな、というのは思った*1

現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学

現代思想 2017年12月臨時増刊号 総特集◎分析哲学

分析哲学ガイド
飯田隆 / 分析哲学は哲学になったか
伊藤邦武 / ラッセルとポアンカレ――一つの分析哲学前史

分析哲学の実践
入不二基義 / 現実性と潜在性
山拓央 / 原因または錯覚としての行為者

分析哲学のハードコア
▽分析形而上学
秋葉剛史 / 形而上学の目的をどう捉えるか
加地大介 / 穴の物象性と因果性
倉田剛 / 社会存在論――分析哲学における新たな社会理論
▽数学の哲学
金子洋之 / 文脈原理の哲学――フレーゲと数学の哲学におけるネオ論理主義
▽科学哲学
森田邦久 / 時間の経過と方向性について
心の哲学
太田紘史 / 意識をめぐる物理主義と反物理主義のバトルライン
▽分析美学
森功次 / 芸術的価値とは何か、そしてそれは必要なのか

分析哲学との対話
野家啓一 / 「分析哲学」私論――親和と違和のはざまで
森岡正博 / 「人生の意味」の哲学

分析哲学のハイブリディゼーション
自然主義
井頭昌彦 / 哲学的自然主義の内と外
ヘーゲル主義
村井忠康 / 生と論理――分析的ヘーゲル主義としてのトンプソンの生命論
倫理学
古田徹也 / 共同行為の問題圏
佐藤岳詩 / C・ダイアモンドの分析的倫理学批判――分析対象としての倫理をめぐって
▽実存哲学
山口尚 / 自由意志の不条理――分析哲学的‐実存的論考
村山達也 / 人生の意味の分析哲学
▽政治哲学
乙部延剛 / 政治哲学の地平――分析的政治哲学と大陸的政治哲学の交錯

飯田隆 / 分析哲学は哲学になったか

インタビュー
分析哲学の人文学的側面の強調

伊藤邦武 / ラッセルとポアンカレ――一つの分析哲学前史

ラッセルとポアンカレのあいだにあった論争について
算術や幾何学の問題のほかに、確率について

入不二基義 / 現実性と潜在性

「現実性」についてと「潜在性」についてのそれぞれの分析。
「現実性」についてはあまりピンとこなかったが、「潜在性」についてはわりと面白かった。ただし、それぞれ独立した話をしているわけではなくて、「潜在性」の分析は、「現実性」の分析を前提としている。
現実性の分析は、なんか永井均っぽいなーと思ったのだが、それについては森岡論文で
潜在性については、メガラ派の「現実的なものだけが可能である」「現実ではない可能性など存在しない」「可能性は現実性と一致する」という主張についてから始まる
ここで入不二は、メガラ派が「可能性」と呼ぶものを「潜在性」と呼び変える
そして、潜在性は、能力や傾向性を統一的に扱えるようにするものと考えrう

山拓央 / 原因または錯覚としての行為者

行為者因果説について
問題の多い説であるが、何か重要な洞察があるのではないか、と
行為者因果説の認識論的価値→物理的世界に因果を見いだしてします、出来事の擬人化は、行為者因果的な認識の仕方を人間が行ってしまうからではないか?

秋葉剛史 / 形而上学の目的をどう捉えるか

形而上学は、世界について真であるような理論を見つけることを目的としているのではないかという見解に対して、
科学哲学の実在論論争において、科学の目的という観点から、ファン・フラーセンが、真理ではなく経験の十全性が目的であっても、科学の営みは十分説明できると論じたように
形而上学も同様に考えられないか、と

加地大介 / 穴の物象性と因果性

不在因果について
因果の力能理論を展開するマンフォード&アンジュムによる不在因果への対応を批判する
マンフォード&アンジュムは、不在因果を説明する方法を3つに分類する
(1)不在を物象化する
(2)不在が力能を持ちうることを許容する
(3)不在による因果という主張が真であることを否定する
彼らによれば、D.ルイスの立場は(2)で、彼らの立場は(3)
これに対して、加地は(1)の方策をとる
ルイスやマンフォード&アンジュムが(1)の立場をとらなかったのは、穴という対象が存在として怪しいからだが、加地は、「たしかに穴にはいくつかの変則的な存在論的性格が伴う(中略)その変則性が穴の対象性・実在性・自然性を否定するほど決定的なものとは言えない」と主張
穴の変則的な特徴として、通時的同一性が曖昧だとか、穴は回転しないだとか、内部構造を持たないとかがあるのだけど、これらの特徴が、量子にも同様にある特徴だと論じているのが面白い。
量子(素粒子)がそのような性格を持ちながらも存在として認められるのであれば、穴もまた同様に存在だし、
また逆に、量子の振る舞いというのは、普通の人間にとってとても不思議な、常識からかけ離れたものであるけれど、実は、穴、という我々が日常的に見知っている存在と同じような振る舞いをしている、とも理解できるのではないか、と
いうような話としても読めるようになっていて、なかなかとてつもない

倉田剛 / 社会存在論――分析哲学における新たな社会理論

主に、サールの社会存在論について
社会存在論とは、法人とか貨幣とかいった制度的な存在者についての存在論
サールが、言語行為論のあとに、社会科学の哲学へと向かったのは何となく知っていたのだけど、本論にも書かれている通り、日本語での紹介があまり進んでいないので、興味はあったが全然知らないままの分野だった。
ノラ・ハラリの『サピエンス全史』を話の枕としてもってきているが、『サピエンス全史』と社会存在論の関係を以下のようにまとめている

(1)会社といった制度体の「摩訶不思議な存在」に驚くという感性を共有する
(2)社会制度の創造が人類の発展にとって決定的であるという見解をハラリと共有するが、社会存在論者は、歴史家よりも基礎的なレベルでこの種の創造を分析する。
(3)ノラ・ハラリの言う「虚構」は、社会存在論においては必ずしも自明ではない。

『サピエンス全史』を途中まで読んだところで飽きて辞めてしまったのだけど、おそらく、自分が『サピエンス全史』に求めていたものは、むしろ社会存在論の方にあるんだと思う。

サール『社会的現実の構築The Construction of Social Reality』(1995)
  • 「制度的事実」と「生の事実」

制度的事実の例)この紙切れは10ドル紙幣である。

  • 「制度的事実」の分析

「Xは文脈CにおいてYとみなされる X counts as Y in C」
例)この形状と絵柄をもつ紙切れ(X)は10ドル紙幣(Y)とみなされる
これは、『言語行為論』で出てきた構成的規則の基本形式と同一
制度的事実は、構成的規則の体系のうちでのみ存在する
XはYとみなされる、とはYの定義ではない。定義以上の何かを含む→集合的承認
→集合的承認とは、地位機能の集合的割り当て
(地位機能とは、物理的組成とは関係なくその役割を果たすもの。サールによる説明の例:ある部族がほかの部族の侵入を防ぐために壁を築いた。これは、物理的な組成によって侵入者を阻むという機能を持つ。時を経て、石積みは崩れてしまって石の並びだけが残った。物理的には容易に超えられるが、外部の人間の立ち入りを禁じる境界としての役割を果たす)
→地位機能の集合的割り当てとは、義務論的力を作り出すこと
「われわれは(Sは[SがAする]力をもつこと)を承認する We accept (S has power [S does A]).」
例)われわれは、(X(ある形状と絵柄をもつ紙切れ)の持ち主であるSは[SはXを用いて10ドルの価値まで何かを購入する]ことができること)を承認する
すなわち、制度的事実は、「XはYとみなされる」という構成的規則の形に書き換えることができ、これは、地位機能の集合志向的な割り当てであり、それは、ある主体への義務論的力の付与である。

  • サール『社会的世界の制作Making the Social World』(2010)での修正

Xが物理的に存在しないものはどうすんの、という批判を受け、構成的規則を「宣言」と、より一般的な形式へと拡張
主張型言語行為が、言葉から世界への適合方向を持つ言語行為であり、指令・行為拘束型言語行為が、世界から言語への適合方向を持つ言語行為であるのに対して、宣言型言語行為は、双方向の適合方向を持つ

社会的集団について

サールは、会社について「個人主義」的見解を持っている、つまり、株主たちの義務論的な力の総体
しかし、倉田は、岩井の法人論にも触れながら、会社の法人性を考えると、このような見解は自明とはいえないとする。例えば、会社の建物や設備の所有者は、株主ではなく会社であるし、会社の負債に対して株主が負うのはあくまでも「有限責任
ローマ時代からある、法人名目説vs法人実在説
サールは、名目説寄りの立場のようだが、サールの社会存在論の枠組み自体は、実在説とも両立する、はず

(1)単なる集まりと集団とを区別する
→メンバーの変化に耐えて同一性を維持するのが「集団」
(2)単なる集団と集団的行為者とを区別する
→表象、動機づけ、それらにもとづいて環境に介入する能力をもつ
社会存在論に組み込むためには、集団的行為者であることは必要条件だが、十分条件ではない
義務論的力の体系の中で行為しているかどうか

  • パーソンと非パーソンとの区別

内在主義的見解:行為者をパーソンたらしめるのは、その本性
パフォーマティヴな見解:行為者をパーソンたらしめるのは、それがなすこと、何らかの役割を果たすこと
パフォーマティブな見解の上では、ハラリのように法人について「虚構主義」的な立場や、サールのように個人に還元するような立場をとる必要はなくなる

均衡としての制度

サール:制度を承認や宣言によって説明
→これで尽くされるのか?
ゲーム理論的制度観:制度を均衡としてとらえる
→メリット)非公式な慣習や、制度の生成・変化・消滅などを説明できる
→デメリット)規範性という観点からは望ましくない
青木昌彦の比較制度分析
ルイスの慣習理論
→サールの社会存在論は、これらの理論への対応が必要

金子洋之 / 文脈原理の哲学――フレーゲと数学の哲学におけるネオ論理主義

C.ライトらを中心に提唱されたネオ論理主義
フレーゲの論理主義は、ラッセルのパラドックスによって破綻したが、1980年代初めに、フレーゲが思い描いていた形とは違うが、文脈原理を用いてある種の論理主義が維持できるという立場が登場
その後、無数の批判にさらされるも、いまなお命脈をたもつ

森田邦久 / 時間の経過と方向性について

うう、数学の哲学もむずいけど、時間の哲学、むずい
「時間が経過しているとはどういうことか」と「時間の矢」についての二本立て
時間の矢も、熱力学的矢、心理学的矢、宇宙論的矢(これら3つはホーキングの命名)、因果的矢をあげて、これらが一致してるのか、一致してるとはどういうことかとかを論じている、のだと思う
ここでは、筆者による、因果は本来的には非対称性がない、原因に実在性はないが因果過程は実在するといった見解が述べられている

太田紘史 / 意識をめぐる物理主義と反物理主義のバトルライン

まあいわゆる、タイプA物理主義やタイプB物理主義についての話
こっちはわりと見慣れた世界なので、読みやすかったけれど、クリプキのアポステリオリな必然性とタイプB物理主義の関係の話とかあって、(基本的な話だとは思うのだけれど)勉強になった。
表象による分析をすると物理主義の中におさまるっていうけど、やっぱりまだギャップが残っているのでは、ということがちらっと言及されていた。その上で、表象的分析についていえば、ハードな方法で突き詰めると待っているデフレ的見解(例えば、信原2002)、ソフトな方法で突き詰めた結果のインフレ的見解(例えば、鈴木2015)があると。
あと、説明ギャップを説明するのに、心理的なメカニズムが関係しているという方策も示されている

森功次 / 芸術的価値とは何か、そしてそれは必要なのか

主に、ロペスによる、芸術的価値は神話であるという議論について
ロペスの議論は、「芸術的価値」という大きな括りの価値はなくて、個々のカテゴリーや形式ごとに相対的な評価があるだけなのでは、というもの
(ある音楽作品や絵画作品を評価するとき、「この楽曲の展開がよい」とか「この色の塗りがよい」とか、音楽として、絵画として評価するだろうけど、音楽も絵画もすべて包括するような「芸術」という観点からは評価しなくない? というような話だと思う)
ロペスは、この見解を最初に発表した2011年の論文では、そもそも美的価値に集約しようとしていたが、ステッカーをはじめとして、非美的な芸術的価値もあるという批判が加えられ、2014年の著作では、2011年の論文をもとにした章があるが、その点が修正されている、と。
ロペスの議論について、本当に大枠の「芸術」というカテゴリーは必要ないのか
→「フリーエージェント問題」
つまり、既存のカテゴリーに属さない(フリーエージェントな)芸術作品はあるのか、という問題
これについて、少なくとも現代においては、大体どんな変なものがでてきても、コンセプチュアル・アートに属しちゃうよねっていう、コンセプチュアル・アート強すぎ問題がw



野家啓一 / 「分析哲学」私論――親和と違和のはざまで

野家さんの個人史を絡めて「分析哲学」について思っていること。
野家さん本人は「科学哲学」を名乗ることはあっても「分析哲学」を名乗ることはない、とのこと。サブタイトルに「親和と違和のはざまで」とあるけれど、そういう微妙な距離感があるらしい。
よく知られているように、分析哲学はその起源がオーストリアにあり、当初はいわゆる大陸系とも近い距離にあった。フレーゲに端を発するのが分析哲学で、フッサールに端を発するのが現象学−大陸哲学だというのが、大雑把な現代哲学史的な理解だろう。
ところで、これのさらに前に位置する存在としてマッハがいる。マッハは、論理実証主義に対しても、現象学に対しても影響を与えた存在だが、野家さんもまたマッハから影響を受けていることもあって、どちらかといえば、分析系と大陸系とを結びつけるようなことに興味があるようだ。

森岡正博 / 「人生の意味」の哲学

2013年、メッツ『人生の意味』出版
分析哲学において「人生の意味」の哲学が注目を浴びるように
メッツの議論については、あとで出てくる村山論文も詳しい
ここでは、メッツによる立場の分類が紹介されている。
メッツによれば、主観主義と客観主義にわけられるが、森岡はこの分類に、自らの「独在主義」の立場を加える。
永井均が使う「独在論」の独在で、森岡曰く、森岡と入不二もこの議論に加わっているとのこと*2
また、meaning of life とmeaning in lifeの区別についても述べられている
(メッツは、後者を使う)
ここでは、前者は「人生全体の意味」=「私の人生全体が、私の外部にあるものへどう肯定的に位置づけられるか」、後者は「人生における出来事の意味」=「人生に起きたある出来事が、人生全体の中でどう肯定的に組み込まれるか」として説明されている。
ところで、ここでは、メッツによれば、主観主義の立場をとると「ヒトラー問題」というのが出てくるので主観主義はとれない、という話が出てくる。
つまり、主観主義とは、人生の意味を決めるのは本人だけであるという立場で、ヒトラー問題とは、その立場にたつと、ヒトラーの人生にも意味があったことになってしまうから問題だ、というものらしい。
ただ、この問題、いまいちよくわからないのだけど、ヒトラーの行状が悪であるのは違いないとして、それと、ヒトラーの人生に意味があったかどうかは別問題なのでは、という。ヒトラーの人生に、正の価値はないと言っていいかもしれないが、かといって、無意味な人生だとは言い難いのでは、という疑念
ここでいう「意味」が、当然、肯定的なものを含意しているのであれば、わかる。

井頭昌彦 / 哲学的自然主義の内と外

自然主義」と呼ばれる立場があるが、それについての整理
自然主義=物理主義ではない(物理主義であれば自然主義だが、自然主義だからといって必ずしも物理主義とは限らない)というのが主たる主張で、目から鱗だった
自分は当然のように自然主義=物理主義だと思っていたので。
自然主義というのは、基礎づけ主義という第一哲学の放棄と体系的内在主義によって説明できる。
科学主義や物理主義は、そのオプションである。
クワインも、クワイン自身は物理主義の立場をとるけれど、自然主義が物理主義を含意しないことは述べている
ここから、自然主義や物理主義に違和感を持つ人が、どこのポイントに反論すればいいかということや、自然主義に対する誤解への応答なども書かれている
自然主義への誤解として、新実在論のガブリエルによるものを挙げているが、ここちょっと面白いのは、ガブリエルは自然主義と物理主義とを取り違えているというものなのだが、そのあとに、筆者は、物理主義自体は維持しがたい見解なのではないかということを述べて、むしろガブリエルへの擁護となるような議論を展開している。

村井忠康 / 生と論理――分析的ヘーゲル主義としてのトンプソンの生命論

ピッツバーグヘーゲル主義ともいわれる、マクダウェルとブランダム
シカゴ大学ピピン、同じくシカゴ大でウィトゲンシュタイン研究を軸とするコナント
ライプツィヒ大学のレーデル
また、ライプツィヒ大学には、FAGIという分析的ドイツ観念論研究の拠点がある
本論では、ピッツバーグ大学のトンプソンにおけるヘーゲル的側面について取り上げる
トンプソンは、公式には新アリストテレス主義
アンスコム倫理学のために行為論へと撤退したように、トンプソンは倫理学のために行為論から、さらに生命論へ撤退する
トンプソンにとって、アンスコムヘーゲルアリストテレス主義者
ここで、種を用いた自然誌判断についての論理的形式のことが議論される。種についての文って、全称量化してる文とも統計的な事実をあらわしている文とも分析できないのでは、という話。
個人的には、倫理学のためにアリストテレス的な生命論へという大枠の部分はちんぷんかんぷんだったのだけど、この自然誌判断の形式の話は、[倉田剛『現代存在論講義2 物質的対象・種・虚構』 - logical cypher scapeで読んだ種的論理の話と似ているなーと思ったので、なんとなく読めた。

古田徹也 / 共同行為の問題圏

倉田論文でもでてきた共同行為について、より詳しく論じられている。
こちらでは、共同行為だからといって、即座に集団を行為者として存在しているとみなしてよいのかというと、単純にいかないという問題が紹介されている
共同行為を、連携行為と集団行為にわける議論とか
共同行為における過失とか責任とか
あと、民事では集団に責任が課せられるが、刑事では集団には責任が課せられないという話から、アレントの話とか

佐藤岳詩 / C・ダイアモンドの分析的倫理学批判――分析対象としての倫理をめぐって

ウィトゲンシュタイン派と呼ばれるC.ダイアモンドによる、分析系のメタ倫理学への批判
分析的な倫理学、特にメタ倫理学は、倫理を研究対象とし、倫理に対して中立的に分析を行うことを使命としている
が、ダイヤモンドは、そもそも倫理とは私たちが世界へ向ける態度そのものであり、中立的であるということ自体が不可能であると考えて、分析的な倫理学を批判する

山口尚 / 自由意志の不条理――分析哲学的‐実存的論考

分析哲学者は実存的格闘を避ける》という「分析哲学」理解はすでに過去のものになっており、いまや私たちは分析哲学スクールに属する論者の著作のうちにさまざまな実存的決断を見いだすことができる。
P.251

ネーゲルによる人生の不条理ないし馬鹿馬鹿しさについての分析がまず紹介される。
人生における馬鹿馬鹿しさ・不条理さとは、適切な向き合い方が分からない何か、ではないか、と。
その次に、筆者自身が学生時代に感じた「ネーゲル的」問題として、自由意志の問題があげられる。この世界に自由意志など存在する余地などないのではないか、ということと、どのように向き合って生きていけばよいのか、という問題
これについて、ホンデリックによる議論が紹介される。
「狼狽」でも「頑強」でもない「肯定」という態度の推奨

村山達也 / 人生の意味の分析哲学

ウルフとメッツによる議論を紹介したのち、それ以外の議論も簡単に紹介している

  • meaning of life と meaning in lifeの違い

前者は「人生の意味」=人間存在の目的、人類の存在理由*3
後者は「意味のある人生」=人生のなかの意味
ここでいう人生の意味は、後者の方

  • 人生の中の意味とは何なのか

ウルフ=「客観的に魅力あるものに、主観的に魅力を感じたとき、意味が生じる」
メッツ=「真・善・美などの発展に理性を用いて貢献すると、人生は意味のあるものになる」

  • 価値論的考察

人生の中の意味という価値を担うのは、人生全体なのか、それとも部分なのか。
ここから、「人生の物語的構造」なる概念も出てくる
人生の中で、ある部分がどのように配置されているか
「人生の物語論的構造」がどのように人生の有意義さと関連するかという議論は、実は、福利論でおなじみの議論であり、「人生の意味」の哲学が分析哲学の過去の蓄積を活用している例

  • その他

道徳心理学
自由論で有名なフランクファートが、次に向かったのが道徳心理学。「大切にするcare」ということが人生において果たす役割を論じている
究極目的(それ自体が価値あることとして目指されるもの。例)美味しいものを食べる、友人と楽しく過ごすなど)を設定することで、何かを「大切にする」ことができるようになる。何かを「大切にする」ことで意味のある人生が送れるようになる。
また、『愛の理由』という愛について分析した著作をかいていて、愛することと大切にすることの違いなども論じられているそうである
メタ倫理学
有意義さという価値についての実在論→実は手付かずの分野だが、ウィギンズによる論文がある。しかし、これがやたら難解。これのせいでこの分野が手付かずになっているのでは、とかw
人生の無意味論
ネーゲルの人生の馬鹿馬鹿しさについての議論
歴史研究
人生の価値を「意味」という言葉で表現するようになったのは19世紀以降。これについての研究も手付かず。
ところで、人生の中の意味を担うのは、人生の全体か部分かという話のところで

今年の有意義さは過去10年で最高と言われた2010年を遥かに上回るとか、今年の有意義さ柔らかく果実味が豊かで上質な仕上がりだとか。
P.272

と、唐突にぶっこまれてコーヒー吹いた

乙部延剛 / 政治哲学の地平――分析的政治哲学と大陸的政治哲学の交錯

サブタイトルにあるとおり、分析的政治哲学と大陸的政治哲学の関係について
従来、分析的政治哲学は、現実政治から遊離した「道徳主義」で応用倫理学だというような批判を、大陸的政治哲学ないし政治的リアリズムという潮流*4から受けている。
これに対して、分析的政治哲学と呼ばれるものと大陸的政治哲学と呼ばれるもののあいだにも、共有されているものがあって、「政治」というものから遊離しているわけではない、というようなことが論じられている。

*1:企画段階からなかったのか、諸事情により結果的になくなってしまったのかなど分からないので、生物学の哲学がないことが何を意味しているのかは何とも言えない

*2:ところで、ちなみに、この2人は同じ1958年生まれで、たいして永井は1951年生まれらしい。

*3:これには注釈がついているが、日本語だと「人生」なので人間存在の目的となるのは変な感じがするが、英語だと「life」で、lifeだと個人の人生という意味だけでなく、よろ広く「生」という意味もあるので

*4:ここでいう政治的リアリズムは、ウェーバーマキャベリズムなど、過去にリアリズムと呼ばれていた伝統を踏まえつつも、ここ10年くらいにでてきた近年の運動に限定したもの