サブタイトルは、「自然種の一般理論とその応用」
自然種についての実在論の議論と認識論の自然化について書かれた博論の書籍化。
三部構成になっており、一部は自然種の一般理論、第二部はその応用で、生物種の存在論と人工物の存在論について、第三部は認識論の自然化となっている。
自然種とは、よく例にあがるのは「金」とかの元素で、世界(自然)の方で決まっているグループ、みたいなもの。
これに対して、そういうグループは人間が決めたものであって、世界の側にそういうのがあるわけじゃないという考えが、反実在論で、この本では「規約主義」と呼ばれる。
プラトンの比喩「自然をその接合部位で切るcut the nature at its joint」が本書でも引用されている。『現代普遍論争入門』でも使われていた。「関節で切り分ける」
この本では、自然種とは一体どういうものかという理論を与え、規約主義の反論(の中に見られる直観など)も包摂していく*1。
応用において、生物種も人工物も自然種であるという議論をして、認識論では、知識もまた自然種であるということをいって議論を展開する。
存在論パートと認識論パートに大きく分かれていて、その両者を自然種(自然主義・実在論)で結びつけるというものだったと思うが
感想としては、存在論にはあまり同意できなかったが、認識論はよかったように思えたという感じ。ただ、認識論についても、そこで示されている自然化プログラムはよいとして、そこから進みうる方向性って(筆者はそちらへ向かわないとしても)実在論との相性はあまりよくないのでは、と思ってしまう。まあ、普通だとそう思われるからこそ、実在論との組み合わせもいけるんだぜっていう本だったのかもしれない。
存在論についていえば、反論の「洞察を収容する」、つまり規約主義の直観についてももっともだといえる点は取り入れて、実在論の立場からも説明できるようにするというのをやって、それは自説を強化するためには当然のことである一方、ある意味では譲歩ともいえると思う。極端な実在論でも極端な規約主義でもなく、その中間の、穏健な立場に収まっていく。それ自体は決して悪いことではないだろうし、哲学の議論って結構そういうもの多いのだが、読んでいて次第に「じゃあ、実在するって一体なんだ」みたいな気分にもなった。
存在論について違和感を覚えたのは、事前に
Backyard: 植原亮『実在論と知識の自然化』感想
を読んでいたことによる先入観ももしかしたらあったかもしれない。こちらの記事、単独で読んでも面白いのでお薦め。
自然種理論においては、ボイドやコーンブリスが主に参照されていた。コーンブリスは、戸田山『哲学入門』で出てきた、岩石学は岩石概念でなく岩石について調べるものだという話の元ネタになった人らしい。
認識論では、スティッチやクラーク、ミリカン、ステレルニーなどが出てくる。このあたりは、今後読みたい。
自分は、哲学にせよ何にせよ入門書を読むことが多く、その場合やはり、どのような書き方がなされていたとしても、学説の紹介となっていくけれど、この本は博論なので無論そうではない。
いや、確かに様々な学説が手際よく紹介されていて、その意味で、自然主義や実在論についての入門としても読めるけれど、そうやって紹介されている説は、筆者の提唱する理論のために使われている。
一つの一貫した筆者の説というのが一冊を通じて展開されていて、その一貫性はすごく維持されている。
あと、考えられる反論の提示とそれへの応答も結構されている。この記事の最後に、自分なりに気になった点など書いたけれど、読んでいる最中色々と気になって「うーん」と思ったりもしたけど、読み終わってこのブログ用に整理すると、なかなか崩せないようになっているなあって思った、当たり前なんだけど。
序章 自然主義の体系化に向けて
1 世界と認識の謎
2 実在論の予備的素描
3 問題設定と本書の構成
1 実在論の基本的枠組み――自然種の一般理論
第一章 自然種論の系譜
1 ロックの種の理論
2 帰納的一般化の理論
3 本質主義へ
4 自然種の一般理論へ
第二章 理論的問題
1 実在性
2 メカニズムと実在性をめぐる問題
3 分類の多元性・実在論・自然化された認識論
2 応用問題――個別領域への適用
第三章 生物種の存在論を構築する
1 個体説
2 個体説批判とその収容
3 問題点の検討
4 実在的対象の伝統的区分について――「個体と種」「類と種」
第四章 人工物は(どこまで)実在するのか
1 実在論の理論図式とその検討
2 独自性テーゼとその検討
3 成熟した実在論への方向
4 問題点の検討
3 知識の自然化
第五章 認識論の自然化
1 確実性の探究から心理主義への転換
2 知識の定義をめぐる問題から心理主義の復興へ
3 知識の自然種論へ
第六章 知識を世界に位置づける
1 知識の自然種論
2 認識論的ニヒリズム――多様性からの議論
3 知識の多様性を収容する――生物学的観点の徹底
第七章 拡張する知識
1 信頼性主義のさらなる外在主義的性格
2 環境改変活動の位置づけ
3 知識は拡張する
4 理由の空間
第八章 知識のメカニズムと理論的統一性
1 メカニズムの解明へ
2 人間の知識を捉える
3 問題点の検討
結論
1 実在論の基本的枠組み――自然種の一般理論
第一章 自然種論の系譜
自然種論の起源を、ロックにみる。ただし、ロックは「実在的本質」と「名目的本質」というのに分けて考え、前者は世界の側にあるが観察不可能で、後者は言語に基づくものであるとする。後者に傾くと、規約主義にもなり、ロックには二面性がある。
自然種に関する論点整理
1.自然種にはその基礎となる実在的本質がある
2.本質をどのように規定するか→ロック:必要十分条件
3.その条件から逸脱する事例をどうするか→特に生物種→ここから規約主義へと向かいうる
4.自然種に関する探求をどう進めるか
本書では、自然種の特徴付けを、必要十分条件によらず行う。それによって、必要十分条件による定義を行ってしまうと逸脱してしまうような事例を包摂可能になる。また、自然種の規定が必要十分条件で行われるとすると、その探求は概念分析ということになるが、そうではなくて経験的な探求によるものになると考える。
ロック以降の、自然種論の歴史
ハッキングによれば、ヒューウェル(種kindという語の復活)→ミル→ヴェン(自然種という語を使う)→クルーノー、パース、ラッセル→クワイン
帰納的一般化を成立させるものとしての自然種
クワインの自然化された認識論と自然種。心理学的本質主義(幼児が自然種概念を獲得しているという考え)
クリプキやパトナムによる指示の因果説と科学的実在論→自然種
必要十分条件を用いた自然種の定義は、生物種を扱えない。
ボイドによる、生物種も扱える包括的な自然種の理論*2
(1)恒常的性質群
(2)帰納的一般化の成立
(3)基底的メカニズムの存在
メカニズム(分子の構造とか遺伝子の構造とか)によって、恒常的性質群を持ち、帰納的一般化が偶然ではなく成り立つということが説明される。このメカニズムの存在によって、生物種も自然種として包括できる。また、メカニズムの存在こそが、規約主義と実在論を分かつ。
第二章 理論的問題
上述の特徴の、結びつきの緊密さなどを「理論的統一性」と呼ぶことにする。
理論的統一性には程度差がある。
電子や陽子であれば、必要十分条件を定められるほど、メカニズムと性質とのあいだに厳密な繋がりがあるだろうが、生物の場合、例外がいくらでもありうるという点で、そこまで厳密な繋がりはない(虎はおおむねああいう色と模様をしているが、アルビノであれば白である。つまり、アルビノの虎は、虎が持つ恒常的性質群のいくつかを持っていない)。
この理論的統一性の程度差を、筆者は実在性の程度差と考える。生物種の実在性は、電子の実在性よりも弱い、というように。
メカニズムが異なるのにもかかわらず同種として扱われるような例(多型実現可能性の例)について
例えば、生物器官(人間の眼とイカの眼はメカニズムは異なっても同じ眼)、心的状態、貨幣(素材が違っても同じ役割を果たせば貨幣)
メカニズムに、内的要因だけでなく外的要因も含めることで、これらも自然種として包括できるようにする。
ただし、内的要因と外的要因の混ざった、あるいは外的要因の多いメカニズムだと、理論的統一性は低く、また実在性も低いかもしれない
→規約主義との境界が曖昧になるのではないか
自然種であれば、経験的探求の中で性質が無数に発見される(豊饒性)。規約種は、性質が貧しい。それは、メカニズムがあってこそ。経験的に探求してみて、性質があまり発見できなかったりしたら、それは自然種ではなかったということ
2 応用問題――個別領域への適用
第三章 生物種の存在論を構築する
ここで扱う生物種とは、「種タクソン」のことである。「種タクソン」とは、トラとかホモ・サピエンスとかいった個々の生物種のこと。これらの種タクソンを一括したものは「種カテゴリー」
生物種については、これを「自然種」ではなく「個体」として捉える「個体説」というものがある
個体説
生物種は、時空的に限定されている、進化によって性質が変化する・本質が不在→自然種性の否定
規約主義のような人為的取り決めだと、経験的探求としての生物学の実践を扱えなくなる→生物種の実在性
よって、個体説
各生物個体と生物種の関係を、全体−部分関係と捉える
マイヤの生物学的種概念=相互交配が、全体を統合する力として働く
個体説の弱点
・無性生殖
・中間段階の個体の扱い
個体説の収容
メカニズムが時空的に限定されているから、生物種もそうなっている。
恒常的性質群は、本質とは違うので、性質の変化や例外を許容する
中間段階は、両方の種に属する
種カテゴリーの多元主義
種概念は、マイヤだけでなく様々な概念がある→規約主義を呼び込む
本質とは必要十分条件によって定義されるという古典的な考え方が、個体説や多元主義を生む。恒常的性質群として捉えれば、問題ない。
環状種、異星生物、遺伝子操作による新種、人種といった変則事例にどのように答えるか
個体−種−類という階層構造について
連続的であり、明確な区分はなく、実在性の程度は違うかもしれないけど、存在論的には同じだろうと。
逆に、規約主義は、個体についての反実在論を言わないのは恣意的、と述べる。
第四章 人工物は(どこまで)実在するのか
コーンブリスは、人工物の種属の決定はその機能によってであり、人工物にとって機能が実在的本質で、実在的対象と主張
→これでは、帰納的一般化を支えるには「粗い」ので、議論としては不十分
エルダーの議論
ミリカンの「固有機能」概念を採用。さらに、その「固有機能」の発揮によって複製がなされていく「複製プロセス」(その機能が有用であるからより使われるように同じ機能の人工物が複製されるというような)という概念を導入。「複製プロセス」によって生みだされるカテゴリーを「複製種」と呼ぶ。複製種の中には、蟻塚やビーバーのダムのような「延長された表現型」なども含む
形態、固有機能、複製プロセス、歴史的配置が、恒常的性質群となる
複製プロセスを基礎メカニズムとして、帰納的一般化が成り立つ
ただし、エルダーの議論だと、一般性の高い人工物(単なる「イス」とか「ドライバー」とか)が実在すると言い難くなる
独自性テーゼ(トマソン)
実在論であるが、人工物は自然種ではない独自の存在論的身分があると考える
→認識論的特徴:自然種と違って認識不足が少ない
→意味論的特徴:指示について、因果説より記述説が妥当
規約主義的な直観と実在論の直観の双方を持つ
(自然種の一般理論は、自然種のみが実在すると考える。独自性テーゼは、自然種以外の実在も想定する存在論)
独自性テーゼへの反論
(1)人工元素テクネチウム
(2)家畜化された動物
→人工物ではあるが、自然種とも区別しがたい例
独自性テーゼの範囲外ないし、意図の成立において区別しうるという再反論
(3)日本刀のデザイン
→制作者の意図よりも、それに先行した歴史によって固有機能などが成立している
種属を決めるものとして意図を重視(デザインなどの性質が意図と関係なく決まるとしても、それが何であるかは作者の意図による)
(4)ビール
→意図なく偶然できたもの(むしろ、エルダーの「複製プロセス」がよく当てはまる例)
自然に踏みならされてできた道、のようなものは、独自性テーゼの範囲外。ビールの場合は、最初は確かに自然種だが、ビールについてよく分かってきたところで独自の存在論的身分となる→直観に反するのでは
(5)電話、袖にボタンのついたジャケット
→元々の意図とは別の使用法が固有機能となった例
独自性テーゼと自然種理論を比較して、自然種理論がやや優位だが、決定的な優劣な差異はないとして、それを調停したいとしている
認識論的特徴・意味論的特徴に対する応答
「トカマク」という語の使用→「私」はトカマクについてよく知らないし適切な記述も与えられないが、言語的分業を通して指示ができる→記述説より因果説
規約的実践と実在論の共存
意図について
・異星の人類学者が見るように捉えると、意図よりは、使用実践、複製プロセス、固有機能で捉えるはず
・意図を自然種的に捉える(ミリカンの「目的」)
一般性の高い人工物について
変則事例
1)当座的人工物
切り株や石を、その時だけ「イス」として使うような場合、これは規約種なのではないか
→人工物の種ではなく、人間のふるまいの種の例化である、と考えることで、実在論に含めることができる
2)制度依存的な人工物
これも、人間のふるまいの種から捉える
人間のふるまいという外的要因の度合いが大きいので、多型実現可能性がある
人工物について、種タクソンは実在するが、種カテゴリーは実在しないかもしれない(まだ分からないけど)
3 知識の自然化
第五章 認識論の自然化
基礎付け主義から反基礎付け主義へ(心理主義への転換)
・クワインの「自然化された認識論」
正当化関係よりも心理的プロセスに注目する=心理主義への転換
・セラーズの「所与の神話」
基礎的な経験的信念が見いだせない
→「整合性主義」へ
・ゲティア問題から外在主義へ
知識について、正当化という条件を因果的過程に置き換える
「信頼性主義」=知識の条件となる因果的過程とは「信頼のおける信念形成プロセス」
ゴールドマンの懸念
自然化された認識論はもはや認識論ではないのではないか。日常的な概念や直観による方向付けが必要なのではないか
スティッチの分析的認識論批判
直観に依拠した概念分析は、ローカルな概念しかもたらさない←人間の認識スタイルの多元性
コーンブリスの自然種説
知識は自然種である。知識概念の探求ではなく、知識そのものの探求へ。
指示は固定されているので、ゴールドマンの懸念も払拭できる
知識の自然種論は、認識相対主義を退ける
第六章 知識を世界に位置づける
コーンブリスが着目する認知行動学
→動物にも志向的状態を帰属させる
→知識が、動物の行動を因果的に説明する役割を担っている
認識論的ニヒリズム=知識の多少性、逸脱事例の多さから、理論的統一性の欠如を主張
生物種を自然種として収容したようなやり方で、知識も自然種として組み込む
第七章 拡張する知識
信頼性主義の外在主義的性格
→内在主義と違って、知識に内的なプロセスが必要だと考えないので、動物にも適用できる(動物と人間の連続性)
→人間と動物との相違を説明するのが課題
環境改変能力に人間の固有性を見る
進化心理学におけるモジュール説*3→祖先の環境に特化して適応したモジュールのはずで、現代の人間の認識能力を説明しがたい
ミズンによれば、生物としてホモ・サピエンスが現れた時期(7万年以上前)と、現代人的な思考スタイルが現れた時期(3〜6万年前)にズレがある
コネクショニズムの短所→体系性を備えた思考を説明できない
それでも、コネクショニズムを維持したいのであれば、体系的な思考は外的表象によるものと考える(ex.筆算)
認知的人工物)文字、計算図表や航海尺
認識的行為)キルシュによる、テトリスのピースを回転させて問題を解決するような行為
言語)内的なものが外にあらわれたのではなく、もとから外部にある。音量ゼロで操作できるようになったため、内部にあるように思える
(1)認知的ニッチ構築
クラークやステレルニーが着目
環境を改変すること
(2)人工物としての知識
知識は人工物である
第四章の考察より、人工物について考えるときには、使用の実践も視野に入れるべし
(3)拡張する知識
信念形成プロセスを、個人から環境へと拡張する
人工物が拡張する知識として使用される
筆算など。脳だけでなく、紙や鉛筆も含めて認知システム
「拡張する心」テーゼ*4
クラークとチャルマーズが提唱
心ないし認識は、脳に限られたものではない。頭蓋骨の内外に本質的な相違があるわけではないという「等価性テーゼ」(クラーク)
人工物としての知識の通時的共同性
目的地へ歩くとき、地図、案内図、標識を使う=環境のしかるべき構造化
認知的ニッチ構築は累積する(ツメ車効果)
第八章 知識のメカニズムと理論的統一性
メカニズムとして累積性を分析
・環境の自己保存力(物質なので保存される、技術の継承による保存)
・漸進性(費用便益分析にそくして、改変がなされる→ミリカン的な表象の消費の観点、保守主義的傾向)
多様化作用
漸進的な蓄積が、最初の小さな変化も大きくして、多様化として作用する
→文化などにおける認識の多様性
真理志向的な共同体のメカニズムとしての科学
逆に、(日常的、非専門家的なところだと)あまり真理に貢献しない逸脱的なメカニズムが保存されることもありうる
知識の自然種論
恒常的性質群や帰納的一般化は、知識にも成り立つが、それほど厳密だったり強かったりはしない。
知識のメカニズムは、共同体によって多様だけれども、それらの上位カテゴリーとして「知識」という単位がある。トラやネコといった種タクソンの上位にネコ科があるように。
感想
わりと、同意できなかったりして、自分はわりと唯名論者だったのかーと思わされたりした
これで唯名論の本を読んだら、今度は実在論者になりそうだけどw
生物種については唯名論者で、これは間違いなくこの手の議論を最初に知ったのが三中本だったからだと思う
でもまあ、わりと科学的実在論を支持したいような気持ちもある
生物種の存在論に対する感想
まず、「個体説」というのが何なのかいまいちピンとこなかったので、どういう議論なのか分かるのに時間かかった。
というか、自分はどちらかといえば、ここでいうところの規約主義の立場なので、自然種説にも個体説にも与しないのだけど、ここでは自然種説vs個体説で、規約主義の立場がほぼ出てこなかったので、何ともいえない感じだった。
あと、無性生殖が個体説にとって弱点になる、というのがいまいちよく分からなかった。マイヤの生物学的種概念から考えればそうかもしれないけど。無性生殖の系列っていかにも個物っぽい感じするのだけどw
これについて、ソーバー『進化論の射程』6章を見てみたら*5、そこでもやはり無性生殖は個体説の問題点としてあげられていた。そもそも個体説支持者は、マイヤの生物学的種概念の自然な解釈として個体説を挙げる、という流れらしい。相互交配集団を個物とみなす→その上で、それを生物種とみなすということ。そうすると、生物種であるはずの無性生殖の系列が生物種でなくなってしまうという問題点が出てくる、と(他にも従来の種概念と一致しなくなる点がある)。そこでソーバーは、その帰結を受け入れるか、あるいは他の種概念を採用するか、はたまた多元主義か検討した方がいいかもねっとふっている*6
ちなみにソーバーは、生物種は歴史的なものであって自然種ではない(生物学者は自然種として生物種を扱っていない)と一蹴している。まあこれに関して、植原の立場からは、ソーバーもまた本質を必要十分条件だと考えているからだと反論するだろう。
あと、ソーバーは、多元主義と規約主義は異なると述べている。多元主義は、こういうときなら概念a、ああいうときなら概念bという立場、規約主義は、どういうときでも概念aか概念bかは恣意的に選べる立場だとしている。
植原のいう「規約主義」もこれを指すのかどうかはよく分からないのだけど、多少そういう含みもあるのかなあ。
ただ、反実在論(ここでいう規約主義はこの立場のはず)は、理論の整合性や有用性等の合理的な規準があって、恣意的なわけではないと主張するはずであり、その点で、経験的探求・科学的実践とも整合させられるはず。植原は、規約主義は経験的探求とあわないといって一蹴するけれども。
っていうか、生物種が実在しないかもって、分岐学の成果によって言われてきたことだったりしたんじゃなかったか*7。クレードも自然種っているのか、どうなのか。うーん、わからん。
生物個体の実在性について(規約主義は個体について反実在論は唱えないのかに対する反論として)Backyard: 植原亮『実在論と知識の自然化』感想
三中先生は、個体の実在も支持しない立場の模様『実在論と知識の自然化:自然種の一般理論とその応用』 - leeswijzer: een nieuwe leeszaal van dagboek
人工物の存在論に対する感想
人工物の存在論は、生物種の存在論以上に問題設定が掴みにくかったが、様々な事例が挙げられていたのは面白かった
自然種理論は、生物種も人工物も自然種という1つのカテゴリで一括して説明出来る、というのがおそらく哲学的なメリットなのだろう。
とはいえ、人工物ってやはり独自のカテゴリのような気がしていて、これをどうにかして自然種として括ろうとすることの意義が、あまりよく分からなかった。
幼児の生得的な概念獲得(心理学的本質主義)を自然種論の経験的証拠として捉えている一方で、幼児が自然物と人工物とを区別していることについては、素朴物理学や素朴生物学と同種の誤りだとしているのが、ダブスタに思えてならない。
ところで三中先生は、心理学的本質主義はむしろ唯名論の証拠と言っている。
様々な事例の紹介を通じて、人工物の中にも多様さがあるというのがよく分かったので、人工物の中でのカテゴリー分けの方が興味があるかも。それこそ、トマソンであれば、『ワードマップ形而上学』で紹介されていた依存関係による分類表みたいな奴
人工物について、指示の記述説か指示の因果説かというあたり。
人工物の名前は固定指示子かどうかということだと思うのだけど、個人的には、非固定指示子なのではないかという気がする。
トカマクとか、確かに非専門家は記述の内容分からないけど、可能世界でトカマクの語が指示するのは、トカマクがどういうものかという記述を満たすものなのではないか、と。「トカマク型核融合炉がヘリカル型核融合炉だったかもしれない」って言えるのか、言えないのでは、と。
うーん、頭がこんがらがる。
固定指示子と非固定指示子どちらもある、ということもあるかもしれないが、何となく、非固定指示子の方が多いような気がする。何となく、だけど。
面倒くさいのは、固定指示子って何らかの本質となるような性質を使って指示が固定されていて、自然種が固定指示子だっていうときはそれが使われること。例えば「トラが動物じゃない」っていうのは言えない、トラは固定指示子だけれど、トラの本質に動物であることが含まれているだろうから。
それで、人工物の名前も固定指示子だとして、かつどの可能世界でも同じ記述を満たしているとしても、それはその記述が、恒常的性質群についての記述だから、それは当然どの可能世界でも同じでしょ、みたいなことも言えちゃうような気もする。
しかも、恒常的性質群やメカニズムには、外的要素とかが含まれることも許されている。
貨幣という制度的存在も自然種であるといっているわけで、じゃあ「貨幣」も固定指示子だとする。ここでいう「貨幣」は、個々の硬貨や紙幣ではなくて(それは個物)、それらを全部まとめた貨幣という制度のこと。
トラという生物種が自然種で、「トラ」が固定指示子であるのは、「トラが全部白い」可能世界とか「トラが違うニッチを占めている」可能世界とか、あるいは「トラがライオンと呼ばれている」可能世界とかについても、現実世界からは「トラ」と指示することができるから。
一方で、「貨幣(という制度)が言語として使われている」可能世界とか「貨幣(という制度)が遊戯になっている」可能世界とかの貨幣を、現実世界から貨幣と指示できるのか、と。それらは貨幣だけど貨幣ではない、という概念的に矛盾しているものになってしまって、そういう可能性がない気がする。
そういう可能性がないのは、そもそも貨幣を特徴付けるメカニズムを持ち合わせていないから、と応答できるだろう。「トラが機械である」可能性がないのと同様に、だ。でも、そこで言われているメカニズムって、トラが生物であることとは違って、貨幣とは稀少な財を媒介にして物と交換したり価値を貯蔵したりする諸々の制度や実践みたいな話で、これらの性質を満たしていたら何でも貨幣になりうるし、逆にこれらの性質を欠くと貨幣じゃなくなる(だから貨幣が言語だったり*8、貨幣が遊戯だったり*9する可能性はない)。トラが、縞模様という性質を欠いてもやはり「トラ」だと指示できたりすることと、これは違う気がする。
いや、「稀少な財を媒介にして〜制度や実践」という外的な性質群やメカニズムも含んで本質なので、程度差はあれ同じだ、というのであれば、トラについても他の色んな性質が本質とされてくるわけで、「トラが全部白い」とか「トラが違うニッチを占めている」とかいった可能性についても怪しさが出てくる。恒常的性質群は、必要十分条件じゃないから、それを全て満たす必要はないけど、じゃあどこまで満たしてたら、指示の固定に使っていいんだってことになってくる
もし、固定指示子であることが自然種であることにとって重要なのだとして、人工物の名前については固定指示子であると納得しがたいので、自然種であるということにものりがたい
そうなってくると、自然種であることって内実が広すぎないか、と思ってしまう。
うーん、まあしかし、理論的な一貫性はあって、何でもかんでも自然種という代わりに、程度さというものを導入することで、その中での違いも説明できるようにしているので、そう簡単に無碍にもできないというか。
何もかも自然種に包括することで、「実在するとは自然種であるということだ」というところまで行きついたりするんだろうか。自然種かどうか検討できていないものもあるという話ではあったけれど、結構色んなものが自然種に含まれちゃった感じある。
そのために、自然種の意味が広いというか、やはり、実在の程度さというのを導入したために、そもそも「実在する」って何よということが気になってしまう。
貨幣が実在するかとか
帰納的一般化が成り立ち基礎的なメカニズムがある→自然種である→程度差はあれ実在している
制度とかは確かに帰納的一般化が成り立ち基礎的なメカニズムがあると思うのだけど、制度は実在すると言っていいのか
うーん、いやまあ、確かに実在するよねーw
でもやっぱり、個物が実在するという時に実在と何か意味が変わっている気がする。それこそ、一方では国家は幻想であるみたいな言い方もできて、そこでは制度的な存在は実在してるわけじゃないと言いたいわけで。
温度や空間は二次的性質だから実在していない、という時の「実在」もまた意味が違いそうだし。
介入実在論とはその意味でシンプルだよなーと思ったんだけど、あれってミクロな存在者についての話であって、今回扱ってる自然種の議論とはまた別かなーとも思う。
認識論についての感想
外在主義のくだりは面白かった。
筆算とか文字とかまさにそうだろうなあと思うし。この本でもウィトゲンシュタインが引用されていたけれど、内語とかは別にデカルト的な思考の座を示しているわけじゃないっていうのは、自分もウィトゲンシュタイン読んでからそう思うようになった。ただ、コネクショニズムの欠点をそうやって補うのか、というのは知らなくて驚いた。
クラークやステレルニー、あとちょっと違うけどミズンが、なおさら読みたくなった。
『進化の弟子』は認知的ニッチ構築の話してるっぽいし。
構造化って言葉が出てきて、thinkroidさんが常々言っている「構造化されたものだけが知だ」というテーゼを想起したりしたw
ただ、後半の多様化作用とか、理論的統一性の程度の低さとかを見ると、やはりこれは反実在論の方が相性がいいのではないか、という気がした。
メモ(20140602)
三中先生にtwitterでコメントしてもらってたー!
というわけで、メモっておく
※「生物種が実在しないかもって、分岐学の成果によって言われてきた」― 【種】問題と体系学派とは別軸でして.
https://twitter.com/leeswijzer/status/473087882471936002
*1:この本では、「(反論の中にある)洞察を収容する」って言い方がよくでてきた
*2:ただしボイドは分かりやすく提示していないので筆者なりの再整理となっている
*3:フォーダーは、進化心理学におけるモジュールよりも厳格な基準を要請するので、フォーダーのモジュール説をフォーダー的モジュール、進化心理学におけるモジュールをダーウィン的モジュールと呼んで区別するらしい
*4:拡張する知識の名前はここから。原語でextended mindで、延長された表現型extended phenotypeからとられた名前
*5:ところで、6章を読み返してみたら、前半がこの話で、後半が体系学論争の話だった。でもって、エリオット・ソーバー『過去を復元する』三中信宏訳 - logical cypher scape2の要約みたいなことが載っていた。この本、自分は専門的な部分はよく分からなくて概要レベルでしか読めなかったのだけど、その概要レベルだけならこの6章で事足りてたっぽいということに気付く……orz
*6:紙幅の都合で実際の検討はあまりしていない
*7:キャロル・キサク・ヨーン『自然を名づける』 - logical cypher scape2とか。まあこれは既存の分類を破壊したって言ってるだけど、種の実在には踏み込んでないか
*8:たぶん物と交換できない
*9:たぶん価値を貯蔵できない