Stacie Friend "Fiction as a Genre"

メイクビリーブを批判する1人として有名なフレンドの、(おそらく)有名な論文
フィクションの定義を巡る話で、タイトルにある通り、フィクションをジャンルの1つと捉え、メイクビリーブや想像のために作られたもの、という標準的な定義を退ける。
ここでフレンドが持ち出してくるのが、ウォルトンの「芸術のカテゴリー」論文
ある意味で、ウォルトンを使ってウォルトンを殴っているような論文とも言えて面白い(ただし、ちゃんと言っておくとこの論文の中で主に批判対象としてあがってくるのは、カリーやデイヴィスなど(のような立場)で、ウォルトン(のような立場)ではない)
メイクビリーブや想像とフィクションとの結びつきを完全に否定しているわけではなくて、想像はフィクションにとって標準的特徴であるとしている。
自分はメイクビリーブ派(?)だが、考えてみるとフィクションの定義自体にはさほどこだわりがないので、フレンドのジャンル説でも問題なさそうだな、と思った


Stacie Friend, Fiction as a Genre - PhilPapers

1.overview

フィクションとノンフィクションの区別についての理論は、以下の2つの問題に答えるべき
(1)分類の基準は何か
(2)個々の作品の鑑賞において、分類の効果は何か
標準的な理論はこれらに十分答えられていない
ジャンルには2つの特徴がある
(1)多くのジャンルは、歴史やコンテクストなどnon-essentialな条件によってそのメンバーが決められている(必要十分条件による定義ではない
(2)分類は、作品の特徴についての期待を生み、評価の基準を定める

2.standard theory of fiction

フィクションの標準理論というのは、フィクションを想像やメイクビリーブという反応で定義するもので、典型的には虚構的発話という言語行為によって特徴付ける
ただ、想像だけだとフィクションよりも広すぎなので、条件を加える必要がある
例えば、カリーがいうところの、作者の意図と偶然的に真であること(あと、デイヴィスによる別の提案も紹介・検討されている)

しかし、フレンドはその条件を加えても、反例が出てくると述べる(カリーの条件を満たすノンフィクション作品と条件を満たさないフィクション作品の実例)


虚構的発話理論は、フィクションであることを作品の部分または一側面に還元してしまう還元主義だからうまくいかないという
フレンドは、これに対して自分は文脈主義だという
作品全体を、読むこと・書くこと・批評などの実践の文脈に置いて判断する

3.criteria of classification

で、ここで出てくるのが、ウォルトンの「芸術のカテゴリー」論文
ウォルトンはこれを芸術作品のみ、また、知覚的な特徴に限った話としているが、フレンドはこれを拡張する
ウォルトンの、標準的特徴・反標準的特徴・可変的特徴
あるカテゴリーの標準的特徴というのは、ある作品がそのカテゴリーに属してる時、それを持っていると期待される特徴
想像は、フィクションにとって標準的特徴
だから、フィクションとされる作品にとってそれがあることが期待されるが、かといって、それがあることがフィクションの定義になるわけではない。
だから、想像という特徴を持っていないフィクションもあって、その場合、それがその作品の評価に関わってくる(期待外れな作品だと評価されるが挑戦的な作品だと評価されるかは分かれるだろうけど、標準的特徴がないことについて注目されて評価に関わってくる)
あるカテゴリーにとって必要だと思われる特徴でも必要条件になってないことはある
ある作品がどのジャンル・カテゴリーに属するか決めるのは、歴史的な文脈など

4.effects of classification

フィクションやノンフィクションをジャンルと捉えることは、鑑賞にとって何か役割を果たすのか
サブジャンルの方が鑑賞には関連するのではないか
これに対して、ウォルトンゲルニカスで論じたゲシュタルト効果や、ロペスがモンドリアンを例に出して論じた比較クラスのスイッチ、つまり、どのジャンルに属しているものとして見るかでどの特徴に注目するかが変わることをあげる。
そして、実際にある作品の一部を引用し、これをフィクションとして読むか、ノンフィクションとして読むかで、特徴への注目の仕方が変わることを示す。
鑑賞に対して、フィクション・ノンフィクションというカテゴリーは、真正の違いをつくる


ウォルトンにおける「カテゴリーにおいて知覚すること」に対応する「カテゴリーにおいて読むこと」の説明が必要
これについてはまだ詳細に論じることはできないとしつつも、心理学における「リーディングストラテジー」が参考になるのではないかとしている。
これは、人間はワーキングメモリーなど認知的リソースに限界がある中でどうやって読解しているのかという研究
実際、フィクションかノンフィクションかという違いが、リーディングストラテジーに効果を与えてるっぽいことを示す研究もある。

5.conclusion

フィクションかノンフィクションか区別しがたい作品について
その区別しがたさは、作者の意図や現代的な実践に由来するのであって、作品の中に両方の特徴が混ざっているから、ではない。
そうした作品は、フィクションかノンフィクションか不確定としてもいいし、フィクションかつノンフィクションという新しいジャンルだとみなしてもよいだろう、と。


感想

「芸術のカテゴリー」論文ちょっと忘れてたので、なるほどこういう風に使ってくのかーと
上で、ロペスの名前一回しか出さなかったけど、実際には2回異なることで出てくる。カテゴリーと鑑賞についてはロペスも大事っぽい
上の要約では、論文中に出てくる具体例を(ほとんど知らない作品ばかりだったこともあり)全然紹介しなかったが、具体例が多い
実際に4節では、作品からの引用もあって、こういう風に読んだら読み方変わるでしょ、と読者に実体験させてるのが面白い(英語の読み物が読めないので自分はいまいち分からなかったが、説明読んだら何をいいたいかは分かった)
最後、心理学研究がひかれていたのも面白い
「状況モデル」もこの語だけ出てきた
マトラバーズも、ここらへんの文章読解についての心理学研究を引用していたはず。


作品を読んで、「こういう特徴があるからこの作品はフィクション/ノンフィクションだ」というのではなくて、読む前から、これはフィクション/ノンフィクションだと分かった上で、それをもとに鑑賞してるよね、という枠組みは、石田尚子「フィクションの鑑賞行為における認知の問題」 - logical cypher scape2と通じるところもあるのかな、と少し。