James Harold "The Value of Fictional Worlds (or Why 'The Lord of the Rings' is Worth Reading)"

ジェームズ・ハロルド「虚構世界の価値(なぜ『指輪物語』を読むのか)」
https://contempaesthetics.org/newvolume/pages/article.php?articleID=584
この論文は、以前高田さんの記事で読んで存在を知った。
at-akada.hatenablog.com
で、存在を知ってから読むまでにもわりと間が空いているのだけど、それはいつものこととして、読んでからこのブログ記事書くのにもわりと間が空いている。
なお、論文自体はPublished March 10, 2010



フィクション作品・物語ではなくて、フィクションの世界にも価値がある、という話
サブタイトルに『指輪物語』とある通り、『指輪物語』を主たる例としつつ、スタートレックとかホームズシリーズとかに関する話をしている。
まず、前提として、アメリカでは『指輪物語』は批評家からの評価が低い、というのがあるみたい。にも関わらず、熱心なファンがいるけど、じゃあどこに価値があるのか、みたいな問題の立て方をしている。
その上で、作品自体に注目する批評家と、作品の向こう側にある世界に注目するファンという筋になっていて、で、作品とは独立して世界の方にも鑑賞する価値があるんだという話。

1. Introduction
2. Central Cases: Fictional Works That Fans Love
3. Valuing Fictional Works Instrumentally
4. It Can Be Reasonable to Value Fictional Works Instrumentally

2. Central Cases: Fictional Works That Fans Love

まず、この論文で扱われているのがどのようなケースか、というのを明らかにしている
中心的なケースには3つの特徴がある
(1)複数の作品が1つの世界について語っている。例えば、『指輪物語』『ホビット』『シルマリル』、あるいはスタートレックは複数のテレビシリーズが同一の世界について、また、シャーロック・ホームズシリーズも同様。
作者が同じでスタイルが同様というだけでは世界を共有しているのに十分ではないし、また、必要でもない。
(2)作品がエピソディック(挿話的)
ホームズやスタートレック。それぞれの話の間で時間がとんだりする。
(3)常にではないが、多くの作品は、我々の世界と様々な意味合いで異なっている世界を描く。こういう作品は、SFやファンタジーに多い。


この3つの特徴は、鑑賞者の関心を育てやすいという点で重要。(1)は、複数の物語が同じ「場所」について語っている点で、(2)と(3)の重要度は下がるが、物語ではなく世界へと鑑賞者の注意が向く点で


とりわけ、この論文は「ファン」というものが、批評家とは異なるどのような評価をしているか、ということに注目しようとしている

3. Valuing Fictional Works Instrumentally

ファンは、作中の出来事よりも、作品の舞台になっている世界へと興味を向けている
その根拠として
(1)世界を想像させるようなものを得るのにお金と時間を使う。スターウォーズで、メインキャラクターだけでなくサブキャラクターのドールも売れた件
(2)フィクション世界のパズル解決に励む。細部の矛盾の整合性とか。作品が増えれば細かいところで矛盾が出てきたりするものだけど、そういうところに注目するのは、世界に関心を持っているから。
(3)ファンフィクションの創作

4. It Can Be Reasonable to Value Fictional Works Instrumentally

最後の節では、ここでいう虚構世界とは一体どういうものなのかという点と、虚構世界に(作品とは区別された)どのような美的価値があるのかという点について論じている


虚構世界とはどういうものか、という説明のために、まずはウォルトンの作品世界とゲーム世界の区別を持ち出した上で、筆者は「ファン世界」なる概念を持ち出す。
この論文で検討されているケースは、複数の作品が一つの同じ世界を舞台にしているというものだが、
単純に、複数の作品の虚構的真理をあわせただけだと、作品間で矛盾が生じたりする。だから、何を想像すべきかをgovernするルールをもっと特定すること
ファンコミュティ(時に作家もコラボレートして)が、虚構世界として何を想像すべきかについて、明示的であれ非明示的であれ、相対的に安定した指示を創る。同意、基準、世界への関心の共有。
そうやって共有されているものを、ファン世界と呼ぶことにする。
カノンは改訂不可能だが、他のカノンと矛盾する場合、カノンのelementsは改訂できる。非カノン作品は改訂可能。カノンか非カノンかの基準は原理的に定めにくく、実践の問題。
ファン世界は、作品世界ともゲーム世界とも違って、相互のディスカッションと想像のコラボレーションで、ファンが集合的に想像している。


世界に美的価値があるとしても、それは作品が持っているものであって、それ以上ではないのではないか、といえばそうではないと筆者は主張する。
虚構世界が持つ美的価値が、作品のもつ美的価値から独立しているのには色々理由が考えられる。
(1)世界も作品も同じ性質を持っているが美的価値が異なる場合。例えば、『指輪物語』に出てくる叙事詩。作品にとっては、キャラクターの物語やテーマと直接関わっていなくて、混乱させるものだが、虚構世界にとっては、文化的・歴史的な複雑さを与えるもの
(2)作品の持っている性質を世界が持っていない。例えば、韻文で書かれた作品の詩的な性質を、対応する世界の方は持っていない。
(3)中心的なケースの場合によくあるのが、様々なメディアで展開されていて、多数の作品が1つの世界を記述している場合。作品は非常に多くの美的価値を持っているだろうけど、重要なのは一部で、ほとんどは重要さがはっきりしない。
(4)ファン世界は作品だけではなく、ファンコミュニティによっても作られる。作品にない想像の指定が暗黙的に作られたりしている。作品が持っていない美的価値を持つこともありうるだろう。またオープンエンドとなっている作品もある。文学作品にとって、オープンエンドはよいことも悪いこともあるが、虚構世界にとってはよい。
こうした理由から、虚構世界の美的価値はオリジナルとなる作品の美的価値に還元されない。
指輪物語』が文学的には価値があまりないとしても、虚構世界としては価値がある。