1979年、大江が44歳の時に書かれた書き下ろし長編。
谷間の村の神話=歴史を書き残すという使命を負った「僕」が双子の妹に宛てた手紙という形式で書かれている。
大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』 - logical cypher scape2に続けて読んだ。
『同時代ゲーム』が難解であったために、それを分かりやすく書き直したというのが『M/Tと森のフシギの物語』となる。実際、読みやすさという点では圧倒的に『M/T』に軍配があがるところだし、『M/T』を読んだことで『同時代ゲーム』が読みやすくなったのは確かであるが、小説として面白いのは『同時代ゲーム』の方だと思う。
大江の出身地である愛媛県の村をモデルに、その村が日本から独立した地域だったという偽史を描く作品で、その「日本からの独立」というのが『M/T』よりはっきりしている気がする。
また、主人公=語り手の胡散臭さというか怪しさというかが、『同時代』の方が際立っていて、それが語りの複雑さにも繋がっているが、作品内容的にそちらの方がよいと思う。
というか、語られる出来事の時系列が複雑であるとか、出てくる要素が多すぎて煩雑であるとかいった難点が『同時代』には確かにあるのだが、しかし、作品そのもののテーマのわかりやすさというか、最後の物語の落着の仕方というか、そういった点は『同時代』の方が全然素直だったのではないかと思う。
それは、主人公=語り手のキャラクターがある程度はっきりしている点にあるからだと思う。『同時代』の主人公=語り手はあくまで架空の人物であり、なおかつその性質(傍観者的なところ)について、例えば『万延元年のフットボール』の主人公との類似を見て取ることができて、最終的にこの主人公と村のつながりへと物語が収束していく。『M/T』も、収束方向が同じであるが、主人公は大江自身をモデルにした人物になっていて、息子の光も登場してきて、私小説要素が出てくる。自分が大江の私小説系統の作品をほとんど読んでいないせいも大いにあると思うが、『M/T』のラストは、そのあたりに座りの悪さを感じてしまった。
『同時代』は、作品発表後にあまり本格的な評論が出てこなかったために(それだけでなく小林秀雄が数ページで読むのをやめたと言い放ったりとかもあったようだが)、難解な作品という評価になったらしく、実際、本格的な評論を書くには結構手間のかかる作品ではあると思うのだが、2023年現在に読むに当たって、(決して簡単な作品ではないとしても)そこまで言うほど難解な作品か、という風にも思う(自分は『M/T』を先に読んでいるので、当時いきなり読んだ人たちと比べて難易度が下がってはいるのだが)。
さらに言うと、読みやすくするために書き直したという『M/T』の存在は、確かに読みやすくはしているのだがその一方で、『同時代』から変更になっている箇所もあるため、この異同は何故生じたのか、という別種の読解の必要性を生じさせてもいるなあーと感じた。
ところで、阿部和重作品とはもちろんかなり違うのだが、しかし読んでいてどことなく阿部和重を想起させるところがあるなあとも思った。まあ、もちろんこれはアナクロニズムであって、阿部が大江に影響を受けているというのが正しいが*1。
阿部作品ほどサブカルチャーからの引用に満ちているわけではないが、本作もところどころオカルトっぽいところからの引用があったり、あるいは、主人公の妹が一時期CIAからの追求を逃れるために自殺したフリしていたとかは、いかにも阿部作品にも出てきそうなエピソードではないだろうか?
話を戻すと、四国の山奥に日本から独立した村があったという話で、これを示すように「村=国家=小宇宙」という表記がされている。村の神話・歴史はこの独立性を謳うものだが、しかし、この独立性というものへの疑いや綻びというのが、そこかしこに示されてもいる。
過疎化による衰退を余儀なくされている出身地の特別性のようなものを、どうにかしてつなぎとめようとしている主人公が、最終的には己の幼い頃の特別な体験の思い出の中にその根拠を見いだしていく、主観的には美しい物語として終わる。とはいえ、個々の要素を色々見ていくと、結構色々なノイズが混ざっていて、「村=国家=小宇宙」の独立性はそんなに純粋に成立しているものではない。そのあたり、『M/T』より『同時代』の方が良くできているんじゃないかなあと思った*2。
(追記20231020)
アポ爺・ポリ爺って名前が変すぎるっていわれたりするらしいけど、主人公の名前が露己(ろき)なのも大概だよな。というか、ロキからトリックスターという流れがあるんだろうか。
(追記ここまで)
第一の手紙 メキシコから、時のはじまりにむかって
第二の手紙 犬ほどの大きさのもの
第三の手紙 「牛鬼」および「暗がりの神」
第四の手紙 武勲赫々たる五十日戦争
第五の手紙 神話と歴史を書く者の一族
第六の手紙 村=国家=小宇宙の森
語り手の違い
『M/T』と『同時代ゲーム』とのもっとも大きな違いは、語り手の違いであり、そこから色々な違いが生じている。
『M/T』の語り手は、大江本人をモデルにしたような人物であったが、『同時代』の語り手は、歴史学の講師としてメキシコの大学に赴任しており、また双子の妹がいる。
『M/T』にも語り手の妹が出てくるが、そちらは、東京にいる僕に母の現状を知らせてくれる程度の役割だが、『同時代』では、語り手である「僕」は双子の妹とかなり緊密なつながりがある。
そもそも『M/T』は、「僕」が祖母から伝え聞いた話を語っているという体裁だが、誰が聞き手なのかは明言されていない(不特定多数の読者一般に向けて語っているように思われる)。また、そもそも大江自身が少年たちにも読めるように書き直したとのことで、文体が「ですます」体であるだけでなく、性的な話題が減らされていたり、間接的な言い回しになったりしている。
これに対して『同時代』では、「僕」は父=神主から村=国家=小宇宙の神話や歴史を書く者としてのスパルタ教育を受けていて、ここで語られる神話や歴史は祖母からではなく父から聞いた話となっている。そして、同じく父=神主によって、「壊す人」の巫女となるべく教育を受けた妹への手紙として書かれている書簡体小説の形式をとっている。
「僕」と妹は、まず双子であるという点で一体的な存在であるが、同時に父=神主から役割を負わされているという点も共通点がある。また、2人の性的関係もほのめかされている(性行為自体は未遂だったようだが)。
逆に、「僕」が村の神話や歴史を書く者としての役割を負わされていたことと、「僕」は一時期その役割から逃げようとしていたが、それを引き受けるようになったというあたりは、両作品に共通している点だが、しかし、『M/T』ではその役割はあくまでも暗黙的に「僕」に課せられていたのに対して、『同時代』では、そのためのスパルタ教育を受けていたことになっている。『M/T』ではこの役割の話が主題となるのは後半になってからだが、『同時代』では冒頭からずっと「僕」の意識の中心にある。
この点、『M/T』の語り手と比較して、『同時代』の語り手は、読者からするといささか異常者っぽく見えるところがある(何か特異な信念を強固に抱いているというあたりが。そして、前述の阿部和重っぽさと通じる)。
妹への手紙という形をとっていることは、内的な必然性があるが、『同時代』が『M/T』より難解な理由もこのあたりにあると思う。そもそも話の受け手である妹自身が、村の神話や歴史を知っているので、相手が知っていることを前提にして進む部分がある点と、「僕」自身についてのことにもかなりページが割かれていて。村の話と「僕」の話が交互に出てくる点が、捉えにくさの要因になっているのだろう。『M/T』を読んでから『同時代』を読む場合、既に村の歴史は知っている状態で読むことができるので、このあたりは困難さはほとんどなくなる。
語り手の口調というか文体というかは、『万延元年のフットボール』と似ている(例えば、語り手である「僕」と演出家との会話は、『万延元年』の兄弟の会話を思い起こすところがないわけでもない)。また、妹との近親相姦などモチーフにも『万延元年』との共通点がある。
ところで、「とんとある話。あっかた無かったかは知らねども、昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ。よいか?」と聞かれて、僕が「うん」と答えることで、祖母ないし父の語りが始まるというのが、『M/T』でも『同時代』でも共通しているのだが、『M/T』の方はこの台詞が繰り返し出てきて強調されていたのに対して、『同時代』ではあまり出てこなかった気がする。
村の神話・歴史の違い
『同時代』と『M/T』で語られる村の神話・歴史は、基本的には同じものである。
「壊す人」と創建者たちの物語、オシコメによる復古運動、幕末期の亀井銘助による一揆、戦中の五十日戦争というそれぞれの時代ごとに章分けされている構成も共通している。
文体の違いがあるが、文言レベルでほとんど一致するような箇所もある。
一方で、大きな違いとしては、語り方の違いがあげられる。『M/T』がほぼ時系列に沿ってエピソードが並べられているのに対して、『同時代』は歴史上の時系列と語られる順序が錯綜している箇所がある。これは『M/T』では語り手の「僕」が、終盤に入るまではあまり前面に出てこないのに対して、『同時代』では、村の歴史と同時に「僕」の近況も語られるので、これに絡めて村の歴史のエピソードの並びも変えられているからだ。
また、『同時代』の方が解釈が深掘りされているところがいくつかある。例えば、オシコメと若い衆の関係は、『M/T』では「たわけにたわけて」としか表現されない(が、何回も繰り返し出てくるので含みがあることは分かる)のに対して、『同時代』では直接的に性行為への言及がある(なお、オシコメは巨人化しているので、かなり異形な乱交である)。また、谷間の村が下流から甕村と呼ばれていたことに対して、『M/T』の語り手はわりと淡々と紹介しているだけだが、『同時代』の語り手はかなり衝撃を受けている。一方で、亀井銘助が村に帰ってきたときに言ったとされる「人間ハ三千年ニ一度サクウドン花(ゲ)ナリ」という台詞が、『M/T』では何度か繰り返し登場していていそれなりに印象深いが、『同時代』では後世の創作としてわりとあっさりした扱いになっている。
「死人の道」の扱いもちょっと違ったような気がする。
内容は基本的には同じなのだが、しかし全く同じではなく、登場人物に違いがある。
原島リスケが、『M/T』にはいるが『同時代』には出てこない。
逆に、原重治は、『M/T』には登場せず『同時代』に出てくる。
原島リスケの方はよく分からないが、原重治の改変は下記の理由によるだろう。
大きなコンセプトの違いとして、『M/T』はタイトルにある通り、MatriarchとTricksterという図式を抱いている。壊す人とオーバ、オシコメと若い衆、亀井銘助とその母というように。五十日戦争では「僕」の母親がMの地位にいるという見立てなのだろう*3。「僕」に神話や歴史を語って聞かせるのが祖母なのも、谷間の村に何らかの女性の系譜があることが念頭にあるのだろう。
『同時代』で原重治がした行為などは、『M/T』では亀井銘助の母がしたこととして書き換えられている。
一方、『同時代』において、M/Tという男女の図式は希薄である。オーバの印象は薄いし、亀井銘助の母や「僕」の母も出てこない。そして何より、「僕」に村の神話・歴史を教え込むのは、祖母ではなく父である。
また、村の現状について、『同時代』の語り手は村が衰亡の一途を辿っているということを繰り返し強調している。事実として、20年度ほど村では子どもが産まれていない。村で生まれた最後の子どもとして、若い演出家が登場する。
第一の手紙 メキシコから、時のはじまりにむかって
第一章は、谷間の村の話よりも「僕」の話が中心にされている。村の神話や歴史を書く役割から逃げていた「僕」が、むしろ積極的にその役割を引き受けるようになる経緯が書かれているようである。
メキシコのマリナルコから始まる。歯痛にさいなまれて、歯茎を石で傷つけたりして、大学の同僚とかからドン引きされているエピソードとかが書かれている。
歯痛を石で歯茎を傷つけることでどうにかしようとするというのは子どもの頃から。
阿呆船の話から、壊す人と創建者たちが川を遡行する話
「僕」は学生時代にセクトに属していて、鉄パイプ爆弾を作っていたことがあるのだけど、壊す人が爆破のプロだったことと自分とのつながりを感じて、運動から離れて、歴史を書く人としての役割を引き受けるようになる。
歯の治療のあと、美術史家のカルロスという男と痛飲する。その際に、メキシコの画家の描くイメージと谷間の村の神話の共通性を指摘されたりする。
ところで、なんでメキシコから始まるのかというのは読んでいてもよく分からなかったのだが、巻末の解説によると、大江が最終章の異時同図みたいなイメージについて、メキシコ壁画運動から着想を得たらしいとしって、ちょっと合点がいった。作中、メキシコ壁画運動への言及はなかったはずだが。
主人公は、メキシコの大学で歴史を教えていて、2人の留学生相手に日本書紀の講義をしているのだが、それに触れた手紙の記述の中で、吾和地という地名について延々説明している。吾和地というのは谷間の村の名前のこと。日本書紀の水蛭子の話と関係した地名で、まつろわぬ土地なのだという話がしたいのだと思う。
教え子のレイチェルと寝る話が出てくる。妹以外の女性との性遍歴が本作では時々描かれている。ここでは、その際に見た占領の夢についてがポイントだろう。日本に帰国したら中国に占領されていたという夢だが、戦後の連合国による占領の記憶と繋がっている。ところで、さらに、谷間の村に先住民がいたのではないかということを「僕」は考える。「壊す人」と創建者もまた占領者だったのではないか、と。谷間の村は、谷間と「在」との2つに分かれてその間で結婚するという制度をもっていたのだが、第三の種族がいたのではないか、と。
『万延元年』では、谷間でも「在」でもないが村に住んでいた人々いえば、在日朝鮮人ということになるが、ここでは「壊す人」たちがやってくる前に住んでいたというから、また別の存在だろう。
これは、村=国家=小宇宙の純粋性みたいなものを乱すノイズではないかと思う。もっとも、伏線回収される要素ではないので、あまりはっきりはしないのだけど*4。
アポ爺ペリ爺が絵本『森の怪物フシギ』を作っていたという挿話もある。正直、この「森のフシギ」の位置づけが自分にはよく分からないのだが、『M/T』では最終章まで名前が出てこなかったのに対して『同時代』では第1章で名前だけは出ていることになる。なお、その後、やはり最終章になるまで出てこないが。
第一の手紙には、「(投函前に削除された部分)」なる箇所が最後に付されていて、父=神主によって、「僕」は歴史を書く者、妹は壊す人の巫女となるように育てられてきたが、「僕」はそれに反抗するために、妹のことを強姦しようとした(が未遂に終わった)件が書かれている。
ところで、この妹は、のちに東京で水商売をすることになるのだが、「僕」だけでなく村の若者にとって性的な存在だったことが何度も繰り返し書かれている。蝋倉庫の便所でバターの色をした臀部が覗きにあっていたのだが、むしろそれを見せつけていた、と。
第二の手紙 犬ほどの大きさのもの
妹が自殺を装っていたことへの言及がある。この件についての詳細は第五の手紙で書かれている。
村に伝わる地獄絵が創健者たちの生活を描いていたのではないか、という話。これは『M/T』でも触れられていた。もっというと地獄絵が地獄じゃなくて村の史実を伝えているのではないかというネタは『万延元年』にもあった。彼らの生活は古代へと戻っていたのではないか。「穴」を家にしていた、とか。
さて、『同時代』と『M/T』の大きな違いで、『同時代』にかなり非現実的な雰囲気を加えているものとして、父=神主と妹が、キノコのような「壊す人」を見つけたという話があるだろう。「壊す人」は伝承の中で何度も死んだり甦ったりしているが、現代においても甦ったというのだ。さらに、その壊す人を、妹は鞘(つまりは女性器)の中にいれて、犬ほどの大きさにまで育てたという。
この話を「僕」に教えてくれたのは、谷間の村出身の若者で、彼は、村で生まれた最後の子どもである(彼との話は第三の手紙に詳しい)。
「僕」が子ども時代に村にいた「ダライ盤」という男の話。よそ者だが、村でもかなり古い家の女性と結婚した。「僕」たちは彼が宇宙人ではないかと考えていた。この「ダライ盤」のエピソードも位置づけがよく分からないのだけど、村と部外者についての1つだろう。あとは、宇宙との関係か。
第二の手紙では、オシコメによる復古運動と住みかえの話がなされている。このあたりは『M/T』と同じ。住みかえの強制に反対して逃亡した家族の話は『M/T』にもあったが、彼らが殺されたことが「死人の道」の名前の由来ではないかという解釈は『同時代』だけの気がする。「死人の道」は壊す人と創建者たちが作ってその道を歩くことで向こう側へ逝ってしまった、というのが『M/T』に出てきた話。このあたり、時系列順になっている『M/T』と『同時代』の違いかなと。
その後、「僕」は不死というキーワードから、スターリンと「壊す人」の相似を見いだす。圧制者としての「壊す人」について語り、「死人の道」が強制労働によって作られたことを語る。
あとはシリメの話とかは、内容的には『M/T』と同じ。
第三の手紙 「牛鬼」および「暗がりの神」
第二の手紙に出てきてた、村の最後の子どもである若者との話。彼は、演出家で3人の俳優を擁する劇団を率いている。そこで自分の村についての演劇をする計画があり「僕」は演出家や俳優たちと関わることになる。
第三の手紙は主に、その演出家や役者たちとの交流(?)だが、演出家と「僕」との間で、亀井銘助について話をしている。なお、この演出家は、亀井銘助の子孫であるというのだが、彼の家に伝わっている話と、「僕」が父=神主から聞いた話をすりあわせたりなんだりしている。
戦前、尋常小学校で亀井銘助の演劇をやった時の話を、「僕」が演出家に教えていたり。
自由時代はどれだけの長さだったのかという問答をしていて、そこで「僕」は壊す人と創建者たちは古代への遡行をしていたのだという。客観的には、幕藩体制成立後の話でせいぜい数百年なんだが、古代のような生活をしていたことをもってして、時間も古代に遡っていたのだという神話的な時間が導入されている。
ところで、壊す人のエピソードの1つとして、毎朝、巨木の枝でぐるんと回ってジャンプして大きな音を鳴らしていたというのがあるのだが、演出家は、これを河川敷の鉄棒だかで実演してみて「壊す人の跳躍は具体的に可能だね」と言うシーンがある。
この壊す人のエピソードは、戦中、疎開してきた子どもたちにバカにされていたのだが、村の神話のリアリティについて演出家と確認し合っている。
なお、このエピソードは『M/T』では時系列順に整理されて第一章で書かれている。同じく第一章に出てきた「大簗」とかも『同時代』では、ここで初めて出てくる。
さて、演出家がまず芝居にするにあたって選んだのが、原重治=牛鬼の話である。原は、大逆事件の頃に気が触れた人で、『M/T』では亀井銘助の母のエピソードとして語られる内容がほとんどそのまま出てくる。
ところで、原の縁戚である郵便局長がここでちらっとだけ出てくるが、『M/T』ではこの郵便局長は「僕」の祖父だったはずである。
原を、谷間の原と「在」の原ともう一人の原と三重化して描く芝居になっている。
また、この当時の史料から、僕と演出家は甕村という名称を知って、衝撃を受ける。それは、自由時代において「村=国家=小宇宙」は誰にも知られぬ孤立した存在だったのではなく、下流からもその存在を知られていた可能性を示す。さらに、その名称からいって、冥府のような場所と考えられていたのだろう、と。『M/T』でもこの史料と甕村という名称については出てくるのだが、上述の通り、語り手は特に衝撃を受けてはいない。
また、第一の手紙でも触れられていた第三の種族について、再度の言及があるが、ここでは、「僕」が語る内容は剪定されているのだとか言って、深掘りされない(つまり、「僕」は何かを隠しているようなのだ)。
「村=国家=小宇宙」の公式な神話・歴史としては、「壊す人」による創世神話がそのスタートにあって、それこそが、この村が日本という国から独立した孤高の存在であったことの基盤になっているわけだが、甕村という名称や第三の種族は、そこに楔を打ち込む何かなのではないかと思う。しかし、「僕」はこのあたりに深くは立ち入らないし、『M/T』ではこうした要素はさらに薄められているように思う。
亀井銘助と3つの一揆に関して指導的な役割を果たしたという話がなされるが、3つめの一揆である血税一揆について、『M/T』に出てきた母や童子は出てこない。
そういえば亀井銘助は、『M/T』でも書かれているけれど、のちにメイスケサンと呼ばれて土人形が各家に祀られて、土着信仰の対象になっている。「壊す人」は明らかに創造神的な立場にいるけれど、おそらくはあまり明示的に信仰されてはいなくて、何かよくないことがあったりすると、村の人たちはメイスケサンに祈りを捧げている。
第四の手紙 武勲赫々たる五十日戦争
「村=国家=小宇宙」が幕府や大日本帝国に補足された後も、「二重戸籍のカラクリ」によって半分の独立を果たしていたわけだが、五十日戦争への敗北によってこの独立も損なわれる。五十日戦争後に生まれた「われわれ双子」は、大日本帝国への象徴的な報復であったとしている。しかし、双子はその後生まれることはなく、この報復は続かず、村は衰退していく、とも。
五十日戦争の話も大体の内容は『M/T』と同じだが、やはり時系列とは少し異なる順で語られている。
以下は、『M/T』とは違う点を主にひろいあげていく。
村の頸のところに、「不順国神(まつろわぬくにつかみ)、不逞日人」という落書きがあったという。かなり直接的に、村が、天つ神・天皇制・大日本帝国から独立して抵抗する存在なのだということをあらわしている。不逞日人は、関東大震災の時にあった不逞鮮人のもじり。
五十日戦争で死んだ将兵について、書類上は中国や南方で「戦死」したことにする将校がいたに違いない、というエピソードが挿入されていたりして面白い。
五十日戦争の第二陣の隊長について『同時代』では「無名大尉」と呼ばれている。村の降伏後、無名大尉が戸籍裁判をしたことは『M/T』にも書かれているが、戸籍に載っていなかった者たちについての処遇は明記されていなかったのに対して、『同時代』では処刑されたとあり、これを虐殺と述べている。
この頃の村には、学校の先生とか巡査とか部外者が住んでいて、陸軍は当初彼らの協力を得る予定だったが、村では彼らを「敵性村民」として、テントに軟禁したりしていた、というのは『M/T』にもあるところで、彼らのエピソードは共通している。そうした人たちの中に三島神社の神主もいたわけだが、『同時代』ではそれこそ父=神官がその人にあたる。
兵器工場を移す際に機材を移動させた跡を子どもたちが欺瞞して、それが迷路の伝承になった。
五十日戦争において、壊す人は村人たちの夢の中に出てきて指示を与えていたが、『同時代』では無名大尉の夢の中にも出てきていたという。彼我の戦い方を比較して、無名大尉が恥を感じていたということも書かれている。「恥」というキーワードは『M/T』には全く出てこなかったように思うが『同時代』には時々登場してくる(それほど目立たないが)
無名大尉の死について、『同時代』では爆死と縊死の2パターンが書かれている(『M/T』は縊死のみ)
第五の手紙 神話と歴史を書く者の一族
タイトルにあるとおりで、「僕」の家族についての話であり、『M/T』には全く出てこない内容となる。
まず、そもそも父=神主がロシア人クオーターであることが明かされる。「僕」たち兄弟は、父と旅芸人の母の間にできた子で、つまり村にとっては両親ともに部外者の家系なのである。父は、村の一番高いところにある神社に、子どもたちは村の一番低いところに分かれて住んでいた。母がいなくなった後は、村全体で育てられるような感じになっていた。
「僕」の兄弟は、長兄の露一、次兄の露次郎、双子の露己(僕)・露巳(妹)、弟の露留(ツユトメサン)であり、みな名前にロシアの露が入っている。
長兄は、露一兵隊と呼ばれていて、兵役にいったのだが、戻ってきて以降は精神病院に入っていた。しかし、のちに兵装で皇居に突撃するという挙に出る。捕まってまた病院に戻されほどなくして亡くなるのだが、終戦とともに朝鮮、韓国、台湾が独立したように、国内の国家(つまり自分の村)も独立させてほしいということを訴えようとしたとされている。なお、精神病院でエスペラントに触れており、突撃時も、エスペラントの詩をつぶやいていた。
露次郎は、露・女形と呼ばれていて、母の友人でやはり芸人だった女性が彼の後見人となり、主に大阪で活動するようになるが、東京の演芸場でも踊りを披露したりするようになる。財界人の愛人になったりもしているのだが、その中で、高級官僚から政治家になった男の愛人ともなる。実はこの男は、村の出身者で神童だったような人なんだけど、五十日戦争の時に戸籍が操作された人で、出身のことを完全に隠して官僚になっていた。露・女形に出会った時、故郷の言葉を久しぶりに聞いて、関係を持つようになった。露・女形は性転換手術を受けるためモロッコへ行くのだが、手術の傷がもとで亡くなる。なお、ここでは同性愛に対する「恥」というのが少し言及されていた。
ツユトメサンは、野球バカなのだが、村の魚屋であったコーニーチャンが彼を支援するようになる。コーニーチャンはツユトメサンを連れてプロ球団を訪ねて歩き、果ては英語も大してできぬのに渡米してドジャースにまで、ツユトメサンを入団させようとする。最終的にはなんとか国内のとある球団へ入団することができるのだが、活躍できず、その後北海道で熊と間違われて射殺される。彼は、野球以外は全くできず、その点はコーニーチャンが世話していたのだが、入団してから、コーニーチャーンは村に帰ってしまっていた。
さて、全く社会性がなくて球団で孤立したツユトメサンをフォローしていたのが、上京して水商売をしていた、「僕」の妹の露巳であった。
ここまで繰り返し何度も言及されていた、バター色の臀部の話が詳述される。蝋倉庫で映画興業が行われる際、便所に行く妹のことを、村の男の子たちがのぞいて自慰していた(「僕」も加わっていた)のだが、妹自身わざとやっていたという話。
性に奔放で、上京して水商売をやっていて、ツユトメサンの球団の選手たちも店にやってきて関係をもったりしていたのだが、彼女が関係を持った男の中でももっとも大物が後にアメリカ大統領となる男だった(どうもニクソンのことらしい)。のちに妹は渡米して、村の独立をアメリカ大統領に直談判したという(この話の中で、琉球独立やアイヌ独立という文脈を「僕」は混ぜ込ませている)。その後、妹は癌を悲観して連絡船から投身自殺をしたのだが、さらにその数年後、生還して「僕」のことを驚かせることになる。
で、この自殺騒ぎにはさらに信じられない真相が付されていて、実は、大統領と彼女との間の過去の乱痴気騒ぎについて口封じするために、CIAに追われており、身を隠すための狂言自殺であり、大統領が退任したので、再び出てきたのだという。
なお、彼女は癌になった際、自らの癌の写真を拡大して店に貼っていて、それが彼女の店の独特の売りになっていたらしい
第五の手紙の中で、亀井銘助と蒸気船の話が少し触れられている。
第六の手紙 村=国家=小宇宙の森
父=神主の死により村に帰ってきた「僕」が、犬ほどの大きさになった壊す人とともに行方不明になった妹へ宛てた手紙。
これまで妹に宛てて書いた手紙を、父=神主もまた読んでいたことを示す筆跡が残っている状態で発見するが、一方で、父=神主が集めたこの村の歴史史料は全てなくなっていた。
この手紙では、「僕」自身のことが語られる。『M/T』では「神隠し」と呼ばれていたエピソードであり、いくつか共通しているところもあるが、結構別物になっている。
『M/T』ではかなり幼い時期にあった3日間の出来事とされているが、『同時代』では後述するように小学生くらいで6日間の出来事となっている。彼はこのことがきっかけで「天狗のカゲマ」と呼ばれるようになる。
戦時中に村に疎開してきたアポ爺・ペリ爺という双子は、「僕」の話に興味をもって、父=神主に話を聞きに行くようになる。
当時の「僕」が、村の神話や歴史に対して道化た態度を示すことがあって、その一例として、壊す人の糞の総量を計算してみせて、アポ爺・ペリ爺から窘められるというエピソードがある。ただこれについて、確かにふざけてみせた一面はあるものの、一方で、壊す人の糞こそが村を肥沃な土地にしたのではないか、という真剣な考察もあったのだとしている。村の神話・歴史の始まりから悪臭というのはキーワードになっていて、ここではそこに糞が加わるのだが、まあ神話学っぽい話だなあと思う。
この話は、村の神話・歴史の多義性というテーマへと繋がっていく。「あっかた無かったかは知らねども、昔のことなれば無かった事もあったにして聴かねばならぬ」という言葉もあるように、虚実入り交じるというか、元々ふざけたお伽噺の類いなのだよ、というエクスキューズをつけながら語り継がれてきたという面があるのである(亀井銘助が藩と交渉する際に、あえてこの村の人たちは猿に退化しようとしているとふざけて語ってみせた話とも通じる)。
さて、戦中で軍国主義的な校長が村にきて、メイスケサン信仰をとりあげ、皇道教育を徹底しようとしたさなか、父=神主は仮装して、校長や生徒たちの参拝を妨害し森の中へと逃走する。これにぶち切れした校長に対して、父=神主を庇ったのがアポ爺・ペリ爺であった。
結局、父=神主は一時逮捕拘留されるのだが、なんと、父=神主はアポ爺・ペリ爺のことを裏切って出てくるのである。アポ爺・ペリ爺は連行されてしまいその後は不明となる。
アポ爺・ペリ爺は、父=神主の行動は地元の行事に基づくもので、神道とも整合的なものであり、むしろ校長の行動の方があの場では神を蔑ろにするものであったのだとして、擁護する論陣を張った。しかしその後、校長は、父=神主に対してこの村がまるで大日本帝国から独立した歴史をもつ小国家であるかのような思想を吹き込んだのがアポ爺・ペリ爺であるというストーリーを考え出して、父=神主はこのストーリーにのることにするのである。
このあたりの解釈は、巻末の解説に出てくるが、村の歴史に対する解釈を、父=神主、アポ爺・ペリ爺、校長と村の部外者の三者がそれぞれ行っているのだ、と。どの解釈によってたつかで、村の歴史の位置づけが変わってくるという、多義性の話になっている。
で、この父=神主のアポ爺・ペリ爺への裏切りに対する恥や憤りを抱いた「僕」は、化粧の薄紅を全身に塗りたくって、「死人の道」の向こう側へ行く。
ところで、それ以前から「僕」は壊す人に憑依されるような感覚を覚えることがあって、それを生乾きの皮に包まれたような感覚と表現している。
そして「フシギ」が出てくる。これも、壊す人以前から森にいて、宇宙から来たとされている謎の存在で、地球の言語を学ぼうとしているのだという。ただ、「フシギ」についてオカルト的全体論(ユングの集合無意識というかなんというか)みたいなオチへと繋がっていく『M/T』に対して、『同時代』における「フシギ」はいまいち位置づけがよく分からない。
森の中に入った「僕」は壊す人の肉体を復原する作業をしていたと言っていてこれは『M/T』と同じだが、その中で宙に浮かぶたくさんの硝子玉を見たというのは『同時代』だけだったはず。で、それぞれの硝子玉の中には、犬曳き屋の姿とか亀井銘助の姿とか妹の姿とかが見えていたという話で、同時に様々な時間が並立して存在している空間として森があって、そこに「僕」が入り込んだことで、村の神話・歴史を書く者の資格を手にしたのだというような位置づけのエピソードだったのだと思う。
このシーンで終わるの物語として美しい終わり方だなあと思うし、一方で、父が集めたはずの史料も、「僕」の片割れである妹も、妹が育てていて村の復活の証となるはずの壊す人も姿を消していて、ただただこのオカルトな「僕」の記憶だけしか、村の神話・歴史の証拠として残っていないという状況で、小説としてもよいまとめ方だと思う(つまり、村の神話・歴史って客観的にはやっぱり怪しいよねという自己批判があるのだけど、『M/T』はいまいちその神話への批判性が見えないというか……)
尾崎真理子「果てしなく多義的な偽史をめざす」
『大江健三郎全小説』編纂者による解説。
『M/T』と『同時代』の両方に対してまんべんなく解説がなされているが、ここでは何点かだけ抜粋。
『同時代ゲーム』は、自殺した三島由紀夫への反発・違和感の表明として書かれたとした上で、井上ひさし『吉里吉里人』(1981)、丸谷才一『裏声で歌へ君が代』(1982)、中上健次『地の果て 至上の時』(1983)もまた同様の違和感から書かれた作品で、これらの先駆だとしている。
亀井銘助の話は元ネタがあって、三浦銘助という南部藩の人。
『同時代ゲーム』についてもっとも本格的な評論としては、小森陽一による論考がある、とのこと。