大江健三郎『取り替え子(チェンジリング)』

2000年、大江が65歳の時の長編小説。高校時代の友人であり、義兄である伊丹十三の投身自殺(1997年)について書いた作品である。
また、大江が後期に書いていった長江古義人ものの第一作である。


2000年に刊行された作品なので、刊行当時の記憶がある、というか、大江作品の刊行をリアルタイムで目にした最初の作品だと思う。99年の『宙返り』の記憶はない。
本作については、新聞広告で知った。大江健三郎についてノーベル文学賞作家として名前は知っていたが、読んだことはなかった。当時自分は中学生くらいで、神話に興味をもっていた年頃だったので、ケルト神話に由来する取り替え子(チェンジリング)というタイトルに目を引かれたことを覚えている。がしかし、あらすじを確認してみると、全くケルト神話や妖精が出てくる気配がなかったので、面食らってしまい、実物を手に取るようなことはなかった。
伊丹十三も名前は知っていたし、自殺したことも当時から知っていたはずだが、今に至るまで作品を見たことはない。『マルタイの女』の予告編とかは見たことある気がする。
まあ、中学だか高校だかの頃に読んでも、さっぱり分からなかったと思うので、今のタイミングで読んでよかったとは思う。

序章  田亀のルール
第一章 Quarantineの百日 (一)
第二章 「人間、この壊れやすいもの」
第三章 テロルと痛風
第四章 Quarantineの百日 (二)
第五章 試みのスッポン
第六章 覗き見する人
終章  モーリス・センダックの絵本


大江健三郎をモデルにした長江古義人という作家が主人公で、以下、伊丹十三は塙吾良(ごろう)、大江光は長江アカリ、大江ゆかり(健三郎の妻で伊丹十三の妹)は長江千樫、武満徹は篁透という名前になっている。


吾良が、死ぬ1年前に古義人に送ってきたカセットプレーヤーとカセットテープのセットがある。このカセットテープは、吾良が古義人宛に話したことが吹き込まれている(思い出話だったりなんだったり色々)。ヘッドフォンが田亀に似ていることから、古義人はこれを「田亀のシステム」と呼んでいる。
吾良の死後、古義人は田亀のシステムを使って、吾良との「会話」を続ける。つまり、時々一時停止して自分も思ったことを言う、という形で。ただ、今後の話はしないなど「ルール」も決めている。
とはいえ、そんな感じで田亀のシステムに惑溺する夫のことをよく思わなかった千樫(というか、毎晩、そうやって「会話」している声が聞こえてきていたらしい)は、それをやめてほしいと言ってくる。そして、吾良もQuarantineが必要なんじゃないかと古義人に告げる。
古義人は、ベルリン大学での講義の依頼を受けていたのだが、これを引き受けることに決める。田亀のシステムは日本においてベルリンへと旅立つ。
ベルリンは、吾良も一時期滞在していた街だった。そこで吾良は、通訳をはじめ身の回りの世話をしてくれた女性と親しくなっていた。
果たして、ベルリン大学での講義を始めると、その女性の母親である東ベーム夫人が古義人のもとを訪れる。娘のことをMädchen für allesと悪し様にいう彼女は、ベルリンの若手映画監督のことで古義人に頼みがあるという。なお、Mädchen für allesという言葉は、差別的なニュアンスをもつ言葉であるらしい。
(後日、古義人は映画祭で、東ベーム夫人つながりでインタビューを受けることになるのだが、ベルリンの若手監督に古義人作品*1の映画化権を渡す言質をとられるよう仕組まれたものだった)
物語は、ベルリンでの話はいったんおいて、古義人による回想へと進む。
有名映画監督である吾良の自殺は、写真週刊誌などにより様々な憶測を呼んでいた。女性スキャンダルがらみの話が主だが、古義人は吾良がヤクザに襲撃をうけるなどしたことに注目する。古義人の弟は、松山でマル暴の刑事をやってきたが、その彼も、吾良の自殺はヤクザから襲撃を受けたことと無関係ではないのではないか、と語る(ヤクザから脅されたからというより、ヤクザからの暴力に晒された人間はメンタルを壊すという意味合いだと思う)
ところで、一方で古義人も、何者かからの襲撃を受けていた。周囲には通風によるものだと述べていたが、正体不明の男たちによって砲弾を足に落とされるという暴力を何度か受けていたのである。
そして、その男たちが発した松山訛りから、正体不明とはいえおおよその察しはついていた。
回想はさらに、古義人の松山時代(高校生時代)へと遡る。
吾良と知り合い、ランボオなどを教えてもらっていた頃、古義人は占領軍が管理する図書館で受験勉強をしていた。そこに、大黄という男が現れる。彼は、戦中に古義人の父親を慕っていた男だ。古義人の父親は超国家主義者であり、1946年に「蹶起」を起こし亡くなっていた*2。大黄はその後、松山の山奥で自給自足のコミュニティを作っていた(古義人の父親の思想は誤りだったとしつつ、農本主義的右翼としてそういう道を選んだっぽい)。そして、米軍とのつながりを得られないか模索していた折、古義人が占領軍から表彰されたという新聞記事を見かけて、古義人に接触してきたのだ。
ただ、その古義人との接触の際に、吾良とも遭遇する。眉目秀麗でスポーツマンでもある吾良は、明らかに占領軍の人間(ピーター)にも気に入られており、大黄は吾良にも注目する。
吾良が自殺する1年前に、篁は癌で亡くなっている。病床で篁は古義人に、頼んでいたオペラは1年以内に完成しそうかと問い、古義人は無理そうだと答える。
古義人は、高校時代の「アレ」を書くことを、作家になった理由・目的としていて、篁とのオペラは「アレ」の作品化の第一歩であった。一方、「アレ」を作品にすることは吾良も共有しており、古義人の小説、篁のオペラ、吾良の映画というピラミッドをなすはずだった。
ベルリンからの帰国。田亀のシステムに心引かれるも使わずに過ごす。
故郷の見知らぬ人から生きたスッポンが届く。時差ぼけで眠れぬ深夜に処理をする(出刃包丁で首を落とす)。普段と箱の大きさとかが違ってなかなかうまくいかず、妻をおびえさせる。
スッポンやら時差ぼけやらがおさまってきて、田亀のシステムも使わなくなってきた様子を見て、妻が吾良の遺品整理でもらってきたシナリオと絵コンテを渡す。
それは吾良が「アレ」について書いたものだった。
第六章は、吾良のシナリオ・絵コンテと古義人の回想とがいりまざる形ですすむ(というか、古義人が吾良の絵コンテを読み取って記述しているのか、回想を記述しているのかあまり判然とは区別しない。ただ、シナリオがそのまま引用されている箇所もあり、吾良の視点と古義人の視点とで「アレ」を描き出そうとしている)。
大黄は、サンフランシスコ平和条約を前に、米軍基地襲撃を画策する。一度の抵抗もなく占領期が終わってしまうことを避けるための計画で、本気で米軍基地にダメージを与えられるとは考えていない。その計画のために、吾良にご執心のピーターから壊れた銃器類を提供してもらおうとしている。
大黄がどこまで本気なのかも分からぬまま、古義人は吾良に対して、ピーターが来る前に帰ろうと提案するが、吾良はこれを拒む。そして、大黄のもとにいる若者たちから嘲弄される。その際、牛の皮をかぶせられるところがある。このことは、別のところでも言及があって、古義人は吾良がこのことを忘れてしまったのだろうかと訝しむシーンがある。
ところで、生皮をかぶるというモチーフは『同時代ゲーム』にも出てきた気がする。
で、結局、古義人だけがその場を去り、吾良は大黄のもとに残るのだが、その後のことについて吾良のシナリオは2パターン残されている。大黄が連れてきた他の男子・女子にピーターが満足するパターンと、吾良が風呂に入っていて、ピーターが若者たちに追い回されるパターンとである。
最終的には、吾良も古義人と合流して、吾良が妹の千樫とともに身を寄せていた寺へと帰っていくことになる。
終章は、焦点人物が古義人から、古義人の妻である千樫へと変わる。
ベルリンから帰ってきた古義人の荷物の中から出てきたモーリス・センダックの絵本を見て、その主人公の女の子を「わたしだ」と感じる。その絵本のタイトルこそが「Changeling」となっている。
(ところで、古義人は海外に行っている間も本を買い込む癖があって、ドイツ語が読めないので普段よりも買わなかったとかいいつつ、箱単位で送っていたりする……)
千樫は、吾良が「アレ」以降に変化してしまったと感じていて、それをチェンジリングのお伽噺と重ね合わせている。そしてまた、自分が本来の吾良を産み直すのだとも考えていた。
また、古義人があるとき読んだ聖書学の本に寄せながら、自分が吾良の変化に口を噤んだことと、マグダラのマリアらがイエス磔刑を黙って見ていたこととに、共通の「恐れ」の感情を見いだす。
(ところで、千樫の古義人評として「社会生活においては必ずしもフェアな人ではない(が、読書に関しては書き手の意図を曲解したりしない)」的なことが書かれていた)
ベルリンで吾良と関係を持っていた女性シマ・ウラが、吾良がベルリンで描いた絵のカラーコピーが欲しいといって千樫のもとを訪れる。
彼女は、吾良と別れた後に付き合っていた男との間にできた子どもを堕ろすために来日していた。しかし、機内で古義人の書いたエッセイを読んでやはり産むことにしたという。
それは、幼い頃発熱して医者にも治らないと言われた時、母親から「死んでも産み直す」と言われたエピソード。ちなみに、何故学校に行くかというエッセイで、産み直された時に学び直すのに学校に行くんだよ、みたいな話
子どもを産み直す話は、『M/T』に亀井銘助の話として出てきた。また、発熱したきっかけ自体が、神隠しエピソードを彷彿とさせる奴だった。
このエッセイというのはドイツ語で掲載されていて(古義人はドイツ語はできないので元は英語で書いたもの)、それをウラが日本語に訳して千樫に聞かせるという形になっていて、ここでも(吾良のシナリオを混ぜたときのように)異なる文体を混ぜるという仕掛けとなっている(なお、沼野充義による文庫版解説によると、このエッセイは『週刊朝日』に掲載されたエッセイとほぼ同一の内容で、大江自身の文体の変化を、作品内では翻訳による変化として示してみせたもの
らしい)
吾良を産み直すのだと考えるウラに、千樫も同意し、出産したら手伝いにベルリンへ向かうことにする。
吾良の死から始まった物語が、これから産まれる者への希望で終わる。
大江作品、自分が読んできた範囲では、あまり女性がメインの登場人物になっていくことがなかったので(『雨の木』はそれを試みている作品であったけど十全ではなかったと思う)、本作が終章で焦点人物が完全に千樫に切り替わり、古義人不在のまま話が終わるのに驚きもしたけど、物語としてよい展開だと思った。


岩波文庫の『プー横丁にたった家』が、古義人と千樫の付き合いのきっかけになったらしい。

*1:明らかに『万延元年のフットボール』だがラグビーに変わっていた

*2:大江の父は1944年に心臓麻痺で亡くなっている