『現象学と二十一世紀の知』長滝祥司編著

現象学分析哲学現象学認知科学現象学と心理学、現象学と知覚論、現象学とロボティクス、現象学とフランス・ポストモダニズム現象学フェミニズム現象学と社会科学、現象学と技術の哲学
現象学をそれ単体ではなく、様々な他の学との関わりの中に配置する、という試みである。
9つの論文のアンソロジーで、前半5つが「認知・身体・他者」、後半4つが「思想・社会・技術」というくくりでまとめられている。

認知・身体・他者

現象学分析哲学

もとより、自然科学の基礎付けを行うためにスタートしたプロジェクトであるのが、現象学分析哲学であるが、後者はクワインによる「認識論の自然化」によってその方向を変える。
一方で現象学の自然化も行う必要があるのではないか。フッサール後期の生活世界論とJ.J.ギブソンとの理論をつなぐことで、それを目論む。
自然科学と哲学は、基礎付けの関係ではなく、相互に補完し合う包摂的な関係にあるのである。

現象学と第三世代認知科学

認知科学には、第一世代、第二世代、第三世代がある。第一世代は計算主義、記号主義、第二世代はコネクショニズムとも呼ばれる。これらはデカルト心身二元論的なアプローチを行ってきた。そのため、ドレイファスなどによる批判も浴びてきた。
メルロ=ポンティによって「身体論的転回」が起こる。身体を「現象的身体」と「客観的身体」に区別して、前者を知覚の主体と捉える考え方への移行である。
認知科学の世界でも同様のことが起きる。そして、ブルックスが「表象なしの知能」を作り上げる。
しかしブルックスのそれは「ゴキブリの知能」、メルロ=ポンティ現象学は「頭の欠けた現象学」と批判される。というのも、確かに低次の認知においては表象を介在させない、明示的でない、すなわち身体的なモデルでいいとしても、人間が行っている認知はそれだけではない。つまり、人間の全てがデカルト的精神ではないにしても、デカルト的精神も確かに持ち合わせているわけで、そのようないわば「表象に飢えた」認知が、ブルックスメルロ=ポンティには欠けていたのである。
「表象なしの」認知から「表象に飢えた」認知へと繋げるために参照されるのが、発達心理学である。特にここではトマセロが挙げられる*1。そこで重要視されるのは、他者の意図を理解することと言語獲得である。

現象学と知覚論

そこで本来なら他者の意図を理解する話へとすぐに行きたいところだが、それは少し後に回して、まずは現象学と知覚論の関係について見ることになる。
まずは、知覚論にはどのようなタイプがあるか、二つの対立軸によって整理される。
(1)物理的世界は人間の心とは独立して存在する形而上学的基盤があるかないか。
(2)物理的世界への人間の知覚のアクセスは直接的であるか否か(「媒介性」を持たないか持つか)。
まず、(1)に対して否定的なのが非実在論=観念論である。
(1)に対して肯定的なのが実在論であるが、それはさらに(2)に肯定的な直接的実在論と、否定的な間接的実在論に分けられる。
間接的実在論は、心的表象を通して知覚が行われると主張する。この心的表象のことを、現代ではセンス・データと呼ぶことが多い。表象と対象との関係の方向性に応じて、「因果説」と「推論説」がある。また、表象主義とも呼ばれる。直接的実在論と間接的実在論の対立は、反表象主義と表象主義の対立とも呼ばれている。
表象主義の代表がヘルムホルツの「無意識的推論説」で、これは心的表象から対象がどのようなものか推論するというもので、これは計算主義やコネクショニズムへと連なっていく。例えば、錯視のメカニズムの研究はこのような考え方に基づいている。
反表象主義の代表がJ.J.ギブソンである。彼は知覚を、能動的に機能する外界への「探索−システム」と考えた。そして知覚は、不変項としての情報を直接的に「抽出」するのである。
さて、それに対して非実在論すなわち観念論の代表がカントである。観念論は、何も世界は全く存在しないと考えているわけではない。特にカントのそれは、一種の表象主義である。カントは、経験的には世界の実在を認める(経験論的実在論)が、それらが表象としてしか与えられないと考える(超越論的観念論)。知覚は対象からの因果的な効力ではなく、非因果的な触発によって生じると考える。
しかし、経験論的実在論と超越論的観念論は果たして両立しうるのか。フッサールはこの問題に立ち向かう。
フッサールが提案するのは、直接的実在論でも間接的実在論でもカント的観念論でもない第四の立場である。まずは、志向性という概念によって表象とは異なる「媒介性」を論じる。単なる表象では、実在しない対象を示す表象と実在する対象を示す表象の区別をつけることができない。そこを、作用性質という志向性の働きによって区別する。センスデータは志向性の働きによって対象へと構成される、この点でこれは超越論的観念論である。
そこで「私の身体」という「いま、ここ」を起点とする「キネステーゼ・システム」の導入が行われた。
フッサールによる知覚論は3つの特徴でまとめられる。
鄯、「志向性」によって、表象とは異なる「媒介性」を提案した点
鄱、「超越論的還元(エポケー)」によって、カントとは異なる非実在論の考えを示した点
鄴、「身体性」を、志向性という媒介が機能する場、世界と主観とのインターフェイスと捉えた点

現象学と素朴心理学

他者を理解するために、どのような考え方があるか。「理論説」と「シミュレーション説」がある。
例えば、ある人が喉が渇いているとする。その時私たちはその人が、水を飲みたいと考えていると思うだろう。このとき、水が飲みたいという欲求を心的概念と呼び、それがその人にあるということを心的帰属と呼ぶ。心的帰属には、「わたしが飲みたい」という一人称的帰属と「その人が飲みたい」という三人称的帰属がある。
「理論説」は、まず心的概念を習得することによって、そしてそのための「心の理論」を習得することによって、他者を理解していくと考える。この際、一人称的帰属と三人称的帰属には違いはないと考える。
「シミュレーション説」は、他者の立場に自分を置いてみることによって他者を理解する。ここではまず、一人称的帰属があり、続いて三人称的帰属がある。
この「シミュレーション説」には、さらにゴードンによる徹底したシミュレーション説がある。ここでは、パースペクティブを完全に他者の位置へと移行させるということが行われる。そこでは、一人称的帰属を他者に対して行うことも可能となる。さらには、そもそも他者理解のために心的概念を習得する必要もないと考える。
身体的な位置関係を「やりとり」することによって、他者を理解し、またそこか心的概念が発生すると考える。

現象学とロボティクス

身体的な「やりとり」が注目される。
ここでは、他者というものを、相手がわたしが志向性を持っている存在だと捉えているとわたしに感じられる相手と定義する。その上で、それは身体的な「やりとり」によって察知されると考える。
そして実際に、人の上半身型ロボットとぬいぐるみ型ロボットが開発され、それぞれ幼児、乳幼児とのインタラクションの実験を行った。これらは、子どもと同じ方向に視線を向けたり、おもちゃを指さしたりつかんだりすることができる(自律的にもできるが、子どもの動きに合わせて遠隔操作もなされた)。
この実験の結果、このロボットに相対した子どもたちは、最初「モノ」としてロボットを捉えるが、次第に「他者」と捉えるようになる(具体的には、話しかけたりおもちゃを手渡したりする)。
子どもたちは、ロボットを他者と思うようになった。これからの課題は、逆にロボットが人間を他者と思うことができるかどうかである。

思想・社会・技術

現象学現代思想

アプローチがここからまた変化する。現象学ポストモダニズムの視点から捉えなおす。ここで挙げられるポストモダニストは、デリダメルロ=ポンティドゥルーズである。
フッサールは、時間概念を現在の知覚からスタートして、過去把持、未来予持を通して構成する。しかしこれをデリダは「今」を特権化しているとして批判する。
「今」という現前は、かならず非−現前をその契機としているし、また過去というのはただ単に過ぎ去った「今」というわけではない。これは、精神分析の事例を見ることによってすぐ了解できるだろう。「今」という現前を知覚するときに、無意識が深く影響している。この無意識は、例えば過去の何らかの経験によってもたらされているだろう。一方で、その過去の経験というのも、現在から見て把握されるものである。例えば、幼児が性的な虐待を受けたとして、その当時、幼児は「今」としてそれを経験できただろうか。むしろ、後になって思い返されることによって、経験となるのではないか。つまり、経験は「遅れ」を孕んでいる。デリダはそのような現象を「痕跡」と呼ぶ。過去とは「痕跡」であり、現在は「痕跡の痕跡」である。また、「遅れ」は「差延」と呼ばれる。
デリダは、しかし、それがどのような時間の流れとなっているかは記述しなかった。一方、メルロ=ポンティには「肉」という概念がある。私たちの経験には「差延」があるが、これは自己と自己の間のズレを生む=自己差異化。この自己差異化を媒介するものが「肉」である。この自己差異化は、時間にあるリズムをもたらしている。メルロ=ポンティは、フッサールの時間概念を直線的すぎると批判する。時間とは、かようなリズムをもったものなのである。そしてそのように考えることで、「差延」は消極的なものではなく積極的なものとして捉えることが可能になる。
自己差異化は多層性を孕む。この多層性を分析するのには、ドゥルーズを見ていくことになる。そこで使われる概念が「強度」である。
「強度」とは「感覚の限界」であり、「それ自体における差異」を孕んでいる。それは分割可能だが、分割されると変容する。「強度」の一つの例として「奥行き」がある。それは幾何学的な距離ではなく、モノそれ自身の存在感やヴォリュームを現すような場である。
「強度」で考えるドゥルーズは、様々なレベルの階層構造を解体してしまう。
自己差異化、それがもたらすリズム、そのリズムを記述するために使われる「強度」という概念。これらが、現象学からの流れをくんだ超越論的な哲学を作る材料となる。
構造主義は、「超越(「現実的なもの」)の到来を、偶発的で決定不能な「裂け目」としてしか記述できない。(P.156)」一方で、現象学は、「強度」の記述を通して世界そのものを記述できる。

現象学フェミニズム

再び、方向性は変化する。次に紹介されるのは、フェミニズム現象学だ。
フェミニズムというのは多くの面を含んでいる。政治運動という側面もあるし、文化研究という側面もある。「フェミニズムの第一の波」は、おおよそ政治運動的である。つまり、女性の権利を男性のそれと等しくする、という考えだ。しかしボーヴォワールから始まる「フェミニズムの第二の波」は異なる。つまり、今までの哲学が、全て男性の視点から記述されたことを疑問視し、女性の視点から記述し直すことを目指す。
つまり、例えば古代ギリシア哲学やデカルト哲学において、「人間」とされるものは、実は「ギリシア人あるいはヨーロッパ人の成人男性」という意味でしかない。その「人間」の中には、奴隷や非ヨーロッパ人や子ども、そして女性は含まれていないのである。
現象学もそれを免れない。フェミニズム現象学は、無性的な「人間」ではなく、あくまでも「女性」からのアプローチを行う。フッサール現象学では、間主観性というのが大きな問題となっているが、これも無性的な人間の関係だけを考察するのでは現実的ではない、とする。男性→女性、女性→男性という関係性は異なる現象として記述されるはずだからだ。
さらにフェミニズム現象学は、「人間一般」から「女性」がこぼれ落ちていたのと同様に、「女性一般」から「非ヨーロッパ人女性」がこぼれ落ちていることを発見する。これは様々に応用可能となるだろう。
具体的には、妊娠の現象学、乳ガンの現象学などが行われている。
妊娠というのは、自己の中に他者がいる状況だが、しかしこの他者は必ずしも完全な他者なわけではなく自己の一部とも見なされる他者だ。確かにこれは、「女性」からの視点でしか記述しようがない状況だろう。
これを読んでいて思い出したのが、ジャン=リュック・ナンシーの思想だ。詳しくは知らないが、彼は心臓移植の手術を受けて、他者の哲学を展開している。彼の心臓は、他者の心臓である。しかし他ならぬその他者によって彼は生きながらえているのである。ナンシーはこのことを現代のヨーロッパとアナロジカルに比較してみせていたはずだ。ここからは、「女性」の現象学が成立するならば、全く同じように「病者」の現象学もまた成立するだろう、ということも考えられる。
以前ある人から、フェミニズムジェンダー論というのは文化研究にとってどのような意義があるのか、訊ねられたことがある。僕自身も門外漢であるので答えられなかった。ただ、これを踏まえて、とりあえずの答えを出すとするならば、それは今までとは異なる視点、問題設定から眺める訓練としての意義があるのではないか、というものになる。まだまだ「女性」から見る、ということの意義は残っているのかもしれないが、個人的にはその方法論を身に付けることで、さらに「病者」から見る、「アフリカ」から見るなどといったことが次々とできるようになるのではないか。

現象学と社会科学の哲学

続くのは、シュッツの現象学的社会学を通じて、「説明する」とはどのようなことか考察する論文だ。
通常、自然科学であれば、法則と初期条件から個別の事象を因果的に演繹できれば、「説明」がなされた、と考えられる。だが、社会科学では必ずしもそうではない。法則や初期条件、あるいは説明されるべき個別の事象を特定するのにあたっても、他のものからの影響を避けられない。
そもそも「理解する」とはどのようなことなのか。それには例えば、進化心理学などからのアプローチも試されていく。

現象学と技術の哲学

フッサールは、科学的世界と生活世界とに分けて、科学的世界をガリレオから始まる「数学化」によって捉えられる世界としたが、そもそも科学には技術的な発展に伴う身体的な行為がバックボーンとしてある。
つまり、測定技術の発達によって、今まで見えなかったものが見えるようになったということがある。
ハイデッガーメルロ=ポンティが指摘するように、技術や道具というものは身体と一体化する。つまり、科学的世界と生活世界も完全に分離できるものなのではなくて、生活世界は技術によって拡大しうる。
この論文の中では全く触れられていなかったが、これは非常にバシュラール的な考え方ではないか、と思う。ちなみにこの論文で、技術の哲学に携わる哲学者として名が上がっているのは、例えばドレイファスやダナ・ハラウェイである。
この論文で面白いのは、最後に楽器が紹介されることである。楽器も確かに技術である。特に電子楽器などはそうであろう。それはまた身体化されてもいるし、文化と接触するという面も併せ持っている。楽器演奏についての記述は、現象学的でもあり、技術の哲学的でもある。


現象学と二十一世紀の知

現象学と二十一世紀の知

*1:トマセロはここに限らずよく目にする名前だ