『新潮2018年7月号』

新潮 2018年 07 月号

新潮 2018年 07 月号

佐々木敦の「これは小説ではない」において、キャロル『批評について』が言及されていると聞いたので、読んでみた。
『批評について』未読だけど……。
今月掲載文の半分くらいが『批評について』への言及にあてられている。
キャロルの批評観に同意する部分もあるが、そうでない部分もある、と。
同意できない部分としてあげられているのは以下の3つだろうか。
同意できない、というか、佐々木自身が批評として書いてきた作業と、一致しない箇所といってもよいかもしれない。
(1)評価
(2)意図主義
(3)分類


(1)評価
キャロルは批評のコアを「評価」だというわけだけど、佐々木自身は、自分のやっていることは「それが何をしているか」を調べることだとしている。
「それが何をしているか」というのは、「作品がどのように動作しているのか」とも言い換えられる。
作品の働き、仕組みを記述したいし、そういうことをしてきた、というようなことを書いている。
ところで、この点について、キャロル的な観点から考えると、そのような作品の仕組みの解明や記述という作業は(例えば)「研究」と呼べばいいのでは? となる気がする。
「研究」と「批評」が別ものだとして、それを分ける基準は評価をしているか否かというところにあるのではないか、ということなのではないかと思う。
キャロルの主張は、事実として何が批評と呼ばれているか、ではなくて、規範として何が批評と呼ばれるべきか、なので
事実として、佐々木敦の文章は批評と呼ばれてはいるけれど、評価を含まずに作品を論じている文章については、別の呼び方をしてもいいのではないか、と。
実際、評価を含んだ文章も書いているわけで、その2つは区別して、片方を批評、もう片方を批評以外の名前(「研究」とか)で呼んだ方がいいのではないか、と。
まあ、キャロルの主張が本当にただの名付けの問題なのかどうかよく分からないが。
仮に名付けの問題だったとしても、評価の有無で文章の種類(名付け)を分ける意味はないという反論もありうる。


(2)意図主義
佐々木は、作品の働き・仕組みに注目しているので、キャロルがいうような意図主義には同意できないとしている。
作品は、作者の意図に反した誤作動を起こすこともあるが、それは必ずしも失敗とはいえないからだ、と。
キャロルの意図主義がどのレベルの意図主義なのかまだちょっとよく分かってないのでなんとも言えないけれど、実際的意図主義だとすると(おそらくそうんだろうけど)、まあ確かに意図しない動作が作品にとって失敗とは言い切れないなあ、とは思うんだけど
仮説的意図主義くらいだとすると、佐々木の考えと両立しそうな気もしないでもない。
作品というのは人工物であって、人工物には目的があってそのためにデザインされている。そのデザインがどう働くか、というのは、やはり目的に照らして理解されるものなのではないか、と。で、人工物の目的は、作者の意図(仮説的なものでよい)によって同定されるだろう。
例えば、作者はネコの絵のつもりで描いたけど、イヌの絵になってしまっているケースがあったとして、その作品が何をしているかというと、作者の意図に反してイヌを表象していると思うけど、その絵の目的に照らしていうと、目的通りの動作(イヌを表象する)を行っていると思う。


(3)分類
キャロルは、批評における評価の客観性は、作品をどのジャンルに分類するかという客観性に依存しているというようなことを言っている。
ところで佐々木は、ジャンル横断的に批評を行っており、この点にも不一致があるようである。


後半は、ドゥルーズの話をしていた。
で、次回は、視覚的なものや「描写」について扱うと予告されていた。
最近、「描写」について関心があるので、気になる。まあ、分析美学的な描写論の話するわけではないと思うけれど。