椹木野衣『増補シミュレーショニズム』

91年に書かれた『シミュレーショニズム』に、講義編を加えたもの。
講義編は01年に書かれたもので、文章が全く異なっている。
講義編は、ですます体で書かれていて、80年代から90年代にかけての作家と作品が、分かりやすく順を追って紹介されている。
本編では、文章の雰囲気が一転する。
そもそも僕は、ここで取り上げられているアーティストを知らないので、その意味で分かりにくいということはある。
しかし、それだけではない、わかりにくさがある。文章そのものが難解というわけではないのだが、哲学や思想やあるいはオリジナルの専門用語がならべられ、レトリックが展開されている感じ。僕がそもそも、取り上げられている具体的な作品が分からないことと相まって、時折、文章だけが浮遊していくような感じがする。
巻末の解説で福田和也曰く、

ここでは批評が圧倒的な優位のうちに、勝利を謳歌している。
かくも徹底的に、批評の欲望を露出しながら、テクストが屹立していることが、かつてあり得ただろうか。
美術のみならず、写真や音楽におよぶ、東西古今の多くのアーティストとその作品がとりあげられ、論じられ、分析され、その評価の文脈が紹介され、発表当時の状況が想起され、その本質が提示され、裁断され、位置づけられ、整理され、消費され、忘却される。
(中略)
次々と繰り出される解釈の速さ、そして何よりも日本語によるハードコアなライムを先取りするような、徹底して無慈悲で、即物的で、無限に加速されていく言葉によって貫徹されている。


女性アーティストの話
ここでは、「女性」とは旧来の「男性」とは異なるものをさす言葉として使われるので、いわゆる生物学的な女性に限られない。
写真の話
複製性や代理性、あるいは脱主体性といったものが取り上げられる。シミュレーショニズムというタイトルから分かるように、椹木は80年代のアートに関して、一回性ではないものや主体・中心のないバラバラなものを見て取っている。
ハウス・ミュージックの話
ハウスの歴史というのを知らなかったので、その意味で、単純に「へえ」と思いながら読んだが、サンプリング・カットアップ・リミックスを、エイズ・ウイルスにまで見て取るというのがすごいレトリック。
最後の章は、「ポスト・ヤルタ体制下の美学」と銘打たれ、ポップ・アートとロック、そして資本主義が関係づけられて、音楽とアートを社会状況と絡ませながら論じていく。
また、旧ソ連のアーティストなども紹介されて、資本主義化での反資本主義的なアーティストたちと、共産主義下での反共産主義的なアーティストたちが比較され、それらが類似していることなどが論じられる。


取り上げられている作品がどんなものか分からないのが、本という媒体の欠点かも。
絵だとまだかろうじて図版を載せられるが、音楽だとそういうわけにはいかない。

シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)

シミュレーショニズム (ちくま学芸文庫)