『ユリイカ 2023年7月臨時増刊号 総特集=大江健三郎』

実物を見ると600ページ超の分厚さにびびる。
大江健三郎について最近ちょっと読んでいるとはいえ、全然明るくないので、ごくごく一部の論考だけちらっと読んだ

市川沙央「破壊と共生の王の死」

ページをめくっていたら見かけたので、タイムリーだな(?)と思って読んでみた。
障害者を描くことについて
障害者の死ではなく生活を描こうとする希有な作家としての大江

大塚英志「構造と固有信仰――大江健三郎における柳田國男の「実装」問題」

主な目当てはこれ。
『万延元年フットボール』『同時代ゲーム』『M/Tと森のフシギの物語』を主に取り上げて、大江文学と民俗学偽史などの関係について論じる。

大江は文化映画のまさにモンタージュの手法によって、世界の見方を獲得したと告白していることになる。(中略)大江が最初から柳田を構造的に読めたのは、このような文化映画が内在するモンタージュ=「構造」化の実装があったからだ。

「失われた右目」やスーパーマーケット強奪というカーゴカルト若水汲みなど、さまざまな民俗学的要素を使って物語を構造として仕掛けていく
大江における「演劇」や「儀礼」のモチーフ
大江、中上の紀州サーガ、村上春樹デレク・ハートフィールド、80年代サブカルチャーのサーガ化(ガンダムなりロードス島なり)、太田竜なりオウムなり、陰謀論なり、偽史的創造力による代替神話の創造
(Qアノンの出自がイタリアの文学運動にあることに触れられている)
代替歴史はあからさまにフェイクであるのが倫理であり、その「根拠」に「意味」を充填するとカルトやナショナリズム偽史になってしまうと大塚は警告する。
大江の場合、私的な祈りがあるが、これが公共化するとカルトやナショナリズムとなる

王寺賢太「詩とテロルのあいだ――大江健三郎「セヴンティーン」と「政治少年死す」についての覚え書き 」

「セブンティーン」「政治少年死す」論だったので読んだ。
大江にはテロリズム小説がいくつかあるが、その原型としてセブンティーン2部作を読む。詩とテロと小説の関係について。
最後に出てくる「死亡広告」を、作中に出てくるほかの詩(エリオットや辞世歌)と対比させ、これが作中の小説家南原(=大江)によるものだとする

一切の詩的な昇華を拒否して投げ出される「死亡広告」の言葉は、「詩」によって一つの生を象徴的に完結させることを拒み、「詩」であることをみずから否定する「詩」である

大江は、そうやって詩とテロルの誘惑を退けようとしたのだ、と論じている。

峰尾俊彦「性的人間のつなぎ間違い――一九六〇年代前半の大江小説」

目当てその2
この論考の筆者は学生時代の友人で、実は、『ユリイカ』の大江特集自体を、彼がtwitterで告知していたのを見て知った。
「セブンティーン」や「性的人間」などの作品についてを、コジェーヴの主人と奴隷の弁証法の構図から読み解く。
大江は、政治的人間と性的人間という二元論をたてているが、これがおおよそ「主人」と「奴隷」に相当するとして、コジェーヴは「奴隷」が労働によって主体たりうるように、性的人間にもそういう契機はありうる。
これがしかし、作品の歪みともなっていくという論立てで、この時期の作品が二部構成になっているが、しかし、この二部構成のつながりがいびつであるということを論じていく。
例えば「セブンティーン」と「政治少年死す」は、主人公が同じだけで文体などが全く異なっている。『遅れてきた青年」は、1部では田舎の不良少年だった主人公が、2部ではエリート青年になっているというようなちぐはぐさが生じている。
しかし、この「つなぎ間違い」に可能性を見いだす。
「個人的な体験」において、障害者を持った子を殺そうとしていた主人公が、最後に一緒に生きることを決めるのは、大江が初期作品でこの「つなぎ間違い」を追求してきたからこそ可能になった展開なのではないか、と。

小林成彬「遅れてきた大江健三郎――サルトルにみちびかれて」

相互フォロワーの緑雨さんの論考。
峰尾と緑雨さんがtwitter上でやりとりしていたのを見かけたので、これもあわせて読んでみた。
タイトルにある通り、大江は自分が「遅れてきた」とよく言っているらしくそのことについて。
また、大江はサルトルをよく読んでいたわけだが、少しそこには距離があったらしい(フランスで直接対談した際の、核戦争への恐怖の温度差などが例に挙げられていたりする)。自作の中で唯一引用しているサルトルのテクストから読み解いていく。